
「今日は先輩の機嫌いいですねー! 先週はほんとどよーんとしてたから、オレどうやって励まそうかと必死に考えて考えて」
「そんなこと考える暇があったら仕事しなさい」
「してますよー。むしろ、先輩のほうがあんまり仕事手につかなかったんじゃないすか?」
全くその通りすぎて、何も反論が出ない。ここまで遠慮がないと不快を抱く人もいるだろうが、仲良くしている影響もあるのかそこまで気にはならない。彼の人徳のおかげもあるだろう。
本当に、先週の気分が一新された。昼にローテーションしている店で、頼んだメニューも過去と変わらないのに、おいしく感じるほどだ。
コップの水を飲み干した後藤は、左腕に視線を向けた。
「やっぱり、そのブレスレットは先輩のお護りなんですね」
ブレスレットを装着した瞬間、思わず腕を抱き寄せていた。
本体からもたらされる、包み込むような安心感はふさわしい言葉も出てこない。翠が与えてくれていた力はあくまで一部だったのだと実感する。
「……うん。改めて、そう思ってるよ」
『後藤様の理解力、素晴らしいですね……』
頭の中で、どこか悔しそうな翠の独り言が響く。
正直、姿が見えないのをいいことに浮かれ放題になるのではないかと予想していたのだが、意外と静かに(おそらく背後に)佇んでいた。命令もきっちり守っている。
ただ、後藤に対しては対抗心のようなものを向けているのだ。昼時だけでなく、仕事中もやり取りをするたびに何かしら反応を示していた。
いつも柔和な翠にしては珍しい。
「後藤様は、あの会社では文秋さんの相棒のような方ですね」
それとなく振ってみようと思っていた話題を、翠のほうから口にしてくれた。
「まあ、そうなの……かな? 後藤が入社してから一番の付き合いだし」
料理をもっと覚えたいという、翠のリクエストに応えて購入したレシピ本の成果を口にしながら頷く。味はなかなかだ。
納得したいけれどしたくない。眉根を寄せた翠の表情は、そう語っているように見えた。
「確かに、お二人の波長は綺麗に重なり合っておられました。後藤様も、文秋さんと同様のお気持ちでいらっしゃるはずです」
「……そう言ってるわりに、今日、ずっと対抗意識燃やしてたのはなんで?」
一瞬目を大きくするも、満面の笑顔に変わる。
「そんなことはありませんよ。文秋さんに相応しい相棒が職場におられて、喜ばしく頼もしく感じておりますとも」
もしかして、はぐらかされた?
翠の意識はテレビに向いてしまった。食べている最中ずっと背後で控えているのが気になって、座って自由にテレビを観ても構わないと促したのがきっかけだったのだが、すっかり気に入ったらしい。
追求は諦めて、再び料理を口に運び始めた。
* * * *
今週は、関わっているプロジェクトが佳境を迎えているのもあって何かと慌ただしい。
手すりに腕をかけて、ビルや建物の立ち並ぶビジネス街をぼんやり眺める。曇り空の下の建造物は、より無機質に映る。
本来は喫煙所なのだが、自分のような非喫煙者も休憩所としてよく利用していた。
『文秋さん、本当にお疲れ様です』
誰もいないからか、翠が労るように話しかけてくる。顔の横でひらひらと手を振ってみせた。
(この分だと、オーナーの店に行けるのは土曜日かな……)
本当はすぐにでもお礼に行くつもりでいたのだが、この調子だと、寄り道する余裕は今週いっぱいなさそうだった。
「あっ、先輩! ここにいたんですね」
重いものを引きずるような音に振り返ると、後藤だった。
「悪い、用事だった?」
「俺じゃないですけど。急ぎじゃないって言ってたので、机の上にメモ置いときました」
どのみち席に戻る予定だったのでちょうどいい。
「先輩、だいぶお疲れみたいですけど大丈夫ですか?」
すれ違いざまに、後藤の肩をぽんぽんと叩く。
「後藤も無理するなよ? 倒れるなら来週以降でよろしく」
「ひどっ! オレの持久力を甘く見ないでくださいよー?」
笑いながら喫煙所を後にして、自動販売機に向かう。愛飲しているメーカーのブラックコーヒーを常備してくれているから、いつも本当に助かっている。
『……文秋さん。今、少しだけでいいのでお時間をください。すぐ、済みますので』
缶を取り出したところで、どこか必死な翠の声が響いた。
命令を無視するほどの事態が翠に起きているのかと想像したら――思い起こされるのは、あの三日間だった。
距離的に一番近い給湯室に向かう。シンクで作業をする振りをして、小声で詳細を促した。
『申し訳ありません。手短に質問させていただきます』
……質問?
『文秋さんは、後藤様のことを好いておられるのでしょうか?』
……違和感が激しく渦巻いている。が、答える。
「そりゃ、好きだよ。仲いいし」
『……質問の仕方を間違えました。ずばり、恋愛感情を抱いておられますか?』
思わず声を張り上げそうになって、慌てて口元を押さえた。一度肩を上下してから小声で応戦する。
「何言ってるんだよお前は! そんなわけないだろ!」
「しかし……!」
翠が姿を現してしまった。声にならない悲鳴が漏れる。
「出てる! 身体出てるから!」
不満げな翠の身体は再び解ける。さりげなさを装って給湯室を出てみたが、幸いなことに目撃者はいなかった。
――心配して損した。それ以上に大事でなくてよかった。と思う。
「とにかく、そういう目では一切見てません。わかったらおとなしくしてるように」
小声で改めて突っ込んで自席に戻る。後藤もすでに戻っていた。……が、動きが止まっている。心配して声をかけると、大げさに反応された。
「あ、す、すいません。ちょっと考え事してただけなんで、気にしないでください」
珍しいなと思いつつも、仕事モードが進むにつれて頭の片隅に追いやられていく。
意味不明な翠の質問も脇に置いておきたかったが、家に帰っても口調が若干刺々しかったり、名前を呼ぶたび変にまぶしい笑顔を向けられれば黙って流す真似もできなかった。
「後藤が好きだのどうのってまだ気にしてるのか?」
ビールを持ってきてくれた翠に前置きなく問いかける。
「何でそんなにこだわってんのか謎だけど、本当にないから。後藤は彼女ほしいーってよく言ってるし」
翠は無言のまま隣にゆっくり腰掛けた。テレビのリモコンには手を伸ばさない。
「……後藤様と文秋さんの仲がよろしいのは承知しておりました。ですが、実際この目で見たら……その」
言葉を切った先が気になるのだが、語らずに頭を下げてくる。
「差し出がましいことをいたしました。もう、忘れてください」
いまいちすっきりしない。今度は自分の眉間に皺ができそうだ。
「俺の好きな人でも聞き出したかったわけ?」
「いえ、そういうわけでは……」
「後藤にも定期的に訊かれるんだけど、いないんだよ。そこまで興味持てないっていうか」
女性が嫌いなわけじゃない。何人かと付き合った経験もあるが、いずれも長続きはしなかった。敢えて気になる女性を挙げるならあのオーナーとなるが、化身の主同士としての仲間意識が強いのと、男女関係なく普通に仲良くさせてもらいたいという気持ちが大きい。
基本的に、他人相手に心を揺さぶられることがほとんどない。振られる時の「私を好きかどうかわからない」という台詞にすべてが込められていると思う。
そういう意味では、翠は初めての相手だった。振り回される日々もすっかり定着してしまった。
「……なんで、ちょっと嬉しそうにしてんの」
やっぱり、答えてはもらえなかった。