星空と虹の橋

【第10話】俺はエメラルドのご主人様じゃない!

 藍の願いでなければ、翠は仕事が終わったら一分一秒でも早い帰宅を催促したと思う。
 後藤は、今日は時間を取れないと告げたらあっさり納得してくれた。にやついた笑みが気がかりだったが、無駄な怪我は負いたくなかった。
 まるで、身体が微妙に浮いているように足元がおぼつかない。鼓動もずっと速い。いつもの調子で湯船に浸かったらのぼせそうになってしまった。せっかくの夕食も味が全然わからない。
「……文秋さん。そんな、あからさまに緊張なさらないでください」
 ついに、隣の翠から苦笑交じりの突っ込みが入ってしまった。
「ご、ごめん。こういうの、ほんと慣れてなくて……気分、悪いよな」
 だが、首を振った翠は歯切れの悪い物言いを繰り返している。訝しげに見つめると、目を逸らされた。
「……率直な感想で恐縮なのですが、文秋さんがあまりにも可愛らしいので、すでに我慢の限界を迎えそうです」
 観念したように飛び出した台詞に、一瞬思考が停止する。
 反射的に立ち上がりかけた身体は、背後から抱きしめられてしまった。
「申し訳ありません、文秋さん」
 予想外の謝罪に、間抜けな声が漏れる。
「今の私は、従者失格ですね。文秋さんの身体を労る余裕もありません。正直、情けないです」
「……風邪のことなら、すっかり忘れてたよ」
 日中は溜まっていた仕事を必死に片付け、夜は天谷の店で報告と、本当に濃い一日だった。
 翠から返ってきたのは短い否定だった。
「文秋さんと私のような事例は本当に聞いたことがないのです。予想もつかない事態が起きないとも限らない。ですから……本来ならば、しばらく様子を見るべきなのです。少しの負担もかけるべきではないと、わかっているのです」
 腕に、力が込められる。
「文秋さんを傷つけたくない。それなのに、私は……」
 こんな時ですら堂々と甘えていて、呑気な自分が恥ずかしい。本当に翠は、優秀な「従者」だ。
「俺は、大丈夫だよ」
 そんな翠にしてやれるのは、羞恥心を捨てて覚悟を示すことだった。
 自らの使命に蓋をして構わないと、主として告げることだった。
「全然根拠はないけど、大丈夫だって信じてる」
 翠に向き直り、安心させるために口端を持ち上げてみせる。
「実際、一日分溜まってた仕事をひたすら片付けてた疲れはあるけど、それだけなんだよ。変な感じとか全然しないし、ほんと普通。お前も嫌な予感とかしないだろ?」
「それは、確かに……しかし、藍は力が弱まっていると言っていましたから、信憑性は」
 唇に指を当てて、それ以上の言葉を封じた。そっと抱き寄せて耳朶に触れる。
「俺は、今すぐ話が聞きたい。……これは、命令だ」
 一瞬、息が詰まった。その力に心を震わせながら、ほんの少しの隙間も埋めるように、自分の熱が翠にも伝わるように、固く引き寄せる。
「文秋さん。朝の話の続きを、させてください」
 鼓膜にかかる囁きに、小さな声を上げながらひとつ頷いた。
「後藤様にお送りしていたメッセージを、読みました」
「……うん」
「あのお言葉は、本心と受け取ってよろしいのでしょうか? ……文秋さんの想いは私と同様だと、そう考えても、よろしいでしょうか?」
 よく聞くと、声は震えていた。
 翠も、緊張していた。同じだった。それだけなのに、胸の奥からあたたかいものが広がっていく。
 翠とまっすぐ向かい合う。風で揺れる木々のような揺らめきを、エメラルドは発していた。
「好きだ。これからもずっと、俺の隣にいてほしい」
 呆然としている翠の唇に一瞬触れて、胸元に頬をすり寄せた。
「文秋、さん……!」
 触れた箇所から伝わる細かな震えが、翠の内心を一番に表しているようだった。愛おしさのままに腕を回す。
「こうして抱きしめられる日が来るなんて、思いもしませんでした……絶対、叶わないものだと思って、私は……」
 互いに、さらに力を込める。想いがあふれて止まらない。身も心も、もっと翠を求めてしまう。
 宝物を扱うように頬に触れ、唇をふさぐ。重ね合わせるだけのそれはすぐに終わり、口内を柔らかいものが撫で回していく。
 呼吸のタイミングがわからないほどに、激しい。思わず無理やり顔を逸らす。
「ばか、がっつきすぎ……」
「申し訳、ありません。でも」
 もう、我慢ができない。
 敬語の取れた口調と掠れた声に意識をとられていると、噛みつくように再び奪われた。勢いのあまり身体が傾いで、ソファーに押し倒されてしまう。
「っは、ふ……ぅ、ん!」
 両肩を押さえ込まれ、完全に舌を絡め取られる。粘着質な音が絶えず鼓膜を愛撫し、余すところなく自らの舌をなぞろうとする動きに背筋が甘く痺れて、力が抜けていく。
「ずっと、こうしたかった」
 跨り、見下ろすふたつのエメラルドは穏やかな光ではなく、底の見えない深い緑で照らしていた。森の陰からこちらを狙いすます、鋭い双眸にも見える。
「本当に、愛しています。あなただけが、私のすべてです」
 身体が浮き上がった。いつぞやのように、寝室まで運ばれる。抵抗するものはすべて、とうに失せている。
 手袋が外された瞬間、背中にぞわりとした感触が走り抜けた。首筋に顔を寄せて、鋭い痛みを一瞬生み出す。
「……お前、どこでこんな知識、知ったんだよ」
 吸われた箇所をなぞる指がシャツの裾まで辿り着いた時に、つい尋ねてしまった。嫌なわけではもちろんないが、男同士の行為は初めてだからなおさら、恐怖を隠せない。
「不安に思われるのもわかりますが、お任せください」
 内心を読みきった台詞と共に、柔らかな笑みで見下される。
「絶対に、怖い思いはさせません」
「そ、んなこと言われても……っん!」
 裾から滑り込んだ両の手のひらが胸元を撫でた。そのまま何度も、円を描くように動き回る。
「胸、文秋さんは弱いんですね……」
 男は触られても何も感じないと思っていた常識が、覆されてしまう。
 引っ掻くように指先が掠めた時も、一際大きな悲鳴を上げてしまう。
「やめ、やだ……も、いじるな……!」
「でも、とても気持ちよさそうです。ね……?」
 言いながら片方を強めに摘まれ、もう片方を湿った感触に包まれた。溜め息にも似た声が鼻を抜ける。
 下半身の震えを止められない。熱が収束していくのを止められない。
「可愛いです、文秋さん……」
 うっとりと呟きながら、服の上から緩く反応を示している自身に触れる。形を確かめるように握り込まれた。手のひらが上下するたびに、ぴくりぴくりと腰が跳ねる。
「っあ、ん……!」
「大丈夫……逃げないで、私に委ねてください……」
 外気に晒されたそれに直接触れられた瞬間、吐息までもが震えた。快楽しか生まない手の動きに、羞恥も声も我慢する余裕すらない。粘着にまみれた音さえも、甘い痺れに変換されてしまう。
「す、い……も、いくぅ……っ!」
 先端を手のひらで撫でられ、乳首を強く吸われる。強い刺激に耐えられるはずもなかった。
 頭が一瞬白く弾ける。熱が吐き出されていくのを他人事のように感じながら、全身にかかった力が一気に抜ける。呼吸がまともにできない。
 何も考えられないくらい、それこそヒーリングの時のものとは比べられないほどの倦怠感が襲う。
「……文秋さん、とても色っぽくて、可愛くて……ずるいです」
 頬を愛おしそうに撫でる動きとは裏腹に、翠の表情から普段の柔和さは消えていた。
 余裕の全くなかったキスを思い出す。ずっとこうしたかったという言葉を思い出す。
「我慢、しなくていいよ」
 自然と、つぶやいていた。
「翠がどんな風にしてきても、全部受け止める」
 重い頭を持ち上げて、一瞬だけ唇に触れる。
「今は、俺たちはただの恋人同士だから……思うまま、してほしい。俺も、頑張る、から」
 のたうち回りたい気持ちを、ベッドに横たわり固く目を閉じて耐える。
 布の擦れる音が聞こえて、うっすらと開けた目を見張った。
 翠が、プレゼントした服に着替える時以外、決して脱ごうとしなかった執事服に手をかけていた。上着を取り、中のベストを外す。シャツのボタンを外そうとしたところで、そっと留めた。
「俺に、やらせて?」
 誠心誠意の奉仕を表した服を、すべて取り去る。
 改めて見る翠の裸体は、素人目で見ても惚れ惚れするほどに均衡のとれた美しさだった。中心で屹立しているものさえ、いやらしさをあまり感じない。
 そっと身を寄せる。この身体に抱きしめられ、護られてきたのだと思うだけで、喉の奥が震える。苦しくて愛しくて、同じように護りたいと心から思う。
 翠の中心に触れようとすると、やんわりと止められた。
「先程、言いましたよね? 愛してほしいと」
「い、言ったけど! 俺も」
「今夜は、すべて私にお任せいただきたいのです。……私が、どれほどにこの瞬間を求めていたかを、知っていただきたい」
 後半を耳に注ぎ込まれ、短い悲鳴が漏れる。
「す、翠……なんか、キャラ違う」
「そうでしょうか」
 どこか爽やかに答えながらも、ベッドに押し倒してくる。
「そうだとしたら、文秋さんのせいです。……本当に、限界です」
 いきなり、自身を濡れた感触が走った。翠に咥えられたのだとわかって頭を掴んでも、動きは止まらない。引きつった悲鳴がただ漏れるばかりだ。
「そ、んな……きた、ないだろ……!」
「いいえ。文秋さんは、きれいです」
 物語にしか出てこないような台詞を平気で返しながら、全体を柔らかいものが撫で回していく。形だけの拒否ばかりがこぼれる。もっとほしいと、揺れる腰が訴えている。
 自身から届く音で、達したばかりとは思えないほどに先走りがあふれていることを知り、熱が集中していく。手のひらすべてで扱かれているだけでも、大きさを増しているように聞こえてしまう。
「っ、あ!?」
 息が詰まった。ありえない箇所に、ありえない異物感がある。
「な、んでそんなと、こ……!」
「少しだけ、我慢してください」
 無理だ。中で指が動くたび、まともに呼吸ができないくらいに苦しい。
 名前を呼ばれて答えた唇を、緩く食まれた。伸ばされた舌は表面を愛撫するだけで、中には差し込まれない。
 心地よさに、少しずつ全身の力が抜けていく。その隙を狙ってか、埋め込まれた指が再び動き出す。
「絶対に、痛い思いはさせません。……私を、信じてください」
 何度も頷く。言葉通りにいつも護ってくれていた男を、信じないわけがない。
 一度引き抜かれ、再び侵入してきた指の威圧感が増した。一本増えたようだ。苦痛はだいぶ和らいできたものの、変な気持ち悪さは抜けない。
 中で指が折り曲げられた。ぼんやりそう思った瞬間だった。
 重ねられた唇の隙間から、男とは思えない高い声が、響いた。
「っな、に……!?」
 自分でもよくわからない。いやだと訴えようとしたが、翠は再度その箇所を擦り上げる。
「や、やめ……そこ、だめだ、って!」
「いいえ。むしろ、よいのです」
 歓喜さえ滲ませながら重点的に突かれ、押される。さっきとは違う意味で声が我慢できない。
 前を全く弄られていないのに、射精感がこみ上げる。意味のわからないまま欲には勝てず、再び熱を吐き出した。
「今の場所が、文秋さんが一番に感じるところです」
 それを、探していたというのか。まさか、男にもあるなんて。
「……文秋さん」
 呼吸がいくらか落ち着いたところで名前を呼ばれ、包装を開ける音で翠と目が合った。
 ただの男の顔がある。自らの欲に支配され、止めることもかなわないけれど、本気で拒否をすれば従うぎりぎりの理性も残している。わずかに下がった眉尻がそれを物語っているように見えた。
「……言っただろ? お前に、愛してほしいって」
 もちろん、意思に変わりはない。
 今は恋人という対等な立場なのだから、余計な気遣いはいらない。
「今だけ……『さん』は、取ってほしい」
「文秋、さん?」
「それ、いらない。名前だけを、呼んでよ」
 今のでなけなしの理性は吹き飛んだだろうと、頭のどこかで察知していた。
 翠自身が、一気に埋め込まれた。比べものにならない苦しさに、喉が一瞬詰まる。
「文秋、私を煽った、結果です……」
「まだ……こんなものじゃ、ないんだろ?」
 従順な裏にある翠の姿が、どんどん顕になっていく。貪欲に求めるだけの男へと変貌していく。
「っあ! ひ、ぁ……!」
 接合部から響く濡れた音と肌のぶつかり合う音、鼓膜を愛撫するような甘い囁きに全身が溶けてなくなりそうだった。本当に自分のものなのかわからない声を絶えずこぼして、快楽を受け止めるだけで精一杯だった。
 繋がれている手に力を込めると、同じ力を返してくれる。いつの間にか下りていた瞼を持ち上げると、薄闇の下でも美しく輝くエメラルドが待っていた。
「俺の、エメラルド、だ……きれいな、俺の……」
 二度と、曇った姿は見たくない。いつまでも、初めて見た時と変わらない輝きで魅了してほしい。癒やしてほしい。
 腹の底から、抗えない熱が押し寄せる。収束して、弾けようとする。
 声にならない悲鳴が、喉から吐き出された。腹に湿った感触が走り、意識が急速に霞んでいく。
「文秋、愛しています……もう、絶対に離れない……」
 俺もと、答えたつもりだった。
 唇と頬を撫でる感触に安堵しながら、繋がっていた糸を自ら切った。

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