【5話】夜の太陽はさかさまで輝く

 就職活動以来袖を通していなかったリクルートスーツは、少しきつくなっているように感じた。
 朔は「服装なんて気にしなくていい」と言っていたが、ラフな服装で、朔の知り合いの墓石の前に立つのは気が引けた。

「明日って、バイト休みだったりする?」
 梅雨もそろそろ明けるか明けないかといった時期にさしかかった頃だった。
 夕食中に、改まった表情で朔が切り出した。
 大事な用事が控えているに違いない。なら、答えは決まっている。
「午後にバイトありますけど、休みます」
「……いいのか?」
 迷いなく頷くと、朔は苦笑をこぼした。一体何を言うつもりなんだろう。
「それなら……明日、一緒に来てもらいたいところがあるんだ」
 訊き返すと、苦笑は苦痛にゆがんだ。箸を握る手が細かく震えている。
「知り合いの、墓参りに付き合ってほしいんだ」

  * * * *

 電車をいくつか乗り継いで、郊外の駅からタクシーで町外れまで移動する。墓は小高い丘の上にひっそりと存在しているようだった。
 霊園の半ばまで進んだ朔の足がある墓石の前で止まり、スローモーションがかかったように振り向く。しばらく見つめたあとに、手にしていた花束を花立に飾り出した。
 墓石には「仲野家」と名前が彫られている。
「ご友人とか、ですか?」
 家を出てから、初めて朔に話しかけた。
 ずっと悲痛な面持ちを貼りつけている彼は、とても会話できるような状態ではなかった。
「……谷川に、この場所調べてもらったんだ。もう少し落ち着いたら、あいつにもちゃんと事情話さないと」
 線香の煙が、鉛色まで昇りつめたところで消える。手を合わせる朔に少し迷って、倣うことにした。
 脳裏に、新聞の切り抜き記事が蘇る。やっぱり、目の前の墓石に眠っているのは……。
「勤めてた会社で、知り合った男だった」
 やがて、何の感情も読み取れない声が吐き出された。
「自殺したんだ。住んでたマンションで、首を吊ったって」
 ひゅっと、短く息を吸う音が聞こえる。朔の眉間に深い皺が刻まれていた。自らを抱きしめ崩れ落ちかける身体を慌てて受け止める。
「大丈夫ですか? ゆっくり、息を吐いて」
 朔の身体の震えが少しでも落ち着くようにと、優しく背中をさする。
 腕に触れた手は、驚くほど弱々しかった。
「ごめん、ありがとう。冷静にって思ってたんだけど……ほんと、弱いなぁ」
「……あの、別にオレ、いいですよ。あの時言ったこと、嘘じゃないです」
「聞いてほしいんだ。君に」
 一瞬で、肌に食い込むほどの力が込められた。
 再び向けられた双眸の奥に、小さいながらも意志の強い光が見える。
 拒む権利は、最初から存在していなかったのだ。

  + + + +

「同期だったんだ、あいつは。新卒で入社した頃から馬が合って、気づいたら……好きになってた」
 霊園の近くにある休憩所に移動する。白を基調とした内装は、今の気分にはどこかまぶしく映る。
「でも、俺はずっと隠しておくつもりだった。一番の友人だって言ってくれたあいつの気持ちを裏切りたくなかったし、付き合ってる彼女もいたしな」
 膝の上に置いた拳が震えていることに気づいた。そっと手のひらを重ねると、消え入りそうな微笑が返ってきた。
「そのうちあいつがその彼女と結婚して、俺も少しずつ気持ちの整理をつけてた。……でも」
 数ヶ月して、その友人が少しずつおかしくなっていった。
 妙にやつれているのに何でもないと過度な笑顔で誤魔化して、けれど朔は強気に出れなかった。無理に突っ込めば、あっけなく壊れてしまいそうな気がして怖かったという。
「……ある夜に、あいつが突然やってきてさ。何を、言ってきたと思う?」
 ――抱かせろ。
 手に持っていた缶を握りつぶしそうになった。何だ、その残酷な願いは。
 前髪をかき上げて、無理に朔は笑い飛ばそうとした。飛ばそうとして、震えた吐息だけがこぼれる。
「俺の気持ちにうっすらと気づいてたけど、好きな人がいたし、敢えて触れなかったんだって。それは別にいいんだ。でも……そんなの、できるわけない。できるわけ、なかったのに」
「……言われた通りに、したんですか」
 今にも死ににいくような様相だった。抱かせてくれなければ死んでやると、包丁を自らに向けて脅されもした。明らかに本気だった。
 朔は力なくそう続けた。過去のことだ、仕方のないことだったと納得しようとしても、腹の底が熱くてたまらない。
「それからあいつは、家でも、ひどい時は会社でも、俺を抱いたよ。……半年くらい、そんな関係が続いたかな」
 頭の中で、顔も知らない相手が朔をあられもない姿にしていく。いいように弄んで、けれど朔は従順に甘い声を響かせて、媚薬を浴びた後のように求め続ける。
「……どうして、」
「拒まなかったんだって? ……俺も、どっかおかしくなってたんだろうな。ずっと好きだったわけだし、あんな形でも相手と結ばれたんだって、ばかみたいな勘違いをしてたんだよ」
 逃げないと誓っておきながら、耳を塞ぎたい衝動に駆られて仕方ない。
 相手も正常な判断ができていなかったせいだと、精神的に追い詰められていたのだと想像はできても、納得なんてできない。
「でも、俺も我慢できなくなって……会社をやめて、住んでたマンションも引き払ったんだ」
 そのまま朔は、足取りを掴まれないようスマートフォンを契約し直し、転々とその日暮らしを続けながら次の住まいを探していた。
 谷川に連絡を入れようと思ったのは、たまたまらしい。そうしたらまるで狙ったように……彼が数日前に自殺したことを、教えてもらった。
「あいつの住んでた地元の新聞片っ端から見たら……ほんとに、載ってた」
 両手で顔を覆う。肩を抱き寄せながら、改めて記事に書かれていた内容を思い出していた。「よく怒鳴り合う声が聞こえていた」という近所の証言もあったことから、最初は妻の計画的殺人ではないかと疑ってもいたらしい。
「……それで、自分のせいだって、思っていたんですね」
「夢を、見るようになったんだよ」
 うなされていた姿を、解放してくれ、縛られたくないと訴えていた声を、思い出す。
「俺が死んだのはお前のせいだって、お前が逃げ場を壊したから死ぬ羽目になったんだって、ガリガリにやせ細ったあいつが延々と訴えてくるんだ。縋りついて、泣きながら……訴えて」
 たまらず、震える身体を腕に抱きしめた。
 濡れた感触が肩口に走る。もっと濡らしてほしくて頭をぐっと引き寄せると、はっきりとした嗚咽が聞こえ始めた。
「もう、自分を追い込むのはなしにしましょう」
 これ以上、無駄に自らを傷つける行為は繰り返させない。
「で、も……助け、られたかも、しれないって思ったら……」
 この人は本当に優しすぎる。他人を優先しすぎる。いくら仲がよくても、逃げ出したくなるほどに心身を傷つけられたなら恨んで当然なのに、後悔に苛まれ、悪夢から抜け出せないでいる。
「だからって朔さんが自殺しても、誰も、報われません」
 それだけははっきりと言える。きっとあの世で、互いに悔いるだけだ。
「オレと一緒に、これからの日々を生きてください。お願いします」
 朔にとって、その人がどれだけ大切だったのかは知る由もない。冷徹かもしれないが、知る必要もないと思っている。
 自分にできるのは、朔に癒やしの手を差し伸べて、生きる力を取り戻す手伝いをすること。一途に愛を注ぐことだ。
 見返りなんて望まない。朔が心からの笑顔を浮かべて、ここにいてくれるだけでかまわない。
「プロポーズ、かよ……」
 普段の調子に近い軽口が嬉しかった。つい緩んでしまった口元はそのままに、肯定する。
「……すっ飛ばしすぎだぞ。高史」
「すみません。……俊哉さん」
 今度は、突き飛ばされなかった。


 時間を少しだけもらって、改めて俊哉の想い人だった人の墓石に向かう。
「あなたにも、何か事情があったんでしょう。部外者なのもわかってます。……でも、同情はしません」
 図々しいと思われても、不謹慎だと思われてもいい。
 俊哉の隣に立つことを許されたのは、守田高史である自分だ。ゆえに、きっぱりと宣言しておかなければならない。
「二度と、あなたの元へは行かせません。あの人は、ずっとオレが守っていきます」
 いつの間にか握りしめていた拳を、ひと指、ひと指、ほどいていく。
 俊哉に誓った言葉が曇らないように、共に前を向き続けられるように、抱いた「仲野さん」への感情はすべて置いていこう。
 目を閉じて深呼吸をひとつしてから、俊哉の待つ元へ向かう。
 休憩所の前で立っていた俊哉は、泣きそうな笑顔で出迎えてくれた。

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