
その日の夜に診察を受け、念のためと次の日も夕方まで経過を見た上で再度診察を受けたが、軽い打撲以外の症状はなかった。
担当した医者はしきりに首をかしげていた。衝突した車は四十キロほどのスピードを出していたと言う。運転手はぎりぎりでブレーキをかけたが間に合わず、確かに人のぶつかる感触があったと素直に証言してくれている。
答えは自らの中でしか告げられなかった。
翠が護ってくれたのだ。失うかもしれなかった命を救ってくれたのだ。
だから、礼が言いたい。全力で抱きしめてやりたい。
エメラルドのもう半分は、履いていた靴の中に落ちていた。ブレスレットと合わせてハンカチにくるみ、鞄の中にしまっている。
『本体が割れたり、浄化しても力が回復しなかったりすることはあるけど、それはパワーストーンとしての使命を最高の形で終えられた証だからいいんだ』
藍の言葉がよみがえるたび、全身から熱が奪われる。それでも、敢えて信じないことにした。持ち主が必要だと強く願っているのだから、パワーが失われたなんてあるわけがない。
水晶の力を借りれば、月光の力も借りれば、きっと翠は帰ってくる。
その日のうちに帰宅許可をもらい、すぐに水晶の上に乗せる。スマートフォンで月の満ち欠けを調べると、満月は来週だった。
石の状態からして、三日の浄化で足りないのは想像がついた。
満月の前後まで続ければ、きっと戻ってきてくれる。確証なんてない。あるのは確固たる願いだけだ。
「藍くんが押しかけてきた時みたいだな。……でも、今度は耐えられる。お前が戻ってくるって信じながら、待つよ」
ブレスレットを手に取って、額に押し当てて固く目を閉じた。
翠が戻る以外の未来は絶対に認めない。こんな……こんな別れなんて、認めたくない。
* * * *
突然やってきたひとりきりの休日は、過ごし方がよくわからなかった。
当たり前だったはずの朝でさえ、まるで他人の家にいるように戸惑っている。
違和感を拭いきれない思いでブレスレットを窓辺からテーブルに移動させる。エメラルドの輝きは当然戻っていない。
いつもの朝食を用意しようと冷蔵庫を開けたが、やる気が起きない。結局、ブラックコーヒーを淹れるだけで終わらせてしまった。
具合が悪くてどうしようもない時を除いて、朝食をさぼったことはなかった。
スマートフォンには、後藤をはじめとした後輩や同期、先輩からも気遣いのメッセージが届いていた。ありがたい気持ちで返事をしながら……ある名前で、止まる。
『浅黄さんが事故に遭ったと、マンションの知り合いの方に教えていただきました。藍もとても心配しています』
藍までに心配をかけているなら、なおさら返事をしなければと思うのに……指が、動かない。
きっと、藍がやってくる。必ず、エメラルドを確認するだろう。
頭を振った。それは、認めているようなものだ。
戻ってくる未来を信じている。信じているからこそ、逃げるべきではない。
微妙に震える指でぎこちなくフリックしていく。送信ボタンを押す前に一瞬ためらい、スローモーションのように進めた。
『退院されたのとのことで、本当によかったです。もしご迷惑でなければ、夜に藍と少しだけお伺いしてもよろしいですか? というか、藍が今日に伺いたいと言って聞きません』
最後の一文に、彼らしさが詰まっていた。つまり、拒否権は最初からない。
返事をした後に、ブレスレットを手に取る。エメラルドを撫でるとくすぐったそうにしていたことを思い出して、親指で両方の表面をなぞった。
返ってくる声は、ない。
夜まで何をすればいいのだろう。買い物に出かける気力さえない。テレビをつけてみても、内容は全く頭に入ってこない。パソコンを起動すればパワーストーンの化身についての情報ばかりを検索して、予想通り見つからなかった。
掃除をしようと思い立ったが、きれいな箇所しか見当たらなかった。……翠が、いつの間にか掃除の知識まで身につけていたのだ。
ソファーに力なく座り込む。
静寂が、全身に突き刺さる。部屋がやけに広く感じる。前は当たり前だった空気を吸うのが、苦しい。
気づけば、窓の外はすっかり暗くなっていた。
操られたようにガラスの器を持って、窓辺に置く。
スマートフォンが、天谷からの連絡を知らせてくれた。軽く着替えを済ませたところで、ちょうどインターホンが鳴る。
「こんばんは。昨日の今日で本当にごめんなさい」
いつもは下ろしたままの、緩いウェーブのかかった黒髪をサイドでまとめた天谷は、視線が合った瞬間に双眸を細めた。
「いえ、気にしないでください。俺こそ、わざわざ来ていただいてありがとうございます」
「本当に、大怪我じゃなくてよかったわ。不幸中の幸い、という感じかしら」
身体的には、そうなのだろう。精神的には……逆かも、しれない。
「……やっぱり。やっぱり、兄さんの気配を感じない」
背後で、訝しげな藍の声が響いた。すでに、リビングの方へと足を進めている。
慌てて背中を追いかけた。寝室に続く引き戸を開けると、彼の手にガラスの器が乗せられていた。
横顔だけでもわかるほどに、呆然としている。気力をすべて失ったような、普段の藍とは真逆の状態に置かれていた。
「どうしたの、藍」
天谷の声が硬い。我に返ったようにわずかに身を動かした藍は、テーブルの上に器を置いた。
短く息をのむ声が聞こえる。
「どうして、エメラルドが割れてるの」
いつもの、責め立てるような口調ではなかった。努めて、冷静な姿を演じているのかもしれない。口の中に苦味が広がっていく。
「事故に、遭った時……翠が、護ってくれたんだ」
鋭く名前を呼ばれて振り返ったと同時、視界が黒で染まった瞬間を昨日のことのように思い出す。
「翠が、車の前に現れて……俺を、かばってくれたんだ」
「だから、大怪我をしなくて済んだ……そういう、こと?」
おそるおそる尋ねる天谷に、首を縦に振る。
「兄さんは、あんたに降りかかる災難を察知したんだよ」
藍のつぶやきが、静かに響く。
鈍い輝きに変化していたエメラルドを思い出した。まさか、あれが……その、証だった?
「そして、すべての力を使って……あんたを、護った」
その意味は考えたくない。容赦なく貫いてくる視線を避けるように、首を振る。
「このエメラルドは、パワーストーンとしての役目を、終えたよ」
「そんなの、俺は信じてない」
言葉でも、振り払う。
「ここにあるのは、ただの……エメラルドだ」
「俺は認めてない!」
よろめいた身体を、両肩に触れた天谷が支えてくれる。
目の前がちらつく。背中を優しく撫でる感触に合わせて、呼吸を繰り返す。
「割れたって、力が回復すれば戻ってくるんだろ? ほかにいい方法があるなら教えてよ、これじゃだめだって叱ってくれよ!」
「戻らないよ。方法もない」
あくまで、藍は冷静だった。ブレスレットとエメラルドの欠片を手に取り、両方に指を這わせる。
「兄さんは……パワーストーンとして、使命を立派に務めたんだ。あんたは主として、ありがとうと言うべきじゃないの?」
「それは、翠に直接伝えたいんだ!」
翠自身に受け止めてほしいと願っている。だからこそ、彼が戻ってくることを信じているんだ。
「天谷さん……天谷さんは何か知らないんですか? こうすれば力が絶対戻るっていう方法、ないんですか?」
振り向いた先の天谷は、眉根をきつく寄せながら俯いて、首を振る。
感情すべてが、現実を受け入れまいと拒否反応を起こしている。わずかな可能性を求めよと、理性に何度も訴える。
「前にした話、覚えてるよね。主と化身の、恋の話」
藍の双眸は、一点の曇りもなく研ぎ澄まされた刃をまっすぐに構え、こちらに突きつけているようだった。
「今のあんたはまさに、その状態だよ。兄さんの後を追うって言い出してもおかしくない状態だ」
エメラルドを握り込む。まるで、死者を弔うような儀式に見えてしまう。
「もし、本当にそんな道を選んだら……僕は、あんたを許さない」
卑怯だ。強引に現実を飲み込ませ、逃げないようその場に打ちつける真似を、するなんて。
「藍、もう帰りましょう。大丈夫、浅黄さんは大丈夫だから」
藍の肩がぴくりと震え、背後の天谷を捉える。眉間に一瞬、力が入ったように見えた。
「……先に、戻るよ」
水晶の上に戻したブレスレットたちを見つめた格好のまま、姿が消えていく。
ソファーに力なく座り込む。輝きが戻らないと宣言されたエメラルドをただ、呆然と見つめる。
「ごめんなさい、浅黄さん」
天谷の声は微妙に震えていた。
「藍は本当に、浅黄さんを心配しているの。でも、お兄さんのこともあるから……今は、特に」
言葉を返すだけの気力も、今はなかった。
「……また、お店にいらして。メッセージでもいいから、何でもお話しましょう。いつでも、お待ちしてます」
静寂が、部屋を埋め尽くす。反射的にリモコンの赤いボタンを押して雑音を入れ、シャワーだけで入浴を済ませた。
空腹を訴える音を静めるために、冷蔵庫に向かう。こんな状態でも呆れるほどに、身体は正直だ。
「……そういえば、朝に下ごしらえしてたっけ」
事故のあった日に翠が用意していたものだ。ラップのかけられた、作り置き状態の料理たちを取り出す。
最初は、本当に最低限の家事しかしない自分と同等レベルの知識だったのに、特にスマートフォンを持たせてからネットの賜物か、母親のような知恵を少しずつ身につけていた。
きっと、嬉々として家事をやる化身など翠ぐらいだろう。
「今日も、うまいよ」
ブレスレットに感想を告げる。
「また……食べたい。お前の、料理」
声が震える。歯を食いしばって、こぼれ落ちそうなものを堰き止める。
時間をかけて、すべての料理を平らげた。
+ + + +
休み明けに出勤した自分を待っていたのは、終わり間近のプロジェクトに追われるメンバーだった。
五体満足を祝う声もそこそこに、一日欠勤していたぶんも含めたタスクがずらりと目前に並べられる。
むしろ、ありがたかった。無心で仕事に打ち込んでいれば、その間は忘れていられる。何も考えなくて済む。
「ただい……」
途中で台詞を切って、無理やり苦笑しながらリビングに向かう。
『文秋さん。今日もお疲れ様でございました。すぐに夕飯の準備をしますから、ゆっくりご入浴ください』
部屋の電気をつけると、翠の声が自然と脳内で再生される。
テーブルに置いてあるブレスレットを、少し迷って窓際に移動させた。
ベッドにスーツを脱ぎ捨てて、風呂場に向かった。ブレスレットをつけて出勤する時は、風呂を沸かすのだけは自分の仕事だった。
だが、今日も湯船に浸かる気分にはなれなかった。
『本日は残業で遅い帰宅になりましたので、さらっと食べられるものにしました。午後九時以降の食事は肥満に繋がるので推奨されないんだそうですよ』
今日もその時間に近くなったが、買ってきた弁当は好物の丼ものだった。
なのに、全然箸が進まない。
結局その弁当は冷蔵庫にしまって、インスタントの茶漬けにした。
テレビをつけた。翠は好奇心が高いのか、基本的に選り好みせずどんな番組も楽しそうに観ていた。特に面白い番組には、放送が終わると感想をつぶやいていた。
衝動的に消した。抱えた膝に顔を押しつける。
翠が離れない。この家全体に翠と暮らした証が残りすぎて……簡単に、脳裏によみがえってしまう。
諦めろと囁く声と、諦めるなと怒鳴る声が頭の中でせめぎ合って、決着のつかない争いを続けている。
本心は……窓辺に置いたブレスレットが、物語っていた。
わかっている。単なる悪あがきだと、本来なら翠が護ってくれたこの命をつないでいかねば、前を向かねばならないとわかっている。
でも、それを受け入れるには、あまりにも時間が足りない。
ふと、気配を感じて顔を上げた。
「……藍、くん」
キッチンに近い場所で、どこか気まずそうに立ち尽くしている。普段とは程遠い様相だった。
「どうしたの? ……ああ、俺の監視に来たんだ?」
「そうだよ。ご飯もまともに食べてないみたいだし」
「大丈夫だよ。仕事忙しいし、迷惑かけたくないし」
口を開きかけた藍は、再び閉じた。そのまま姿を消す。
「厳しいなぁ」
その厳しさに甘えるしかできない自分の弱さに、嘲笑がこぼれた。