星空と虹の橋

綺麗な月に魅せられた私は

 先週からいつもの場所に向かう今までずっと、強まる不安と戦ってきた。友達やバイト先で何度心配されたかわからない。
 先週、薫はいなかった。
 終電に間に合うぎりぎりまで粘ってみても、主に女性が何人か通っただけで一切姿を見せなかった。
 仕事が忙しいだけ。社会人なのだからそういうこともあるに決まっている。
 そう言い聞かせようとしても、浮かぶのは余計な欲を出してしまった後悔ばかり。
「着いちゃった……」
 ベンチが近づいてくる。いっそ、もう会いたくない、という最悪の展開さえ迎えなければいい。会ったらいの一番に頭を下げよう。
 いた。髪は結ばれ、服装もボタン付きのシャツという異なる格好の、薫が座っている。
「あ、あの、薫さ」
「絢奈ちゃん、ごめん」
 逆に頭を下げられた。
「先週は仕事で来れなかったんだ。急に決まったからどうにもできなくて」
 顔を上げた薫は思いきり眉尻を下げていた。柔和な印象を通り越して、自信のない性格のように映る。
「だ、大丈夫ですから。そんな、気に」
 しないで、と続けられない。一度、緩く唇を噛む。
「……仕事で、安心しました。もう、会えなくなるかもって思ってたから」
「どういうこと?」
 本気で訝しんでいる。薫の中では大した問題ではなかったとわかって、猛烈に恥ずかしくなる。
 どうやってかわそうか必死に考えていると、背後に人の気配を感じた。そちらに気を取られた瞬間、身体がぐらりと傾いだ。
 目の前が黒で染まる。背中にぬくもりを感じて、薫に抱きしめられているのだと初めて知った。
「な、なんで」
「ごめん、少し大人しくしてて」
 息の当たる箇所が熱い。たまらず、固く目を閉じた。背後で悲鳴みたいなものが聞こえたがそれどころではない。
 考えてみれば、男の人から抱きしめられた経験なんてない。全身が汗ばんできた気がするし、変にふわふわもする。五感すべてが薫に集中しているようだ。
(緊張しすぎて……もう、意味わかんない……)
 今すぐ遠くに逃げて、いろんなところを落ち着けてから戻りたい。「大丈夫?」なんて突っ込まれたらどうしよう。
「……もう、行ったかな。ごめんね、いきなり」
 とにかく早く展開が変わって欲しい。必死の願いがようやく届いた。
「い、いえ」
 超密着の時間は終わりを迎えたが、身体の調子は全く戻らない。うかつに顔を上げられなくて、どう対処すればいいのか途方にくれる。
「絢奈ちゃん? 大丈夫?」
 最悪の展開を迎えてしまった。どうしよう、どう言い訳しよう。
「っひ……!」
 頭の中がパニックになっているせいで、肩に触れられた瞬間、短い悲鳴を上げてしまった。
 しかも、後ずさるという最悪の、おまけつき。
「ご、ごめんなさ……」
 謝りたいのに、うまく言葉が紡げない。ぼんやり浮かび上がる薫の顔が若干傷ついているように見えて、今すぐ頭を下げたいのに、できない。
「いや、謝るのは僕だよ。説明もなしにあんなことしちゃって、本当にごめん。怖かったよね」
 違うのに、ただびっくりしただけで本当に嫌な気持ちはなかったのに。むしろ変に緊張するばかりで、熱が出たみたいで。
 無意識に首を振っていた。声の出し方を忘れてしまったように、苦しい。
「絢奈、ちゃん?」
 間近でそっと名前を呼ばれて、反射的に顔を上げた。
 街灯に淡く照らされた顔は、今まで一番整っていた。不思議と、きらきら輝いているようにも見える。
 恥ずかしさは消えないのに、魅入られたようにもっと見つめていたいと願う自分が、いつの間にか頭の片隅に存在していた。
 薫の双眸がわずかに細まった。ゆっくり持ち上がった腕がこちらに伸ばされるのを、今度は黙って見守る。
 頭を一度、撫でられた。そのまま肩に、ぬくもりが移動する。
 心臓が激しく高鳴り始めた。さっき逃げたことが信じられないほど、嬉しさを覚えている。
 ――もしかして、これって。
 久しく忘れていた。中学生の頃先輩に一度抱いたきり、隅に追いやられていた感情。
 こんな、噴火するように急に湧き上がってくるなんて。
 周りの時間が一気に流れ込んできた。黙って見つめ合えていたのが不思議でならない。
「あ、あの、私、今日は帰ります!」
 それだけを告げるのが精一杯だった。
 これ以上、想い人となってしまった薫の前に立っていられなかった。

 それがきっかけなのか、事実は本人にしかわからない。
 薫は、公園に一切姿を見せなくなった。

  * * * *

 目的のアカウントに辿り着いて、名前を何度も確認する。
 友達に教えてもらったように操作して、メッセージ送信画面を出した。

 ――最近、ファンになりました。これからも頑張ってください。

 自分のアカウント名は「絢奈」。名前の後ろには、チャームについているウサギの絵文字をつけた。
 オープンな場所でのメッセージだから、ありきたりな内容しか送れなかった。
 それでもどうか気づいて欲しい。何でもいいから、反応をして欲しい。


 薫に繋がる手がかりを得たのは、本当に偶然だった。
 バイト先で雑誌の整理をしている時、想い人に瓜二つの俳優が表紙を飾っていた。髪型は異なっていたが、伸びたら多分、ほぼ同じになる。
 思わず中身をめくっていた。
 ――皐月さつきかおる
 インタビュー記事の終わりに、名前があった。
 唯一知る「薫」だけが、一致していた。
 顔がたまたま似ているだけ。下の名前が一致しているだけ。本名かもわからない。それでも無視できないほどに、第六感が訴えていた。
 帰宅して、「皐月薫」を改めて検索してみたら信じられない量の情報が手に入った。
 歳は二十八であること。大学生の頃から俳優を続けていて、二年前に出演した『まぶしい月に誘われた僕は』の役が当たりとなり、今や主役も脇もこなせる名優になったこと。
 スマホを持つ手が震えた。残ったピースが急に嵌まり出したようだった。

 ――いっそ、このまま自然消滅した方が、お互いのためにいいのかもしれない。ましてや、恋心なんて無駄だ。再会できたとして、今までみたいに誰にも見つからないとは限らない。見つかったら迷惑しかかけない。

 そう思い込もうとしたのに、できなかった。我慢すればするほど募って、会いたくて、たまらなかった。
 自分にとって、皐月薫は「お兄さん」以外考えられなかったのだ。


 アラームの音にぼんやりと目を開ける。状況を把握できなくて白い壁を見つめていたが、跳ね起きた。メッセージの進展を待つ間に寝落ちてしまったらしい。
「何もなし、か」
 メッセージは最後の手段だった。約束の夜に関係なく、バイトのある日は必ず公園に寄った。それでも会えなくて、友達に心配されるほどいつもの自分がわからなくなって、そんな時に出会った雑誌から行き着いた希望だった。
 これが絶たれたら、打つ手はなくなる。父のように、本当に手の届かない人になってしまう。どうして大切な人はみんな、隣からいなくなってしまうんだろう。
 いつの間にか小さくしゃくり上げていた。苦しさのあまり、薫と過ごした二ヶ月近い日々が赤一色に染まろうとしている。
「顔、洗ってこよ……」
 仕事があるから連絡できないのだと無理やり言い聞かせ続けるしかできない。今日が休日で本当によかった。
 その後も横になりながらスマホを眺め続け、いつの間にかまた眠りに落ちていた。再度目が覚めた時には、昼もだいぶ過ぎていた。
 重いままの気分をどうにかしたくて、水温の低いシャワーを浴びる。望む未来になるとは限らない。理屈はわかっていても、今は今しか考えられない。
「……え、通知、光ってる」
 服を着るのもそこそこに、スマホに飛びつく。起きた時は何もなかった。
 画面をつけて――思わず、取り落としてしまう。
 来た。待ち焦がれたメッセージが、届いていた。
 震える指で通知欄をタップし、起動したアプリには、個別と思われるメッセージが数通に渡って綴られていた。
 歪みそうになる視界を手の甲で何度もクリアにしながら、幾度となく目を走らせる。
 すぐに、身支度を始めた。

『急に来なくなってごめん。僕があの公園にいるっていう情報が広まり出して、行きにくくなっちゃったんだ』
『……本当は、迷ってた。正直に話すと、君が僕のことを好きだと思ってくれてること、気づいてた。素直に嬉しかったんだ。でも、駄目だとも思ってた』
『君はまだ若いし、歳だって結構離れてる。そうじゃなくてもこんな人間だから君に迷惑だってかかるかもしれない。何も気にせずずっと話ができる人を失いたくなかった。……怖かったんだ』
『でも、言い訳しても駄目だね。君に会いたかった。また、他愛ない話がしたかった』
『本当に身勝手だし、怒られて当然だけど……許してくれるなら、また会ってください』

 いろいろ伝えたかった。それでも長文を打つのはもどかしくて、移動中に返せたのはたったのふたつ。
 残りは、直接伝えればいい。

『私にとって薫さんは、綺麗なお兄さんのままです』
『私も、会いたい』

 電車の扉が開いた瞬間、飛び降りる。改札を出ると、薄い長袖でも少しひやりとする風が全身を撫でた。太陽の見えなくなる時間が、ずいぶん早まっている。
 公園に向かって走った。目的地はいつもの場所ではなく、駐車場。
 十台は留められそうなスペースの一番端に、その車はあった。書いてあった通り、シルバーで染まっている。
 合図は、助手席側のガラスを五回ノック。
 解錠の音が聞こえた。ドアノブを掴み引っ張るが、うまく力が入らない。もう片手も添えて、ようやく開いた。

「二度も僕の願いを叶えてくれて、本当にありがとう」

 泣き笑いの顔で出迎えてくれた「お兄さん」と同じ表情を、きっと自分もしていたに違いない。

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