【4話】夜の太陽はさかさまで輝く

 朝も夜も、アルバイト先で「最近変わったな」と口々に言われるようになった。異性の同期いわく、表情が柔和になったらしい。恋をしていると図星まで指されてしまった。
 朔は再びあの部屋で見送り、出迎えてくれるようになった。
 たったふたつ違うのは、バイトが休みの時は、買い物以外の用事でも誘ってくれるようになったこと。デートかと一度は浮かれたが、なけなしの明るさを寄せ集め、表面に乱雑に貼り付けただけのような笑顔を向けてくるたびに締め付けられる思いだった。

 何かを吹っ切りたい。あるいは忘れたい。

 それは明らかに、未だベールに包まれたままの過去だろう。
 物言いたげな視線を投げてくることが増えたのも、吐き出したいという心の訴え「なのかもしれない」。
 しょせんは想像に過ぎない。
 自分の役目は、朔自ら強く望み、動いた瞬間に手を差し伸べてどんなものも受け止める体勢を取るだけ。
「過去はどうでもいいから隣りにいてほしい」という願いは、変わらないかたちで脳裏に刻まれている。

  * * * *

「どうして、何も訊かないんだ?」
 あの日のように、分担して夕飯の準備を進めていた時だった。
 お玉をぐるぐると動かす自分を黙って見つめていたかと思えば、互いの間で漂っていた言葉をぶつけてきた。
「……何をっすか?」
 敢えてとぼけてみせる。訊かれたくないから、ではもちろんない。
「俺の過去だよ」
 コンロの火を消して、鍋に蓋をかぶせた。
「無理に聞きたくないって、思ってるだけです」
 朔としては意外だったのだろうか。目を軽く見開いている。
「……気にならないって言ったら嘘になりますけど。でも、朔さんがいやなら無理に聞かない。朔さんが、ただここにいてくれれば、それでいい」
 はっきりと、朔の顔に朱が走った。
 この人は、口ではあれこれ言いつつも素直な反応をしてくれる。それが本当に可愛くて、手を伸ばさずにはいられなくなる。抱き寄せて、唇に触れて、そのまま布団になだれ込んで……。
 ……最近、誓いはちゃんと守れているのに詳細な妄想を浮かべることが増えてきてしまった。口では立派なことを言っていてもしょせんは男なのだと、少し落ち込む。
「そんなに、俺に入れ込んじゃって。さ」
 視線を逸らした朔は、歪んだ笑顔を浮かべていた。苦いと感じているのか、それ以外の感情か。
「俺が、もし人を殺したことがあるって言ったらどうする?」
 完全にこちらを振り向いた朔は、悪役を演じようとして失敗した顔をしていた。眉間に深い皺が刻まれていることに、きっと気づいていない。
「あなたは、そういうことができる人じゃないです」
 だから、きっぱりと否定してやった。
「たった二ヶ月程度一緒にいただけで、そうやって言い切れるんだ?」
「人を殺してるなら、うなされて縋ってくる真似なんてしない」
 信じられない。朔の目はそう告げていた。
 少し迷ったあとに、包み込むように抱き寄せる。耳に刺さる抗議を無視して、露わになっている首筋に唇を当てた。
「な、にして……!」
「何があっても、あなたを信じるという証です」
 首筋を押さえて全く迫力のない目で睨みつけてくる朔に、平静を装いながら返す。
「何を言われても、あなたを嫌いにはならない。あなたを、信じます」
 あなたが好きだから。
 中身はきっと繊細なあなたを、これからも守っていきたい。
 今にもこぼれ落ちてしまいそうなほどに、朔の目が見開かれた。
「……メシの準備、再開しましょうか」
 わかりやすい狼狽を続ける姿にまた可愛さを覚えて、苦笑で隠しながら台所に向き直った。

  + + + +

 だが、その日の夜にまさかの反撃を受けた。
「一緒に、寝てもいい?」
 いつもは人半分ほどの隙間を作って布団を並べているのだが、朔は当然のようにこちらへとやってきた。枕もしっかり握られている。
「なに、その顔?」
 驚く以外に何ができよう。確かに一緒の布団で眠る妄想もしたことがある。あるが突然目の前に降って湧かれても、舞い上がるというより戸惑うらしい。
「いっ、いえ。ちょっと、妄想が形になったのにびっくりして」
 うっかり本音を漏らしてしまったが、朔は苦笑しただけで半ば強引に隣へ滑り込んできた。
「……真面目な人ほど実はむっつりって言うけど、本当なんだ」
 想い人のぬくもりが、すぐ近くにある。吐息までもが聞こえる距離は、想像以上の緊張を生み出すらしい。そういえば、好きな人とこんなことをするのは初めてだ。
「……さっき、ありがとう」
 身体の向きをどうするか真剣に悩んでいたところに、静かな声が薄闇に溶けた。
「普通なら信じられるかって思うのに、守田くんのは不思議と信じられたんだ」
 気持ちが、伝わっていた。「信じてもらえた」だけでも心は踊り出す勢いで、単純と呆れつつも堪えられない。
「そうだ、谷川とも知り合いになってたんだね。さっき、久しぶりにスマホの電源入れて連絡したら、いろいろ教えてくれたよ」
 谷川とコンタクトを取っていたことを、敢えて朔には伝えていなかった。いずれは事情が伝わるだろうから――というのは単なる建前で、勝手に秘められた過去に触れようとしていた罪悪感から逃れたかっただけなのかもしれない。
「言ったんですか? その、自殺のこととか」
「元気だから心配すんなってだけ。アイツ、今時珍しいかもってくらい友達思いだから、素直に白状したら絶対すっ飛んできちゃうよ」
 声が微妙に上ずっていた。きっとすべてを白状するには、まだ時間が必要だろう。事情は知らなくとも、何となくわかる。
 谷川から来ていたメールを思い返して、内心で頭を下げる。
「……でももう、逃げてたら……」
 続けられたつぶやきに、思わず訊き返そうとした時だった。
「っ朔、さん」
 左腕に暖かな感触が回る。別の生き物のものみたいで、どう落ち着かせればいいのかわからなくなる。左と右で、汗のかき方が全然違う。
「……緊張しすぎじゃない?」
「だ、だって、そりゃあ当たり前っすよ」
「さっきキスマークつけたくせに?」
「もう、勘弁してください……!」
 これ以上煽られたら我慢が効かなくなる。暴走して、引かれたくないんだ。本気の恋なんだ。
「別に、俺は構わないよ?」
 さらに、左腕を引き寄せられた。
 妙に気だるいような、ねっとりとした空気が生まれて、身体にまとわりつく。
 緩慢な動きで、隣を向いた。
 まっすぐな視線が自分に絡みついて、離さない。
 薄く開いた唇が、軽く上下する。舌を忍ばせた蛇のように、さそう。
「っ、ん……」
 身体を起こして、ふわりと唇に触れて、軽く吸い上げた。そのまま下唇を食んで、離す。
「もっと、しないのか?」
 ちらりと覗いた舌と胸元をかすめる感触に、意識が吸い込まれそうになる。だめだ、まだ相手の気持ちをちゃんと聞いていない。
「朔さんがオレと同じ気持ちだったら、続き、します」
 振り切るように背中を向けた。うるさく脈打つ心臓を落ち着かせたくて、視界をシャットアウトする。
「……ほんと、守田くんって真面目」
 言葉とは裏腹に、声にはうっすらと歓喜がにじんでいた。堪えきれなかったというように、小さな笑いまで聞こえる。
「でも、そういう君だから、俺も意地張ったりしないでいられるんだろうな」
 背中に触れたあたたかさとお礼の五文字が、全身にじんわりと染み渡って目元から流れそうになる。
 やがて、規則正しい呼吸が聞こえ始めた。
 この人が心休まる時間を、初めて共有できた瞬間だった。

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