【1話】夜の太陽はさかさまで輝く

「それ」を捉えたのは、本当に偶然だった。
 予報にない雨に降られて、傘代も惜しいとパーカーのフードを被りながら足早にアパートへ向かっている時だった。
 視界の端に黒い塊のようなものを捉えた気がして、思わず足を止めた。
 シャッターの下りた空き店舗が二つあり、その間を仕切るように伸びた道幅の狭い道に、自転車が数台乱雑に置かれている。そこに黒い塊が転がっていた。
 近寄って、ぞっとした。うつ伏せに倒れた男だったからだ。
「おい……おい!」
 抱き起こして頬を叩いたり、軽く揺さぶってみるも反応はない。街灯にうっすら照らされた顔に血の気がないのも手伝って、心臓がいやな音を立て始める。
 バイト先から自宅までは、徒歩と電車の時間を合わせて一時間ほどの距離がある。雨はこの駅に到着まで残り二駅のところで、降り出していた。
 どれだけの時間倒れていたのかはわからないが、今日は梅雨が近いわりに気温が低い。体感温度は寒く感じているはずだ。
 おそるおそる胸元に耳を当てて心音を探ると、はっきり打ち返してくる感触があった。よかった、最悪の事態だけは免れた。
「とにかく病院に連れてかないとだな……」
 隣駅の方が近いが、電車で移動するわけにはいかない。タクシーを呼ぶしかないだろう。
「……らない……」
 スマートフォンを取り出しかけた手が、止まる。
 意識を失っているはずの男の声が聞こえた気がした。腕に感じる弱々しい感触は、彼が掴んでいるのか。
「びょうい、ん……いらない……」
 念のため呼びかけてみると、うわ言のような声が漏れていた。伝わるかわからないが、一応答える。
「だめだ! あんた、そのままだと死ぬぞ」
「しにたい、しなせて……おれは、しにたい……」
 まさか、自殺願望者なのか?
 気にはなったが、謎を解いている暇はない。かまわずタクシーを手配しようとして……やめる。
 うわ言のようでありながら同じ言葉を繰り返している男の本気を、示されている気がしたのだ。
『お前って、よくお人好しって言われない?』
 バイト先で仲のいい先輩に以前言われた言葉を思い出して、つい短い溜め息がこぼれる。
 これもきっと、何かの縁なんだろう。そう思い込みながら、先ほどとは違う理由でタクシーを呼び出した。

  + + + +

「気がついたか?」
 夕方に差し掛かる頃、閉じっぱなしだった彼の目がゆっくりと開いた。
「覚えてるか? あんた、熱出して倒れてたんだ。二日も寝たまんまだったぞ」
 アパートに着いて早々衣類をすべて取り替えている時、四十度近い熱を出していることに気づいた。意識が全く戻らない上に熱も併発しているとなれば、つきっきりで看病するしかない。
 朝夕で掛け持ちしているバイトは、仕方なく休みにするしかなかった。
「……あの世って、やっぱりしんどいんだな」
 かすれてはいるが、心地のいいトーンの声だった。寝ぼけているのか、内容は全く理解できない。
「ここはあの世じゃない。オレの部屋だ」
 とりあえず何か飲ませるのが先だろう。冷蔵庫にあるスポーツドリンクを取りに向かう。
 男は周りを観察するように、首を緩く左右に動かしていた。その目がこちらの姿を捉えた瞬間、痩けた頬をわずかにこわばらせる。
「誰、だ?」
守田高史もりたたかしだよ。ここの家主。倒れてるあんたを介抱した」
 簡素にまとめると、目を大きく見開いた男はいきなり上半身を起こした。
「おい、いきなり動くな!」
「何で……俺を助けた」
 布団を握りしめた男は、また意味不明の言葉を口走った。
「あんなとこで倒れてるやつを見捨てられるほど、オレは非道じゃない」
「それで、構わなかったんだ! 俺は、俺は……っ」
 咳き込んだ男の背中を撫でながらペットボトルを渡すが、乱雑に押し戻されてしまう。
「世話に、なった」
 立ち上がろうとする男を無理に止める必要はなかった。飲み食いせずに寝ているだけだった人間が、急に動けるわけもない。
「いいから、馬鹿なことを言ってないで寝てろ」
 拒否したかったらしいが、身体が言うことを聞かないのだろう。再度渡したペットボトルをしぶしぶ受け取ったのを確認してから、台所に向かう。
 結局、男は作った粥も食べると再び眠りに落ちた。

  + + + +

 バイトに向かうはずだった足は、最寄り駅に着く寸前にアパートへと引き返していた。


 次の日になり、何とか少し動ける状態にまで回復した男は、それでも念のためバイトを休もうとしていたのを止めた。
『もう三日も休んでるんだろ? 俺なら、ちょっと食欲も出てきたし、動こうと思えば動けるから。大丈夫』
 やけに強く訴える声に拒否しきれず、従ったのだが――。

 あの日と同じようないやな予感が、ふいに頭の中を支配したのだ。
 病院は行きたくないと訴えていた声。あの世という言葉と、見捨ててもかまわないと言い切った声。
 ――予想、当たってないでくれ。間に合え。早く、早く。
 玄関の取っ手を回すと掛けていなかったはずの鍵が掛かっている。すうっと全身が冷えるような感覚が走ったが、すぐさまジーンズのポケットに手を突っ込んだ。
 部屋の中に、男の姿がない。慌てて辺りを見回して、浴室の扉が開いていることに気づいた。
「何を、やってるんだ……!」
 浴槽の上に広がる、薄い赤。縁に上半身を預けて、薄い赤の中に浸された片腕からは、赤の元が……。
 慌てて腕を引き抜き、引っ張り出したタオルで傷口を塞いだ。ぐったりとした身体を抱いて居間に戻る。
「なんで、戻ってきた……」
「あんたがこういうことやってないかって思ったから。戻ってきて、本当によかった」
 救急箱から取り出したガーゼを数枚押し当て、包帯でしっかり巻く。一時期、建築現場のバイトをやっていた時によく怪我の処置をしていた経験が、こんな形で役に立つとは。
「どうして、そんなに死にたいんだ?」
 今までは、敢えて口に出さなかった。でも、もう見て見ぬふりはできない。
「君には、関係ない」
 視線を合わせず、弱々しくもはっきりと拒否される。
「関係なくないだろ。オレはあんたを介抱したし、今こうして助けてもいる」
「……俺は死にたいんだ!」
 弱っている身体に不釣り合いの力で、手を振り払われた。
「遊びじゃない、本気なんだ! もう、俺は……逃げたいんだ」
 言葉尻が不安定に揺れていた。決して目を合わせようとせず視界を遮断する姿は、嘘がばれたくない子供を思わせた。
「逃げたい」――それよりも真実に近い気持ちが、男の胸の中に隠されているのだろう。
 自分は「止めてほしい」と解釈した。でなければ、わざわざ人の家でなんてやらない。無理やりにでも外に出て、誰の目にもつかない場所で死を選ぶはずだ。
「巻き込んで、本当にすまななかった」
 ふらふらと立ち上がる彼の腕を掴んで止めても、身体は玄関へ向かおうと抗う。
「金なら、そこにある俺の鞄の中にあるから好きにもらってくれ。世話してもらった礼だ」
「待てって」
「離してくれ。……頼むから」
 本人が話さない限り、死にたがっている理由はわからない。
 だからといって、黙って見過ごせるほど冷淡なつもりはなかった。たとえ、彼にとって不本意であったとしても。
「離さない」
「……なんだと」
「あんたが自殺をやめるまで、俺が監視する」
 今度こそ、彼はこちらを振り向いた。初めて真正面から見たが、憔悴しきっていてもすっきりとした顔立ちだとわかる。
「仕事、あるんじゃないのか」
「幸い、いい人たちばっかりなんでね。今日も急に休んだけど、特に咎められなかった」
 無茶苦茶だ。彼は力なくそうつぶやいた。
 同意見だが、それ以上に放っておけない気持ちが強いのだから、仕方ない。

  + + + +

「本当にずっと家にいるとは思わなかった……」
「ネットって便利だしな」
 軽い皮肉を返すと、彼は唇を噛んでそっぽを向いた。そのまま宅配のチャーハンを荒く口に運んでいく。
 監視を始めて、初日こそ彼――朔俊哉さくしゅんやは捨て猫のような警戒心をあらわにしていたが、三日も過ぎる頃には薄まり、というよりも諦めかけているようだった。
「いつまでこの監視生活を続けるつもりだ?」
「朔さんの口から自殺しない、って宣言がない限りはこのまんまだ」
 バイト先には、「家に来た親が体調を崩してしまった」と苦しい嘘をついて休みをもらっていた。普段から信頼関係を築いておいて本当によかったとつくづく思うし、いい人たちばかりで感謝しかない。
 それでも、バイトだけの収入で生活している身としては正直、限界は近い。
「面倒しかかけてない赤の他人に、何でここまでできるんだ?」
 見返した朔の顔には、本当に謎で仕方ないとでかでか表記されていた。若干警戒の色が見えるのは、裏があるのではないかと勘ぐっている証だろうか。
 確かに、何の見返りもなしにここまでする人間はそうそういない。疑われて当然だ。
 箸をラーメンの丼に置いて、まっすぐに朔を見返す。
「放っておけなかったから」
「……それだけ?」
「ああ。死にたい、自殺したいって繰り返すあんたを、放っておけなかった」
「目の前で死なれたら迷惑だから?」
「それもちょっとあるよ。でも、それ以上にただ、あんたを放っておけなかったんだ。あと」
「何だ、まだあるんじゃないか」
「本当は助けてほしいんじゃないかって、思ったから」
 下手に誤魔化すのも嘘をつくのも得意ではない。むしろ包み隠さず、心の中を開放するべきだと判断した。
 邪な気持ちはひとつもない。あるのはただ、放っておけない、助けたいという想いだけ。
 朔は虚をつかれたように目を見開いて、俯き、それから……小さく、笑った。
 まるでずっと蕾だった花が開いたようだった。しかし、今にも枯れ落ちてしまいそうに儚い。
「放っておけないって、俺は子供か」
「あんなに駄々をこねてたら、子供と変わらない」
「子供か、そうか……そう、かもな」
 笑いを収めた朔は、改めてこちらを見つめた。うまく言えないが、背負っていた荷物をひとつだけ捨てて少しすっきりしたような顔をしていた。
「わかったよ。俺の負けだ」
 その言葉を本当に信じていいのだろうか。じっと見つめていると、呆れた笑いを返された。
「どうやっても君に止められちゃうし。自殺はできないって運命なんだろうね」
 それでも、心配は拭えない。目の前からいなくなり、忘れた頃にひっそり命を絶つんじゃないかと物騒な想像をしてしまう。
「明日、出ていくよ。迷惑かけて本当にすまなかった」
「家、どこにあるんだ?」
 何を言っているんだろう。朔もそう思ったようで、わずかに目を瞠った。
「……家はないよ。これから探そうかなって」
 意外な返答だった。朔の着ていた服はくたびれた様子がなく、ホームレスのイメージとは全く結びつかなかった。
「なら、しばらくここにいればいい」
 一番いやだったのは、この人の事情も知らないまま他人に戻ってしまうこと。
 きっと、お人好しを募らせすぎている。朔にも、いい加減迷惑に思われても仕方ない。実際、戸惑った視線を思いきり投げられている。
「さすがに、そこまでしてもらう義理はないよ」
「いいんだ。言っただろ、放っておけないって」
 だんだん恥ずかしくなってきた。まるで、想い人を必死に引き止めているかのようだ。
「頼むから。オレの目の届くところにいてくれ」
 とっさに顔を逸らした朔の頬は、薄く染まっていた。
「……そこまで言われたら、仕方ないな」

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