星空と虹の橋

【第2話】俺はエメラルドのご主人様じゃない!

 店を訪れるのは久しぶりだった。
 観葉植物で彩られた軒先に、見上げれば茶色の背景に白い文字で書かれた店名「BANDE STONEバンデ ストーン」がライトで浮かび上がっている。
「いらっしゃ……あら、浅黄さん。ちょっとだけ、お久しぶりかしら?」
「そう、ですね。閉店間際に来てしまって申し訳ないです」
「そんなの、お客様なんだから気にしなくていいのよ」
 初対面の時から身につけている、深紅の薔薇色に似た石が耳元で揺れている。微笑みは相変わらず、優しい。
 この店に来ると、本当に心が和らぐ。パワーストーンを扱っている以上に、オーナーの人柄がこの雰囲気を作り上げているのだと実感する。
 この店は家から歩いて行くと三十分くらいかかるのだが、特に土曜日は地元の人で溢れている時が多い。住んでいるマンションで見かける顔も数人混じっていたりする。皆、オーナーと話をするのが楽しいみたいだ。
 店内を歩き回ってみる。ネックレスやピアスなど、特にアクセサリーは女性向けの商品が多いが、ブレスレットならユニセックスなものも目立つ。
 中央のテーブルに視線を移した。相変わらず、店のお守りのように水晶の球体が真ん中に置かれている。その周りを囲うように、様々な天然石のタンブルや小さな水晶クラスター、浄化セットなどが飾られていた。
 後藤の案を本当に採用したわけではないが、眺めていても第六感が刺激されるような石はない。
「……話が、あるのでしょう?」
 そっと、声をかけられた。初めから見抜いているような物言いだった。
「それは、浅黄さんが購入してくださったブレスレット。もっと言うとエメラルドの化身……かしら」
 思いきり、オーナーを振り向いてしまった。
「あ、いや……すみません、ちが」
「大丈夫。私は、ちゃんと事情を知っているから」
 オーナーは手早く外にある植物たちを片付け、店側に向けられている「ありがとうございました。またご来店ください」の札を裏返した。
 カウンターの裏に腰掛ける姿がスローモーションに映る。超能力的なもので見破られたのではと、奇天烈な想像までしてしまう。
「パワーストーンの中には、特別強い力を持っているものがあるの。浅黄さんがお持ちのエメラルドは、まさにそれに当てはまる石だった」
 勧められた椅子に、力なく腰掛ける。
「……力がある石なら、何でも実体化するんですか?」
「そういうわけでもないみたい。石との相性が最高に合っていること、大事に想う心の二つが最低限の条件と言われているけど、それでも稀な現象らしいわ」
 翠も似たことを言っていた。それだけの奇跡が……この身に、おりたのだ。
「……突然、現れたんですよ。今日から俺が主だから、よろしくお願いしますとか、何とか言って。でも、今はいないんです」
「本格的な浄化が必要な状態なのね」
 オーナーを凝視してしまった。どうしてこの人は、こんなにも現状を見抜いてしまえるんだろう。
「実は、ね。私も、ある石の化身と暮らしているのよ」
 頭に浮かんだのは、あの生意気なアクアマリンの藍だった。
 オーナーは短い溜め息をつく。
「名前は藍。アクアマリンの化身よ。挨拶もなしに浅黄さんのところに突撃したみたいで、無礼なことをしてしまって申し訳ないわ」
 心臓が無駄に強く脈打ち始めた。まさかこんな近くに、自分と同じ非日常を経験している人がいるなんて……偶然の二文字では、とても片付けられない。
「藍から事情を聞いて納得したけど……あの子はお兄さんが、本当に大好きだから」
 大好きだとしても、初対面から過激すぎて正直行きすぎだと思っているのは……さすがに言えない。
 オーナーは小さな苦笑をこぼす。
「浅黄さんにお渡ししたあのブレスレットだけど、実は藍の助言があったからなの」
 思わぬ告白だった。
「とてもお疲れだった浅黄さんが気になって声をおかけしたのは私の判断だけど、ブレスレットは藍の選択よ。特に、強い力が宿っているエメラルドが絶対に護ってくれるはずだと、言っていたわ」
 その選択が正しかったのは、自らが証明している。
 自分を信じて、兄を預けてくれたようなものだ。その思いを踏みにじってしまっただけでなく、取り返しのつかない事態までを起こそうとしていた。
 オーナーの顔までもを見るのがつらくなる。
「これは、藍には内緒ね。絶対喋るなって釘を刺されてるから」
 いたずらっぽい笑みにつられて、唇が持ち上がる。
「エメラルドが心配で仕方ないって顔をされているけれど、藍の言う通りに浄化していれば大丈夫よ」
 思わず、自らの頬に触れてしまう。
 ブレスレットは、今も水晶の上で眠り続けている。翠も現れる気配はない。朝から晩まで浄化に充てているのに、充分ではないという証だ。
「……おかしい、ですよね」
 オーナーは何も返さない。それが、自分のペースを尊重してくれているように思えてありがたかった。
「俺、翠とはまだ一週間くらいしか過ごしてないんです。他人同然のはずなのに……俺は」
「あくまで姿がなかっただけで、浅黄さんとずっと一緒にいたのよ」
 オーナーの柔らかくも力強い言葉が、染み渡っていく。
「化身が現れるのは、それだけ相性が最高に合う存在だということなの。中には、自分の半身みたいに感じる人もいるそうよ」
 半身、という言葉が驚くほど腑に落ちる。だから、
「そのパートナーが隣にいないのだから、悲しくなるのも心配になるのも当然だわ」
 オーナーの、藍を誰よりも信用している気持ちが、言葉の端々から伝わってくる。
 どんなものよりも説得力にあふれ、心強く感じる。たったひとりの仲間の存在が、臆病な心に喝を入れてくれる。
「実体化して浅黄さんの前に現れたのも、ある意味必然だったのでしょう。エメラルドは癒やしの石だから、きっと全身全霊をかけて浅黄さんをお護りしたかったのでしょうね」
「そういう言い方、ずるいですよ」
 心の周りに張り巡らせていた壁が少しずつ剥がれていく。
「明日になったら、エメラルドの化身は戻ってくる。だから、早くそばにいてあげて」

  + + + +

 アラームが鳴る時間よりも早く、目が覚めてしまった。
 ぼんやりと窓の外へ目を移すと、すでに陽光で塗り替えられている。エメラルドの浄化が、終わりを迎えたのだ。
 頭に巣食う靄を軽く振り払ってベッドから下り、窓辺に歩み寄った。ガラスの器を持ち上げる。
「……もどって、る」
 思わず、声に漏れていた。
 あの日、購入を決めた淡く透き通った輝きが戻っている。見惚れる美しさが、宿っている。
 ブレスレットを持って、リビングに続く引き戸を勢いよく開けた。
「えっ、文秋さん!?」
 キッチンから、黒の塊が現れる。
 黒い頭のてっぺんから中央で分かれた前髪、エメラルドグリーンの双眸、驚きで半開きの唇、暑そうな執事服、黒い靴下で覆われた足……視線をゆっくり、送る。
 変わらなかった。急に目の前に現れて、一方通行に主と仰いでいた翠と、何も変わらなかった。
「も、申し訳ございません! 三日間ご迷惑ばかりをおかけしてしまったのに、起床時間を間違えてしまうとは……! 今日はいつもより早かったのですね」
「違う。俺が勝手に起きたんだよ」
 翠の向かいに立ち、微妙に上の位置にある視線を捉える。
 翠から緊張は消えない。怒り心頭で仕方ないんだとか、的はずれな想像をしているのは容易に予想できた。
「もう、具合はいいの」
「は、はい。不本意ですが、藍のおかげで力を取り戻せました」
「助けてもらった弟に対して、そういう言い方はないだろ」
「そ、それはそれです。藍はずいぶんと文秋さんに対して失礼な口を聞いておりましたから」
「翠が無駄に力を使いまくったせいなのに?」
 翠の全身が一回り小さくなったように見えた。本当にこの男は、思った通りの反応をしてくれる。
「……文秋、さん」
 なぜか驚いた顔をしている。今の会話の流れでどうしてそういう反応をされるのか、首をかしげた。
「失礼、いたしました。文秋さんが、初めて私に笑いかけてくださったので……つい」
 今度は自分が驚く番だった。口元に手のひらを持っていきかけて、止まる。
「っていうか、そんなのいちいち覚えてないでよ。子どもじゃないんだから、恥ずかしいだろ」
「私にとってはとても嬉しいことです。誰よりも大切な主ですから、当たり前です」
 もはや全身がくすぐったい。こんなにも面と向かって純粋な気持ちをぶつけられると、冗談で流せなくなってしまう。意地を張っているのが、馬鹿らしく思えてきてしまう。
「兄さん!」
 少し高めの声が、遠慮なしに空気を切り裂いた。
「よかった、ちゃんと回復したんだね!」
 正面から思いきり翠を抱きしめる藍を呆然と見つめる。何という強い愛だろう。自分にも姉が一人いるが、ここまでの態度には出られない。
「藍くん。翠のこと、本当にありがとう。君のおかげで、翠を助けられた」
 心の中で謝罪も付け足しておく。藍には当分、頭が上がらない。
 振り向いた藍は、宝石とみまごう爽やかな水色を思いきり細めた。
「あんたのためじゃなくて兄さんのためだもん、当たり前じゃない。これを機に、もっと主としての自覚を持ってよね」
 捨て台詞のように告げて、藍の姿が消える。
「全く、藍は……本当に申し訳ありません、文秋さん。あとできつく叱りつけておきます」
 声のトーンが本気だったので、慌てて首を振った。
「自覚がなかったのは本当だから、いいんだ。……気をつけてやれなくて、本当にごめん。翠の主にふさわしくなれるよう、頑張るから」
 目を見開いた翠から、明らかな喜びが伝わってくる。恥ずかしさを誤魔化したくて、ぽんと肩を叩いて洗面所に向かった。
 自然と笑みが浮かぶほど、晴れやかな気分に包まれている。復活した翠手作りの朝食も素直に嬉しい。
「文秋さん。今日から、どうかブレスレットをお持ちください」
 真剣な翠の声に、朝食を食べる手が止まった。
「……翠からしたら病み上がりみたいなものだけど、平気なのか?」
「問題ございません。むしろ、ずっと浄化をしていただいておりましたので充分に力は満たされております」
 こちらを見つめる緑の双眸は、使命感にあふれている。あるいは、自らの宣言が本心なのかを試しているようにも見える。
 もう、翠の存在を否定するような真似はしない。
「……絶対、姿は現さないように。話しかけるのも基本的には禁止。それを守れるなら、つけていくよ」
 自信満々に、翠は頷いてみせた。

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