
「それ」を捉えたのは、本当に偶然だった。
予報にない雨に降られて、傘代も惜しいとパーカーのフードを被りながら足早にアパートへ向かっている時だった。
視界の端に黒い塊のようなものを捉えた気がして、思わず足を止めた。
シャッターの下りた空き店舗が二つあり、その間を仕切るように伸びた道幅の狭い道に、自転車が数台乱雑に置かれている。そこに黒い塊が転がっていた。
近寄って、ぞっとした。うつ伏せに倒れた男だったからだ。
「おい……おい!」
抱き起こして頬を叩いたり、軽く揺さぶってみるも反応はない。街灯にうっすら照らされた顔に血の気がないのも手伝って、心臓がいやな音を立て始める。
バイト先から自宅までは、徒歩と電車の時間を合わせて一時間ほどの距離がある。雨はこの駅に到着まで残り二駅のところで、降り出していた。
どれだけの時間倒れていたのかはわからないが、今日は梅雨が近いわりに気温が低い。体感温度は寒く感じているはずだ。
おそるおそる胸元に耳を当てて心音を探ると、はっきり打ち返してくる感触があった。よかった、最悪の事態だけは免れた。
「とにかく病院に連れてかないとだな……」
隣駅の方が近いが、電車で移動するわけにはいかない。タクシーを呼ぶしかないだろう。
「……らない……」
スマートフォンを取り出しかけた手が、止まる。
意識を失っているはずの男の声が聞こえた気がした。腕に感じる弱々しい感触は、彼が掴んでいるのか。
「びょうい、ん……いらない……」
念のため呼びかけてみると、うわ言のような声が漏れていた。伝わるかわからないが、一応答える。
「だめだ! あんた、そのままだと死ぬぞ」
「しにたい、しなせて……おれは、しにたい……」
まさか、自殺願望者なのか?
気にはなったが、謎を解いている暇はない。かまわずタクシーを手配しようとして……やめる。
うわ言のようでありながら同じ言葉を繰り返している男の本気を、示されている気がしたのだ。
『お前って、よくお人好しって言われない?』
バイト先で仲のいい先輩に以前言われた言葉を思い出して、つい短い溜め息がこぼれる。
これもきっと、何かの縁なんだろう。そう思い込みながら、先ほどとは違う理由でタクシーを呼び出した。
+ + + +
「気がついたか?」
夕方に差し掛かる頃、閉じっぱなしだった彼の目がゆっくりと開いた。
「覚えてるか? あんた、熱出して倒れてたんだ。二日も寝たまんまだったぞ」
アパートに着いて早々衣類をすべて取り替えている時、四十度近い熱を出していることに気づいた。意識が全く戻らない上に熱も併発しているとなれば、つきっきりで看病するしかない。
朝夕で掛け持ちしているバイトは、仕方なく休みにするしかなかった。
「……あの世って、やっぱりしんどいんだな」
かすれてはいるが、心地のいいトーンの声だった。寝ぼけているのか、内容は全く理解できない。
「ここはあの世じゃない。オレの部屋だ」
とりあえず何か飲ませるのが先だろう。冷蔵庫にあるスポーツドリンクを取りに向かう。
男は周りを観察するように、首を緩く左右に動かしていた。その目がこちらの姿を捉えた瞬間、痩けた頬をわずかにこわばらせる。
「誰、だ?」
「
簡素にまとめると、目を大きく見開いた男はいきなり上半身を起こした。
「おい、いきなり動くな!」
「何で……俺を助けた」
布団を握りしめた男は、また意味不明の言葉を口走った。
「あんなとこで倒れてるやつを見捨てられるほど、オレは非道じゃない」
「それで、構わなかったんだ! 俺は、俺は……っ」
咳き込んだ男の背中を撫でながらペットボトルを渡すが、乱雑に押し戻されてしまう。
「世話に、なった」
立ち上がろうとする男を無理に止める必要はなかった。飲み食いせずに寝ているだけだった人間が、急に動けるわけもない。
「いいから、馬鹿なことを言ってないで寝てろ」
拒否したかったらしいが、身体が言うことを聞かないのだろう。再度渡したペットボトルをしぶしぶ受け取ったのを確認してから、台所に向かう。
結局、男は作った粥も食べると再び眠りに落ちた。