「文秋さん。短い間でしたが、お仕えできてとても幸せでした」
目の前に突如現れた男は、突如別離の言葉を放った。
「このような形でおそばを離れますこと、本当に申し訳ございません。ですが……悔いは、ございません」
突然すぎる。まだ何も言えていないのに、そばを離れることすら許していないのに。
どうして声が出ないんだ。身体が動かないんだ。
少し離れた場所に立ったまま、男はきれいなお辞儀を披露する。
「これからも文秋さんが幸福でいられますよう、陰ながら応援しております」
再び向けられた男の顔には、満ち足りた笑みが刻まれていた。
黒い背中が遠ざかっていく。
喉をかきむしって、声が出るようにと祈った。膝を叩いて、足が動くようにと祈った。
どれも届かない。人形にでもなってしまったように、小さくなっていく背中を見つめるしかできない。
何を怯えている? ここでもがいていても、待っているのは後悔しかないとわかっていながら、なぜ?
頬を濡れたものが走り抜ける。
――もう、後悔は訪れているんだ。
「あ、先輩。お疲れ様です。大丈夫っすか?」
休憩所の扉が開く音で、こびり付いていた夢がさっと霧散する。
俯いていた顔を持ち上げると、後藤が気遣うように見つめながらやって来た。隣に並んで、柵に寄りかかる。
「……大丈夫だよ。後藤も疲れてるだろ?」
「はは、さすがに。プロジェクト終わりかけだから仕方ないっすけどね」
仕事があるほうがむしろありがたい。余計なことは、考えたくない。
「ブレスレットもないから、余計にお疲れですね。翠さん、まだお休み中なんですか?」
頷く代わりに、苦笑してみせる。
「死ぬかもしれなかったのを軽傷で済ませてくれたから。もうちょっとかかるんじゃないかな」
敢えて口端をさらに持ち上げてみせたが、後藤の表情はあまり変わらない。
後藤に伝えたのは、「エメラルドが割れた」以外の内容だった。これ以上、事実を広めるのは……いやだった。
「ねえ、先輩」
珍しく、後藤の声が硬い。
「翠さん、本当に休んでるだけなんですよね?」
全身の体温が地に沈んでいくようだった。寄りかかっていなければ、しゃがみ込んでいた。
何を言えば正解なのかわからなくなった。後藤は鋭いから、下手なことを返せば余計に泥沼と化してしまいそうで怖い。だが、沈黙も同じことだ。
「……そうだよ」
結局、肯定を繰り返すしかできなかった。
ひときわ強い風が背中を撫でる。今日は気持ちのいい秋晴れのはずなのに、冷たい。
「オレ、実は翠さんとID交換してるんです」
沈黙に耐えきれず、席に戻ろうとした足を後藤の意外な告白が止めた。
丸い瞳は、真摯な光だけを放っている。
「翠さんがやろうとしていることの結果を、心待ちにしているんです。だから……早く、よくなってほしいです」
「……何を、企んでるんだ?」
問いかけても、教えてはもらえなかった。
+ + + +
ようやく、プロジェクトが終わりを迎えた。特に大きなトラブルもなく無事に完遂できたことが本当に嬉しい。
だが、それ以上にあるのは虚無感だった。胸元に巨大な穴が空いていて、どんな感情も容赦なく吸い寄せてしまう。
「浅黄さん! これからお疲れ様会やりますけど、もちろん来ますよね?」
退社の準備を進めていると、メンバーの一人から笑顔で誘いを受けた。
正直、乗り気ではない。だが、胸元に空いた暗い空間を、虚無感を、なくしたかった。酒の力を借りれば、なくせるかもしれない。
「あれ、先輩、確か用事あるって言ってませんでした?」
「えー! 浅黄さん、先週から特に頑張ってくれてたのに?」
「用事があるんだから仕方ないじゃないですか。ね、先輩?」
混乱するばかりの自分を振り返った後藤の瞳には、はっきりとしたメッセージが込められていた。
――話を合わせろ。
意思の強さに負けて首を縦に振ると、渋々ながらメンバーは諦めたようだった。
後藤は後から合流する旨を告げると、無人の会議室へと案内した。
「後藤、一体どういうことだよ?」
「すみません、誰かが入ってくるかもしれないんで手短に。……先輩、帰ったら翠さんのスマホで、オレとのメッセージ見てください」
全く予想のつかなかった内容を切り出されて、言葉を失う。
「何となく、そうしたほうがいい気がしたんです。今週入ってからの先輩、うまく言えないんですけど仕事に逃げてるように見えて、心配で」
どこまでも、この男は見抜いてくる。握りしめていた拳を、そっと後ろ手に隠した。
「もしかしたら、翠さんが絡んでるんじゃないかって思って……翠さんずっといないから、オレ」
続きを、後藤は打ち切った。どこまで、どこまで想像を広げている?
「とにかく、見てください。翠さんに怒られたら、オレにけしかけられたって言っといてください。オレが言うのもなんですけど……絶対、後悔しませんから」
そのまま会議室を出て行く後藤を、呆然と見つめる。
まるで、生まれた空洞を翠のスマートフォンが埋めてくれるとでも言いたげに聞こえた。
翠のスマートフォンは、電源を切ったままリビングの棚に置いていた。
初期化して処分してしまおうと何度も思った。その衝動を抑えるのは、電源をつけたあとのロック画面だった。
解除に必要な番号は、翠の性格を考えると連番や同じ数字を並べたものではない。……ここまでは、いつも通りの推理だった。
敢えて解かないことで、無意識に処分を防いでいたのかもしれない。
端末を握りしめる。後藤の「後悔しない」という言葉が、ひどく心を揺らす。
正しい行動がどれなのか、わからない。見るほうが後悔する可能性もある。
でも……確かな形で残っている翠の「声」を目に入れろと催促されたら、乗ってしまったら、止めることはできない。
ランダムな数字でないことを祈りながら、翠との日々を再生しながらヒントを探る。
最初はあまりの非日常ぶりになかなか受け入れられなかった。
拒絶から微妙な気持ちになったところで、力の使いすぎで集中的な浄化を必要とする事態になった。藍にも出会い頭怒られてしまった。
そのおかげと言っていいのか……翠自身も大事にしたい存在なのだと気づいて、気づけば唯一無二のパートナーとして、認識するようになっていた。
愛して、しまっていた。
たまらず、抱えた膝に額を押しつける。いろんな翠の表情が脳裏を埋め尽くして、押しつぶされそうだ。
自分に置き換えて、考えてみる。ランダムにしないなら、誕生日よりも秘匿性のある番号を選ぶなら……。
弾かれたように顔を上げた。自分のスマートフォンを持ってきて、カレンダーを確認する。
あんなにも使命感にあふれていた翠だからこそ、設定するだろう。そう信じながら予想した数字――エメラルドの化身として初めて出会った日を入力していく。
「はず、れた……」
あの日は今日と同じ満月だった。それが、目印になった。
本当に、翠らしい。
震えそうになる指を堪えながら、メッセージアプリのアイコンに乗せる。確かに、「後藤大河」の文字と見慣れたアイコンが表示されていた。
『絶対恋人になれますよ! 先輩の浮かれ姿、楽しみにしてますから!』
後藤のメッセージに、硬直してしまった。
早とちりだと懸命に落ち着かせる。震える親指を、下にスワイプした。
『こんばんは。……私、決めました』
『お疲れです。何をです? もしかして告白とか?』
『はい。明日、文秋さんに想いを告げるつもりです』
『ま、マジっすか……! でも、前はしないって言ってたのに』
『……迷っていたのですが、もう吹っ切れました。想いが成就しなかったとしても、ずっとおそばにいると決めました』
日付は、事故のあった前日だった。
呼吸が乱れていく。さらに、会話を遡った。
記憶が曖昧になるほど飲んだ日、後藤からの連れて帰る連絡の後に、会話が続いていた。
『さっきはお邪魔しました。あんな状態まで飲ませてしまってほんとすみません』
『いいえ。むしろ、新しい文秋さんを拝見できて嬉しいです』
『嬉しいって、ほんと翠さん先輩が好きだなぁー』
『大事な主ですからね』
『……あの、ぶっちゃけたこと訊いてもいいですか?』
『私で答えられることでしたら』
『翠さん、先輩のこと好きでしょ?』
『…………ええ。私はずっと、文秋さんのことを愛しています』
「うそ、だ。こんなの」
何度も目を走らせる。
何度も同じ答えが視界に返ってくる。
愛を示す言葉が、翠の声で響き渡る。
画面を見たまま、その場に座り込んだ。
『愛して……そんなに、好きなんですね。でも、いつから?』
『文秋さん、ブレスレットをとても大事にしてくださっているでしょう?』
『そう、っすね。先輩、アクセサリーとかつけるタイプじゃないんで、ブレスレット見た時はほんとびっくりしました。運命だと思った、って言ってましたね』
『……そんなことを、仰ってくださっていたんですね。でも、私も同じ気持ちです』
胸に、突き刺さったような感覚が走った。
『実体化していない時から、文秋さんが大事にしてくださっている想いは伝わっておりました。そんな方に迎えていただけたことが本当に嬉しくて……運命だと、思いました』
目に、熱いものが集まっていく。
『実体化してから、とても大事にしてくださる文秋さんはどのような方なのかと気になるようになって……ご自身よりも他の方を思いやる文秋さんを支えてさしあげたい。そう思うようになりました』
『……それ、翠さんしかできないですね』
『最初はだいぶ混乱させてしまいましたが……最近は、頼りにしてくださっているみたいです』
『普通にしてますよ! 先輩、何だかんだで翠さんといるの楽しそうですもん』
『後藤様のお墨付きなら、安心ですね』
さらに会話を遡る。ほとんど、主である自分の話題だった。
翠らしさが、さらに詰まっていた。確かな愛が、あふれていた。
「あ、ああ……」
端末を抱き込んで、声にならない嗚咽をこぼす。
「好き、だ……俺も、お前が、好きだよ……」
うわ言のように、何度も繰り返す。
こんな形で知りたくなかった。いなくなってから想いが通じ合うなんて……通じ合った瞬間に、あふれて止まらなく、なるなんて。
天谷の言う通りだった。我慢なんてできない。同じ想いと知ったら、留まれない。
どうして、隣にいないんだ。こんなに、身が張り裂けそうなほどに求めてやまないのに!
誰でもいい。何でもいい。試練ならいくらでも乗り越えてみせると約束するから、共に歩むチャンスを与えてほしい。
翠のいない非日常は、耐えられない。
キーボードを呼び出して文字を打ち込む。ベッドサイドのテーブルに置いていた器を持って窓辺に歩み寄った。
「ムーンストーンは、願い事、叶えてくれるんだよな……?」
窓を開けた。肌寒くも感じる風が全身を通り過ぎる。
美しい円を描いた月が、雲ひとつない灰混じりの黒い空を飾っている。身体ごと向けて目を閉じると、包み込むような熱が生まれてくるようだった。
愛おしさを込めて、ふたつのエメラルドを撫でる。
破片を淡い光の方向に掲げてから――自らの体内に流し込んだ。
「お前だけを、危険な目に遭わせたりしない。俺も、お前を護るから」
だから、かえってきてほしい。また、隣にいてほしい。
ムーンストーンを口の中に含む。
ブレスレットを握りしめた両手を、額に押し当てて願いを繰り返す。どれくらいの時間が経ったのかわからなくなっても、身体の感覚がなくなる感覚が襲ってきても、決して止めなかった。
背中に声をかけられた気がして、振り向こうとした瞬間に全身の力が抜けた。
糸の切れる音が、脳裏に響いた。
* * * *
ふと、意識が浮上した。だが、目を開けられない。身体全体が沈み込んでいる。息を吸おうとした瞬間、咳き込んでしまった。
ああ、風邪を引いてしまったんだ。ぼんやりと理解する。
背中が柔らかい。もしかして、ベッドに寝ている? いつの間に?
「……す、い?」
ほんの少しの期待を込めて名前をつぶやくも、返ってくる声はない。
やっぱり、言い伝えは言い伝えのままだったのか。翠たちに出会えた奇跡は、二度と起こりはしないのか。
とにかく、会社に連絡しなければ。
懸命に手を伸ばして、ベッドサイドにあるスマートフォンを手に取った。後藤の名前が見えたことに気が緩んで、何とか病欠の連絡を入れる。
かけられた布団が重りに感じる。このまま眠っていたいと悲鳴を上げている。
もがく身体を、何かが押さえた。大丈夫、と声をかけられた気がした。
ああ、きっと藍が呆れながら様子を見に来たんだ。自分がへたっているから、怒りたくても怒れずにいるのだろう。
「情けなくてごめん、藍くん……明日には、治るから……」
頭を撫でられて、意識は再び闇へと沈んでいった。
夢を見ていた。
そうわかるのは、目を開けた時に、別の気配があったからだった。ずっと求めていたひとのものに、近かったからだ。
首を動かして名前をつぶやいた。口がうまく動かない。
「はい」
高くも低くもない、耳にやさしく響く声が返事をする。エメラルドがふたつ、うっすらと見えた気がした。やっぱり、都合のいい夢を見ている。
片手を持ち上げるつもりで意識を送ると、少し硬い布に包み込まれた。いつも翠がしている、白い手袋に酷似した感触だった。
本当に翠がいるみたいだ。隣で、手を握ってくれているみたいだ。
「おります。文秋さんのおかげで、私はここにおります」
口元が緩んだ。現実も、思い描いた通りの展開になればいいのに。
いや、してみせる。諦めた瞬間に足は止まってしまう。叶うまで、何度でも願いを込めるんだ。他の方法だってあるかもしれない。
一番大事に想ってくれる彼を、今度こそ大事にしたいから。二度と後悔はしたくないから、素直に己の願望を受け入れて、素直に想いを告げるのだ。
「もう、いただいております。……私こそ、夢を見ているようです。このまま、覚めないでほしい……」
唇に柔らかなものが触れる。少し口を開くと、さらに深く重なった。
本当に幸せな夢を見ている。夢だからこそ許される内容だ。
もう少し、この気分に浸らせてほしい。