【4話】ただずっと、隣で笑い合っていたいから、

 昼飯の誘いは、仕事を理由に断る。
 夕飯の誘いも、仕事や他の予定が入っていることを理由に断る。
 週の中日<<なかび>>にあった祝日の誘いも何とか断ることに成功した。
 とにかく、西山と二人きりの時間をなくしたくて必死だった。


「……白石。お前、露骨すぎだろ」
 とうとう痺れを切らしたのか、昼休みになった途端捕まってしまった。西山がいない時を見計らってエレベーターに乗ったのに、見抜かれていたのかエントランスのすぐ外で待ち構えていたのだ。
 掴まれた腕を容赦なしに引っ張られ、そのまま人気のない場所まで連れて行かれる。
「何のこと?」
「とぼけんな。今だって無視しようとしただろ」
「昨日、具合悪いから断ったの忘れたのかよ」
「嘘だって俺はわかってるから」
 手を振りほどこうとするがびくともしない。早く逃げたい、心が乱される前に、早く。
「……そうやって俺と目、合わせなくなったよな。仕事中もだ」
 やっぱり気づかれていた。
「なあ、なんで? 俺、なんかやった?」
 していると言えばしている。していないと言えばしていない。
「もしかしなくても、この間のドライブが原因?」
 一瞬息をつまらせてしまう。こんな反応、肯定しているも同然じゃないか。
「無理やり連れ出したから怒ってんの?」
「……違う」
「じゃあ、キスしたりしたから?」
「……っ、もう離せよ!」
 もう耐えられなかった。心臓が苦しい。早く西山と離れなければどうなるかわからない。
 強めに腕を振るとあっさり解放された。彼の優しさのあらわれなのか、単に諦めただけなのか、どちらにせよ助かった。
「これだけ教えてほしいんだけど、お前にとって、俺はどういう存在?」
「……大事な、相棒だよ」
 すれ違いざま問われた当たり前の問いに、変わらない答えを返す。西山からの返答はなかったし、あったとしても聞く余裕はない。
 重い足取りで会社に戻ると、先ほどのやり取りがまるで夢だったかのように「相棒」の仮面を被った西山がパソコンに向かっていた。
 ……そう、ある意味現実に戻れていないのは自分。少なくとも会社にいる間は普段通りの自分でいられたのに、公私混同も甚だしい。仕事に打ち込みたくとも、逃避できるほどの忙しさも今はないうえに、担当している案件を西山と受け持っているせいで余計に集中力を乱されていた。
 どうしてそんな普通にしていられるんだ。どうして自分だけがこんなにも心乱されているんだ。どこまで惨めにさせれば気が済むんだ。
 ため息を押し殺しながらメールを送信する。ここに座っていることが苦痛で仕方ない。
「おい、白石」
 妙に堅い声が聞こえて隣を見やると、珍しく焦燥の混じった表情が出迎えた。
「さっき見積のメール送っただろ? 金額、間違えてる」
 慌てて送信したメールを開き、添付した見積書と手元の資料を見比べる。
 ……最悪もいいところだ。
 初めて取引をする企業相手に、よりにもよって、注意していれば防げたはずのミスを犯してしまった。
 背中に氷を押しつけられているような心地になりながら、西山と共に上司に報告する。
「西山が気づいてくれてよかったよ。白石にしちゃ珍しいが、次からは気をつけてくれよ」
「……はい。本当に申し訳ありませんでした」
 震えそうになる声を必死に抑える。いっそ怒鳴り散らしてくれたら、悔しさの矛先を遠慮なく向けられたのに。
「白石」
 一段落ついたところで逃げるように席を外す。少しの間、一人きりになる時間が必要だった。
 それなのに、なんで彼は追いかけてくるんだ。
「……ついてくるなよ。トイレ行くんだから」
「トイレ、そっちじゃないぞ」
「わかるだろ、察せよ。五分くらいしたら戻るから」
「俺のせいなんだろ? 見ない振りはさすがにできない」
 会社じゃなかったら、多分怒鳴りつけていた。
 そうだ、全部西山が悪いんだ。心地よかった空気を一瞬でかき乱して、居心地の悪いものに変えてしまった。
「わかってるなら」
 急に腕を掴まれた。抵抗する暇もなく、トイレの個室に連れ込まれる。
「ごめん、ここしか思いつかなかった」
「そんなの関係ないだろ、なにすん」
 顎を掬われ、唇に親指を押し当てられた。
「お前の中で、俺の印象ずいぶん変わっただろ」
 意味がわからない。なぜ、いきなりそんなことを、こんなタイミングで言ってくる?
「俺も同じだよ。ますますお前のことが好きになった。絶対、手放したくない」
 ぶっ込みすぎやしないか。いっそ指を噛んでやろうか。
 西山がなぜか小さく笑った。楽しんでいるようにも呆れているようにも見える。どちらにしろ不愉快だ。
「悪い。でも、お前があんなに動揺するなんて思わなかったから。『相棒』のままのはずの俺にさ」
 まっすぐに、見下ろされる。
 見つめ返すことしか許されていないみたいに、身動きができない。
「……あのさ。もう、相棒ってだけじゃないだろ?」
 心の中に顕微鏡を埋め込まれた気分だった。隠れようとしてもすぐ発見されて、覗かれる。
 唇の表面をすす、と指が移動していく。
「言ってる意味、わかってるよな?」
 吐息が混じった声は、ただ柔らかいだけ。だからなのか、容赦なく脳内を支配していく。
 流されているだけじゃないかと思いたいのに、強引じゃないかと怒鳴りたいのに、できない。「こいつ」はいつの間に、ここにいたのだろう。いつの間に、心の奥で無視できないくらいに成長してしまっていたんだろう。
「今夜、答え聞かせてもらうから。逃がさないから、覚悟しとけ」
 契約終了を迎える明日まで逃げる、という選択肢はこの瞬間、むなしく砕け散った。

  + + + +

 有無を言わさず部屋に連れ込まれて、ソファーに座るよう命令された。隣に座る西山に手を固く握られているから、逃げ場はある意味封じられたようなものだ。
「言えよ、白石」
「……言えって、なにを」
 声以外、音は無いに等しい。それがこんなにも、鼓膜に痛い。
「なあ、いい加減にしろよ」
 無理やり手を引かれて、目線さえも捕らえられてしまう。
「もうお前の気持ちはわかってんだよ。お前だってわかってるはずだ、なのになんで言ってくれないんだよ……!」
 深く太く刻まれた眉間の皺と揺らめく瞳に心臓がきしむ。痛みを感じ始めた手より何倍も強い力をかけられているようで、吐き出す息が少し乱れる。 「……にし、やま」
 目の前の光景が信じられなかった。
 泣いている。両の頬をぎこちなく、一粒の雫が流れ落ちていくさまを、呆然と見届ける。
「く、そ。俺、こんな……ばかみたい、だ」
 ここまで弱り切った姿を見たことがない。這い上がれなくなる寸前に声を上げて休息するのが常だったはずなのに、今はその声すら出せない状態に陥っている。
 ……声を受け止める役目は、誰だった?
「……っしら、いし?」
 無意識に、自由な腕で目の前の身体を抱き留めていた。
 西山がぼろぼろな時すぐに癒やしてやりたいと誓っていた自分自身が、刃を振り回して、気づかないうちに傷を増やすだけの存在になり果てていた。
 自らの弱さが、西山にも伝染してしまった。
「やめろ……期待、させんな」
 謝罪の言葉は、身を捩る力と声の弱々しさに消えた。伝えるべきものはそもそも、別にある。
 震える息を一度吐き出す。西山はどんな反応をするだろう。もっと怒るかもしれないし、呆れて愛想をつかされるかもしれない。
 どうなろうとも、みっともない背中を見せ続けるのはいい加減終わりにしないといけない。
「……こわい、んだよ」
 あの時言葉にできなかった、臆病な部分を晒す。
「おれは、お前が本当に大事なんだ。お前と一緒にいる時の空気とか、いろいろ、本当に大事なんだよ。それが……恋人になって、変わるのが、怖い」
 出会ってから一緒に過ごしてきた時間は一番に相応しい宝物で、これからも形を変えず、宝箱にしまい続けていきたい。それが恋人になったことであらぬ変化が起きて、もし、すべてを失う未来に辿り着いてしまったら?
 タイムスリップしてやり直したくなるほど後悔するのは目に見えている。可能性はゼロではない。
「おれは、お前を失いたくないから……隣に、いてほしいから……。ごめん、子どもみたいだよな」
「そんなこと、ない」
 耳に届いた声には、いくらか気力が戻っていた。
「早く言ってくれよ、って思ったけど、言えないなって。その気持ちわかるから、余計に」
 背中に添えられた両手がゆっくりと上下する。
「俺も同じだったよ。お前を好きになった時は、苦しくて、怖かった。こんなのお前に言えるわけないから……ずっと、ぐるぐるしてた」
 確かに、一言で表すなら「不安定」だった時期があった。仕事中すら心ここにあらず、といった瞬間を何度か迎えているほどで、たまらず原因を話すよう訴えても、うまくはぐらかされてしまうばかりだった。
「でも、頭の中でいくら考えても無駄だったんだよ。お前が好きでたまらなくて……我慢なんて、できなかった」
 それが、多分、告白だったのだろう。
「……あのさ。恋人として過ごしてきて、お前が言うような変化、あったか?」
 よく思い出すのは笑顔。契約なんてなかったかのような雰囲気。
「俺は変わったって思ってない。本物の恋人になっても、お前は最高の相棒だよ。そこは絶対揺るがない」
 涙を流して、力なく座り込んでいた男はもういなかった。
「俺たちは、これからも変わらない。そこに恋人っていう肩書が増えるだけなんだよ」
 一ヶ月の恋人関係を提案された時は、とても信じられなかった言葉。
 でも、今はわかる。今まで築いてきた関係が足元からひっくり返るような変化はない。ほんの少しの変化は、悪い方の変化じゃない。
「……今日はお互い、泣き虫か」
 目元に柔らかい感触が触れる。じんわりと熱が広がっていく。

「俺は、白石が好きだ。どうしようもなく、好きだ」

 もう、心配することは何もない。ないんだ。
「……すき、だよ。おれも、お前のこと、好きだ」
 自分の意思で高く築き上げていた壁が音を立てて崩れていく。
 急激に流れ込んでくるのは西山への想い。恋情だけでなく、友情や仲間意識、さまざまな形を成している。
 背中に回した腕に力が込められていく。今まで普通だったのが不思議なほど、この男を求めてやまない。愛おしく思う気持ちに押しつぶされてしまいそう。
「しらいし、苦し……っ」
「どうしよう……おれ、お前のことすげー好きすぎて、苦しいよ……」
 西山のことを散々振り回した罰が下ったのかもしれない。
 言葉で伝えるだけでは、こうして抱きしめ合っているだけでは、満たされない。腹の奥で熱の塊がぐるぐる渦を巻いている。
「お前、なんて顔してんだよ……」
 向かい合った先の西山は苦笑するように口元を歪めた。頬を撫でる手つきはとても優しいのに、どこか焦れったい。
 自然と、身体が動いていた。
「……っし、ら……!」
 かちりと固い音が鳴って、前歯に一瞬痛みが走る。恥ずかしさがもたげかけるも、求める感情にあっさり上書きされた。
「ふ、ぅ……ん……っ」
 口端から唾液が溢れるほどに舌を絡ませて、背中を寒気に似た感触が走り抜けても興奮は収まるどころか、さらに加速していく。
 もっと抱きしめて。
 もっとキスをして。
 もっと、触って。
 離れていく唇を追いかけて、西山の指に止められる。
「……お前のこと、抱きたい」
 静かな口調とは真逆の瞳がふたつ、隠す気のない欲の縄でがんじがらめに縛り付けている。身動きひとつ許さないと言外に警告している。
 ためらいなく、全身を西山に押し付けた。愛欲の最も集まる箇所が太股を擦り、覚えのある硬度にむしろ煽られる。
「おれも……お前が、ほしい」
 早く、満たして。

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