【後日談】夜の太陽はさかさまで輝く

 年の瀬も迫り、寒さも堪える中、地元の街中はどこか浮き足だっている。電灯の装飾が増え、特別セールや限定品の看板やポスターが目立つ。
(もうすぐクリスマスだな……)  広場に飾られた、背丈より二倍以上はある煌びやかなツリーをぼんやり見上げる。
 心から愛し合える人と迎える、初めてのクリスマス。
 少しくらい浮かれてもいいはずのその場所は、重力をかけられたように沈んでいた。

  * * * *

 本当に彼は優しい。
 あの人を「恋人」という括りに入れるなら、比べるまでもないくらいにいつも寄り添ってくれる。やさしく包み込んでくれる。
 だから、少しでも助けになりたい。与えてくれたものを返したい。
 その第一歩は働くこと。
 彼の勧めで病院通いを始めて、担当医にもフルタイムでなければ、と許可ももらった。
『本当にいいんですか? オレは大丈夫ですよ?』
 やっぱり心配してきた声も、勤務場所が彼の勤める弁当屋の近くであること、何かあればすぐに連絡すると伝えてどうにか納得させた。
 以前伝えた言葉――彼に自由な時間をあげたい思いは今も変わらない形で胸の中にあるし、二人一緒に暮らしているという現実を、改めて実感できることが嬉しかった。
 なのに、今は不安がつきまとう。
 考え過ぎだと思いたい。それを彼は容赦なく振り払ってしまうのだ。


「その」瞬間を迎えるまで、何度スマホを確認したかわからない。
 玄関の鍵が開く音を聞いた瞬間に立ち上がった。壁の時計を確認すると夜の十時半を過ぎている。
 ドアが開かれ、恋人が現れる。ようやく、まともに呼吸ができた気分だった。
「高史、お帰り。今日ってもしかして遅番だった?」
 全身に気だるさを纏った高史は、どこか不思議そうにこちらを見つめている。
「……あれ、オレ、連絡してなかったですっけ」
 首を振ると、高史は慌ててポケットからスマホを取り出した。親指を何度か上下してから、小さな悲鳴を上げる。
「すんません、連絡し忘れてました……!」
 出勤中、バイト先から「一人欠勤になってしまったから遅番に変更できないか」と打診が来たらしい。この時期は夜の方が多忙のようだから、一人抜けられるのは相当厳しいのだろう。
「何回か連絡入れたんだけどね。ほんと忙しかったんだな?」
「そ、そうなんです。休憩時間も短かったですし」
 ほんの少しだけ視線が逸れていた。普段ならおそらく気に留めない変化だが、今は違う。
 改めてこちらに向き直った高史はきれいに頭を下げた。
「心配かけてしまって、本当にごめんなさい」
「忙しかったんだし仕方ないよ。ほらほら、リュック置いてきなって。メシと風呂、どっちにする?」
「……はい。先に風呂入ってきますね。すぐ出てきます」
 脱衣所に続くドアが閉められると、思わず震えた息がこぼれた。居間にあるテーブルの前にぼんやりと座る。
 高史がこういった大事な連絡を忘れるのはとても珍しいことだった。多忙、というのは彼の中では「よほどの事情」には入らない。基本真面目な性格だからなおさら。
 だからこそ、忘れた理由を変に勘ぐってしまう。そう、例えば――。
 脱衣所から響く音で、思考が強制的に断ち切られた。慌ててテーブルに並べた夕飯を温め直す。考えまいとしたくても、気を抜けばすぐに囚われてしまう。
 高史の支度が整ったところで、自分にとっては二度目の夕飯が始まった。高史用に用意した缶ビールの残りと軽いつまみを嗜みつつ、こっそり隣の恋人を観察する。
 小さな違和感以外は、やっぱりいつもと変わらない。
「俊哉さん? どうかしました?」
 高史と目が合ったことに驚いてしまった。いつの間にやら堂々と眺めていたのか。とっさに思いついた話題をすかさず投げる。
「いや、あそこの弁当屋ってほんと人気あるんだなーって思ってた。わからないでもないけどね」
「結構来てくれてますもんね。味、お気に入りですか?」
 そういう質問を恋人にしてしまうのが、高史の天然で可愛いところだとつくづく感じる。堪えきれずに小さく吹き出すと怪訝そうに見つめられた。
「まあ、ね。家庭の味って感じがちょうどいいのもあるよ。でも……」
 手を伸ばして、まだ濡れている高史の髪にそっと触れる。微量ながらも、アルコールのおかげで少し気分が上向いてきた。
「お前にも会えるからね。結構元気もらえるんだよ?」
 細めの目が見開かれ、見る間に頬が赤く染まった。視線があちこちさまよい始める。
「なに、どうかした?」
「俊哉さん、わかってて訊いてるでしょ」
「ええ? わからないなぁ」
「……メシ、続き食べます」
 微妙にむすっとしながら黙々と箸を進める姿はまるで子どもだった。敢えて頭を撫でてやると、眉間に少しずつ皺が増えていく。それでも振り払わないところに彼の優しさが表れているようだった。
 いつもと変わらない時間だった。
 紛れもない自身が違和感の原因だと責められてもおかしくないほどに、変わらなかった。

  * * * *

 違和感を覚えたのはいつからだったろう。
 多分、一ヶ月くらい前からだった。妙に難しい顔をして考え込んでいる素振りが妙に目について、気にかけるたびになんでもないと躱され、気づけばその素振りはなくなった。
 今思えば、解決したのではなく指摘されたから表に出さないよう努めていたのかもしれない。追求されるのが苦手な高史が取りそうな手段ではある。
 ――敏感になりすぎている自覚もある。だって、高史の気持ちは両手からあふれるくらいに受け取っているだろう? 同じ想いをきちんと返せているか、なんて贅沢な悩みを持ってしまうくらいなんだろう?
「朔さん?」
 急に名前を呼ばれて息をのむ。隣に座る、同じ仕事を担当している女性が心配そうにこちらを見つめていた。
「すみません春日さん、なにか用事でしたか」
「ううん、そうじゃないんだけど……顔色がよくないからどうかしたのかなって。具合悪い?」
 二人の子どもを育てているという彼女の訊き方は母親そのものだった。その優しさに申し訳なく思いながら緩く首を振る。
「大丈夫です。仕事中なのにぼーっとしちゃいました。すみません」
 春日はほっとしたように目元を緩めた。元々の柔らかい雰囲気が、さらに強まった気がした。
「それならよかったわ。ちょうどお昼だし、ゆっくり休んできて」
 パソコンの右下を確認すると、確かに午前の仕事が一段落する時間だった。彼女に礼を告げて、事務所の外に出る。いつもと比べて冷風が強いが、変に煮詰まった頭にはちょうどいい薬だ。
 足は自然と、高史が勤める弁当屋に向かっていた。自覚しても引き返す選択が浮かばないのは彼関係なく味が好きだから、本当においしいからだ。意味もなく言い訳を並べているわけではない。
「いらっしゃ……あ、俊哉さん。お疲れ様です」
 接客用とは違うとすぐにわかってしまう笑顔がくすぐったくて、今は少し苦い。
「いらっしゃいませ! 朔さん、いつもご来店ありがとうございます!」
 元気いっぱいの声もすっかり耳慣れた。高史と顔見知りだと彼女――胸のネームプレートには『高崎』という名前がある――に知られてから、ご近所さんの顔なじみという立場に変わった。
「今日のおすすめは、朔さんの好きなぶりの焼き魚が入った弁当ですよ!」
「え、僕言いましたっけ?」
 確かに間違いないが、彼女に話した覚えはない。
「守田君に聞いたんです。鰤、冬は特においしいですよね~」
「じゃあ、その弁当でお願いします」
「了解です。ちょっと待っててくださいね」
 高史がカウンターの奥に消えた。注文を受けてから弁当を詰める形式なのも気に入っている理由のひとつだったりする。
「今日はいつもより寒いですね! 家から出たら背中丸まっちゃいましたよ」
「わかります。僕もポケットから手出せませんでした」
「守田君はいつもと全然変わんなかったですけどね。寒いねって話したらそうですか? って返されて笑っちゃいましたよ」
 さっぱりとした笑顔からは一切嫌味を感じない。初対面の時から抱いている印象に変わりはない。
 うまく笑えているか自信がないのは、彼女を生理的に嫌悪しているわけではない。ないのだ。
「お待たせしました。味噌汁がついてるので気をつけてくださいね」
「えっ? 今日は頼んでないよ?」
「寒いのと、たくさん来てくれてるからおまけだって」
「わ、嬉しいな。ありがとうございます。ありがたくいただきます」
 店に背を向けてからわずかに振り返ると、高史と彼女はなにかしら会話を交わしていた。自分が確認する限りシフトの被る日が多いからか、すっかり打ち解けている。
 別に、仕事仲間と仲良くするなんてなんら珍しくなどない。男女関係ない。
『なるほど、初めてなんだ。それは悩むねー』
『そう、なんすよね。なんでも嬉しいって言ってくれると思うけど、それに甘えたくないって言うか』
『ああ、わかるわかる!』
 一週間くらい前だった。仕事で頼まれた買い出しを済ませた帰りに、見慣れた背中を見つけた。
 スマホを確認すると、勤務時間は過ぎていた。その日は夕方までと聞いていたから用事でも済ませているのだろう――そう予想した瞬間、隣に立つ彼女を見つけてしまった。
 たまたま出会っただけかもしれないと考えながらも、隠し事の件と相まって負け犬のように逃げることしかできなかった。二人の楽しそうな雰囲気が苦痛だった。
 こんな顔だから付き合った経験はないと、以前言っていたのを思い出す。
 ある程度人となりを知った今となっては、陰ながら好意を持っていた女性は絶対いたと断言できる。あの底抜けな優しさと懐の深さは、一度でも触れれば離れがたくなってしまうはずだ。享受したいはずだ。
 考えすぎなのは頭で理解している。元からして、彼女についても名前ぐらいしか知らないのに悪い想像を広げても意味がない。恋人がいる可能性だってあるじゃないか。
 強制的に思考を断ち切ったと同時に、午後の仕事も終わった。問題なくこなせた自信は全くないが、怒られていないから多分大丈夫なのだろう。
 事務所を後にした足は変にふわふわしていた。自宅に向かおうとしていることにだいぶ経ってから気づいて、立ち止まる。
(買い物、しなくちゃ)  きびすを返す。時間を見ると六時を過ぎていた。
 気分転換も兼ねて、少々値の張るおかずでも買っていこう。前に見かけてからいつか食べてみたかった物だ、ちょうどいい。
「……うそ」
 無意識に、声が出ていた。
 目的地のショッピングセンターから出てきた、一回り大きな身体。あの横顔、見間違えるわけがない。
 一人じゃなかった。目の前で壁となっていた人が去り、お団子のヘアスタイルが目に入った。見間違えであってほしかった。
 反射的に建物内へ逃げ込む。そうだ、ここにはおかずを買いに来た。ついでに夕飯の材料も買いに来た。献立はどうしよう。時間的にあまり手のかからないものにしようか。だめだ、頭が全然回らない。今どこを歩いているのかわからない。早く冷静さを取り戻さないと高史とまともに対峙できない。
 結局、帰宅して中身を確認するまでどの店でなにを買ったのかわからなかった。視界と脳内が完全に切り離されてしまっていた。
「……やだな。俺、高史のこと信じられなくなっちゃったのかな」
 思わずこぼれた独り言が胸元を深くえぐる。導き出したくなかった結論だった。
 今日は夕方までのシフトだが、残業があるかもしれないと言っていた。なら、「あれ」がそうだというのか。
(残業はあったのかもしれないけど……でも、だったら、なんですぐ帰ってこないんだよ?)  どんどん足元が沈んでいく。闇しか見えない場所へと引き込まれていく。残しているはずの信じる気持ちも塗り替えられてしまいそうになる。
「ただいま帰りました!」
 普段よりも大きな音が玄関から響いた。のろのろと顔を向けると、息を切らした恋人が懸命に呼吸を整えている。
「ちょっと、遅くなっちゃいました……あ、メシこれからですか?」
 そういえば、全然準備が進んでいなかった。さっきから時間感覚を失ったままだ。
「……うん。いろいろ、買い物してたら遅くなっちゃって」
 明らかに安堵している高史を訝しげに見つめると、意図を察したのか軽く頭を掻きながらもごもごと口元を動かした。
「いや、ここんとこ遅番ばっかで一緒に食えてなかったじゃないですか。朝から食いたいなって思ってたんです」
 なにも言葉が思いつかずじっと見つめ返してしまう。高史の顔が明らかに染まった。
「俊哉さんが作ってくれるメシ、すごく好きなんです。向こうにいた時からずっと」
 羞恥に耐えきれなくなったのか、逃げるように居間へ向かう。リュックを下ろしてから背中が大きく上下していた。相当堪えているらしい。
「っは、なに、それ……」
 そんな告白をするならどうして彼女と寄り道なんかしてたんだ。恋人同士という関係に甘えて馬鹿にしているんじゃないのか?
 それでもあからさまな言い訳と聞こえなかったのは、偽りない本音だとわかってしまうから。こぼれる吐息が震えているのは怒りだけのせいじゃない。単純すぎる自身に、いい加減呆れてしまう。
「し、俊哉さん?」
「お前って、ほんと可愛いな」
 きっと状況にふさわしくない表情をしている。高史の胸元に抱きついて誤魔化したが、こぼれた台詞は違う。常日頃感じていた印象だった。
「か、可愛いって」
「自覚ないとこも可愛い」
「……そんなこと言うの、俊哉さんくらいっす」
「そう? バイト先で言われたりしないの?」
「ないです。というか、そんなの俊哉さん以外に言われて、嬉しいわけ、ない」
 高史の愛情はいつだってわかりやすく真っ直ぐで、けれど小春日和のような柔らかさで包み込んでくれる。いつまでも身を預けていたくなる。
 なにかを隠しているのは明らかでも、伝わってくる想いはひとつも変わらない。
「……高史」
 ほら、唇を重ねても明らかじゃないか。戸惑いつつも伸ばした舌を迎え入れ、ゆっくり絡めてくれる。
 なにもかも変わらない。たったひとつを除いて。
 終わらない間違い探しでもしている気分だ。もどかしくて、苦くて、たまらない。
「……どうしたの?」
「いえ、珍しいこともあるなって」
「たまにはいいじゃない。俺だって……さみしかったんだから」
 訝しげな色を残しつつも、高史は一言謝りながら強く抱きしめてくれた。
 もう、ひとりでもがくのは潮時かもしれない。
 最悪な展開にだけはならない。高史は絶対大丈夫。すべてが明らかになる頃にはただの取り越し苦労だと笑い合っていられる。
「……あの、さ。高史」
 すっかり耳慣れたデフォルトの着信音が間近で聞こえた。腕の中の身体がもぞもぞと身じろいでいる。
「すみません、多分バイト先からです」
「あ、そ、そうだね」
 高史が隣の部屋に消えたのを確認してから、震える息をゆっくりと吐き出した。脈打ち過ぎな胸元が苦しくて痛い。
 ほっとしているのか、苦々しいのか、どのみち改めて話をする気力は残っていない。
 いっそのこと、高史が察して話を振ってくれればいいのに。話さないといけない状況にしてくれればいいのに。原因を作っているのは高史なのだから、きっかけを与えてほしい。
 ふと、出会った頃を思い出した。状況は違えども、あの時は逆の立場だった。
 高史も、その時が来たら話してくれるのだろうか。それすらもわからないから、ゆるく首を絞められているようで気持ちが悪い。
「……電話、やっぱバイトからでした」
 高史が戻ってきた。暗い顔をしながら、もともと休みを入れていた日に夜だけ出勤しないといけなくなってしまったと報告してくれた。
「今度の月曜って……ああ、クリスマスイブか」
「最初は断ったんですけど、どうしてもってお願いされちゃって。次の日は昼過ぎまでのシフトに変えてもらいましたけど」
 スマホを握りしめた高史はすっかり肩を落としてしまった。
「初めてのクリスマスだしね」
「……クリスマスはオレも俊哉さんも仕事だから、せめてイブはずっと一緒に過ごしたいって考えてたんですけど、うまくいかないもんっすね」
 付き合い始めてから、高史が記念日やイベント事を大事にしてくれるタイプだと知った。自分は今まで無縁だったのもあってそこまで執着する方ではないのだが、一緒に過ごすだけでも普段とは違う幸せを得られるのだと知った。
「クリスマスは閉店までバイトだったんだろ? それがなくなっただけでも嬉しくない?」
 落ち込んでいるのはこっちも同じなのに、輪をかけた姿を見ていると励ましてやらずにはいられない。なけなしの年上のプライドもたまには役立つらしい。
「俺も仕事が終わったらすぐ帰ってくるから。だからぱぱっと仕事片づけて、俺のこと待っててよ。それともどっかで待ち合わせしようか。高史の手料理を堪能するのもいいなぁ」
「……俊哉さんがおねだりなんて、珍しいですね」
「俺だって恋人の手料理好きなんだぞ。知らなかった?」
 高史の口元がようやく緩んだ。
 残るは、この気持ち悪さの解消だけ。必要なのは、ほんの少しの勇気だけ。
 クリスマスはもう目前に迫っている。

  * * * *

「それならもじもじしてないでさっさと訊いちゃえよ」
「簡単に言ってくれるよ」
「だって浮気してるとか、そういう雰囲気じゃないんだろ? その意見を信じるなら、多分たいした隠し事じゃないんだよ」
 クリスマスを二日後に控えた今日、久しぶりに谷川涼一((たにがわりょういち))と会った。用事で近くを寄るから、ついでに会えないかと連絡が来たのだ。そういえば引っ越してから初めて顔を合わせる。
 相談するつもりはなかった。けれど付き合いがそれなりに長く、目ざとい彼にはあっさり見抜かれてしまったというわけだ。
「涼一はどうする? 嫁さんが隠し事してるなーって思ったら」
「結構わかりやすい性格だっていうのもあるけど、訊いちゃうかな」
 予想通りの返答だった。涼一は基本、公私関係なくストレートだ。自分では頑張っても持てない部分だからときどき羨ましい。
 すっかり冷めたミルクティーの残りをあおり、ため息をこぼす。
「結構びびってる自分にびっくりしてるよ。今が本当に、大事すぎるんだ」
 過去とはまるで真逆の位置にあるこの環境が、時間が、ほんの少しの衝撃で崩れてしまうのではないかと怯えている自分が常にいる。
 信じていないのと同義だと言われても、反論はできない。
「そうやって一人で溜め込むとこ、全然変わらないな俊哉は」
 涼一は呆れているようだった。これも反論はできない。
「守田くんなら絶対大丈夫だよ。心配いらないさ」
 こちらを見つめる細い両目がどこか柔らかくなった。
「なんで、言い切れるんだよ」
「……今なら言ってもいっか。前に話しただろ? 守田くんに初めて会った時のこと。その時さ、俺に詳しい話を聞きたそうにしてたんだ。でも訊いてこなかった」
『無理に聞きたくないって、思ってるだけです。気にならないって言ったら嘘になりますけど。でも、朔さんがいやなら無理に聞かない。朔さんが、ただここにいてくれれば、それでいい』
 仲野洋輔との過去を訊かない理由を問いかけた時、高史は迷いなくそう答えた。
 知り合いでもない上に、面倒な事情を抱えている人間に対してかける言葉ではない。信じられないと同時に、初めて救われた気持ちになった。その後仕掛けたくだらない誘惑をはねのけた姿を見て、ますます惹き込まれた。
「それ見て、守田くんなら絶対俊哉のことをどうにかしてくれるって思った。結果は、お前が一番わかってるだろ?」
 わかっている。わかりすぎている。夢のような現実を生きている。
「だから俊哉を裏切るような真似は絶対しない。断言してもいい」
 無意識に頷いていた。目元が熱い。気を抜いたらその熱がこぼれ落ちてしまいそうで、必死に奥歯に力を込めた。
 やっぱり、高史は高史のままだったんだ。
「……あ、でも、待てよ」
 何かを思いついたらしい涼一は人差し指で頬を軽く叩き始めた。
「俊哉、やっぱ訊かない方がいいかも」
「な、なんだよその方向転換」
「ていうかお前こそ気づかないの? 鋭いくせに?」
 意味がわからない。わからないからこうして相談しているんじゃないか。
「あー、でも今までこういうのは無縁だったんだっけ。じゃあ仕方ないか……」
 一人で納得して完結しないでほしい。

  + + + +

 ようやく吹っ切れた気がする。
 いや、自棄になったという方が正しい。そうならないと今にも飲み込まんと押し寄せる負の波に負けてしまいそうだから。
「ただ……いま」
「やっと帰ってきたね」
 あと二時間で一日が終わる頃に、高史は帰ってきた。居間に向かおうとしていた足を止めて軽く振り返ると、どこかたどたどしい動きで靴を脱いでいた。家に充満する空気を敏感に感じ取ったらしい。
「そんな顔してどうしたの?」
 敢えて問いかけてみた。
「あの、顔が怖い、です」
 朝は普通だったのにどうして、とでも言いたげだが、隠し事をされている身からすれば白々しいというもの。
「とりあえず靴脱いで。で、ここに座る」
 指示通り、ベランダ側を背にして正座をした高史の向かいに腰を下ろす。少しだけ気分が落ち着いた。そう、冷静にならなければ話はできない。
 内心で我慢できなかったことを涼一に詫びながら、わずかに震える唇を持ち上げる。
「仕事お疲れ様。大変だったでしょ」
「は、はい。クリスマス仕様の弁当がとにかく人気で、客が多かったと思います」
「休憩する暇もなかった?」
「え、いや、ちゃんともらえました」
「じゃあ、その時に出かけてたんだな」
 高史の口元が、不自然に開かれたまま動かなくなった。
「駅前で見かけたんだよ。誰かと一緒だったよね」
 彼女の名前は敢えて言わなかった。
「なにか持ってるみたいだったから、買い物してたんだよね。結構楽しそうにしてたじゃない?」
「っあの、違うんです!」
 浮気を疑われているのだとようやく悟った高史が弾かれたように首を振った。
「高崎さんですよね? 違います。恋人いますし」
「そう、付き合ってる人いるんだ。でも理由にはならないよね?」
 おそらく納得してもらえると思っていたのだろう。目の前で表情が消えた。
「今日だけじゃない。前にもお前と彼女が一緒にいるところを見たんだよ? なのに信じろって言うんだ」
 唇を開きかけては結ぶを繰り返している。この期に及んでまだ足掻こうというのか。
「お前が隠し事してるのはわかってたけど、まさかそういうことだったなんてね……」
「だから、違います!」
 距離を詰めながら否定する高史から、ためらいは消えているようだった。ここまで持っていければ大丈夫だろう。
 すべては、高史から本音を曝け出させるための布石。
「だったら、ちゃんと話してくれるよね。なにを隠してるのか」
「そ、れは」
 高史の勢いが再び弱まる。この期に及んでまだ足掻こうとする恋人に、怒りを通り越して虚しさがこみ上げてきた。
 ここまで問い詰めてもだめなら、一体どうすればいい?
 まさか、本当に浮気をしているというのか? それとも愛想をつかしてしまった? 他に好きな人ができた? 答えに窮する理由なんてネガティブなものしか思いつかない。
 ――ああ、情けなくも涙がこぼれそうだ。泣いても意味なんてないのに。
「しゅ、俊哉さん!?」
 うろたえた声の高史に顔を向けた瞬間、気づいた。すうっとした感触が頬を走っている。堪えていたはずが、つもりでいたらしい。いつの間にか自分も嘘をつくのが下手になっていた。
「俺のこと、嫌いになったんならそう言ってくれよ」
「なっ、なに言ってんですか!」
「だって、言えないくらいの隠し事って言ったら、そういうのしか」
 高史がいきなり立ち上がった。ぼんやりとした視界で背中を追うと、玄関近くでしゃがみこみ、おそらく鞄の中をあさっているようだった。
 全く意図が読めない。こちらに戻ってきた高史の手に小綺麗な包みが握られている意味もわからない。
「これです」
 その包みをテーブルの上に置いた。
「……本当は本番まで取っておきたかったんですけど、俊哉さんにこれ以上誤解されたくないから、今種明かしです」
 再度包みを手に取った高史は、緊張ぎみにそれを差し出した。
「メリークリスマス、俊哉さん。プレゼントです」
 かけられた言葉すべてを、いつもの倍の時間をかけて飲み込む。
「……プレゼント、って、クリスマスの?」
「はい」
 プレゼントと隠し事と、どう繋がるというのだろう。頭の回転が恐ろしく鈍い。
「あと、先月の誕生日プレゼントも兼ねてます」
 短いため息を挟んでから続いた言葉に、もはや驚くだけの力はなかった。
「本当は二つ用意したかったんですけど、さすがにちょっと、厳しくて」
 確かに高史は、金の問題で用意できなかったことを悔やんでいた。祝ってもらえるだけでも嬉しいのに、予約していたレストランでサプライズのケーキまで用意してくれていたから、とても贅沢な一日だったと心のままに伝えたつもりでいたが、納得はしていなかったらしい。
「高崎さんには、いろいろアドバイスもらってたんです。こういうの初めてだったんで、本当に世話になりました」
 それが二人で行動を共にしていた理由だとでも言うつもりか。
「でも、それでどうして彼女なんだよ」
 もはや単なる嫉妬だった。まだ納得できないのだから仕方ない。
 白状し始めてから視線を外さなかった高史だったが、少しだけ天井を仰いだ。なにかを振り切るように改めて姿勢を正す。
「高崎さんにはオレと俊哉さんが恋人同士だって知られてます。バレました」
 この短時間でどれだけ衝撃を与えれば気が済むのか。
「うまい言い訳もできなくて……すみません」
 全身からすべての力が抜け落ちた。テーブルに額をぶつけてしまったが、その痛みさえも今はありがたい。
 女性は変に鋭いところがあるから太刀打ちできないのもわかっているつもりだし、この関係を絶対に口外するなと厳命しているつもりもない。
 高史がクリスマスプレゼントを用意してくれているのはもちろん想定していた。だが、その準備のために彼女に協力を仰いでいたというところまでは考えが及ばなかった。さらに関係がバレてもいたなんて……。
 涼一の忠告が何本もの針に姿を変えて、あらゆる箇所を突き刺していくようだった。記憶を保ったまま、高史と彼女を見かける前まで時間を戻せたら誰もが理想的な未来を迎えられたのに。
「あの、俊哉さん」
 肩に触れられてのろのろと頭を持ち上げると、今にも泣きそうなくらい眉根を下げた高史が映った。
「本当にすみません。こんなことになるなら素直に言うべきでした」
 首を振る。高史の気持ちは理解できるし、否定できない。
 悪い方に考える癖が前面に出すぎて、一人で暴走してしまったせいなんだ。
「いえ、ちょっと考えればわかることだったんです。オレだって、俊哉さんが誰かと仲良さそうに歩いてたら嫉妬します。どんな事情があったって、嫌です」
「……はは。嫉妬してくれるんだ」
「しますよ。相手のこと殴っちゃうかもしれないです」
 高史の眉が一瞬でつり上がった。隣にそんな相手がいたら宣言通りの行動を取りそうな雰囲気さえ纏っている。
 目眩がしそうだった。こんな多幸感は現実だからこそ味わえる。膨れすぎて苦しいなんて感想は浮かばない。
 高史の服を掴んで引き寄せる。どうしようもなくキスがしたかった。貪るようなキスがしたかった。
 唇を重ねると同時に舌を差し込む。驚きで固まっている高史のそれを何度もなぞり、後頭部に回した手に力を込めた。
 こんなキスは久しぶりだ。心臓が壊れかけのようにうるさい。
「っん……ぅ!」
 後頭部に軽く走った衝撃で、初めて押し倒されていることに気づいた。
「しゅんや、さん……もっと、オレ……」
「して……おれも、ほしい……っ」
 互いの口内でねっとりと絡み合う感触がとても気持ちいい。背中のあたりが何度も小さく跳ねてしまう。これ以上続けたらキスでは済まなくなってしまうのに止められない。高史のすべてが、欲しい。
 胸元を掠める感触に自然と腰を持ち上げてしまう。期待で背筋がぶるりと震えた。
「……あ」
 この空気を強制的に断ち切った犯人は、言うなれば人間の性だった。
「ご、ごめんなさい。こんな、ときに」
 息を荒らげながら謝る高史に追い打ちをかけるように、再び腹のあたりから唸り声が響く。知らないふりも、堪えるのももう限界だった。
「っご、ごめんごめん。そうだよね、腹減ってるよね」
「オレ、カッコ悪すぎ……穴があったら入りたいって気持ちすげーわかる……」
 頭を抱えて悶絶している。そういえばこんな姿を見るのは初めてだから、新しい一面を見れたと思えば嬉しい。
「考えてみれば俺だってなにも食べてなかったし、むしろいいタイミングだったよ」
「そう、そうかもしれないですけど……!」
 もし崖際にでもいたら飛び込みかねないほど落ち込んでいる。自分としてはますます可愛くてたまらないのだが、今は必死に押し殺さねばならない時だ。
「俺は、むしろありがたいと思ったよ」
「……腹、減ってるからですか」
 ふらふらと立ち上がり、こちらを見下ろす高史はつい先ほどまでの誰かを彷彿とさせた。
「問題です。今日はどんな日でしょう?」
 意味がわからないと顔全体で示す高史に、もっとわかりやすい問題に変える。
「ある日の二日前ですが、そのある日とは?」
 三回くらい瞬きを繰り返したのちに、短い声が上がった。
「わかってもらえたみたいでよかったよ。だから……プレゼントも、それ以外もとっとこう? ね?」
 耳元にそう囁くとともに小さなキスを贈ると、黙ったまま首が上下した。

  * * * *

「俊哉さん、まだ寝てなかったんですか?」
 バスルームから戻ってきた高史は家と同じように軽く髪の毛を拭いて、静かにベッドに上がった。
 明日、いや今日があるのはわかっている。全身に確かな気だるさも残っているし、目を閉じたらすぐに意識を手放せる自信もある。
 特別な一日を、まだ過ごしていたかった。じんわりと満たされた気分に浸っていたかった。
 こんな感覚は初めてで、少しの戸惑いと可笑しさが広がる。以前なら贅沢すぎると変に萎縮してしまっていただろう。
「……それ、また見てたんですね」
「恋人からもらった、初めてのプレゼントだからね」
 気持ちがするりとこぼれ落ちた。
 やっぱり、ずいぶん気が緩んでいる。でも、今日くらいはかまわない。誤魔化そうとしてもきっと失敗に終わっていた。
 彼女に相談してはいたものの、最終的に「これ」と選んだのは高史だったという。あれこれ眺めた中で一番納得できて、最後まで高史の頭に引っかかっていたらしい。
「そんなに喜んでもらえて、なんていうかすげえホッとしました」
「そこは彼氏冥利につきるって言ってほしいな」
「そ、そう、か……そう、ですよね」
 今、自分は誰よりも幸せな人間なんじゃないかと自惚れてしまう。いや、きっとそれでいいんだ。咎めるものはいないし、いたとしても関係ない。
「ね、高史。これ、つけてほしいな」
 身体を起こし、隣で腰掛けたままの高史にもたれかかりながら、プレゼントを目線の高さまで持ち上げた。
「え、今ですか?」
「うん。今、お前につけてほしい」
 恋人が選んでくれたプレゼントを恋人につけてもらう――そんな最高の贅沢を味わいたかった。羞恥はとうに捨てている。
 一回り大きな手が、プレゼントをゆっくりと掴んだ。まるで大役を任されたような緊張が伝わってくる。
「その、どっちにつけたいですか?」
 少し悩んで、左腕を高史の前に掲げた。
 改めて体勢を整えた高史は、チェーンを繋ぐ留め具を外した。左腕に通して再び輪にしようとするが、微妙に震えているせいかなかなかうまくいかない。
「す、すみません。こういうの慣れてなくて、不器用で」
「大丈夫。ずっと待ってるよ」
 だって、この時間すら愛おしくて仕方ない。
 頬を慈しむように撫でるとさらに震えが増して、高史に窘められてしまった。迫力はもちろんない。
「できました……!」
 今度は頭にしようかな、とつい悪戯心が成長しかけたところで安堵に包まれた声が響いた。緊張の抜けた手が離れると、確かな重みが加わる。
「ありがとう。どう? 似合ってる?」
「はい。やっぱりシルバ-にして正解でした」
 手首を左右に動かすと、向かい合わせに繋がれた二つの馬蹄が落ち着いた輝きを放つ。主張しすぎない、けれど確かな存在感がある。
 故意か偶然か、今の自分にこれほど相応しいプレゼントはない。
「……ありがとう。本当に」
「そんな、大げさですよ」
 言葉がいくつあっても足りない、なんて場面が実際にあるなんて想像もしなかった。
 高史の胸元に顔を寄せる。触れ合った箇所から余すところなく伝わればいいのにと、柄にもないことを望んでしまう。
「そうだ。高史にもつけてあげようか? 俺のプレゼント」
 怪訝そうに訊き返す高史に、左手の薬指を指差してみせる。
「つっ、つけたいですけど、衛生上の問題が」
 絵に描いたような狼狽ぶりに笑わないでいるのは無理だった。
「冗談だよ。……あ、じゃあネックレスにするっていうのはどう?」
 初めてのプレゼントで指輪は重いだろうかと考えもしたが、自分にとって高史はもう離れられない唯一のひとだ。
 だからこそ、他の選択肢はなかった。
 それでもファッション感覚で身につけられる、いわゆる結婚指輪のようなデザインではない。簡単な彫刻が表面をぐるりと彩っている。
「全然、考えつかなかったです……」
「チェーンを長いのにすれば服の下にも隠しやすいよ。今度一緒に見に行こう?」
 安堵と嬉々の混じった笑みを浮かべて頷く高史の左手をそっと取る。
 いつかは、本来の場所に身につけてほしいと今願ってしまうのは早計か、単なるわがままか。口にしたら困らせてしまうだろうか。
 ――いや、考えるのはよそう。感情のままに動いてみるんだ。
 目の前の薬指に唇を寄せて軽く吸い上げる。視線を持ち上げると、こちらを凝視する瞳とぶつかり、一瞬ゆらいだ。
「いつかは、ここにもつけてくれると嬉しい」
 左手が熱くなった。高史の顔が吸い込まれるように近づいていくのをぼうっと見つめる。指輪交換でもしているようだ……なんて、相当浮かれている。
「……そのときは、俊哉さんに指輪、プレゼントしますね」
 腕につけられた幸運のお守りが、一瞬強く光ったように見えた。