【11話】俺はエメラルドのご主人様じゃない!

「文秋、おはようございます。朝ですよ」
 片耳をくすぐる声と口付ける音で、瞼を持ち上げる。すっかり定番となった朝だった。
「もうちょっと、寝かせて……」
 抵抗するように身体を丸めて、腰に走った痛みに眉根を寄せた。今も含め、休日の朝はだいたい寝てばかりの場合が多い。
 異様に喉が乾いていた。やたらと喘いでいた自らの姿をぼんやり思い出して、意識がいやでも覚醒してしまう。
 諦めて起き上がろうとしたが、翠の腕が許さなかった。
「どこへ行かれるのです?」
「水を、飲みに……」
「それでしたら、こちらに」
 仰向けに寝かされ、いつの間に置いてあったのかペットボトルが翠の手に握られている。てっきり渡してくれるものと思い伸ばした腕を無視すると、飲み口を自らに向けた。
「ちょっと、な……っん!」
 一瞬不敵に笑った翠の唇に、抗議の声を塞がれてしまう。
 水が少しずつ喉に流れ込む。わずかに冷えた温度が心地いい。
 緩く上唇を吸い上げてから離れた口が、もう一度ほしいかと問いかけてくる。頷くと再び水を流し込まれ、舌も緩く絡め取られる。受け止めきれなかった水が、唾液と共に顎を伝って首筋をくすぐった。
「……っふ、ぁ……や、さわるな……っ!」
 胸元や腹部をなぞる手に身を捩るが、楽しそうな笑い声が返ってくるだけで止めてくれない。
 恋人という関係が追加されてから、特に家では全く遠慮しなくなってきた。しれっと「あなたが可愛いせいです」と責任転嫁してくるし、手に負えないこともしばしばだ。
 最終的に折れて受け入れてしまうのも原因だとわかってはいる。それでも……拒めなくなってしまう。
「や、もう、ほんとむり、だから……!」
 胸の尖りを摘み上げられ、抜けそうになる力を懸命に振り絞った。ようやく払い除けられたと安堵したのもつかの間、翠に両腕を縫いつけられてしまう。
「文秋……まだ、愛してほしいでしょう?」
 淡い緑に、深みが加わる。明らかにあふれる愛で、魅惑的に輝き出す。
 これだ。この瞳に、毎回丸め込まれてしまう。身も心も虜にせんとばかりに、宝石のような光を放つエメラルドに惹き込まれてしまう。
「だめだ……主の命令が、聞けないのか?」
「ベッドの上では対等でいたい。そう仰ったのは文秋ですよ?」
 実は腹黒なんじゃないかと裏付けるような言い回しに、一瞬言葉を詰まらせたのが運の尽きだった。
 躊躇なく差し込まれた舌が、今度は思考までもを奪い取るように余すところなく愛撫していく。翠の深いキスは、いつも簡単に理性を奪っていく。それだけうまいのか、自分が弱いだけなのか、わからない。
「大丈夫です。これ以上、負担はかけませんから」
 足を開かれても、抵抗する力はもう出てこない。つい数時間前までさんざん翠自身を埋め込まれた秘孔に、細い指が触れた。
「ちょっと、いつまでいちゃいちゃしてるわけ?」
 場に不釣り合いな第三者の声に、互いの動きが止まる。
 はっきりとした不快を露わにする兄を気に留める様子もなく、藍は呆れながら近寄ってくる。
「文秋の体調に左右する身体になったくせに、まだ無理させるつもり?」
 あれから、エメラルドの力は強まりも弱まりもせず、自身の中に存在し続けている。ブレスレット側が未だ曇ったままなのもあり、翠と藍は飲み込んだほうが本体となったのだろうと、ひとまずの結論を出していた。
 確かに、ブレスレットを持たずに出かけてみても問題なくついてくるし、以前に比べて護られている感覚も強い。共存しているという表現がしっくりくる状態にあった。
 代わりに、具合の良し悪しが翠にも伝染するようになった。例えば、起き上がるのも厳しいほど体調を崩すと翠もソファーでぐったりとしている。
 ただ、仕事熱心な翠は最近、そんな状態でも気力を振り絞り、本人いわく簡単な仕事なら片付けるようになっていた。むろん、そのたびに藍から突っ込まれている。
「ほんっと重すぎる愛なんだから」
 兄を大好きな弟に言われたら、いろんな意味で終わりだと思う。
「……もしかして、それを言うためだけに来たの?」
 頭上から感じる重圧を避けるように問うと、栗色の頭を左右に動かした。
「今日って大河が石を見に来る日だったでしょ?」
 先週、平日の夜で構わないから連れて行ってほしいと後藤にお願いされて、三人で店を訪れた。たまたま藍も出勤していたということでついでに紹介する流れになったのだが、後藤はわりと藍を気に入ったようだった。
『いやー、オレ以上にストレートなタイプ初めて見ましたよ。藍くん、面白いですねぇ』
 藍もまんざらではない様子だった。似た者同士ゆえに惹かれ合うものがあったのかもしれない。
 後日改めて、よさそうな石を見てもらいたいと約束したところでその日はお開きになったのだが、それが今日だったのだ。
「時間までまだ余裕があるじゃないか。来るのが早すぎだ」
 完全に諦めた翠が、ベッドから下りて手早く身支度する。こっそり視線を投げてきた藍に軽く頭を下げた。
「そう? さっきの調子じゃ、大河が来てから慌てて準備するのが目に見えてるよ?」
 翠は無言でキッチンへと向かった。藍の優秀なストッパーぶりは、いつ見ても感心する。自分もこれくらいの強さを身につけるべきなのだが……惚れた弱みというのは厄介だと思う。
「それにしても、こうやって藍くんが催促に来るの珍しいね」
「だって、実家が天然石の店やってるっていうから、いいお得意様になる可能性もあるし。そういう客は大事にしないと」
 わざわざ言い訳がましく説明しているところがどうも引っかかる。探るように見つめていると居心地の悪さでも感じたのか、急に顔を逸らした。
「と、とにかく。そろそろ千晶の出勤時間だから行くけど、ちゃんと来ないと承知しないからね!」
 藍が消えたと同時に、いつもの朝食の準備が整った。翠の機嫌も戻っている。さすがにいつまでも引きずるほど子どもじゃない。
「全く、私もそこまで見境がないわけではないのに、全然わかっていないようですね」
 ……そうでもなかったみたいだ。
「俺は本当に助かったけどね」
「文秋さん……私の主なのに、藍の味方をなさるのですか」
 心から悲しそうな顔をしていたので、やれやれと頭を撫でてやった。……これも、ずっと閉じ込めてきた自分への想いが解放された影響だと思う。思いたい。
 翠の肩を掴んで引き寄せ、耳元に唇を寄せる。
「明日と明後日は何も予定ないし、ずっとふたりで過ごせるんだから……そんな顔するなよ」
 言ってから、今夜から明後日にかけて我が身に起こりそうなことを想像して若干の後悔が襲ったが、結局まあいいかと諦めてしまう。
 幸せそうな翠を見ている自分も、同じくらい幸せに感じているから。
 淡く輝くエメラルドに手を伸ばすと、あの日出会った時と同じ輝きを返してくれた。

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