星空と虹の橋

【第6話】俺はエメラルドのご主人様じゃない!

 朝から気持ちが落ち着かなかった。ある意味らんがいてくれてよかったと安堵するほど、すいとやけに目が合うたび感情が渋滞を起こす。
 無駄に意識しているせいではなかったとわかったのは、寝室で外出用の服に着替えていた時だった。
『買い物に行かれるのでしたら、ブレスレットをお持ちください』
 ベッドサイドに置いていたスマートフォンが震え、通知欄に表示されていた名前にすぐ内容を確認すれば、そんな文章が綴られている。
 さりげなく翠を見やれば、翠はキッチンに背中を向けて立っていた。藍はテレビに意識がいっているようで、気づく素振りはない。
 自分も、窓際に向かってベッドに腰掛けた。手の中の端末がまた震える。
『藍に抗うことにしたのです。私の意思を貫いて、諦めてもらうつもりでいます』
 文面だけでも、妙に吹っ切れた気持ちが伝わってくる。
 嬉しいと素直に喜べばいいのか、相変わらずの使命感だと呆れればいいのか、悲しめばいいのか、浮かんだ感想は複雑だった。
 大体、あと一歩進んだらキスをしてしまうところだったあの瞬間についてはどうなんだ。人の心臓を散々うるさくしておきながら特に触れてこないし、使命感に燃えているようだし、ちらっとでも浮かべてしまった期待は意味がないということか。
 全身が熱い。下手な行動に出られないぶん、藍の存在に改めて感謝したくなる。
『やはり、駄目ですか? 私はもう、不要な存在ですか?』
 ああ、またマイナス思考に囚われている。子どもと大人を同時に相手しているような気分になる。
『そんなわけないだろ。どうすればいいんだ?』
『ありがとうございます……!』
 即返ってきた返信のあとに送られてきた作戦は、翠が藍を引き付けている間にブレスレットを素早く持ち出してほしいという実に単純なものだった。
 もう家を出るだけという状態にしたところで藍に出かける旨を告げ、すぐに翠が話しかけて意識を逸らす。その隙にテーブルの上にあるブレスレットを持って玄関をくぐり、エレベーターまで駆け出した。
 あっさりと、成功した。思わず、誰もいないところでテンション任せに抱き合ってしまったのは……あまり思い出したくないほど、恥ずかしい。


『私の我儘を聞き入れてくださって、ありがとうございます。今、とても楽しいです』
「それならよかったよ。……でも、帰ったら藍くんに雷以上のもの、絶対落とされるよね」
『私も一緒に怒られます。いえ、むしろ私だけが怒られるようにします。ご安心ください』
「いいよ。俺もちゃんと怒られるから」
 翠は息を詰まらせたようだった。
『……文秋ふみあきさん、今日はいつも以上にお優しい気がします。あ、もしかして気を遣ってくださってますか?』
「久しぶりにブレスレットつけてるからだよ。すごく大事なものなんだから当たり前だろ?」
 予想外の、心臓に悪い質問をぶっこんでくるのはやめてほしい。ただの買い物、翠にとってはただの仕事、何度もそう言い聞かせる。
 久しぶりの恋は、戸惑いばかりだ。
 寝て起きたら、変わらないはずの光景がどこか違って見えた。自然と翠の姿を目で追ってしまうし、妙に輝いて映る。普段通りを装うのが大変だった。
(そういえばこれって、俺的にはデート……になるのかな)
 姿は見えずとも、確かに一緒にいる。客観的に見たら小声の独り言でも、確かに会話をしている。
 はっきりと、心が浮き立つのを感じた。気を抜いたらきっと、怪しい人間に変化してしまう。
 ただ、今日の買い物は日用品の補充だけだ。駅前のホームセンターやスーパーに寄るだけで終わってしまう。何とも短いデートだった。
 翠自身にもあまり負担はかけられない。姿を消していたとしても、今日は雲の少ない快晴だ。念のため、長時間の外出は控えたほうがいいだろう。
 それでも、少しだけでいいから、二人だけの時間を堪能したい。わがままとわかっていても、願う気持ちを抑えられない。
『あの、文秋さん』
 遠慮がちに、翠が声をかけてくる。
『私の身勝手な願いを……聞き入れてくださる余裕はまだ、ありますか?』
「……どんなの?」
『久しぶりの文秋さんとの時間を……もっと、堪能したいです』
 唇が緩むのを必死に堪える。自惚れた通りになるなんて、思わないじゃないか。
「いいよ。俺も、ちょうどそう思ってたところだったんだ」
『ほ、本当ですか……!』
 そんなに大げさに喜ばれると勘違いしてしまいそうになる。姿が消えた状態で本当によかった。
『私は、私はきっと、つかの間の夢を見ているのかもしれません!』
「そういうこと言ってると、このまま帰るぞ」
 慌てて謝ってくる翠の姿を想像して可愛いと思うなんて、つくづく恋愛の力は恐ろしい。


『都会でも、緑の多い場所はあるのですね。とても美しく、気持ちが和らぎました』
「都会って言っても郊外だから、駅前からちょっと外れればああいう場所は結構あるよ」
 癒やしの力を持つからなのか、自然の多い場所に行ってみたいと翠からリクエストがあった。
 電車で二駅移動した先にある公園の散歩コースを、一時間ほど歩いてみた。コースの両端に立ち並ぶ木々の緑から瑞々しさは収まり、柔らかな日差しの似合うような色合いに変化していた。もうすぐ、秋がやって来る。
 短時間でいいから、翠と並んで歩いてみたいと思った。話しながらでもいいし、ただのんびり歩くのもいい。
『また、あの公園を訪れたいですね。他にもコースがあるようですし、紅葉の時期はさぞ美しいでしょう』
 また、願望が合致した。偶然にしてはできすぎている。そんなに期待させたいとでもいうのか?
「……そろそろ、買い物行こうか。いい加減、藍くんも我慢の限界迎えてるかもしれないし」
 余計なことを考えるのはよそう。今は、二人だけの時間を精一杯楽しまないと損だ。
『……一刻も早く、藍には諦めてもらうよう尽力します』
 苦笑しながら改札をくぐり、まずはホームセンターに向かう。ここは他の支店に比べて規模が大きく、この店舗にしかない商品も多数あるらしい。わざわざ足を運んでくる客も多いと聞く。
「あれっ、先輩?」
 空耳かと思ったが、違った。
「うわー、すげー偶然ですね!」
 スーツ姿で見慣れているから、私服だと一瞬誰だかわからなくなる。
 長袖の赤いチェック柄のシャツを羽織った後藤は、いつもの人懐こい笑顔でこちらに歩み寄ってきた。
「え、もしかしてこの店に用事? 後藤んちの近くにもなかったっけ」
「あるんですけど、俺が愛用してる洗剤ここにしかないんですよ。こうやってちょいちょい来て、買いだめしてるんです」
「……洗剤、こだわってたんだ」
「ひどっ! よく落ちるんですよ、先輩も使ってみてくださいよ」
『文秋さん、私も参考にさせていただきたいです』
「じゃあ、見てみようかな」
 頷いた後藤だが、なぜか立ち止まったまま、視線を下に固定している。
「久しぶりじゃないですか? ブレスレット」
「あ、そ、そうだな。やっと持ち出せたっていうか」
 後藤の口元がいやらしい感じに広がっていく。
「先輩、嬉しそうですもんね~。あ、それか噂の気になる君とデート中だったり?」
 反射的に、口を塞いだ。見開かれた目が理由を要求している。
「っせ、先輩何するんですか! びっくりしたなーもう」
「いいから余計なことは言うな。洗剤教えてくれ」
「はぁ? ああ、気になる君がやっぱり近くにいるんすね?」
「繰り返すなって!」
『……文秋さん。気になる君って、なんですか?』
 問いかけてくる声が、穴の底から響いてくるような音に変化している。
 今さらながら、適当に受け流せばよかった。翠に関してはあとでどうとでも誤魔化せる。過剰な反応をしたせいで、ややこしい展開に変化してしまった。
 訝しげに見つめていた後藤は、内緒話をするように顔を近づけてきた。
「……もしかして今、誰か近くにいたりします?」
「だから、いないって」
「違います。……もっとはっきり言いましょうか。執事みたいな男の人、いるんじゃないですか?」
 完全に固まってしまった。黙認したようなものとわかっていながら、言葉が出ない。
『……文秋さん。どこかに移動したほうが、いいかもしれません』
 落ち着きの戻った声がスイッチになったように、頭が少しずつ回転を始める。
 他人の目が一切入らない、まさにプライベートルームのような場所に向かう必要があった。

感想ありましたらぜひ

選択式・一言感想フォーム