星空と虹の橋

【第8話】俺はエメラルドのご主人様じゃない!

 ムーンストーンのおかげか、悪夢にうなされることもなく眠ることはできた。
 それが過ぎれば、やってくるのは憂鬱な朝だった。
文秋ふみあきさん。朝です」
 耳元をくすぐる声は、いつも通りの柔らかいトーンだった。
 抵抗するように少しずつ瞼を持ち上げていくと、いつも通りの微笑みが待っていた。
 遠ざかる背中をぼんやり追いかける。
 布団から抜け出すのがひどく億劫に感じる。このままベッドの上で、何も考えず一日を過ごしたい。すいがいなければ、間違いなくそうしていた。
 いつも通りでないのは、自分だけだった。
 だが、最後だけがイレギュラーだった。
「文秋さん。大変申し訳ないのですが……本日も、お留守番でもよろしいでしょうか」
 着替え終わって、ベッドサイドに置いていたブレスレットをつけようとした時だった。
「……あ、別に、構わないよ」
 声の震えを抑えるのが精一杯だった。
 やっぱり、気にしていたんだ。キスまで交わしていれば、いくら懐の深い翠でも思うところがあるのは当然だ。
 どうすれば正解だったのだろう。いや、正解なんてなかった。探す余裕なんて欠片もなかった。
「本当に申し訳ありません。我儘をお聞き入れくださり、ありがとうございます」
 そして柔らかく抱きしめてくる。いつもは安堵感だけを与えてくれる力なのに、木の葉同士が擦れ合うようなざわめきも止まらなかった。


「先輩、もしかしなくても翠さんとケンカしました?」
 後藤がやたら強い口調で昼食に誘ってきた時点で、嫌な予感はしていた。時間帯にしては人の出入りがあまりない店を選んだのも、だ。
 注文を終えて、早速とばかりに身を乗り出してきた後藤に苦笑を返す。
「してないよ。するようなこともないし」
「つまり、何もなかったと?」
 頷くと、呆れたような溜め息をつかれた。
「……先輩、今どんな顔してるかわかってます? オレ、最初具合でも悪いんじゃないかって思ったぐらいでしたよ」
 鏡で見た時は、特別顔色も悪くなかった。目覚めた後こそ最悪だったが、睡眠自体はしっかり取れたから寝不足でもない。
「朝から全然笑ってないし、雰囲気ぴりぴりしてるし、周りも若干びびってます。病気にでもなったんじゃ、って心配してる人もいるし」
 それなら、思い当たる節はあった。
 とにかく、仕事に打ち込もうと思った。無心になれば余計な考え事が入り込む隙間はなくなる。
 考えてもわからない問題なら、放棄するしかない。
 自分の中では確かに成功していた方法だったが、周りから見たら失敗だったようだ。
「……それは、悪かった。気分転換も兼ねて誘ってくれたんだな」
「間違ってないですけど、翠さんと何があったのか心配してるのもありますよ」
 ちょうど、注文したものが運ばれてきた。ここで会話を打ち切ってしまおう。
「本当に何もないんだよ。……だから、もうこれ以上詮索するのはやめてほしい。頼むから」
 後藤の気持ちはありがたい。こうしてしつこいくらいに気にかけてくれるのは、相談が苦手な自分の性格を知った上での行動だともわかっている。
 でも、今回はどうにもならない。
「翠にキスをされた」と真実を告げれば、きっと後藤は翠に告白するべきだと返す。一番避けなければならない展開を、勧められる。主とパワーストーンの化身の悲恋話を伝えても、前向きなこの男はきっと二人なら大丈夫だと励ましてくる。今は、その励ましに応えられる気力はない。
 後藤は短い相槌をうつと、黙々と食べ始めた。諦めたように見えるが、考え込んでいるようにも見える。敢えて突っ込まずに無理やり食べ物を詰め込んでいく。
「今日は、オレと二人でとことん飲みましょう! 先輩」
 グラスの水を飲み干すと、予想外の誘いをかけてきた。
「オレたちが担当してるプロジェクトもちょうど落ち着いてますしね。タイミングいいなぁ」
「ちょ、ちょっと待てって。どうしてそうなるんだよ!」
 大体、酒は強くない。一度調子に乗って飲み過ぎて、えらく絡んでしまったらしい過去があってからなおさら、セーブするよう心がけてきた。
 後藤も酒が強くないことは知っているはず。何を考えているのか全くわからない。
「もう決定です。酒のせいにしていろいろ吐き出しちゃいましょう」
「言われて実行できるか!」
「先輩はしたほうがいいです」
 真剣な声と目に、一瞬喉が詰まる。
「翠さんにも言えないことなら、いない今のうちに吐き出しちゃったほうがいいです。オレはただ聞くだけだし、言っちゃっても酒のせいにできますから」
 要は、言いかたじゃないか。
 声には出さなかった。言っても、この様子では逃がしてくれそうにない。
「……無駄に終わると、思うけど。それでもいいなら、仕方ないから付き合ってやるよ」
 してやったりと笑う後藤に、こぼれるのは苦笑だけだった。


 目を開けると、ないはずの静寂が聞こえていた。
 背中がやけに柔らかい。あの居酒屋に寝られるようなスペースなどあっただろうか?
 上半身を起こすと、毎年会社でもらう壁掛けカレンダーが目に入った。……会社で?
「文秋さん、お加減はいかがですか?」
 横から聞こえるはずのない声が届いて、反射的に振り向こうとして失敗する。頭が痛い。
 背中を支えられながらゆっくり頭を持ち上げて、差し出してくれた水を少しずつ口に含んだ。冷えた感触が喉から通って、気分を一瞬爽快にしてくれる。
 自宅にいることは、わかった。
 だが、いつの間に? 最後の記憶は店にいて、だいぶ酒を飲んでしまっていた時だった。一緒にいた後藤は帰ったのか?
「……翠、今、何時?」
「夜中の二時です。十一時すぎにお帰りになってから、今の時間までずっと寝ておられました」
 回らない頭を両の手のひらに預けながら、覚えている範囲で記憶を巻き戻す。
 いつの間にか個室の部屋を予約していた後藤と、本当に普通の飲み会が始まった。翠のこととは全く関係のない話から始まり、拍子抜けしながらも少しずつ緊張は解けて、アルコールのせいもあって気分は上昇していった。
 後藤が珍しく、自らの恋愛の話をしてくれていた。実家が天然石を売っていると知った女性がやたら宝石で有名な石をねだるようになってきて、即別れたという内容だった。それ以来、実家の仕事については極力口にしないようにしてきたらしい。
 それから……記憶が、さらに曖昧になっている。翠に対して罵倒か悪口か愚痴かわからない内容を漏らしていたり、やたら後藤に質問をしていた気もする。もしかしたら泣いてもいたかもしれない。
 とにかく記憶が途切れ途切れで、それらも正しいのか自信はない。酒の飲み過ぎを避ける原因になった状態と全く同じだ。
 後藤に詳細を確認するべきか敢えてしないべきか、とても迷う。
「……もしかして、後藤が送ってくれたのかな」
「はい。飲ませすぎてしまって申し訳ないと仰っておりました」
 それでも、迷惑をかけてしまったのは確かだ。
「翠も、ごめん。酔っぱらいの面倒なんか見させちゃって」
「いいえ。文秋さんの新しい面を拝見できて、むしろ嬉しかったです」
「また、そういう言い方する……」
 天然なのか優しさなのかわからないが、内心救われる。背中を撫でる手のひらにも、とてもほっとする。
 ……いや、大事なことを忘れていた。
「変なこと言ったりしてなかった、よな?」
 おそるおそる顔だけを向けると、翠が変わらない微笑みを返してくれる。
「大丈夫です。整合性は取れていませんでしたが、それも酒に酔った方の特徴でしょう」
「いや、待って。その大丈夫が、全然信用できない。怖いんだけど」
 勢いあまって告白まがいのことをしてしまった可能性もありうる。
 足元が真っ暗になった気がした。「やたら人に絡む」という酒癖にこれほどの恐怖を感じる日がやってくるなんて、やっぱり酒は何が何でもセーブしないといけない。
 翠は少しだけ眉尻を下げた。
「ほとんど、言葉にならない言葉を仰っておられました。私がベッドまでお連れした際には寝言のような状態でしたし、わからないと言ったほうが正確でしたね」
「それなら、いい。むしろよかった」
 余計な力が抜けたら、頭痛が再発してきた。思わず眉間を手の甲に押しつけると、背中の感触が頭に移動した。
「頭痛がひどいですか?」
「う、ん……でも、仕方ないよ」
「少しなら、和らぐといいのですが……」
 頭の中に、じんわりとした熱が広がっていくような感覚が走る。鐘を激しく打ち鳴らすような痛みが少しずつ引いていく。
「いかがですか?」
 呆然と顔を上げて、翠を見つめた。
「だいぶ、よくなった。こういう痛みも取れるんだ?」
「症状によっては厳しいですが、軽くする程度なら」
 これなら、シャワーも軽く浴びられる。
「ありがとう。浄化はしなくて大丈夫?」
「ええ。本日はずっと家におりましたし」
 そういえば、どうして留守番を願い出たのだろう。ある意味自分も助かったが、今の全く変わらない言動を見る限り、昨夜のことは気にしていないようだった。
 結局、振り回されているのはひとりしかいない。
 翠の手を借りてベッドから降り、浴室に向かうところで名前を呼ばれた。
「……あの、文秋さんは」
 翠の眉間に、深い皺が刻まれる。
「どうか、したのか?」
「私の存在は……文秋さんにとって迷惑ではありませんか?」
 どうして、いきなりこんな質問をされるのかわからなかった。
「どういう、ことだよ?」
 近寄って訊き返すが、表情はますます影を濃くしていく。
 真意を探りたかった。
 どんな言葉をかければいい。
「私は、文秋さんと共にいても、いいのでしょうか」
 自らに問いかけるような内容だった。こんなに弱気な翠は初めてだった。
 珍しく留守番を申し出た理由を、改めて考える。他に考えられるとしたら、何だ。
「……お前、もしかして藍くんと、何かあった?」
 あれだけ取り乱した様子を見せてしまっていれば、藍に問いつめようと考えてもおかしくない。
 身体の内に、ひどく冷えたものを流された気がした。吐露した翠への想いまでは、さすがに伝えていないと信じたい。
 翠は無言のまま、縋りついてきた。幾度となく抱きしめられてきた自分には、いつもと違うのがわかる。
 初めて、翠の裏側に触れた気がした。抗えない愛おしさがこみ上げる。
 背中に腕を回して、翠がするように緩く撫でる。少しでも彼の気が紛れるようにと祈りを込めて、何度も繰り返す。
 悲しさと穏やかさが同居した、不思議な時間だった。この時間がもっと続けばいいのにと、叶わない願いを込めてしまう。
 酒が残っているせいだ。酒の力で、気持ちが大きくなってしまっているだけだ。だからもう少し、浸らせてほしい。
「……ありがとう、ございました」
 気づけば、時間は終わりを迎えていた。
 向かい合った翠は何かを堪えるように、相変わらず眉根を寄せている。泣き笑いにも見えた。
 背中を向けてしまった彼には、これ以上の追求はできそうになかった。

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