【2話】俺はエメラルドのご主人様じゃない!

 次の日になっても、翠の容態は回復していなかった。
 アラーム代わりの声掛けがなく、朝食の用意もないまま、昨夜と変わらない場所でぐったりとしていた。
「浄化、全然効いてないじゃないか……!」
 月光浴をしてもらえれば大丈夫だという言葉に従い、一晩中ブレスレットを窓辺に置いていたのだが結果は変わっていない。満月でないのかいけなかったのか、他の理由があるのか、教えてもらえる余裕もなさそうだ。
 とりあえず手早く支度を済ませて、スマートフォンで浄化について調べる。他に有効そうな方法はブレスレットにも使われている水晶を使うものだった。天然の氷柱をひっくり返したような、水晶の塊であるクラスターと呼ばれるものや、小石ほどの大きさの水晶たちを器に敷き詰めた上に、ブレスレットを置いておけばいい。だがタイミング悪く、どちらも買い揃えていなかった。
 荒い呼吸を繰り返す翠を見つめながら必死に思考を巡らせる。
 あの状態が続くとどうなる? よからぬことが起きるのは間違いない。最悪、消えてしまう可能性もありうる。
 ――消える? 翠が?
 もし消えたとしたら……ブレスレットは、エメラルドは、どうなる?
 視界がぐらついたような感覚に襲われる。本体に、何も影響が出ないわけがない。ただ、ゼロではないとしたら?
「……文秋、さん」
 気持ちの揺れを制止するように、弱々しい声が響いた。
「このようなことに、なってしまい……重ね重ね、申し訳ございません。完全に、私の落ち度です」
 心配をかけまいとするためか、必死に口端を持ち上げようとする姿が痛々しい。そんな気遣いは……してもらう資格なんか、ないのに。


「もういい加減にしなよ兄さん!」

 背後から、突然別の声が割り込んできた。
 反射的に振り返ると、翠と瓜二つの顔が、はっきりとした苛立ちを刻みながら立っていた。
「……貴族?」
 少年と表現してもふさわしそうな、翠よりも幼い顔つきをしている。胸元の白いフリルが特徴の、紺色を基調とした貴族のお坊ちゃん風の服装に身を包んでいる。
 ……混乱が過ぎて、逆にまじまじと観察してしまった。
「ちょっと、君どっから入って」
「いいからあんたは黙っててくんない?」
 ぴしゃり。そんな擬音が聞こえてきそうな断絶ぶりに文字通り言葉をなくす。
 明るい茶髪の青年は翠に近寄り、覗き込むようにしゃがんだ。
「……いいと、言ってるだろう。私から説明して、今夜にきちんとした浄化を」
「そんなの、間に合うかわからないでしょ⁉」
 二人は兄弟か双子だということだけは、どうにか理解した。それならば翠と同じ化身なのかもしれない。確証はもちろんない。
「ちょっと、あんた」
 青年の瞳はとても綺麗なアクアブルーだが、鋭い氷のような印象だった。
「パワーストーンの主の自覚、なさすぎ」
 一層鋭くなった双眸に、容赦なく射抜かれる。
 テーブルの上にあったブレスレットに手を伸ばされても、止められなかった。
「私の主に、余計なことを」
「いい加減、無駄に強がるのはやめなよ。パワーストーンの役目、果たせなくなるよ?」
 完全に翠が押し黙ってしまった。
 立ち上がった青年は、再び鋭利な視線を送ってくる。
「僕が兄さんの面倒をちゃんと看ておいてあげるから、仕事が終わったらすぐ帰ってきなよ。その時に、改めていろいろ話聞かせてもらうから」
 翠に似た声色だが、口調のせいで柔和なイメージは全く浮かばない。美形の迫力に、声も出せないまま頷くしかできなかった。
「……じゃあ、行ってくるよ」
 翠は痛恨を滲ませた双眸で見返していたが、なぜか勢いをつけて立ち上がった。
「見送りだけでも、させてください」
「兄さん」
 翠は無言で、咎めた青年を振り返る。一瞬息を詰めて顔を逸らした青年にどんな視線を送ったのか気になったが、向き直った翠は柔和な笑みを保とうとしていた。
「文秋さん。少しだけ、よろしいですか?」
 靴を履いたところでそう声をかけられ――いつもの、落ち着きを与えてくれた。
 違うのは、背中に回された腕の力だった。微妙に震えていて、弱い。
「あの、さ。これってもしかして、エメラルドの力ってやつを与えてくれてるのか?」
 頬に触れた頭が上下に動いた。
 まさか、今までのもそうだったというのか。だから、一晩の浄化だけでは足りなかった……?
「お時間、いただいてありがとうございました。どうぞ、お気をつけて」
 変わらない笑みに、何も言えなくなってしまう。
 どうして、そんな状態にあっても自分を優先するんだ。
 一瞬でも見捨てようとしてしまった、主失格な自分を。


「先輩! 先輩、大丈夫ですか?」
 いきなり、目の前に犬のような丸い瞳が飛び込んできた。
「食う手が止まってますよ。やっぱり昼ついてってよかった~」
 どうにも食欲が湧かない、けれど息抜きはしたい。迷って近くのうどん屋に行こうとした時、強引に後藤がついてきた。お喋りも気が紛れていいかもしれないと思ったのだが、効果はいまいちのようだ。
「今週はずっと元気ないなって思ってましたけど、今日はもっとですね。やっぱブレスレットがないから?」
 合っているが、間違ってもいる。後藤は肯定と取ったらしい。
「いつも近くにあるものがないと気持ち悪いですしねー。そうだ、これを機に他の石も持ってみたらどうです?」
「……そうだな。ちょっと考えてみるかな」
 思わず小さく笑うと、後藤はまるで教師のようにうんうんと頷いてみせた。
 相変わらず、懐の広い性格をしている。ブレスレットを目に留めた後藤にパワーストーンの話を軽くしてみた時も、面白がってはいたものの馬鹿にはしなかった。
 正直、家に気になる要素が多すぎて仕事が手につかない。今日中に片づけなければならないタスクや会議がなくて本当によかった。
 あの青年は誰なんだ。どこから入ってきたんだ。「兄さん」と呼びかけていたけど、本当に兄弟なのか。だとしたら、つまりエメラルドの化身なのか。一つの石に二人も宿っていたのか。翠はどうして浄化が効かなかったんだ。
 ブレスレットを持っていたということは……本体にも、影響があるのか。
 内心、苦笑するしかなかった。結局、ブレスレットが一番大事な事実は変わらない。
 少なくとも、それだけは知る必要があると思った。一瞬でも翠を見捨てようとしてしまった罪滅ぼしの意味もあった。


「もう夜の八時じゃん。遅すぎ」
「……これでも、早めに帰ってきたほうなんだ。会社からここまで一時間はかかるんだし、仕方ないでしょ」
 玄関を開けた途端、朝よりも鋭利さの増した瞳と声に一瞬怯むも、負けじと言い返す。
 リビングに入ってすぐ、違和感を覚えた。
 朝にいたはずの姿が、消えている。気配もない。寝室も覗いてみたが、やはりいない。
 まさか、日常が、帰ってきた?
 非日常はいらないという願いが、叶ったのか?
「……兄さんが気になるの?」
 背中にかけられた問いに、一瞥するしかできなかった。心が揺らいだまま安定しない。
 青年は呆れたように溜め息をついた。明らかに非難されている態度に、さすがに苛立ちを隠せない。
「君、ねえ。こっちはまだ事情も何も知らないんだよ。なのに、そういう態度はないんじゃないか?」
「僕はアクアマリンの化身。名前は、和名の藍玉から取って藍らん。どうぞよろしく」
 一歩距離を詰めて、こちらを睨むように見上げた青年――藍はそう名乗った。
「兄さんとは双子の兄弟。兄さんが実体化してたのは知ってたから挨拶しようと思ってたんだけど、ずっと止められてたんだよね。あんたが混乱するからとか言って」
 さらに距離を縮められて、仰け反るあまりソファーに尻餅をついてしまう。藍は腰に手を当てて、澄んだ水色の双眸を細める。
「頑張ってやっと兄さんから聞き出せたんだけど、エメラルドを精製したんだって?」
 翠自らが望んで行動に移しただけだ。こっちは何も悪くない。
 そう反論すべきなのに、迫力に気圧されて言葉が出ない。
「兄さんは何も言わなかったと思うけど、一番負担かける行為なんだよ。一晩の月光浴程度じゃ全然回復しないんだ」
 目の前から退いた藍は寝室へ向かうと、窓辺でかがんだ。手に持っているのはガラスの皿のようだが、家にはないものだ。
「それ、どこから持ってきたの?」
「僕が揃えてあげたの。兄さんを助けるためだもん、当たり前でしょ」
 テーブルに置いた皿を覗き込む。
 ブレスレットの下に、小石状の透明な石――水晶が敷き詰められている。朝に調べた、水晶を使った浄化だ。
「あれだけ弱ってたら、水晶は絶対必要なの。じゃないと、兄さん……エメラルドの力は回復しないよ」
 エメラルドをよく見るよう言われ、器をそっと持ち上げて間近に捉える。
 いつもと変わらない、鮮やかな海のような淡い輝きを秘めている。……と思っていたら、すぐに違和感を覚えた。
「曇って、る?」
 まるで霞に囚われてしまったかのように、鈍い輝きに変化していた。オーナーの店で初めて出会った時の感動を、感じられない。
「力を異常に消費した状態だったんだから、そうなるのも無理ないよ」
「……じゃあ、まさか翠が消えたのって」
 本体であるエメラルドが、パワーストーンとしての役目を果たせなくなった。そのサインに過ぎなかった?
 藍は口を開きかけて、閉じた。
「あんたにはむしろ、その認識でいてもらったほうがいいかも」
 背筋が冷えた心地がした。あの時翠を見捨てていたら、本体自体の力も失っていたのだ。
 どうして言ってくれなかったんだ。動きかけた口は、止まる。
 それを素直に聞く余裕が果たしてあったかと問われたら自信がない。翠が距離を作ってくれていたのも、あくまで自分のためだった。
 朝に告げられた「失格」の二文字が、改めて心臓を抉る。
「今日を入れて、三日間」
 三本まっすぐに伸ばした藍の指と顔を、交互に見つめる。
「この皿に入れたまま、日中は日の当たらないところ、夜はさっきみたいに窓辺に置いておくこと」
 輝きを失ったエメラルドを、改めて見つめる。
「あんたは一応、兄さんの主なんだからね。少しでもサボったりいい加減な態度取ったりしたら承知しないから」
 振り返ると、藍の姿はきれいに消えていた。あまり驚かなくなっている自分に、思わず苦笑してしまう。
「……なんなんだよ、一体」
 愚痴は、あまり好きではない。というよりも、うまく言えない。それでも、こんな状況に陥ればいやでもこぼれ落ちてしまう。
 ブレスレットと水晶で飾られた器を持って、寝室にある窓辺に向かう。少しでも月の光を浴びられるよう、ぎりぎりに置く。
 水晶やアンバーは、変わらないきれいな輝きを放っていた。だからこそ、エメラルドの曇りが目立ってしまう。
 購入してから、他人にはただの石に見えても護りの力を常に感じていた。そばにいないと心細くなるほどに、大事な相棒となっていた。
 翠は違う。エメラルドの化身と言われても、自分から見れば赤の他人に等しい。
 元々、他人に深く踏み込まれるのは苦手だった。後藤は一見遠慮がないように見えるが、空気を読む力に長けているのかちょうどいい距離感を保ってくれる。稀な存在だった。
 翠は、明らかに踏み込んでくるタイプだった。それなのに……そばにいると、心のどこかでほっと息をついている自分がいる。一人が好きなはずの自分が、他人に安堵感を覚えている。
 エメラルドの持つ癒やしの力のせいとしか思えなかった。
 水晶の上で眠る本体に、指先を乗せる。力が回復すれば、翠も戻ってくる。彼がそばにいる日々がまた、始まる。
 どうして、嫌悪感がないんだ。

  * * * *

 店を訪れるのは久しぶりだった。
 観葉植物で彩られた軒先に、見上げれば茶色の背景に白い文字で書かれた店名「BANDE STONEバンデ ストーン」がライトで浮かび上がっている。
「いらっしゃ……あら、浅黄さん。ちょっとだけ、お久しぶりかしら?」
「そう、ですね。閉店間際に来てしまって申し訳ないです」
「そんなの、お客様なんだから気にしなくていいのよ」
 初対面の時から身につけている、深紅の薔薇色に似た石が耳元で揺れている。微笑みは相変わらず、優しい。
 この店に来ると、本当に心が和らぐ。パワーストーンを扱っている以上に、オーナーの人柄がこの雰囲気を作り上げているのだと実感する。
 この店は家から歩いて行くと三十分くらいかかるのだが、特に土曜日は地元の人で溢れている時が多い。住んでいるマンションで見かける顔も数人混じっていたりする。皆、オーナーと話をするのが楽しいみたいだ。
 店内を歩き回ってみる。ネックレスやピアスなど、特にアクセサリーは女性向けの商品が多いが、ブレスレットならユニセックスなものも目立つ。
 中央のテーブルに視線を移した。相変わらず、店のお守りのように水晶の球体が真ん中に置かれている。その周りを囲うように、様々な天然石のタンブルや小さな水晶クラスター、浄化セットなどが飾られていた。
 後藤の案を本当に採用したわけではないが、眺めていても第六感が刺激されるような石はない。
「……話が、あるのでしょう?」
 そっと、声をかけられた。初めから見抜いているような物言いだった。
「それは、浅黄さんが購入してくださったブレスレット。もっと言うとエメラルドの化身……かしら」
 思いきり、オーナーを振り向いてしまった。
「あ、いや……すみません、ちが」
「大丈夫。私は、ちゃんと事情を知っているから」
 オーナーは手早く外にある植物たちを片付け、店側に向けられている「ありがとうございました。またご来店ください」の札を裏返した。
 カウンターの裏に腰掛ける姿がスローモーションに映る。超能力的なもので見破られたのではと、奇天烈な想像までしてしまう。
「パワーストーンの中には、特別強い力を持っているものがあるの。浅黄さんがお持ちのエメラルドは、まさにそれに当てはまる石だった」
 勧められた椅子に、力なく腰掛ける。
「……力がある石なら、何でも実体化するんですか?」
「そういうわけでもないみたい。石との相性が最高に合っていること、大事に想う心の二つが最低限の条件と言われているけど、それでも稀な現象らしいわ」
 翠も似たことを言っていた。それだけの奇跡が……この身に、おりたのだ。
「……突然、現れたんですよ。今日から俺が主だから、よろしくお願いしますとか、何とか言って。でも、今はいないんです」
「本格的な浄化が必要な状態なのね」
 オーナーを凝視してしまった。どうしてこの人は、こんなにも現状を見抜いてしまえるんだろう。
「実は、ね。私も、ある石の化身と暮らしているのよ」
 頭に浮かんだのは、あの生意気なアクアマリンの藍だった。
 オーナーは短い溜め息をつく。
「名前は藍。アクアマリンの化身よ。挨拶もなしに浅黄さんのところに突撃したみたいで、無礼なことをしてしまって申し訳ないわ」
 心臓が無駄に強く脈打ち始めた。まさかこんな近くに、自分と同じ非日常を経験している人がいるなんて……偶然の二文字では、とても片付けられない。
「藍から事情を聞いて納得したけど……あの子はお兄さんが、本当に大好きだから」
 大好きだとしても、初対面から過激すぎて正直行きすぎだと思っているのは……さすがに言えない。
 オーナーは小さな苦笑をこぼす。
「浅黄さんにお渡ししたあのブレスレットだけど、実は藍の助言があったからなの」
 思わぬ告白だった。
「とてもお疲れだった浅黄さんが気になって声をおかけしたのは私の判断だけど、ブレスレットは藍の選択よ。特に、強い力が宿っているエメラルドが絶対に護ってくれるはずだと、言っていたわ」
 その選択が正しかったのは、自らが証明している。
 自分を信じて、兄を預けてくれたようなものだ。その思いを踏みにじってしまっただけでなく、取り返しのつかない事態までを起こそうとしていた。
 オーナーの顔までもを見るのがつらくなる。
「これは、藍には内緒ね。絶対喋るなって釘を刺されてるから」
 いたずらっぽい笑みにつられて、唇が持ち上がる。
「エメラルドが心配で仕方ないって顔をされているけれど、藍の言う通りに浄化していれば大丈夫よ」
 思わず、自らの頬に触れてしまう。
 ブレスレットは、今も水晶の上で眠り続けている。翠も現れる気配はない。朝から晩まで浄化に充てているのに、充分ではないという証だ。
「……おかしい、ですよね」
 オーナーは何も返さない。それが、自分のペースを尊重してくれているように思えてありがたかった。
「俺、翠とはまだ一週間くらいしか過ごしてないんです。他人同然のはずなのに……俺は」
「あくまで姿がなかっただけで、浅黄さんとずっと一緒にいたのよ」
 オーナーの柔らかくも力強い言葉が、染み渡っていく。
「化身が現れるのは、それだけ相性が最高に合う存在だということなの。中には、自分の半身みたいに感じる人もいるそうよ」
 半身、という言葉が驚くほど腑に落ちる。だから、
「そのパートナーが隣にいないのだから、悲しくなるのも心配になるのも当然だわ」
 オーナーの、藍を誰よりも信用している気持ちが、言葉の端々から伝わってくる。
 どんなものよりも説得力にあふれ、心強く感じる。たったひとりの仲間の存在が、臆病な心に喝を入れてくれる。
「実体化して浅黄さんの前に現れたのも、ある意味必然だったのでしょう。エメラルドは癒やしの石だから、きっと全身全霊をかけて浅黄さんをお護りしたかったのでしょうね」
「そういう言い方、ずるいですよ」
 心の周りに張り巡らせていた壁が少しずつ剥がれていく。
「明日になったら、エメラルドの化身は戻ってくる。だから、早くそばにいてあげて」

  + + + +

 アラームが鳴る時間よりも早く、目が覚めてしまった。
 ぼんやりと窓の外へ目を移すと、すでに陽光で塗り替えられている。エメラルドの浄化が、終わりを迎えたのだ。
 頭に巣食う靄を軽く振り払ってベッドから下り、窓辺に歩み寄った。ガラスの器を持ち上げる。
「……もどって、る」
 思わず、声に漏れていた。
 あの日、購入を決めた淡く透き通った輝きが戻っている。見惚れる美しさが、宿っている。
 ブレスレットを持って、リビングに続く引き戸を勢いよく開けた。
「えっ、文秋さん!?」
 キッチンから、黒の塊が現れる。
 黒い頭のてっぺんから中央で分かれた前髪、エメラルドグリーンの双眸、驚きで半開きの唇、暑そうな執事服、黒い靴下で覆われた足……視線をゆっくり、送る。
 変わらなかった。急に目の前に現れて、一方通行に主と仰いでいた翠と、何も変わらなかった。
「も、申し訳ございません! 三日間ご迷惑ばかりをおかけしてしまったのに、起床時間を間違えてしまうとは……! 今日はいつもより早かったのですね」
「違う。俺が勝手に起きたんだよ」
 翠の向かいに立ち、微妙に上の位置にある視線を捉える。
 翠から緊張は消えない。怒り心頭で仕方ないんだとか、的はずれな想像をしているのは容易に予想できた。
「もう、具合はいいの」
「は、はい。不本意ですが、藍のおかげで力を取り戻せました」
「助けてもらった弟に対して、そういう言い方はないだろ」
「そ、それはそれです。藍はずいぶんと文秋さんに対して失礼な口を聞いておりましたから」
「翠が無駄に力を使いまくったせいなのに?」
 翠の全身が一回り小さくなったように見えた。本当にこの男は、思った通りの反応をしてくれる。
「……文秋、さん」
 なぜか驚いた顔をしている。今の会話の流れでどうしてそういう反応をされるのか、首をかしげた。
「失礼、いたしました。文秋さんが、初めて私に笑いかけてくださったので……つい」
 今度は自分が驚く番だった。口元に手のひらを持っていきかけて、止まる。
「っていうか、そんなのいちいち覚えてないでよ。子どもじゃないんだから、恥ずかしいだろ」
「私にとってはとても嬉しいことです。誰よりも大切な主ですから、当たり前です」
 もはや全身がくすぐったい。こんなにも面と向かって純粋な気持ちをぶつけられると、冗談で流せなくなってしまう。意地を張っているのが、馬鹿らしく思えてきてしまう。
「兄さん!」
 少し高めの声が、遠慮なしに空気を切り裂いた。
「よかった、ちゃんと回復したんだね!」
 正面から思いきり翠を抱きしめる藍を呆然と見つめる。何という強い愛だろう。自分にも姉が一人いるが、ここまでの態度には出られない。
「藍くん。翠のこと、本当にありがとう。君のおかげで、翠を助けられた」
 心の中で謝罪も付け足しておく。藍には当分、頭が上がらない。
 振り向いた藍は、宝石とみまごう爽やかな水色を思いきり細めた。
「あんたのためじゃなくて兄さんのためだもん、当たり前じゃない。これを機に、もっと主としての自覚を持ってよね」
 捨て台詞のように告げて、藍の姿が消える。
「全く、藍は……本当に申し訳ありません、文秋さん。あとできつく叱りつけておきます」
 声のトーンが本気だったので、慌てて首を振った。
「自覚がなかったのは本当だから、いいんだ。……気をつけてやれなくて、本当にごめん。翠の主にふさわしくなれるよう、頑張るから」
 目を見開いた翠から、明らかな喜びが伝わってくる。恥ずかしさを誤魔化したくて、ぽんと肩を叩いて洗面所に向かった。
 自然と笑みが浮かぶほど、晴れやかな気分に包まれている。復活した翠手作りの朝食も素直に嬉しい。
「文秋さん。今日から、どうかブレスレットをお持ちください」
 真剣な翠の声に、朝食を食べる手が止まった。
「……翠からしたら病み上がりみたいなものだけど、平気なのか?」
「問題ございません。むしろ、ずっと浄化をしていただいておりましたので充分に力は満たされております」
 こちらを見つめる緑の双眸は、使命感にあふれている。あるいは、自らの宣言が本心なのかを試しているようにも見える。
 もう、翠の存在を否定するような真似はしない。
「……絶対、姿は現さないように。話しかけるのも基本的には禁止。それを守れるなら、つけていくよ」
 自信満々に、翠は頷いてみせた。

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