星空と虹の橋

【第7話】俺はエメラルドのご主人様じゃない!

 一瞬だけ躊躇してから、玄関の扉を開ける。
 すぐに翠が駆け寄ってきた。明らかに心配をかけてしまっている。
「ご連絡が全くありませんでしたし、事故にでもあったのかと心配で心配で」
「ごめん、うっかりしてた」
 鞄を受け取った翠は、ふと動きを止めた。
「翠、どうした?」
「……他の石の気配を感じますね」
 黙ったままにしておこうと思ったが、早速見抜かれてしまった。石同士、繋がるものがあるのかもしれない。
「ムーンストーンだよ。……天谷さんに、藍くんの件で改めて謝らせてくれって言われて、店に寄ってたんだ」
「この石は、お迎え予定はなかったんですね」
「不思議なんだけど、ブレスレット買った時みたいにピンと来たんだよ」
 袋からムーンストーンを取り出して、翠に渡す。
「……特別強い力を秘めているようには感じませんが、文秋さんとの相性がいいのでしょう。パワーストーンは、力が強ければ強いほどいいというわけではありませんから」
 どこか拗ねたような表情の意味がわからず、目で理由を尋ねる。
「文秋さんは、そのムーンストーンも今後、ずっとお持ちになるのですか?」
 ――自分を護る、たったひとつのパワーストーンでいさせてほしい。
 向かい合って囁かれた言葉が脳裏に響く。
 ようやく、意味を理解した。なんて誤解を生みそうな告白だろう。天井の見えない忠誠心に、むしろ微妙な気持ちになってしまう。
「大丈夫だよ。このムーンストーンは寝室に置いておこうと思ってる。これからの人生が幸せでありますようにって、天谷さんが願いを込めてくれたんだ」
「……人生、ですか?」
「これからの人生を、旅にたとえてくれたんだ。旅の安全を守る石だっていういわれがあるんだろ?」
 掲げてみるとやはり一段と美しい、淡く青白い光を放っている。
「私はてっきり、どうしても叶えたい願い事があるのかと思っておりました」
「そんなのもあるんだ」
「ええ。特に満月の夜に、石を口に含んで願いをかけると叶う、という言い伝えがあるのです」
 なかなかにロマンチックな内容だった。本当にそれで叶うなら、どんなに幸せだろう。
「でも、私でもきっと叶えられます。文秋さんの願いは、私の願いです」
 まっすぐに見つめられ、ムーンストーンを取り出すふりをして視線を逸らす。こんなことでいちいち心を乱していたら身が持たない。
「ないですか? 願い事。あったらぜひ教えてくださいね」
「……ありがたく、受け取っておくよ」
「私は本気ですからね!」
 叶えられるはずがない。
 お前と恋人同士になって何事もなく日々を過ごす、だなんて。


「文秋さん、大丈夫ですか?」
 問いかけられて、意識が現実に戻る。……今、何をしていた?
 俯きかけて、夕食の最中だったことに気づく。箸を落としてしまっていたようで、翠が上下を綺麗に揃えた状態で差し出してくれていた。
「ごめん……ありがとう」
「もしかして、今日は激務だったのでは? 顔色もあまりよくありません」
「大丈夫。食べて寝たら、元気になるから」
 皿に盛りつけられた食べ物を全力で流し込む。
 風呂でもぼんやりしてのぼせかけたし、予想以上に二人の話が尾を引いている。
 望むように行動するのが一番だと天谷は言った。
 ――想いに蓋をして、ただの主従関係を保つこと。
 それが願望だと思い込みたいのに……どうしても、胸のあたりのしこりが邪魔をする。剥がそうにも剥がれない。
 わかっている。そのしこりは、純粋な欲望だ。
 ――好きだと言ってもらいたい。抱きしめてもらいたい。キスをしてもらいたい。それ以上のことだって、構わない。
 欲望というのは際限がない。無理やり認めろと言わんばかりに、心全体に巣くうそれをかき集めようとする。
 恋人同士になれたとて、死ぬまで幸せな日々が続く可能性は限りなく低いと知っていながら、茨の道を進めと暗に告げているのか。翠にも、歩かせようというのか。
 ――だめだ。欲望は抑え込まなければならない。互いが一番に安定した道を、歩み続けなければならない。
「ごちそうさま。……ほんと疲れたみたいだから、もう、寝るよ」
 翠の気遣う視線を振り切るように、ソファーから立ち上がる。頭を強制的に休める必要があった。こんな状態で思考を回しても、負のスパイラルからは抜けられない。
「文秋さん……もしや、天谷様のお店で何かあったのでは?」
 洗面所から戻ると、寝室の前に翠が立ち塞がっていた。
「やはり、そうなのですね。藍に、なにか言われたのではありませんか?」
 予想しなかった問いに足を止めてしまった隙を、翠は見逃してくれない。
「だから、天谷さんにお詫びされてだけだって」
 顔を見れない。見たら、きっと余計なことを口走ってしまう。
「とにかくもう寝させてくれよ」
「文秋さん!」
 強引に寝室へ向かおうとした瞬間、足に固い感触がぶつかる。
 衝撃に耐えきれず傾いていく身体は、途中で止まった。
「大丈夫ですか?」
 腹部に翠の腕が回り、ぶら下がるような形で支えられている。焦るあまりテーブルの角に足をぶつけて転びかけるとは、とんだ醜態を晒してしまった。
「……大変、失礼いたしました。本当に、お疲れのようですね」
「だから、そうだって言ってるだろ? それより、もう離して」
「落ち着いて。私がこのまま、ベッドまでお連れします」
 視界がいきなり天井に移った。少しずらせば、翠を下から見上げる形になる。
 どう考えても、横抱きだった。女性は憧れるだろうが、少なくとも男性の自分は全くときめかない。好きな人にされても、むしろ羞恥しか感じない。
 暴れたい衝動を必死に堪えて、頭を翠の胸元に押しつける。下ろしてもらうのを切実に待った。
 やがて、背中に柔らかい感触が走った。全身からも無駄な力が抜けていく。
「到着しました。どうぞ、ゆっくりお休みください」
 布団をきっちり顎の下までかけて、頭を労るようにひと撫でしながら微笑んでくれた。
「文秋、さん……?」
 ふいにこみ上げた寂しさのあまり、離れようとしていた背中に手を伸ばしていた。
 振り返られて、我に返る。慌てて布団の中に掴んだ証拠を戻しても、意味はなかった。
「いや、ごめ、なんでもない……んだ」
 言い訳が浮かばない。心が神経質になっているあまり奇行に走ってしまったんだと、自らに言い聞かせるしかない。
 反対側を向いて、翠が去ってくれることを黙って祈るしかなかった。
「……失礼、いたします」
 上半身が浮いたような感覚が走り、息苦しささえ感じる力がかかる。かすかな香りと翠自身の力のせいか、波立つ感情が穏やかになっていく。
 言葉は、何もなかった。何も言えなかった。翠の両腕を、耳に届く呼吸をただ、感じているしかできなかった。
 翠は主を純粋に助けようとしてくれているだけなのに、どんどん熱が上がっていく。あれほどにもがいていた時間が嘘のように、想いが許容量を越えて、あふれてくる。
 温度のない、けれど誰よりも安心を与えてくれる身体に、包まれていたい。
 喉の奥から迫ってくるものがあった。久しくなかった、今は我慢しておきたいものだったが、無意味だった。
 閉じた瞳の隙間からにじみ出て、こぼれ落ちてしまう。枯れることを知らないように、止まらない。
「泣いて、いらっしゃるのですか?」
 嗚咽を堪えているせいで、答えられない。
 こちらの顔を覗き込んできた翠は、眉根を寄せた。
「教えてください。どうすれば、涙を止めてさしあげられるのですか?」
 目元を拭う動きに合わせて、薄く瞼が降りる。再度持ち上げても視界は歪んだまま、まともに捉えることができない。
 止まる方法があるなら、教えてほしい。
 これ以上あふれない方法を、教えてほしい。
「……お前が」
 だめだ。それは、翠を否定することと同義だ。
「人間だったら、よかったのに」
 止められなかった己の身勝手さが腹立たしい。泣く資格すらない。
「ごめ……翠、ごめん……」
 謝るくらいなら、唇を噛み切る思いで押し殺せばすむ話だった。ただの自己満足に、ひどく惨めでならない。
「それ以上力を込めたら、傷がついてしまいます」
 唇の表面をそっとなぞられる。くすぐったさで力が抜け、かすかな吐息がもれる。唇を一周したあの時の指を思い起こさせた。
 気づけば、翠の閉じられた瞼が目の前にあった。口から息が吐き出せない。
 一気に情報が頭に流れ込んだ。身を捩るも、翠に動きを封じられてしまう。
 どうして。どうして、キスをするんだ。好きでもないくせに、このキスの意味はなんなんだ。
「っ、ふ……」
 角度を何度も変えて、触れるだけのキスが続く。翠に体温はないのに、重なった部分が熱くてたまらない。背中を滑る手のひらの気持ちよさに、声が止まらない。
 唇が解放されるとすぐ、頭を首筋に押しつけられた。若干の震えは自らのものか、翠のものか。
「……私こそ、申し訳ございません。今のは、忘れてください」
 絞り出すような声だった。顔を見て問いつめたいのに、許してくれない。
 一度離れて戻ってきた翠は、枕を持ち上げて何かを置いた。
「文秋さんがお迎えになったムーンストーンを、枕の下に入れさせていただきました。こうするとよく眠れますよ」
 他の石について触れたのは、初めてだった。
 またこみ上げてくる涙を抑えたくて、目を閉じる。後頭部を撫ぜる動きに、少しずつ意識が沈んでいく。
「どうぞ、ゆっくりお休みください。ムーンストーンの力がきっと、落ち着けてくれます」

 翠の心を覗ければいいと、一瞬願ってしまった。
 強い使命感ゆえの行動なのかと、恐怖をかなぐり捨てて問いかけたかった。

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