星空と虹の橋

【第1話】俺はエメラルドのご主人様じゃない!

 一定のリズムで、耳慣れた機械音が鳴り響いている。昨日と変わらない休日がやってきた。
「おはようございます、ご主人様。今日は、昨日に比べると気温は低めですよ」
 心地のいい低めの声が耳元に注がれて、「いつも」はあっけなく壊された。昨夜の出来事は現実だと、いやでも提示された気分になる。
「ご主人様、昨夜の約束を覚えておいでですか?」
 忘れたくとも忘れられない。恐る恐る、ベッドサイドを見やる。
「エメラルド、ある……」
 緑の小粒は、昨夜と同じ淡い色を放っていた。
「はい。これで、私のことを受け入れてくださいますよね?」
 明らかな睡眠不足でぼんやりする頭を、弾んだ声が強制的に覚醒させる。人間、精神バランスが崩れると笑いもこみ上げるらしい。
 オーナー、これはインチキを通り越して現実味がなさすぎます……。
「ご主人様、朝食になさいますか? ああ、その前に洗顔とうがいでしたね」
 まだ返事をしていないのに、翠はものすごく張り切っている。そんなに赤の他人の世話をするのが嬉しいのか、いや、エメラルドの化身だから他人ではないのか。もう思考回路がわけわからない。
 自分でやるから、と拒否しかけた口は途中で止まった。一番大事なものを忘れるなんて、相当混乱している。
「ご主人様?」
 窓の白いカーテンを開けて、置いていたブレスレットを箱ごと胸元に抱え込む。直射日光の当たらない部屋ではあるが、じんわりとした熱が伝わってきて心配になってしまう。エメラルドとアンバーの弱点みたいなものなのだ。
「ブレスレット、部屋の中に入れちゃってもよかったのに。エメラルド、熱に弱いだろ? 君の本体だから危なかったんじゃない?」
 こちらを一瞬凝視した翠は、なぜか口元を手のひらで覆って震えだした。まさか、何かしらの症状でも出たのか?
「ご主人様が……ただの従者である私なんかを気にかけてくださるなんて! やはりご主人様はお優しい方ですね!」
「……まあ、つまり大丈夫ってことね」
 思わず呆れてしまうと、翠は慌てたように背筋を正した。
「失礼いたしました。……実は、本体を持ち運べないのです」
 証拠とばかりに、自分の手の中にあるブレスレットのエメラルド部分を摘み上げようとする。思わず目を見張った。まるで縛りつけられたように一ミリも浮き上がらない。水晶やアンバー部分を持ってみても、やはり全く動かなかった。
「……わかった。今度から、気をつけるよ」
 図らずも、化身に関しての知識が増えていく。
 とりあえずブレスレットをリビングのテーブルに置いて、洗面台に向かった。少しでもいいから頭をすっきりさせたかった。
 これからの予定を脳裏に並べる。まずは二駅行った先にあるホームセンターの天然石ショップを覗いて、よさげなものがあったら買ってみよう。その後は日用品と食料を調達しないといけない。
 あくまで普段通りの休日を過ごそう。
「……もしかして、命令待ち?」
 Tシャツを脱ごうとしたところで、寝室前で立ち尽くしている翠を振り返った。
「はい! 朝食をお作りしてもいいのであればそうさせていただきますが」
「作るって、俺が何食べたいか知ってるって言いたげだな」
「もちろんです。目玉焼きを載せたトーストとウィンナー、ホットブラックコーヒーでしたよね?」
 一つの間違いなくすらすらと口にした翠を、完全に振り返ってしまった。
「な、んでそれを知って……」
「ずっと、ご主人様と共におりましたから。趣味嗜好、行動パターンも大体把握しております」
 そして燕尾を翻した黒い背中を呆然と見つめる。
「マジ、か……」
 無意識に、ブレスレットに手が伸びる。淡く輝くエメラルドをそっと撫で上げると、キッチンの方から短い悲鳴が聞こえた。
 どうやら、本当にこの状況を受け入れないといけない……らしい。


「翠。君が俺の持つエメラルドの化身みたいなものだっていうのは、わかった。エメラルドが残ってたし、諦めるしかないっていうのが本音だけど」
「少しでも受け入れてくださったのであれば一向に構いません!」
「それで、だ」
 素晴らしい焼き加減のトーストを置いて、隣でにこにこと見下ろしている翠に人差し指をつきつけた。
「俺としては、まずその『ご主人様』っていうのをやめてほしい。慣れてないから、くすぐったくって仕方ないんだ」
 きっぱりと言い切るのは苦手なはずなのにできてしまうのは、三ヶ月間そばにあったからなのか、微妙にイラッとしてしまうからなのか。
「し、しかし……では、なんとお呼びすれば?」
「普通に名前でも名字でもいいよ」
 翠は一度唇を引き結ぶと、なぜか興奮気味に身を乗り出してきた。
「で、では……文秋様とお呼びしても?」
「様はいらないって」
「いえ! それだけは、ご容赦ください」
「じゃあ、せめて『さん』でお願いしたい。貴族っぽくてイヤだ」
「文秋、さん……でございますね。承知、いたしました」
 どうして満面の笑顔を浮かべるほど嬉しいのか、よくわからない。
「あと、できれば堅苦しい敬語も何とかしてほしいんだけど」
 それがなければまだ、非現実的な感覚はなくなる気がする。あくまで気がするというだけ。
「とんでもございません! 従者の私が、文秋さんとた、タメ語だなんて」
「あ、タメ語とか使うんだ。バッキバキの敬語でもないのか。もうちょっと崩してくれるなら、まあ、いいか」
 翠の反応を見るとうっかり出してしまったようだが、むしろそのうっかりをどんどん出してほしい。
 食べ終わった食器を片付けようとすると当然のように奪われてしまった。執事なのか従者なのか、とにかく世話をしてくれる人がいるとこんなにも落ち着かないとは、少なくとも貴族的な暮らしは一生肌に合わなそうだ。
「あれ、翠は食べないの? それとも、もう食べたとか?」
 スポンジに手を伸ばした背中に問いかけると、顔だけをこちらに向けて緩く首を振った。
「私は、人間の食べ物は口にできないのです。本当に時々ですが、ミネラルウォーターのような綺麗な水だけいただければ問題ございません」
 水だけ受け入れられるのは、それも浄化の手段として用いられるからだと思う。本体が石だからなおさら、食べ物は不純物にあたるのだろう。
 アイスブルーのデニムに足を通していると洗い物を終えた翠がやってきて、ベッドの上に置いていたシャツに手を伸ばした。
「あっ、い、いい! 俺一人で着替えられるから!」
 先手を打たれた翠はわかりやすく肩を落とす。当然の主張をしたまでなのに、あからさまな態度をされると心が痛い。
 支度を終えて玄関に向かうと、翠も当然のようについてくる。
「いかがなさいました? 文秋さん」
 嫌な予感がしてリビングに引き返した。頭上に疑問符を浮かべる翠に恐る恐る尋ねる。
「あの、さ。もしかして、ついてくる気だったりする?」
「はい。文秋さんがブレスレットをお持ちであれば、必然的にそうなります」
 頭を抱えたくなった。つまり大事なパートナーを自宅に置いておかないと、この男の支配からは逃れられないということじゃないか!
 思わずエメラルドの表面をなぞると、翠がわずかに身を捩る。
「ふ、文秋さん。その、少々くすぐったいです」
「……ブレスレット、置いてかないといけないなんて……でも、そうじゃないとついてくる……こんな目立つ格好のやつが」
「ああ、それでしたらご安心ください。この身は消しておくことができます。文秋さん含め、他の方にも見えません」
 言葉通り、煙が消えていくように身体が見えなくなる。もうファンタジーの世界だった。
『ただ! 私はこれから、荷物持ちというお役目を果たさねばなりません。文秋さん、買い物をなさるんですよね?』
 頭の中で円状に響き渡る、エコーがかった声に気持ち悪さを覚えたがそれを上回る衝撃だった。絶望的状況から掬い上げられた気持ちを、一撃で砕いてきた。
 寝言は寝てても言わないでほしい。そんなレベルじゃない。
「いい。やっぱり置いてく。俺一人で買い物したい」
「し、しかし! 私は従者ですから。文秋さんもお護りできませんし」
 断固として首を横に振った。そろそろ一人きりの時間をもらって落ち着かないと故障してしまう。従者なら、主の精神を労ってほしい。
 心の訴えが伝わったのか、翠はやっと納得してくれた。
「では、代わりにこちらを」
 一瞬、何をされているのかわからなかった。
「ちょ、ちょっと! いきなりなにを」
「お静かに」
 両腕に込められた力に、完全に押さえつけられてしまった。
 首筋にある翠の黒髪が鼻孔をくすぐる。かすかな香りは、緑豊かな森に足を踏み入れたようなイメージを抱かせる。
 不思議と、落ち着いていた。まるで、あのブレスレットを身につけている時と同じ気分を今、味わっている。男に抱きしめられているのに、不快感がまるで浮かばない。
 人間じゃないから? ずっと共にあったエメラルドだから?
「お時間、いただいてありがとうございました。どうぞ、お気をつけて」
 最後に後頭部を優しく撫でられて、空気が戻る。本当に一瞬だけ、手を伸ばしたくなる衝動に駆られた。
 振り切るように家を出て、足早にマンションを離れる。
 ブレスレットと共にあるような感覚は、帰宅するまで続いた。これも、もしかして翠の力なのだろうか?

  * * * *

「あれっ、浅黄先輩。今日はブレスレットつけてないんすね」
「まあ、ちょっとね」
「……もしかして、落としました?」
「ちゃんとウチにあるよ。いいから仕事しなさいって」
 隣の自席に戻ってくるなり目ざとく突っ込んできた後藤大河ごとうたいがを軽くあしらって、パソコンに無理やり意識を戻す。
 彼が二年前に入社してから隣同士で、いろいろと相談に乗っていたのもあって一番仲がいい後輩だった。
 お調子者なのが玉にきずだが、仕事は丁寧で飲み込みも早い。今関わっているプロジェクトに限らず彼も同じチームにいる場合が多く、会社側からはどうもセットで扱われている気がする。
 翠は今朝もアラームの役割を果たし、いつもの朝食を用意してくれた。ブレスレットはどうしても持ち出す気になれなかったのだが、昨日とはうって変わり、主張をあっさりと承諾して不思議と落ち着く抱擁をしてきた。
 尊重してくれるのはありがたいが、今後どう接していけばいいのかわからない。
 何せ、自分だけのスペースに突然割り込んできたようなものなのだ。ブレスレットで考えれば約三ヶ月間一緒にいたとしても、両手を広げて歓迎できる状態にはとてもいけない。
「先輩が溜め息なんて珍しいっすね。やっぱブレスレットしてないから心細いんですか?」
「まあ、少しはあるかもね……って、もう突っ込むの禁止!」
 無意識に、表に出してしまっていたらしい。本当にらしくない。
「ちゃんと用事があるんですって! 質問があるんです~」
 大学生の頃から一人暮らしを続けてきて、そのほうが気楽だった身には、まだまだ戸惑いしかない。


 帰宅すると、ドラマで観た母親のような笑顔で翠が出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ! 本日もお疲れ様でした。鞄、お持ちします」
 差し出された手に自然と従ってしまった。
 昨日もそうだったが、翠は自分の生活習慣を完全に把握していた。
 風呂の後に夕飯を食べること。酒を入れる場合は小さいビール缶一本だけなこと。テレビは気まぐれに観ること。
 風呂から上がると、すでに料理が用意されていた。元々好物なのと、調理が簡単だからという理由で作る頻度が高いチャーハンだった。
 昨日だけでなく今日も、自分が作ったことのあるメニューなのは偶然なのだろうか。
「いかがなさいましたか? お口に合いませんでしたか?」
 心配そうに顔を覗き込んできた翠に、驚きのまま答える。
「いや、俺が作るのと味が一緒で、びっくりして」
「それは……私の料理は、文秋さんの見よう見まねですから」
 翠が嬉しそうに微笑む。
 三ヶ月一緒にいたという事実が、またのしかかる。
「文秋、さん?」
「……君、本当にずっと、いたんだな」
 どんな表情をしていたのかわからなかったが、立ち上がった翠は深く頭を下げてきた。
「昨日は、文秋さんのお気持ちも考えず一方的になってしまいまして、本当に申し訳ありませんでした。文秋さんに直接お仕えすることが夢でしたので……浮かれすぎました」
「いや、別にそんな謝らなくても」
 改まって謝られても困惑してしまう。
「ですが……それでも、敢えてお伝えいたします」
 翠の視線が、まっすぐに向けられる。
「私の気持ちに変わりはありません。誠心誠意お仕えしたい。文秋さんの心身をお護りしたいのです」
 優しくありながら、強い。ふたつのエメラルドは、一途な光で自分を照らす。
「決して無理は申し上げません。少しずつでも文秋さんの信頼を得られるよう、尽力いたします」
 ブレスレットにある本体よりも、まぶしい。まぶしくて、直視していられない。
 卑怯かもしれなくても、目を逸らすしかなかった。


 もはや、驚くしかなかった。
 朝に翠の声で起床し、見送られ、帰宅すれば出迎えてくれる。混乱が落ち着くにつれて、そんな生活を早くも受け入れつつある自分が信じられなかった。あの抱擁でさえ、ブレスレットを身につけている時のような気分を与えてくれることもあって、すっかり慣れてしまっていた。
 一途な翠に絆されているとでもいうのか? 翠の主であることをいい加減認めろという、見えない催促のせいなのか?
 いつまでも、この中途半端な状態を続けるわけにいかない。それでも、なかなか覚悟が固まらない。
 もうすぐ、翠が現れてから一週間が経つ。
「……ん?」
 住んでいる部屋は、エレベーターを下りてから一番奥まで歩いた先にある。その前に、ぼんやりと人影が見えた気がした。だが、実際辿り着いても当然誰もいない。
「あれ、翠?」
 翠に尋ねようと思ったが、玄関に立ってもいつもの出迎えがない。首をかしげながらリビングに向かう。
「……文秋、さん。出迎えられず、申し訳ありません……」
 息をのんで、ソファーを凝視する。
 翠が、息を乱してぐったりともたれかかっていたのだった。

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