【9話】俺はエメラルドのご主人様じゃない!

 その日の夜に診察を受け、念のためと次の日も夕方まで経過を見た上で再度診察を受けたが、軽い打撲以外の症状はなかった。
 担当した医者はしきりに首をかしげていた。衝突した車は四十キロほどのスピードを出していたと言う。運転手はぎりぎりでブレーキをかけたが間に合わず、確かに人のぶつかる感触があったと素直に証言してくれている。
 答えは自らの中でしか告げられなかった。
 翠が護ってくれたのだ。失うかもしれなかった命を救ってくれたのだ。
 だから、礼が言いたい。全力で抱きしめてやりたい。
 エメラルドのもう半分は、履いていた靴の中に落ちていた。ブレスレットと合わせてハンカチにくるみ、鞄の中にしまっている。
『本体が割れたり、浄化しても力が回復しなかったりすることはあるけど、それはパワーストーンとしての使命を最高の形で終えられた証だからいいんだ』
 藍の言葉がよみがえるたび、全身から熱が奪われる。それでも、敢えて信じないことにした。持ち主が必要だと強く願っているのだから、パワーが失われたなんてあるわけがない。
 水晶の力を借りれば、月光の力も借りれば、きっと翠は帰ってくる。
 その日のうちに帰宅許可をもらい、すぐに水晶の上に乗せる。スマートフォンで月の満ち欠けを調べると、満月は来週だった。
 石の状態からして、三日の浄化で足りないのは想像がついた。
 満月の前後まで続ければ、きっと戻ってきてくれる。確証なんてない。あるのは確固たる願いだけだ。
「藍くんが押しかけてきた時みたいだな。……でも、今度は耐えられる。お前が戻ってくるって信じながら、待つよ」
 ブレスレットを手に取って、額に押し当てて固く目を閉じた。
 翠が戻る以外の未来は絶対に認めない。こんな……こんな別れなんて、認めたくない。

  * * * *

 突然やってきたひとりきりの休日は、過ごし方がよくわからなかった。
 当たり前だったはずの朝でさえ、まるで他人の家にいるように戸惑っている。
 違和感を拭いきれない思いでブレスレットを窓辺からテーブルに移動させる。エメラルドの輝きは当然戻っていない。
 いつもの朝食を用意しようと冷蔵庫を開けたが、やる気が起きない。結局、ブラックコーヒーを淹れるだけで終わらせてしまった。
 具合が悪くてどうしようもない時を除いて、朝食をさぼったことはなかった。
 スマートフォンには、後藤をはじめとした後輩や同期、先輩からも気遣いのメッセージが届いていた。ありがたい気持ちで返事をしながら……ある名前で、止まる。
『浅黄さんが事故に遭ったと、マンションの知り合いの方に教えていただきました。藍もとても心配しています』
 藍までに心配をかけているなら、なおさら返事をしなければと思うのに……指が、動かない。
 きっと、藍がやってくる。必ず、エメラルドを確認するだろう。
 頭を振った。それは、認めているようなものだ。
 戻ってくる未来を信じている。信じているからこそ、逃げるべきではない。
 微妙に震える指でぎこちなくフリックしていく。送信ボタンを押す前に一瞬ためらい、スローモーションのように進めた。
『退院されたのとのことで、本当によかったです。もしご迷惑でなければ、夜に藍と少しだけお伺いしてもよろしいですか? というか、藍が今日に伺いたいと言って聞きません』
 最後の一文に、彼らしさが詰まっていた。つまり、拒否権は最初からない。
 返事をした後に、ブレスレットを手に取る。エメラルドを撫でるとくすぐったそうにしていたことを思い出して、親指で両方の表面をなぞった。
 返ってくる声は、ない。
 夜まで何をすればいいのだろう。買い物に出かける気力さえない。テレビをつけてみても、内容は全く頭に入ってこない。パソコンを起動すればパワーストーンの化身についての情報ばかりを検索して、予想通り見つからなかった。
 掃除をしようと思い立ったが、きれいな箇所しか見当たらなかった。……翠が、いつの間にか掃除の知識まで身につけていたのだ。
 ソファーに力なく座り込む。
 静寂が、全身に突き刺さる。部屋がやけに広く感じる。前は当たり前だった空気を吸うのが、苦しい。
 気づけば、窓の外はすっかり暗くなっていた。
 操られたようにガラスの器を持って、窓辺に置く。
 スマートフォンが、天谷からの連絡を知らせてくれた。軽く着替えを済ませたところで、ちょうどインターホンが鳴る。
「こんばんは。昨日の今日で本当にごめんなさい」
 いつもは下ろしたままの、緩いウェーブのかかった黒髪をサイドでまとめた天谷は、視線が合った瞬間に双眸を細めた。
「いえ、気にしないでください。俺こそ、わざわざ来ていただいてありがとうございます」
「本当に、大怪我じゃなくてよかったわ。不幸中の幸い、という感じかしら」
 身体的には、そうなのだろう。精神的には……逆かも、しれない。
「……やっぱり。やっぱり、兄さんの気配を感じない」
 背後で、訝しげな藍の声が響いた。すでに、リビングの方へと足を進めている。
 慌てて背中を追いかけた。寝室に続く引き戸を開けると、彼の手にガラスの器が乗せられていた。
 横顔だけでもわかるほどに、呆然としている。気力をすべて失ったような、普段の藍とは真逆の状態に置かれていた。
「どうしたの、藍」
 天谷の声が硬い。我に返ったようにわずかに身を動かした藍は、テーブルの上に器を置いた。
 短く息をのむ声が聞こえる。
「どうして、エメラルドが割れてるの」
 いつもの、責め立てるような口調ではなかった。努めて、冷静な姿を演じているのかもしれない。口の中に苦味が広がっていく。
「事故に、遭った時……翠が、護ってくれたんだ」
 鋭く名前を呼ばれて振り返ったと同時、視界が黒で染まった瞬間を昨日のことのように思い出す。
「翠が、車の前に現れて……俺を、かばってくれたんだ」
「だから、大怪我をしなくて済んだ……そういう、こと?」
 おそるおそる尋ねる天谷に、首を縦に振る。
「兄さんは、あんたに降りかかる災難を察知したんだよ」
 藍のつぶやきが、静かに響く。
 鈍い輝きに変化していたエメラルドを思い出した。まさか、あれが……その、証だった?
「そして、すべての力を使って……あんたを、護った」
 その意味は考えたくない。容赦なく貫いてくる視線を避けるように、首を振る。
「このエメラルドは、パワーストーンとしての役目を、終えたよ」
「そんなの、俺は信じてない」
 言葉でも、振り払う。
「ここにあるのは、ただの……エメラルドだ」
「俺は認めてない!」
 よろめいた身体を、両肩に触れた天谷が支えてくれる。
 目の前がちらつく。背中を優しく撫でる感触に合わせて、呼吸を繰り返す。
「割れたって、力が回復すれば戻ってくるんだろ? ほかにいい方法があるなら教えてよ、これじゃだめだって叱ってくれよ!」
「戻らないよ。方法もない」
 あくまで、藍は冷静だった。ブレスレットとエメラルドの欠片を手に取り、両方に指を這わせる。
「兄さんは……パワーストーンとして、使命を立派に務めたんだ。あんたは主として、ありがとうと言うべきじゃないの?」
「それは、翠に直接伝えたいんだ!」
 翠自身に受け止めてほしいと願っている。だからこそ、彼が戻ってくることを信じているんだ。
「天谷さん……天谷さんは何か知らないんですか? こうすれば力が絶対戻るっていう方法、ないんですか?」
 振り向いた先の天谷は、眉根をきつく寄せながら俯いて、首を振る。
 感情すべてが、現実を受け入れまいと拒否反応を起こしている。わずかな可能性を求めよと、理性に何度も訴える。
「前にした話、覚えてるよね。主と化身の、恋の話」
 藍の双眸は、一点の曇りもなく研ぎ澄まされた刃をまっすぐに構え、こちらに突きつけているようだった。
「今のあんたはまさに、その状態だよ。兄さんの後を追うって言い出してもおかしくない状態だ」
 エメラルドを握り込む。まるで、死者を弔うような儀式に見えてしまう。
「もし、本当にそんな道を選んだら……僕は、あんたを許さない」
 卑怯だ。強引に現実を飲み込ませ、逃げないようその場に打ちつける真似を、するなんて。
「藍、もう帰りましょう。大丈夫、浅黄さんは大丈夫だから」
 藍の肩がぴくりと震え、背後の天谷を捉える。眉間に一瞬、力が入ったように見えた。
「……先に、戻るよ」
 水晶の上に戻したブレスレットたちを見つめた格好のまま、姿が消えていく。
 ソファーに力なく座り込む。輝きが戻らないと宣言されたエメラルドをただ、呆然と見つめる。
「ごめんなさい、浅黄さん」
 天谷の声は微妙に震えていた。
「藍は本当に、浅黄さんを心配しているの。でも、お兄さんのこともあるから……今は、特に」
 言葉を返すだけの気力も、今はなかった。
「……また、お店にいらして。メッセージでもいいから、何でもお話しましょう。いつでも、お待ちしてます」
 静寂が、部屋を埋め尽くす。反射的にリモコンの赤いボタンを押して雑音を入れ、シャワーだけで入浴を済ませた。
 空腹を訴える音を静めるために、冷蔵庫に向かう。こんな状態でも呆れるほどに、身体は正直だ。
「……そういえば、朝に下ごしらえしてたっけ」
 事故のあった日に翠が用意していたものだ。ラップのかけられた、作り置き状態の料理たちを取り出す。
 最初は、本当に最低限の家事しかしない自分と同等レベルの知識だったのに、特にスマートフォンを持たせてからネットの賜物か、母親のような知恵を少しずつ身につけていた。
 きっと、嬉々として家事をやる化身など翠ぐらいだろう。
「今日も、うまいよ」
 ブレスレットに感想を告げる。
「また……食べたい。お前の、料理」
 声が震える。歯を食いしばって、こぼれ落ちそうなものを堰き止める。
 時間をかけて、すべての料理を平らげた。

  + + + +

 休み明けに出勤した自分を待っていたのは、終わり間近のプロジェクトに追われるメンバーだった。
 五体満足を祝う声もそこそこに、一日欠勤していたぶんも含めたタスクがずらりと目前に並べられる。
 むしろ、ありがたかった。無心で仕事に打ち込んでいれば、その間は忘れていられる。何も考えなくて済む。


「ただい……」
 途中で台詞を切って、無理やり苦笑しながらリビングに向かう。
『文秋さん。今日もお疲れ様でございました。すぐに夕飯の準備をしますから、ゆっくりご入浴ください』
 部屋の電気をつけると、翠の声が自然と脳内で再生される。
 テーブルに置いてあるブレスレットを、少し迷って窓際に移動させた。
 ベッドにスーツを脱ぎ捨てて、風呂場に向かった。ブレスレットをつけて出勤する時は、風呂を沸かすのだけは自分の仕事だった。
 だが、今日も湯船に浸かる気分にはなれなかった。
『本日は残業で遅い帰宅になりましたので、さらっと食べられるものにしました。午後九時以降の食事は肥満に繋がるので推奨されないんだそうですよ』
 今日もその時間に近くなったが、買ってきた弁当は好物の丼ものだった。
 なのに、全然箸が進まない。
 結局その弁当は冷蔵庫にしまって、インスタントの茶漬けにした。
 テレビをつけた。翠は好奇心が高いのか、基本的に選り好みせずどんな番組も楽しそうに観ていた。特に面白い番組には、放送が終わると感想をつぶやいていた。
 衝動的に消した。抱えた膝に顔を押しつける。
 翠が離れない。この家全体に翠と暮らした証が残りすぎて……簡単に、脳裏によみがえってしまう。
 諦めろと囁く声と、諦めるなと怒鳴る声が頭の中でせめぎ合って、決着のつかない争いを続けている。
 本心は……窓辺に置いたブレスレットが、物語っていた。
 わかっている。単なる悪あがきだと、本来なら翠が護ってくれたこの命をつないでいかねば、前を向かねばならないとわかっている。
 でも、それを受け入れるには、あまりにも時間が足りない。
 ふと、気配を感じて顔を上げた。
「……藍、くん」
 キッチンに近い場所で、どこか気まずそうに立ち尽くしている。普段とは程遠い様相だった。
「どうしたの? ……ああ、俺の監視に来たんだ?」
「そうだよ。ご飯もまともに食べてないみたいだし」
「大丈夫だよ。仕事忙しいし、迷惑かけたくないし」
 口を開きかけた藍は、再び閉じた。そのまま姿を消す。
「厳しいなぁ」
 その厳しさに甘えるしかできない自分の弱さに、嘲笑がこぼれた。

  + + + +

「文秋さん。短い間でしたが、お仕えできてとても幸せでした」
 目の前に突如現れた男は、突如別離の言葉を放った。
「このような形でおそばを離れますこと、本当に申し訳ございません。ですが……悔いは、ございません」
 突然すぎる。まだ何も言えていないのに、そばを離れることすら許していないのに。
 どうして声が出ないんだ。身体が動かないんだ。
 少し離れた場所に立ったまま、男はきれいなお辞儀を披露する。
「これからも文秋さんが幸福でいられますよう、陰ながら応援しております」
 再び向けられた男の顔には、満ち足りた笑みが刻まれていた。
 黒い背中が遠ざかっていく。
 喉をかきむしって、声が出るようにと祈った。膝を叩いて、足が動くようにと祈った。
 どれも届かない。人形にでもなってしまったように、小さくなっていく背中を見つめるしかできない。
 何を怯えている? ここでもがいていても、待っているのは後悔しかないとわかっていながら、なぜ?
 頬を濡れたものが走り抜ける。
 ――もう、後悔は訪れているんだ。


「あ、先輩。お疲れ様です。大丈夫っすか?」
 休憩所の扉が開く音で、こびり付いていた夢がさっと霧散する。
 俯いていた顔を持ち上げると、後藤が気遣うように見つめながらやって来た。隣に並んで、柵に寄りかかる。
「……大丈夫だよ。後藤も疲れてるだろ?」
「はは、さすがに。プロジェクト終わりかけだから仕方ないっすけどね」
 仕事があるほうがむしろありがたい。余計なことは、考えたくない。
「ブレスレットもないから、余計にお疲れですね。翠さん、まだお休み中なんですか?」
 頷く代わりに、苦笑してみせる。
「死ぬかもしれなかったのを軽傷で済ませてくれたから。もうちょっとかかるんじゃないかな」
 敢えて口端をさらに持ち上げてみせたが、後藤の表情はあまり変わらない。
 後藤に伝えたのは、「エメラルドが割れた」以外の内容だった。これ以上、事実を広めるのは……いやだった。
「ねえ、先輩」
 珍しく、後藤の声が硬い。
「翠さん、本当に休んでるだけなんですよね?」
 全身の体温が地に沈んでいくようだった。寄りかかっていなければ、しゃがみ込んでいた。
 何を言えば正解なのかわからなくなった。後藤は鋭いから、下手なことを返せば余計に泥沼と化してしまいそうで怖い。だが、沈黙も同じことだ。
「……そうだよ」
 結局、肯定を繰り返すしかできなかった。
 ひときわ強い風が背中を撫でる。今日は気持ちのいい秋晴れのはずなのに、冷たい。
「オレ、実は翠さんとID交換してるんです」
 沈黙に耐えきれず、席に戻ろうとした足を後藤の意外な告白が止めた。
 丸い瞳は、真摯な光だけを放っている。
「翠さんがやろうとしていることの結果を、心待ちにしているんです。だから……早く、よくなってほしいです」
「……何を、企んでるんだ?」
 問いかけても、教えてはもらえなかった。

  + + + +

 ようやく、プロジェクトが終わりを迎えた。特に大きなトラブルもなく無事に完遂できたことが本当に嬉しい。
 だが、それ以上にあるのは虚無感だった。胸元に巨大な穴が空いていて、どんな感情も容赦なく吸い寄せてしまう。
「浅黄さん! これからお疲れ様会やりますけど、もちろん来ますよね?」
 退社の準備を進めていると、メンバーの一人から笑顔で誘いを受けた。
 正直、乗り気ではない。だが、胸元に空いた暗い空間を、虚無感を、なくしたかった。酒の力を借りれば、なくせるかもしれない。
「あれ、先輩、確か用事あるって言ってませんでした?」
「えー! 浅黄さん、先週から特に頑張ってくれてたのに?」
「用事があるんだから仕方ないじゃないですか。ね、先輩?」
 混乱するばかりの自分を振り返った後藤の瞳には、はっきりとしたメッセージが込められていた。
 ――話を合わせろ。
 意思の強さに負けて首を縦に振ると、渋々ながらメンバーは諦めたようだった。
 後藤は後から合流する旨を告げると、無人の会議室へと案内した。
「後藤、一体どういうことだよ?」
「すみません、誰かが入ってくるかもしれないんで手短に。……先輩、帰ったら翠さんのスマホで、オレとのメッセージ見てください」
 全く予想のつかなかった内容を切り出されて、言葉を失う。
「何となく、そうしたほうがいい気がしたんです。今週入ってからの先輩、うまく言えないんですけど仕事に逃げてるように見えて、心配で」
 どこまでも、この男は見抜いてくる。握りしめていた拳を、そっと後ろ手に隠した。
「もしかしたら、翠さんが絡んでるんじゃないかって思って……翠さんずっといないから、オレ」
 続きを、後藤は打ち切った。どこまで、どこまで想像を広げている?
「とにかく、見てください。翠さんに怒られたら、オレにけしかけられたって言っといてください。オレが言うのもなんですけど……絶対、後悔しませんから」
 そのまま会議室を出て行く後藤を、呆然と見つめる。
 まるで、生まれた空洞を翠のスマートフォンが埋めてくれるとでも言いたげに聞こえた。


 翠のスマートフォンは、電源を切ったままリビングの棚に置いていた。
 初期化して処分してしまおうと何度も思った。その衝動を抑えるのは、電源をつけたあとのロック画面だった。
 解除に必要な番号は、翠の性格を考えると連番や同じ数字を並べたものではない。……ここまでは、いつも通りの推理だった。
 敢えて解かないことで、無意識に処分を防いでいたのかもしれない。
 端末を握りしめる。後藤の「後悔しない」という言葉が、ひどく心を揺らす。
 正しい行動がどれなのか、わからない。見るほうが後悔する可能性もある。
 でも……確かな形で残っている翠の「声」を目に入れろと催促されたら、乗ってしまったら、止めることはできない。
 ランダムな数字でないことを祈りながら、翠との日々を再生しながらヒントを探る。
 最初はあまりの非日常ぶりになかなか受け入れられなかった。
 拒絶から微妙な気持ちになったところで、力の使いすぎで集中的な浄化を必要とする事態になった。藍にも出会い頭怒られてしまった。
 そのおかげと言っていいのか……翠自身も大事にしたい存在なのだと気づいて、気づけば唯一無二のパートナーとして、認識するようになっていた。
 愛して、しまっていた。
 たまらず、抱えた膝に額を押しつける。いろんな翠の表情が脳裏を埋め尽くして、押しつぶされそうだ。
 自分に置き換えて、考えてみる。ランダムにしないなら、誕生日よりも秘匿性のある番号を選ぶなら……。
 弾かれたように顔を上げた。自分のスマートフォンを持ってきて、カレンダーを確認する。
 あんなにも使命感にあふれていた翠だからこそ、設定するだろう。そう信じながら予想した数字――エメラルドの化身として初めて出会った日を入力していく。
「はず、れた……」
 あの日は今日と同じ満月だった。それが、目印になった。
 本当に、翠らしい。
 震えそうになる指を堪えながら、メッセージアプリのアイコンに乗せる。確かに、「後藤大河」の文字と見慣れたアイコンが表示されていた。

『絶対恋人になれますよ! 先輩の浮かれ姿、楽しみにしてますから!』

 後藤のメッセージに、硬直してしまった。
 早とちりだと懸命に落ち着かせる。震える親指を、下にスワイプした。

『こんばんは。……私、決めました』
『お疲れです。何をです? もしかして告白とか?』
『はい。明日、文秋さんに想いを告げるつもりです』
『ま、マジっすか……! でも、前はしないって言ってたのに』
『……迷っていたのですが、もう吹っ切れました。想いが成就しなかったとしても、ずっとおそばにいると決めました』

 日付は、事故のあった前日だった。
 呼吸が乱れていく。さらに、会話を遡った。
 記憶が曖昧になるほど飲んだ日、後藤からの連れて帰る連絡の後に、会話が続いていた。

『さっきはお邪魔しました。あんな状態まで飲ませてしまってほんとすみません』
『いいえ。むしろ、新しい文秋さんを拝見できて嬉しいです』
『嬉しいって、ほんと翠さん先輩が好きだなぁー』
『大事な主ですからね』
『……あの、ぶっちゃけたこと訊いてもいいですか?』
『私で答えられることでしたら』
『翠さん、先輩のこと好きでしょ?』
『…………ええ。私はずっと、文秋さんのことを愛しています』

「うそ、だ。こんなの」
 何度も目を走らせる。
 何度も同じ答えが視界に返ってくる。
 愛を示す言葉が、翠の声で響き渡る。
 画面を見たまま、その場に座り込んだ。

『愛して……そんなに、好きなんですね。でも、いつから?』
『文秋さん、ブレスレットをとても大事にしてくださっているでしょう?』
『そう、っすね。先輩、アクセサリーとかつけるタイプじゃないんで、ブレスレット見た時はほんとびっくりしました。運命だと思った、って言ってましたね』
『……そんなことを、仰ってくださっていたんですね。でも、私も同じ気持ちです』

 胸に、突き刺さったような感覚が走った。

『実体化していない時から、文秋さんが大事にしてくださっている想いは伝わっておりました。そんな方に迎えていただけたことが本当に嬉しくて……運命だと、思いました』

 目に、熱いものが集まっていく。

『実体化してから、とても大事にしてくださる文秋さんはどのような方なのかと気になるようになって……ご自身よりも他の方を思いやる文秋さんを支えてさしあげたい。そう思うようになりました』
『……それ、翠さんしかできないですね』
『最初はだいぶ混乱させてしまいましたが……最近は、頼りにしてくださっているみたいです』
『普通にしてますよ! 先輩、何だかんだで翠さんといるの楽しそうですもん』
『後藤様のお墨付きなら、安心ですね』

 さらに会話を遡る。ほとんど、主である自分の話題だった。
 翠らしさが、さらに詰まっていた。確かな愛が、あふれていた。
「あ、ああ……」
 端末を抱き込んで、声にならない嗚咽をこぼす。
「好き、だ……俺も、お前が、好きだよ……」
 うわ言のように、何度も繰り返す。
 こんな形で知りたくなかった。いなくなってから想いが通じ合うなんて……通じ合った瞬間に、あふれて止まらなく、なるなんて。
 天谷の言う通りだった。我慢なんてできない。同じ想いと知ったら、留まれない。
 どうして、隣にいないんだ。こんなに、身が張り裂けそうなほどに求めてやまないのに!
 誰でもいい。何でもいい。試練ならいくらでも乗り越えてみせると約束するから、共に歩むチャンスを与えてほしい。
 翠のいない非日常は、耐えられない。
 キーボードを呼び出して文字を打ち込む。ベッドサイドのテーブルに置いていた器を持って窓辺に歩み寄った。
「ムーンストーンは、願い事、叶えてくれるんだよな……?」
 窓を開けた。肌寒くも感じる風が全身を通り過ぎる。
 美しい円を描いた月が、雲ひとつない灰混じりの黒い空を飾っている。身体ごと向けて目を閉じると、包み込むような熱が生まれてくるようだった。
 愛おしさを込めて、ふたつのエメラルドを撫でる。
 破片を淡い光の方向に掲げてから――自らの体内に流し込んだ。
「お前だけを、危険な目に遭わせたりしない。俺も、お前を護るから」
 だから、かえってきてほしい。また、隣にいてほしい。
 ムーンストーンを口の中に含む。
 ブレスレットを握りしめた両手を、額に押し当てて願いを繰り返す。どれくらいの時間が経ったのかわからなくなっても、身体の感覚がなくなる感覚が襲ってきても、決して止めなかった。
 背中に声をかけられた気がして、振り向こうとした瞬間に全身の力が抜けた。
 糸の切れる音が、脳裏に響いた。

  * * * *

 ふと、意識が浮上した。だが、目を開けられない。身体全体が沈み込んでいる。息を吸おうとした瞬間、咳き込んでしまった。
 ああ、風邪を引いてしまったんだ。ぼんやりと理解する。
 背中が柔らかい。もしかして、ベッドに寝ている? いつの間に?
「……す、い?」
 ほんの少しの期待を込めて名前をつぶやくも、返ってくる声はない。
 やっぱり、言い伝えは言い伝えのままだったのか。翠たちに出会えた奇跡は、二度と起こりはしないのか。
 とにかく、会社に連絡しなければ。
 懸命に手を伸ばして、ベッドサイドにあるスマートフォンを手に取った。後藤の名前が見えたことに気が緩んで、何とか病欠の連絡を入れる。
 かけられた布団が重りに感じる。このまま眠っていたいと悲鳴を上げている。
 もがく身体を、何かが押さえた。大丈夫、と声をかけられた気がした。
 ああ、きっと藍が呆れながら様子を見に来たんだ。自分がへたっているから、怒りたくても怒れずにいるのだろう。
「情けなくてごめん、藍くん……明日には、治るから……」
 頭を撫でられて、意識は再び闇へと沈んでいった。


 夢を見ていた。
 そうわかるのは、目を開けた時に、別の気配があったからだった。ずっと求めていたひとのものに、近かったからだ。
 首を動かして名前をつぶやいた。口がうまく動かない。
「はい」
 高くも低くもない、耳にやさしく響く声が返事をする。エメラルドがふたつ、うっすらと見えた気がした。やっぱり、都合のいい夢を見ている。
 片手を持ち上げるつもりで意識を送ると、少し硬い布に包み込まれた。いつも翠がしている、白い手袋に酷似した感触だった。
 本当に翠がいるみたいだ。隣で、手を握ってくれているみたいだ。
「おります。文秋さんのおかげで、私はここにおります」
 口元が緩んだ。現実も、思い描いた通りの展開になればいいのに。
 いや、してみせる。諦めた瞬間に足は止まってしまう。叶うまで、何度でも願いを込めるんだ。他の方法だってあるかもしれない。
 一番大事に想ってくれる彼を、今度こそ大事にしたいから。二度と後悔はしたくないから、素直に己の願望を受け入れて、素直に想いを告げるのだ。
「もう、いただいております。……私こそ、夢を見ているようです。このまま、覚めないでほしい……」
 唇に柔らかなものが触れる。少し口を開くと、さらに深く重なった。
 本当に幸せな夢を見ている。夢だからこそ許される内容だ。
 もう少し、この気分に浸らせてほしい。

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