【7話】俺はエメラルドのご主人様じゃない!

「そっかー、翠さんてメシ食えないんですね。腹減らないってこと?」
「空腹、という概念がありません。たまにミネラルウォーターをいただきますが、自らの浄化用ですね」
「へえ、面白いな~」
 何だろう、この光景。
 三人で話したいという後藤の申し出で実現した飲み会だったが、スーツ姿の男二人と居酒屋に似つかわしくない執事服姿の男一人という珍妙な構成に、思わず突っ込まずにはいられない。
 ふと、翠の姿が消えた。瞬きほどの時間の後に引き戸が開かれ、注文したものが運ばれてくる。
「この瞬間はちょっと緊張しますね」
 ここはかつて、翠がうっかり姿を現してしまった居酒屋だった。社員以外に見つかってはいなかったが、どうしても慎重にならざるを得ない。
「会社近くで個室のある飲み屋ってここぐらいしかなくって……すいません、翠さん」
 後藤が申し訳なさそうに頭を掻いた。
「とんでもございません。あれは完全に私の落ち度ですから」
「今考えると、まるで映画のワンシーンみたいでカッコよかったっすけどね」
 心の中で首を縦に振る。
 あくまで自然に高野の手を退ける手際、焦燥など一切見せず、本当にその理由なのだと納得させる冷静な物言い……最後まで、スマートだった。
 顔に似合った物腰を披露すれば、女性があれだけ騒ぐのも今はわかる。
「それにしても、後藤んちの実家が天然石を売ってる店やってるとはなぁ」
 道理で、パワーストーンについて馬鹿にしたりしなかったわけだ。
「あんまり興味なかったんですよ。でも、今度実家帰ったらいろいろ見てみようかなって思ってます」
「俺がブレスレット買った店もおすすめしとくよ」
「お、じゃあ今度紹介してくださいよ」
 縁がつながっていく。不思議な感覚だった。
 ブレスレットを鞄にしまってトイレに立つと、後藤もついてきた。酒でうっすら染まった頬を持ち上げながら見つめてくる。
「先輩、やっぱり翠さんは惚れてますよ。あんなに甲斐甲斐しく世話するなんて、普通ないですって」
「……もしかして、今回の飲み会の目的はそれを見極めるためか」
「翠さんとじっくり話してみたかったのもありますよ。会社だと難しいですし」
 一度失態を犯しているのもあってか、翠は本当にそばに控えているのかわからないほどの空気感を醸し出している。後藤もこちらの事情を察して表面上は何ら変わりのない態度で接してくれているのだが、内心では気になって仕方なかったらしい。
「ジャケット脱がせてもらうのなんて、生で見たの初めてですよ。あ、あと食べかすついてるって紙で拭き取ってたやつ! あんなことまでできちゃうんだーって」
「あ、あの拭くやつは俺も初めてされたんだよ!」
 しかも爽やかな微笑みのおまけつきで、場所が場所でなかったら高速で逃げ出していたと思う。
「オレ先輩のこと大好きですけど、さすがにあれはできないな~。じゃあ何で翠さんはできるのかっつったらもう、愛で決まりでしょ!」
 笑いながら後藤は先に出ていく。酒のせいで厄介さに拍車がかかっている。これ以上からかわれる前にお開きにしてしまおう。
 手を洗い終えたところで、ポケットに入れていたスマートフォンが震えた。
『お時間のある時に、閉店時間後にお越しいただけますか? できれば、翠さんがいらっしゃらない時に』
 通知の主は天谷だった。
 翠抜きで話がしたいとは、大事な内容なのだろうか……。
 すぐに思いつく理由は、藍だった。あれから全く姿を現さなくなってしまい、密かに心配していた。「藍のことは気にしなくても大丈夫」と一見素知らぬ様子の翠も、内心は同じ思いでいるはずだ。
 タイミング的にはちょうどいい。改めて連絡する旨を伝えて戻ると、二人もスマートフォンを取り出していた。
「お帰りなさいませ、文秋さん」
「先輩、そろそろお開きにしますか?」
「ああ。俺もそのつもりだったからいいよ」
 翠からスマートフォンを受け取って鞄にしまうと、後藤の不思議そうな視線とぶつかった。
「翠さんのスマホって、先輩管理なんですか?」
「ああ、違う違う。……こういうこと」   たまたま手にしていた伝票を翠に渡すと、意図を理解した彼の姿が消える。後藤が短く悲鳴を上げた。
「で、伝票浮いてる!」
「消えるのは、あくまで自分の姿だけみたいなんだよ。俺も最初見た時はびっくりした」
 同じ理由で、最初から身につけている以外の服を着せて消えると、本物の透明人間が完成する。こちらの世界に関わるものは決して消せないらしい。
「外に出る時は別に持っていかなくてもいいんじゃ、って言ったんだけど、メモとかしたい時にないと困るんだって」
 その証拠に、本当に時々だが会社のデスクの下に潜ってこっそりいじっている時がある。傍から見ると白い光が浮いている怪奇現象のような光景だが、意外とバレていない。心臓にはだいぶ負担がかかっている。
「なるほどなるほど、そういう理由ならよかったです」
 何がよかったのか、理由は教えてもらえなかった。

  * * * *

「BANDE STONEバンデ ストーン」に足を運べたのは、あの飲み会から次の週になってしまった。
 翠は「休息日」を理由にいない。生活スタイルを以前と同様の形に戻そうと提案した際、休息日はいらないとずいぶん粘られた。半ば強引に納得してもらったが、撤廃させようと画策している雰囲気は時々伝わってくる。
 大事にしたい気持ちはもちろんあるが、好きな人がずっとそばにいると落ち着かなくて仕方ない。そういう意味でも「休息日」は必要だった。
 駅についたところで、天谷に連絡する。扉の鍵を開けておいてくれるらしい。
「浅黄さん、いらっしゃい。変なお願いをきいてくださって、ありがとう」
「いえ。俺も話をしたいと思ってたので、ちょうどよかったです」
 やっぱり、この店はほっとする。ゆっくり石を見たいなといつも思うのだが、八時半に閉店なために平日は難しいことが多いし、土曜日と祝日は客足が増えるからやっぱり難しい。
「ら、藍くん?」
 天谷の隣に現れた、あの日振りの青年の姿をまじまじと見つめる。
「何びっくりしてるの? 僕だってここの従業員だもん。いてもおかしくないでしょ」
「いや、そうなんだけど……ここで見るのは初めてだから」
 ということは、藍の本体もここにあるということだ。気になってわずかに視線を四方に配るが、それらしいものは見当たらなかった。
「浅黄さん、藍の本体が気になるの?」
 小さく笑いながらズバリ指摘されてしまった。
「あ、バレました?」
 天谷はカウンターの裏で身を屈めると、白い布に包まれたものを取り出してテーブルに載せた。
 思わず、息を呑んだ。
 覆いを外した中には、正方形の透明なケースに囲まれた、透明感のある石が鎮座していた。
「これ、もしかして原石なんですか?」
「そう。とっても綺麗でしょう?」
 自然に囲まれた湖を連想させる、透き通った濃い目のブルーはまさに生まれたままの宝石だった。水色の水晶と言われたら、知らない人は納得してしまうだろう。
「僕の本体鑑賞会はもういいでしょ。あんたをここに呼んだのは話があるからなんだよ」
「天谷さんじゃなくて、藍くんが?」
 勧められた椅子に、背筋を伸ばして腰掛けてしまう。あまりよくなさそうな話題と想像するのは、単なる邪推だろうか。
 原石をしまった天谷を横目で確認してから、藍は軽くこちらを睨みつけてくる。
「その前に確認だけど……あんた、兄さんのことどう思ってるの? ほんとは」
 まさかの質問だった。思わず喉を一度鳴らして、声を絞り出す。
「この間言った通り、大事な存在だよ」
「本当は好きなんでしょ?」
 見抜かれて、いたと言うのか。
「大事だっていうのは嘘じゃない。でも、恋愛感情も持ってる。間違ってないよね」
 否定したくても、これほどに断言されたら……できない。意味がない。
 短く溜め息をつく藍の隣で、天谷はどこか嬉しそうにピンクの唇を持ち上げている。
「で、告白するつもりなの」
「い、いや。するつもりはないよ」
 意外だったのか、原石と同じ色の双眸が訝しげに細められる。
「翠はただ仕事熱心なだけだって知ってるから。言わなくても、答えはわかりきってる」
「……そう、かしら」
 天谷はわずかに眉根を寄せて、首をかしげた。
「ふーん。意外と臆病なんだね」
「うん。でも、今本当にいい雰囲気だし、それをわざわざ壊す理由もないだろ?」
 瞬きなしにしばらく見つめてきた藍は、納得したように頷いた。
「なら、その意識をずっと保っておくことを勧めるよ。ちょっと手間が省けたかな」
 視線が外れる。どこか彼方を見つめる横顔は、苦い過去を振り返るような物悲しさを含んでいた。眺めているだけで胸が締めつけられそうだ。
「あんたみたいに、僕たち化身に恋をする人間は過去にもたくさんいたよ」
 驚いたが、特に男女の主従関係ならありえない話ではない。常にそばにいて、「主を守るのが使命」の意識のもとで行動されれば、恋情が生まれてもおかしくはない。
「めでたく結ばれた二人も多かったよ。でも、その後もずっと幸せでいられたと思う?」
 こちらを振り向いた藍は、今にも泣きそうに口元を歪めていた。
「僕たちはね、人間じゃないんだ。外見はそっくりでも、違うんだよ。これ以上背も伸びないし、見た目だって変わらない」
 心臓がいやな音で脈打ち始める。膝の上に置いた両手を、固く握りしめた。
「人間側が、そんな僕らを見て耐えられなくなっていくんだ。好きでいればいるほど苦しんでもがいて……最終的に、壊れる」
 背中がすうっと冷えた心地がした。
 出会った時は互いに同じくらいの年格好でも、人間は年を重ねるごとに外見も重ねていく。決して抗えない、自然の摂理だ。
 化身は、その摂理に当てはまらない。出会った時と全く変わらない外見のまま、隣にいるのだ。
 恋人同士になった自分たちの、何年も後の未来を想像した。
 果たして、仲睦まじく笑い合っていられるのか?
 心からの笑顔を浮かべていられるのか?
「僕らのほうも、そうなってしまった仲間がいっぱいいた。本体を破壊されて強制的に消滅させられたり、中には……主を、衝動的に殺めてしまったことも……あったって」
 思わず、両腕を抱きしめる。天谷が、苦痛に耐えるように固く目を閉じた。
 想像以上の、世界だった。神秘的な雰囲気に惹かれ、時には宝石に匹敵するような輝きで魅了さえするパワーストーンからは考えられない、まさに裏の歴史だった。
「みんながみんな、そういう結末ばかりを迎えたわけじゃないよ。でも、ほんの一握りだ。それだけ主と僕らが恋人同士になるっていうのは……残酷なんだ」
 愛さえあれば二人で生きていける。そんな単純できらきらとした、夢の詰まった話ではない。
 頂点が見えないほどにそびえ立つ試練を乗り越えられるほどの覚悟がなければ、幸福は得られない。藍は、そう告げているようにも見えた。
「僕らにとって一番悲しいのは、望まない形で使命を全うできないことだ」
 藍の拳が、固く握りしめられる。
「本体が割れたり、浄化しても力が回復しなかったりすることはあるけど、それはパワーストーンとしての使命を最高の形で終えられた証だからいいんだ。そうでない形で消滅するのは……つらい」
 こちらを見つめる藍からは、いつもの刺々しい雰囲気はまるでなかった。自らの思いをわかってほしいという切望だけがただ、存在している。
「僕は兄さんが大事だけど、それだけが理由じゃない。主であるあんたにも、傷ついてほしくないんだよ」
 天谷がかつて教えてくれた、自分のために翠の宿るエメラルドを選んでくれた話を思い出し、目の奥が熱くなる。
 藍も兄に負けないくらい、優しい。主である人間を第一に考えてくれている。
 常に厳しい態度だった理由が、ようやくわかった気がした。
「……でも、藍。私はやっぱり、否定だけもできないの」
 ずっと黙って聞いていた天谷の言葉に、藍はただ首を振った。
「またそれ? どっちも幸せになれないのに、千晶はいいって言うの」
「本気で想い合っているなら、無理やり止める権利はないはずよ。本人たちだって、諦めることなんてできない。それなのに否定され続けたら、待つ未来は変わらないと思わない?」
「普通に生きていられるほうがましじゃないか!」
「藍も、恋をすればわかるわ。本気であればあるほど、理屈で簡単に解決できる感情じゃないの。一度好きになってしまったら、だめなの。止められないのよ」
 キスを黙って待ち望んだ夜を思い出した。翠の感触を追いかけるように、自らに手を伸ばしてしまった夜を思い出した。
 感情に、ブレーキが効かなかった。求める心を止められるものは、なかった。
「捨てることだって簡単にできない。それだけ強くて、厄介な感情なのよ」
 恋情を捨てれば一番平和に解決できるとわかっていながらできないのは、今の言葉ゆえだった。
 告白しないのは、残酷な結末を迎えないため。
 ひた隠しにするのは、想いを捨てられないため。
 八方塞がりとはこのことだ。足を取られて、水面に這い上がれないような苦しさが募る。もがくほどに、深みにはまっていく。
「浅黄さん、大丈夫?」
 はっと、顔を上げた。照明がやけにまぶしい。
「あの、藍くんは……?」
「姿を消してる。……私も、ちょっと言いすぎちゃったわね」
 頭がぼんやりしている。考えすぎて、思考回路が使い物にならなくなってしまった。
「……私は、浅黄さんが後悔しないように行動することが一番だと、思ってるわ」
 強制さの感じない、語りかけるような声音だった。
「藍も私もいろいろ言ったけど、浅黄さん自身がどういう未来を歩みたいかっていう気持ちが一番大事」
 慈しむような柔らかい微笑みが、頭に染み込んでいく。
 天谷は店の中央にあるテーブルからボール型の器を持って戻ってきた。濁りのある乳白色の石が数個、中に入っている。
「お好きなものを、ひとつ差し上げるわ。私からのプレゼント」
「そんな、申し訳ないですよ」
「私と藍に付き合ってくださったお礼だから。それに、今の浅黄さんにはこの石がふさわしいと思うの」
「確か、ムーンストーン……でしたよね」
 旅人の安全を願ってこの石を持たせた、という記述がヨーロッパに残っていることから、旅路を守る石とも言われているらしい。
「浅黄さんと翠さんの歩む未来が、安全なものでありますように。ね?」
『千晶のおせっかい』
「いいじゃない。藍だって、お兄さんには幸せでいてもらいたいでしょう?」
『別の意味、込めたりしてないだろうね』
「私はあくまで、お二人の旅路を守ってくれますように、って思いよ」
 ひとつひとつ石を手に取り、じっくり眺める。角度を変えると、うっすらと青白い光が見え隠れしている。
 眺めているだけで、エメラルドとは違う安心感に包まれる。なぜか、母親を思い出した。女性が好む石というイメージがあるが、それも関係しているのだろうか。
 ふと、最後に手に取った石が、妙に輝いているように見えた。他と比べて若干透明度は高いようだが、「気がする」レベルの域は出ない。念のため別の石を持ってみたが、同じ現象は表れなかった。
「それが気になるの?」
「……なぜだか、よく光って見えるんです。他の石と見た目が変わらないのに」
「それ、ブレスレットを手に取っていただいた時と同じね。ピン、と来たということじゃないかしら」
 ますます吸い寄せられていく。お守りでいてあげると、優しく語りかけられているようだった。
「これに、します。おいくらですか?」
「本当に気にしなくていいのよ?」
「いえ、俺の意思でほしいと思ったので。ちゃんと買わせてください」
 納得したように、天谷は耳元の赤い石を揺らした。


 一瞬だけ躊躇してから、玄関の扉を開ける。
 すぐに翠が駆け寄ってきた。明らかに心配をかけてしまっている。
「ご連絡が全くありませんでしたし、事故にでもあったのかと心配で心配で」
「ごめん、うっかりしてた」
 鞄を受け取った翠は、ふと動きを止めた。
「翠、どうした?」
「……他の石の気配を感じますね」
 黙ったままにしておこうと思ったが、早速見抜かれてしまった。石同士、繋がるものがあるのかもしれない。
「ムーンストーンだよ。……天谷さんに、藍くんの件で改めて謝らせてくれって言われて、店に寄ってたんだ」
「この石は、お迎え予定はなかったんですね」
「不思議なんだけど、ブレスレット買った時みたいにピンと来たんだよ」
 袋からムーンストーンを取り出して、翠に渡す。
「……特別強い力を秘めているようには感じませんが、文秋さんとの相性がいいのでしょう。パワーストーンは、力が強ければ強いほどいいというわけではありませんから」
 どこか拗ねたような表情の意味がわからず、目で理由を尋ねる。
「文秋さんは、そのムーンストーンも今後、ずっとお持ちになるのですか?」
 ――自分を護る、たったひとつのパワーストーンでいさせてほしい。
 向かい合って囁かれた言葉が脳裏に響く。
 ようやく、意味を理解した。なんて誤解を生みそうな告白だろう。天井の見えない忠誠心に、むしろ微妙な気持ちになってしまう。
「大丈夫だよ。このムーンストーンは寝室に置いておこうと思ってる。これからの人生が幸せでありますようにって、天谷さんが願いを込めてくれたんだ」
「……人生、ですか?」
「これからの人生を、旅にたとえてくれたんだ。旅の安全を守る石だっていういわれがあるんだろ?」
 掲げてみるとやはり一段と美しい、淡く青白い光を放っている。
「私はてっきり、どうしても叶えたい願い事があるのかと思っておりました」
「そんなのもあるんだ」
「ええ。特に満月の夜に、石を口に含んで願いをかけると叶う、という言い伝えがあるのです」
 なかなかにロマンチックな内容だった。本当にそれで叶うなら、どんなに幸せだろう。
「でも、私でもきっと叶えられます。文秋さんの願いは、私の願いです」
 まっすぐに見つめられ、ムーンストーンを取り出すふりをして視線を逸らす。こんなことでいちいち心を乱していたら身が持たない。
「ないですか? 願い事。あったらぜひ教えてくださいね」
「……ありがたく、受け取っておくよ」
「私は本気ですからね!」
 叶えられるはずがない。
 お前と恋人同士になって何事もなく日々を過ごす、だなんて。


「文秋さん、大丈夫ですか?」
 問いかけられて、意識が現実に戻る。……今、何をしていた?
 俯きかけて、夕食の最中だったことに気づく。箸を落としてしまっていたようで、翠が上下を綺麗に揃えた状態で差し出してくれていた。
「ごめん……ありがとう」
「もしかして、今日は激務だったのでは? 顔色もあまりよくありません」
「大丈夫。食べて寝たら、元気になるから」
 皿に盛りつけられた食べ物を全力で流し込む。
 風呂でもぼんやりしてのぼせかけたし、予想以上に二人の話が尾を引いている。
 望むように行動するのが一番だと天谷は言った。
 ――想いに蓋をして、ただの主従関係を保つこと。
 それが願望だと思い込みたいのに……どうしても、胸のあたりのしこりが邪魔をする。剥がそうにも剥がれない。
 わかっている。そのしこりは、純粋な欲望だ。
 ――好きだと言ってもらいたい。抱きしめてもらいたい。キスをしてもらいたい。それ以上のことだって、構わない。
 欲望というのは際限がない。無理やり認めろと言わんばかりに、心全体に巣くうそれをかき集めようとする。
 恋人同士になれたとて、死ぬまで幸せな日々が続く可能性は限りなく低いと知っていながら、茨の道を進めと暗に告げているのか。翠にも、歩かせようというのか。
 ――だめだ。欲望は抑え込まなければならない。互いが一番に安定した道を、歩み続けなければならない。
「ごちそうさま。……ほんと疲れたみたいだから、もう、寝るよ」
 翠の気遣う視線を振り切るように、ソファーから立ち上がる。頭を強制的に休める必要があった。こんな状態で思考を回しても、負のスパイラルからは抜けられない。
「文秋さん……もしや、天谷様のお店で何かあったのでは?」
 洗面所から戻ると、寝室の前に翠が立ち塞がっていた。
「やはり、そうなのですね。藍に、なにか言われたのではありませんか?」
 予想しなかった問いに足を止めてしまった隙を、翠は見逃してくれない。
「だから、天谷さんにお詫びされてだけだって」
 顔を見れない。見たら、きっと余計なことを口走ってしまう。
「とにかくもう寝させてくれよ」
「文秋さん!」
 強引に寝室へ向かおうとした瞬間、足に固い感触がぶつかる。
 衝撃に耐えきれず傾いていく身体は、途中で止まった。
「大丈夫ですか?」
 腹部に翠の腕が回り、ぶら下がるような形で支えられている。焦るあまりテーブルの角に足をぶつけて転びかけるとは、とんだ醜態を晒してしまった。
「……大変、失礼いたしました。本当に、お疲れのようですね」
「だから、そうだって言ってるだろ? それより、もう離して」
「落ち着いて。私がこのまま、ベッドまでお連れします」
 視界がいきなり天井に移った。少しずらせば、翠を下から見上げる形になる。
 どう考えても、横抱きだった。女性は憧れるだろうが、少なくとも男性の自分は全くときめかない。好きな人にされても、むしろ羞恥しか感じない。
 暴れたい衝動を必死に堪えて、頭を翠の胸元に押しつける。下ろしてもらうのを切実に待った。
 やがて、背中に柔らかい感触が走った。全身からも無駄な力が抜けていく。
「到着しました。どうぞ、ゆっくりお休みください」
 布団をきっちり顎の下までかけて、頭を労るようにひと撫でしながら微笑んでくれた。
「文秋、さん……?」
 ふいにこみ上げた寂しさのあまり、離れようとしていた背中に手を伸ばしていた。
 振り返られて、我に返る。慌てて布団の中に掴んだ証拠を戻しても、意味はなかった。
「いや、ごめ、なんでもない……んだ」
 言い訳が浮かばない。心が神経質になっているあまり奇行に走ってしまったんだと、自らに言い聞かせるしかない。
 反対側を向いて、翠が去ってくれることを黙って祈るしかなかった。
「……失礼、いたします」
 上半身が浮いたような感覚が走り、息苦しささえ感じる力がかかる。かすかな香りと翠自身の力のせいか、波立つ感情が穏やかになっていく。
 言葉は、何もなかった。何も言えなかった。翠の両腕を、耳に届く呼吸をただ、感じているしかできなかった。
 翠は主を純粋に助けようとしてくれているだけなのに、どんどん熱が上がっていく。あれほどにもがいていた時間が嘘のように、想いが許容量を越えて、あふれてくる。
 温度のない、けれど誰よりも安心を与えてくれる身体に、包まれていたい。
 喉の奥から迫ってくるものがあった。久しくなかった、今は我慢しておきたいものだったが、無意味だった。
 閉じた瞳の隙間からにじみ出て、こぼれ落ちてしまう。枯れることを知らないように、止まらない。
「泣いて、いらっしゃるのですか?」
 嗚咽を堪えているせいで、答えられない。
 こちらの顔を覗き込んできた翠は、眉根を寄せた。
「教えてください。どうすれば、涙を止めてさしあげられるのですか?」
 目元を拭う動きに合わせて、薄く瞼が降りる。再度持ち上げても視界は歪んだまま、まともに捉えることができない。
 止まる方法があるなら、教えてほしい。
 これ以上あふれない方法を、教えてほしい。
「……お前が」
 だめだ。それは、翠を否定することと同義だ。
「人間だったら、よかったのに」
 止められなかった己の身勝手さが腹立たしい。泣く資格すらない。
「ごめ……翠、ごめん……」
 謝るくらいなら、唇を噛み切る思いで押し殺せばすむ話だった。ただの自己満足に、ひどく惨めでならない。
「それ以上力を込めたら、傷がついてしまいます」
 唇の表面をそっとなぞられる。くすぐったさで力が抜け、かすかな吐息がもれる。唇を一周したあの時の指を思い起こさせた。
 気づけば、翠の閉じられた瞼が目の前にあった。口から息が吐き出せない。
 一気に情報が頭に流れ込んだ。身を捩るも、翠に動きを封じられてしまう。
 どうして。どうして、キスをするんだ。好きでもないくせに、このキスの意味はなんなんだ。
「っ、ふ……」
 角度を何度も変えて、触れるだけのキスが続く。翠に体温はないのに、重なった部分が熱くてたまらない。背中を滑る手のひらの気持ちよさに、声が止まらない。
 唇が解放されるとすぐ、頭を首筋に押しつけられた。若干の震えは自らのものか、翠のものか。
「……私こそ、申し訳ございません。今のは、忘れてください」
 絞り出すような声だった。顔を見て問いつめたいのに、許してくれない。
 一度離れて戻ってきた翠は、枕を持ち上げて何かを置いた。
「文秋さんがお迎えになったムーンストーンを、枕の下に入れさせていただきました。こうするとよく眠れますよ」
 他の石について触れたのは、初めてだった。
 またこみ上げてくる涙を抑えたくて、目を閉じる。後頭部を撫ぜる動きに、少しずつ意識が沈んでいく。
「どうぞ、ゆっくりお休みください。ムーンストーンの力がきっと、落ち着けてくれます」

 翠の心を覗ければいいと、一瞬願ってしまった。
 強い使命感ゆえの行動なのかと、恐怖をかなぐり捨てて問いかけたかった。

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