星空と虹の橋

綺麗な月に魅せられた私は

 バイトで、珍しくミスをして怒られてしまった。
 想像以上に堪えている自分がいて、最寄り駅まで一直線に向かっていたはずの足は公園に寄り道していた。通り道にあるとはいえ、立ち寄ろうという意識がなければ来ない場所だ。
 そもそも、夜はあまり好きではない。小学生の時に、コンビニに出かけたまま帰ってこない父親を毎夜、自宅の前で待っていた過去があるせいでいい印象がない。
 そう、今日のようにさんさんと輝く満月の日もあった。
 じわりと蘇りそうな重い感情を振り払うように、一度目を閉じる。この公園は海沿いにあるから、特に夜景が素晴らしかったはずだ。綺麗な景色は昼夜問わず嫌いじゃない。それを眺めていればきっと心も洗われるに違いない。
 公園内で一番広そうな大通りを足早に抜けて、海に面した散歩道へ向かう。潮の香りが一段と強くなってきた。
 やがて視界が開けた瞬間、思わず足が止まる。
「うわ……これは想像以上だな……」
 柵の向こうで様々な人工光が並んでいる。水面に帯状となってぼんやり映り込んでいるものもあり、また違って見えて面白い。今日は風があるから若干ゆらゆらしているが、もしなかったら鏡のようになるのだろうか。
「月もあったらもっとよさそう」
 ネットで海と月がセットになった風景写真に遭遇するたび、あんな神秘的な瞬間に出会いたいといつも思う。
 少し歩いてみることにした。海風がとても心地いい。ようやく猛暑続きの日々から脱したかと思えば、次の季節がすぐそこまでやってきている。
「あ、こっち行き止まりか……っ!?」
 方向転換をした時だった。道に沿う形で一つずつ設置されているベンチに、何かがいた。
 ベンチを囲むように緑が植えられているので少しわかりにくかったが、人影だったと思う。
(い、いや、人がいてもおかしくないよね……)
 絶対に怪談の類いじゃないと言い聞かせて、正体を確かめるべく改めて向き直る。
 ――確かに、人だった。人、だと思う。
 曖昧になってしまったのは、一言で言うなら「綺麗」だったから。
 視界の先のその人は、肩まで伸びた、癖の強い茶髪を片耳にかけながら首を傾げた。スウェットのような黒の上着にジーンズというシンプルすぎる服装なのに、端正な顔の効果でおしゃれに見える。
「あの、何か用ですか?」
 改めて問いかけられて、我に返る。慌てて頭を下げた。
「す、すみません! お兄さんがすごく綺麗で、見とれちゃったんです」
 言い終わってから、頭を上げたくないくらい恥ずかしさがこみ上げた。何を馬鹿正直に告白しているんだ!
 いっそ笑ってくれと願った瞬間、小さく吹き出す声が聞こえた。
「あ、ありがとう。あんなにはっきり言われたら、そう返すしかないっていうか」
 願いが叶ってありがたいが、落ち着く時間が欲しい。
 よほどツボに入ったのか、口元に拳を当てながらくつくつと笑い続けている。さっきはどこか人間味がない印象だったけれど、今は違う。
「思いっきり笑っちゃってごめんね。……久しぶりに、こんなに笑ったよ」
 そう言いながら何かを堪えるように、双眸を少し細める。
「あの、もしかしてお兄さんも嫌なことがあったんですか?」
 気になると思った時には、表に出ていた。怒られた自分の姿と重なって見えて、同情心が生まれてしまった。
 唇を一文字に近い形に戻した彼は、薄めの眉を困ったように寄せる。
「それって、ナンパのつもり?」
「ち、違います! ほんとにそう思ったんです。私もそうだから」
 下がっている目尻を少しだけ持ち上げた彼に、バイト先でいつもは絶対しないミスをしてしまったから、綺麗な景色を見て癒やされたかったと続ける。
「そうだなぁ……癒やされたかった、ってのは合ってるかな」
 また、堪えるような顔つきになる。
「それでも、君すごいね。鋭いねって言われない?」
「思ったこと口に出しすぎ、だとは」
 吹き出したということは、出会ってすぐのお兄さんにも充分理解されたようだ。……優しい人でよかった。
「仕事柄いろんな人と会うけど、君みたいな人は初めて会ったかも。なんか、元気出た」
 改めて向けられた笑顔は立派な証明になってはいたが、恐れ多すぎる。
「ほ、褒めすぎでは……むしろ邪魔しちゃってましたし」
「ううん、本当に癒やされたよ。ありがとう」
 素直にお礼を、しかもイケメンから告げられるなんてそうそうない経験だから、無駄に慌ててしまう。
「というか、僕も君の邪魔をしちゃってたんじゃない?」
「いえ、私もいつの間にかすっきりしてました。綺麗なお兄さんと話ができたおかげです」
「またそんなことを……」
 冗談抜きで、誰かに話を聞いてもらいたかったのかもしれない。この人との出会いは、そんな願いを掬い上げてくれた結果だったのだと思えた。
 特別な出会い。運命。そんな言葉が頭をよぎる。
 ふと、ショルダーバッグに入れているスマホが震えた。スリープを解除して、思わず声を上げる。
「やば、もうこんな時間!」
 相当話し込んでいたらしい。明日は一限から授業があるから、あまり遅くなるときつい。
「すみません、私帰ります。いろいろ、ありがとうございました」
 一抹の寂しさを覚えながらも踵を返す。
 ――本当に、このまま赤の他人同士に戻ってもいいの?
「待って。君さえよかったら、また話したいな。……ダメかな?」
 足が止まった。止めざるを得なかった。
 振り返った先のお兄さんは、不安そうにこちらを見つめていた。
「ダメじゃ、ないです」
 湧き上がる歓喜を必死に堪える。声が震えそうだった。
「ありがとう。……本当に、君に出会えてよかった」
 お礼を言いたいのは自分こそだ。
 嫌いだった夜が、この出会いのおかげで少し好きになれたのだから。

  * * * *

 お兄さん――かおると話す日は週に一度あの公園で、夜の数時間だけと決まった。彼の仕事の都合が理由だったが、社会人なら仕方ないし、自分もバイトのある時しかこの公園は通らないからむしろありがたかった。
 週に一度の楽しみができた影響か、当日は無意識に浮かれているらしく、友人にやたら怪しまれてしまった。
 事情は話していない。薫と、他言無用でお願いしたいという約束を交わしていた。
『二人だけの秘密。って言うと特別感があって面白くない? 子どもみたいだけどね』
 そう言って悪戯っぽく笑う薫に乗った時点で仲間なのだ。
 話す内容は本当に他愛ない。大学やバイト先で何があったとか、自分自身について話すこともある。先週は好きな食べ物が「そば」だと告げたら薫も同じだったことが判明した。
 薫は自身についてあまり話さない。だからひとつ知るたび、宝物を見つけたような嬉しさが募る。
 もっと知りたいと願うのは、やっぱりわがままなのだろうか。


「薫さん!」
 ベンチに腰掛けていた薫が顔を上げた。いつもと違う雰囲気に見えた理由はすぐわかった。
「今日は結んでるんですね」
「ちょっと暑いからね。絢奈あやなちゃんと一緒だ」
「そう、ですね」
 隣に座りながら、つい後頭部に手をやってしまった。こういう一言には照れるばかりで、未だにまともに返せない。
 無駄に高鳴る心臓を落ち着かせたくて、鞄からペットボトルを取り出す。中身はとっくにぬるくなっていたが、充分仕事をしてくれた。
「あ、その紅茶。今飲んでる人多いよね」
「そうなんですか? 甘くないのが好きなんで買ってみたってだけなんですけど」
「CMで流れてるからかな。ネットでも写真載せてる人よく見るよ」
 確かに、パッケージは女性に受けそうなお洒落と可愛さが融合したようなデザインをしている。そういえば自分もそれに惹かれて手に取っていた。
「薫さん、流行りものに詳しいですよね。私ほんと疎くて……テレビも家にないから、友達からいろいろ教えてもらうんです」
 前は鞄につけている、友達からもらったキーリングにも反応していた。デフォルメされた動物がぶら下がる格好でついているチャームが可愛いと、特に動物好きに売れているらしい。
「今日もなんだっけ、流行りかわかんないですけどドラマにハマってるんだって言ってました。薫さんはドラマとかよく観ます?」
「……ドラマ?」
 返ってきた声が、心なしか硬い。
「いや、僕はあんまり観ないかなぁ」
 思わず隣を見やるもいつも通りだった。気のせいだったのか?
「友達、どんなドラマにハマってるって?」
「え、ええと。確か、『まぶしい月に誘われた僕は』ってタイトルでした。まだ数話しか観てないけど面白いって言ってました。特に誰かがよかったって」
 何しろ、昼休みぐらいの時間を使って情熱たっぷりに語ってくれるから、細かいところまで覚えきれないのだ。
「……そう、なんだ」
 歯切れの悪い声だった。横顔でも、どこか強ばっているのがわかる。
「す、すみません。もしかして嫌いな作品でした?」
 我に返ったように、薫はわずかに目を見開いた。こちらに慌てて向き直ると何度も首を振る。
「ごめん、何でもないよ」
 そう言われても納得できないレベルの態度だった。
「嫌いじゃないんだけど、僕はあんまり、って感じかな。それだけだよ」
 ――何でもないって態度には見えないです。何かあるんですか?
 いつもなら己の性格を恨みつつ、疑問をぶつけていただろう。実際、喉から出かかっていた。
 飲み込まざるを得なかったのは、はっきりとした拒否を感じたから。鈍い自分でもわかってしまったから。
「それぞれ、好みありますもんね。しょうがないですよ」
 とっさに作った笑顔は、まがい物だとすぐわかる代物だったと思う。
 正直、自分でも驚いている。どうしてこんなにショックを受けているんだろう。心臓が苦しいんだろう。
「……うん。絢奈ちゃん、ありがとう」
 頭にそっと重みが加わった。優しく撫でる感触に苦しみが和らいでいくようだったが、泣きそうになる。
 ありがとうの意味は、違うところにかかっている。でも、それを紐解くことは許されていない。
 出会ってからもうすぐ二ヶ月、まだ二ヶ月。与えられた時間は、長くても最終の電車に間に合うまでの数時間。
 物足りないと、もっと仲良くなりたいと、欲が生まれてしまう。
「薫、さん」
 離れていく手を、勢いのまま掴んだ。驚く薫を見つめ続けることはできず、俯きながら懸命に唇を動かした。
「私、もっと薫さんと会いたいです。話、したいです」
「……ありがとう。でも、ごめんね」
 本当に申し訳なく思っている声音だった。
 だからこそ、首を左右に振るしかなかった。

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