星空と虹の橋

【第1話】俺はエメラルドのご主人様じゃない!

 ベッドの上でブレスレットを拭いていたら、いきなり目の前に執事風の男が現れました。
 一瞬、魔法のランプかな? と思いました。

 思わず心の中でナレーションしてしまったほど、目の前の光景の意味がわからなかった。
 だって、どう説明しろと?
 玄関の鍵は閉めている。窓も、熱帯夜対策でエアコンをかけているからぴったり閉めている。
 他人が侵入できる箇所はどこにもないのに、赤の他人が立っているのだ。
「お迎えいただき、ありがとうございます。ご主人様」
 しかし、目の前の男は丁寧なお辞儀を披露し、柔和な笑みに似合わないきらきらとした淡い緑の双眸でこちらを見つめている。歳は同じぐらいに見えるが、ドラマや映画でしか見たことのない燕尾服を身につけた上に落ち着いた声音をしているせいで、不詳に思えてくる。
「本日この瞬間より、貴方に精一杯お仕えいたします。どうぞよろしくお願いいたします」
 胸の下に片腕を添え、男は再び恭しく頭を下げてくる。
 多分、とても長い沈黙を流していたと思う。それくらいの時間をかけないと現状の整理はできない……と思っていたがやはり無理だった。
 とりあえずブレスレットをベッドサイドに置いて、男の腕を掴む。
「ご、ご主人様?」
 戸惑う男をリビングに連れて来ると、ソファーに座るよう促した。最初は渋っていた男も、無言で見つめ続けると諦めたように足を揃えて腰を下ろした。
「一体どうやってここに入ってきたのかわからないけど……俺は、お手伝いさんとか雇った覚えはないから。君、どこかの屋敷と間違えてるんじゃない?」
 我ながら無茶苦茶だが、他にふさわしい説明があるなら教えてもらいたい。
 まず、現在時刻からして非常識なのだ。日付をまたいだばかりの時に訪問していいのは、よほどの親しい人物か肉親くらいしかいない。
 加えて、先述の通り他人が侵入できる場所も仕掛けもない。
 男はエメラルド色の瞳をたっぷりこちらに投げたあと、我に返ったように思いきり息をのんだ。
「大変申し訳ございません。私としたことが、ご主人様への説明を失念しておりました」
 だめだ、話が噛み合ってない。
 いっそ無理やり外へ追い出すしかないかと物騒な考えが頭をよぎった時だった。
「私はエメラルドの化身、名前を、和名の翠玉にちなんですいと申します」
 どこぞの貴族相手にでもするように、片膝をついて恭しく頭を下げてきた。
「ご主人様のエメラルドへの愛情に呼応するかたちで、このように実体化と相成りました。今後はどうぞ、私をいかようにもお役立てくださいませ。浅黄文秋あさぎふみあき様」
 やっぱり、意味がよくわからなかった。

  * * * *

 ブレスレットを購入した日はだいぶ疲れていた。比較的規模の大きいプロジェクトのメンバーに選ばれて間もなかったから、日々の疲労が限界近くまで蓄積していたのだと思う。
 精のつくものでもと、珍しく普段とは別の店で少し値段の張る弁当を購入した帰りだった。
 軒先に植物がやけに置かれているから、最初は観葉植物を扱った店なのかと思った。
『ちょっと、お店に寄ってくださる?』
 植物を片付けていたオーナーの女性と視線が交差したのが、すべての始まりだった。
 柔らかくも凛とした声に抗えず後をついていくと、中央のテーブルに飾られた透明な球体が目に飛び込んできた。占い師御用達の店なのかと軽く混乱したまま首を左右に動かせば、女性が好みそうなアクセサリーが壁際に並んでいた。
『どういう、お店なんですか?』
 半ば無意識に尋ねると、予想しなかった答えが返ってきた。
 植物も占い師も関係ない、パワーストーンを扱った店だったのだ。
『あ、あの……俺、そういうのはあんまり詳しくないですよ』
 悪徳商法とやらに引っかかってしまったかもしれないと、焦りと戸惑いに支配されていく自分を少し見つめた彼女は、納得したようにひとつ頷くとアクセサリーが並ぶ棚に向かった。
『パワーストーンなんて信じられないとお思いなのを承知で……ぜひ、これを見ていただきたいの』
 その言葉と共に見せてくれたのは、数珠タイプのブレスレットだった。使われている石は水晶、アンバー――和名で琥珀だ――、エメラルドと、疎い自分でも耳にしたことのある名前ばかりだった。
『癒やし効果に特化したブレスレットなのだけど、メインはこのエメラルドよ。とても綺麗でしょう?』
 女性は二つのアンバーに挟まれたエメラルドを指差した。
 パワーストーンなんて、単なるインチキだ。災難から守ってくれますとか、魅力的にしてくれますとか、魔法みたいな現象など起きるわけがない。確かにそう思っていた。
 だが、ブレスレットを受け取った瞬間、何とも言えない不思議な感覚が手のひらから生まれ、全身に染み渡っていった。特に他の石よりも一回り大きい、透き通った淡いグリーンから目が離せなくなった。
『パワーストーンに初めて触れたお客様には胡散臭く聞こえるかもしれないけど……今、気持ちがふっと和らいだのがわかるわ。エメラルドには、癒やしの力があるの』
 とても、疲れているでしょう?
 心臓が高鳴った。彼女に、自分でも気づいていない部分までも見透かされているような気持ちになった。
 改めて、手に載せられたブレスレットを見つめた。目を奪われたエメラルドは、あたたかい眼差しに似た光を放っていた。
『これ、ください』
 思わず、そう告げていた。
 万超えする値段を聞かされても、そのブレスレット以外考えられなかった。

 それから三ヶ月ほどが経ったが、肌身離さず身につけていた。
 あのオーナーの言葉を証明するように、自分でも驚くほど心身のストレスが減ったのだ。
 日々の生活は、購入前と何一つ変わっていない。だからこそ余計に、パワーストーンの力を信じ始めていた。
『あのエメラルドと浅黄さんは、よほど波長が合ったのね。私にも覚えがあるから、わかるわ。そういうのを聞くと、あながちインチキとも言いきれないんじゃないかなって思うのよ』
 すっかり顔なじみとなった店「BANDE STONEバンデ ストーン」のオーナーの言葉も深く心に染み入る……と思っていたが、だ。


「えーと、君の話をまとめると……俺がブレスレットというかエメラルドを大事に大事にしていた気持ちが伝わって、さらに相性ぴったりだったから実体化できた、ってこと?」
「さすがご主人様! その通りでございます」
「いや、わかってないよ? 全然わかってないから」
 冷静を努めて突っ込んでも、目の前のエメラルドの化身とでも言えば正しいのか、とにかく翠はにこにこと、柔和な顔にふさわしい笑みを刻んでいる。
 理解しろというほうが無理だ。テレビで映画を楽しんでいたらいきなりその世界に連れて行かれました、レベルの超常現象をどう飲み込めと言うんだ。
「しかし、仰っていたまとめは完璧でした」
「俺が言ってるのは、どうしてそうなるの? っていう意味。だって、普通ならこんな現象ありえないから。まだ、どこかの執事なのに間違えてここに来ちゃいましたっていうほうが理解できるよ」
 翠は困惑したように眉尻を下げた。眉の上で前髪が整えられているから、表情がよくわかる。
 改めて見ると、人間と変わらない。変わらないからこそ、混乱が収まらない。
「しかし、現に私はこうしてご主人様のもとにおります。エメラルドが持つパワーを授ける以外の補佐も可能になったのです。ですから」
「そう言われても、どうやって信じればいいんだよ……」
 これは夢なんだ。そう思わずにはいられなくなってきた。
 今日は土曜日、いや日付が変わりたてだから日曜日か。一週間の疲労がもろに出る。ブレスレットの手入れをしていて、気づかないうちにベッドに倒れ込んでいてもおかしくない。現実の自分は眉根を寄せて寝返りをうっている、そうに違いない。
「……わかりました」
 翠は目の前で片膝をつくと、一度断ってから手を取った。白い手袋の下は冷たくも熱くもない、温度の全く感じない皮膚だった。
「すぐに済みます」
 手のひらを覆われる。静寂ながら、緊張感のある時間が流れる。問いかけたくても、どんな音も立ててはいけないような空気を感じる。
 やがて、あるはずのない異物感が生まれた。同時に覆いが外される。
「これ……エメラルド、か?」
 ピアスの装飾にでも使われていそうな、小さな緑の粒が出現していた。もう片方の親指と人差し指でそっと摘み、光にかざしてみる。
 小さくてもわかる。この透明感は、ブレスレットのエメラルドと同一だ。
「いずれ消えますが、一晩は充分に持ちます。ご主人様がお目覚めになってもその石が残っていたら、現実だと信じて私を受け入れてくださいますか?」
「……すごく疲れてるけど、大丈夫?」
 つい問いかけてしまったのは、翠の両肩がぐっと下がり、眉間にわずかな皺が刻まれていたからだった。
「いえ、お気遣いなく。……でも、そうですね。よろしければ、ブレスレットを窓辺に置いておいていただけますか?」
 浄化をしてほしい。男はそう告げていた。
 石に溜まったマイナスエネルギーを除去したり力をチャージしたりと、浄化はパワーストーンにとって欠かせない。
 いくつか方法はあるが、彼が言っているのは「月光浴」だ。満月と、その二、三日前後に窓辺に置いておくといいとネットで調べた記事にあったので、自分でも気がついた時に行っていた。
 タンスの上に置いておいた、ブレスレットを購入した時につけてくれた保管用の茶色い正方形のケースを持って寝室に向かう。きれいな輪になるようケースに置き、窓辺に歩み寄った。
「今宵は満月ですから、効果は高そうですね」
 屈んだ体勢から立ち上がる。マンションの四階から視線をまっすぐに据えると白の明かりたちが四方八方に散っているが、少し上に移動させれば、ほのかに黄色い光を負けじと放つ、美しい円が浮かんでいる。
 別段特別な夜ではないはずだったのに、後ろに立つ翠の存在が、浮世離れした気分へと変化させてしまう。
 翠は、両肩に手を置いてベッドへと促した。
「お身体に障りますし、そろそろお休みください。明日は何時に起こしましょうか?」
「え、じゃあ、八時半……」
「かしこまりました。その時間にお声をかけさせていただきますね」
 スマホのアラームがあるから、とはとても言えなかった。
 混乱の残る頭を引きずって、ベッドに座った瞬間あることを思い出す。
「あ、君の寝る場所がなかった……ごめん、ソファーしかないんだけど」
 顔を上げた先で、翠の変わらない微笑みが返ってくる。
「睡眠という概念はありませんから、お気になさらないでください」
「寝ないってこと?」
「休息という意味でしたら、浄化がそれにあたります」
 とりあえず納得するしかなかった。これ以上情報を詰め込まれたら、頭が興奮して眠れなくなってしまう。エメラルドの粒をベッドサイドに置いて、無理やりに瞼を下ろした。

感想ありましたらぜひ

選択式・一言感想フォーム