星空と虹の橋

【第10話】俺はエメラルドのご主人様じゃない!

「おはようございます。文秋ふみあきさん。具合はいかがですか?」
 取り戻したいはずの朝がやってきた。意識はそこまで混濁していないのに、まだ夢を見ているらしい。
 上半身を起こした。風邪を引いていたのが嘘のように、気分がすっきりとしている。
「全然、大丈夫みたい」
「そうですか! ずっと眠っておられたので心配でしたが……安心いたしました」
 どうせなら答えてやろうと思っただけなのに、普通に返事が来た。
 改めて、柔らかな笑顔を見つめる。やがて訝しげな表情に変わり、首をかしげられた。
 次第に違和感を覚えていく。
 夢にしてはやけにリアルだし、身体に触れているものすべてにも、確かな質感がある。
「大丈夫ですか?」
 背中に触れる手のひらも、記憶の中と寸分違わない。
「……すい?」
「はい」
 ふたつの、淡く輝く緑がまっすぐに注がれる。
 頬に手を伸ばした。温度は感じない、だが夢ではありえない本物の感触だった。
「ほん、もの?」
 白い手袋を抜き取り、直に触れる。頬と変わらない感触が返ってくる。
「はい」
「夢じゃ、ないのか?」
「……確かに、戻りました。ただいま、と申し上げるべきでしょうか」
 眼差しが、秋の日差しを受けたように優しく煌めく。あの日、エメラルドに惹かれた時と同じような光を放っている。
 自分と一緒に窓の外にあったはずのブレスレットは、ベッドサイドに置かれていた。やはり、らんが来てくれていたみたいだ。
 エメラルドに輝きは、変わらず戻っていない。
 なのに、ただいまと彼は言う。視線を戻した先に、泣きそうな笑顔の彼がいる。
 目の前の光景を本当に信じていいのか、受け入れていいのか、迷いはまだ消えない。
 それでも、触れられている。声も聞こえている。夢で納得できるはずがなかった。
 勢いのままに抱きしめる。ないはずのぬくもりを確かめるように、力を込める。
「なんでだよ……なんで、普通に戻ってきてるんだよ……」
「私にも、よくわかりません」
「俺が、どんな気持ちでいたと思って……」
「……申し訳、ありません」
「もう、あんな無茶、絶対に……!」
 抱き返してきた腕の力に胸が震える。感覚に直せば永久にも長い時間を越えて戻ってきた翠のすべてを、ただ堪能する。
 向き直った瞬間に、自然とエメラルドにとらわれてしまう。妙に熱が秘められている気がして、さりげなさを装って逸らそうとした。
「逃げないでください」
 頬を包まれてしまった。ベッドに乗り上げて、距離を詰めてくる。
「確かめたいことが、ございます」
 背筋が粟立つほどに真剣な声音だった。吐き出す吐息が震える。必死に記憶を巻き戻して言葉の意味を探るが、引っかかるものはない。
「ほんとに、兄さんなの……?」
 翠の背中にかけられた弱々しい声が、流れていた空気を霧散させた。
「藍くん……」
 信じられない。藍の表情は固まっていた。
「小さな気を、感じたと思ったんだ。でも、気のせいだと、思って。期待したら……だめだって」
 声が震えている。翠がそばまで歩み寄り、少し乱暴に頭を撫でた。
「……戻ってこられた理由は、私にもわからないんだ。でも、ここにいる」
 無言で見上げた藍は堪えるように唇を震わせて、姿を消した。
『今日、絶対店に来なよ。来なかったら、承知しないから』
 藍も、同じ気持ちだった。化身ならいつ迎えてもおかしくない結末だからこそ、平常さを装って受け入れようとしていた。
 自分に向けていた言葉の数々を思い出して、胸が締めつけられそうになる。
「……文秋さん。朝食の準備をしますので、少々お待ちください」
 翠の言葉で我に返る。そうだ、出勤の準備をしなければならない。けれど。
「さっき話があるって言ってたけど、いいのか?」
「いえ、大丈夫です。……帰宅してからに、します」
 そこまで出し惜しみされると逆に気になってしまうのだが……答えは通勤中にもらった、後藤からの連絡で察してしまうこととなる。
『昨日、翠さんのスマホから休みますってメッセージ来てたんで、オレが連絡しておきました』
『うわ、そうだったのか! 悪い、助かった』
『代わりに、俺も愛してるって告白送ってきた理由を絶対、包み隠さず! 教えてくださいね。それも先輩のしわざだってのはわかってますから、逃げてもダメですよ』
 翠のスマートフォンを持っていた時に、そんなことを打ち込んだ気がする。一昨日の夜は正直、翠が戻ってきてほしいとひたすら祈っていた記憶だけがこびりついていて、あとは霧にでも巻き込まれたような状態だった。
『……文秋さん。その、お顔が赤いです。大丈夫ですか?』
 返事ができないでいると、ぼそっと翠の突っ込みが入った。
 言うな。しかもその言い方、もしかして理由をわかってないか?
 ……わかっていないほうが珍しいと、気づいてしまった。後藤に「告白する」と宣言を送っている以上、スマートフォンを見ないわけがない。
 ますます、熱が上がりそうになった。


 店に来るまで気持ちが落ち着かなくて大変だったと語った天谷あまやは、翠の姿を見た瞬間に自分のことのように喜んでくれた。
「もう、絶対に無理だと思っていたから……奇跡としか、言いようがないわ」
 全く同じ感想だった。ブレスレットに残ったエメラルドは完全に輝きをなくしているのに、翠は全く変わらない姿で隣にいる。
「やっぱり、このエメラルドはただの石だよ。パワーストーンの力は完全に消えてる」
 ブレスレットを丹念に観察していた藍は、眉根を寄せたままこちらに返す。今度は自分の全身を訝しげに眺め始めた。
「でも、翠さんはここにいる。力があるということなのよね?」
 翠は曖昧に頷いた。
「自分のことながら、私も本当に謎なのです。以前よりも力は弱まったような気はいたしますが、使うこともできますし」
「あんた、一体何をやったの?」
 翠がいる手前、白状するのは勘弁願いたかったが、一斉に向けられた六つの目からは逃げられそうになかった。諦めて、エメラルドの欠片を飲み込み、ムーンストーンを口に含んで願い事をとなえたことを伝える。
「まさか、それで本当に願いが叶ったと、いうのかしら……?」
 信じられないとでも言いたげなつぶやきだったが、同じ気持ちだった。だが、パワーストーンの化身という非現実的な光景を目にしている以上、否定もできない。
「……だから、あんたからエメラルドの力を感じてたのか」
「俺、から?」
 翠も驚いている。
「前より弱いけど、感じるんだ。僕もこんな現象は初めてだから、理由とか全然わかんないけど……感じるよ」
 藍の言葉を噛み締めながら、腹部に手のひらを当てる。
 確かに、ムーンストーンはなくなっていた。無意識に飲み込んでしまった可能性もあるだろう。
 それでも、信じたかった。最後のチャンスを与えてくれたのだと思いたかった。
 あるいは、試練を乗り越えてみせると誓った覚悟が本物なのか、見定めるためかもしれない。
 どっちでも構わない。もう二度と、後悔はしたくない。
 肩に触れてきた翠の手に自らのものを重ね、緩く握る。
「……もらった奇跡を、無駄にしないよ。翠が護ってくれたように、俺も護るから」
 エメラルドが、大きく揺らめく。噛みしめるように頷いた。
「これじゃあ……もう、二人の反対なんてできないわね、藍?」
 小さな笑い声に、慌てて二人を振り向く。
 あたたかな微笑みを浮かべる天谷と、苦虫を噛みつぶしたような不機嫌顔の藍が並んでいる。正反対だが、自分たちの想いを完全に把握しきっているとわかる表情だった。
「でも、監視はやめないからね。ちょっとでも怠惰な言動を取ったりしたら承知しないから。兄さんが止めてもやめないよ」
「……ありがとう。まだ頼りない主だけど、藍くんに認めてもらえるように、頑張るよ」
 藍は身体ごとそっぽを向いた。照れ隠しなのは、誰の目から見ても明らかだった。
「天谷さんも、いろいろありがとうございます。これからも、また相談させてください」
「もちろんよ。お二人のことも、ずっと応援しているわ」
 純粋な気持ちに、お礼を言うのが精一杯だった。
「あ、そうだ。今度、俺の後輩連れてきますね。実家が天然石の店をやってるらしいので、きっと打ち解けると思いますよ。……翠のことも、知ってますから」
 一瞬目を見開いた天谷だったが、「楽しみにしています」と一言返してくれた。
「……兄さんを助けてくれて、ありがとう。文秋」
 店を出てからつぶやくように告げられた礼に驚いて、背後を振り返る。
 藍の姿はなかった。姿を消したまま佇んでいるのか翠に訊こうかと思ったが、頭を軽く下げるだけに留めておいた。
「弟まで名前呼びなんて、ちょっと妬けますね」
 少ししてからぼそりと嫉妬を露わにした翠に、突っ込む余裕はなかった。
 翠は多分、スマートフォンを確認している。自らへの返事を、読んでいる。
 ……帰ったら、文面では交わし合った想いと改めて向き合わねばならない。
 それでも、内にあるのは緊張だけだ。覚悟は、とうにできている。

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