星空と虹の橋

【後日談】夜の太陽はさかさまで輝く・番外編

 違和感を覚えたのはいつからだったろう。
 多分、一ヶ月くらい前からだった。妙に難しい顔をして考え込んでいる素振りが妙に目について、気にかけるたびになんでもないと躱され、気づけばその素振りはなくなった。
 今思えば、解決したのではなく指摘されたから表に出さないよう努めていたのかもしれない。追求されるのが苦手な高史が取りそうな手段ではある。
 ――敏感になりすぎている自覚もある。だって、高史の気持ちは両手からあふれるくらいに受け取っているだろう? 同じ想いをきちんと返せているか、なんて贅沢な悩みを持ってしまうくらいなんだろう?
さくさん?」
 急に名前を呼ばれて息をのむ。隣に座る、同じ仕事を担当している女性が心配そうにこちらを見つめていた。
「すみません春日さん、なにか用事でしたか」
「ううん、そうじゃないんだけど……顔色がよくないからどうかしたのかなって。具合悪い?」
 二人の子どもを育てているという彼女の訊き方は母親そのものだった。その優しさに申し訳なく思いながら緩く首を振る。
「大丈夫です。仕事中なのにぼーっとしちゃいました。すみません」
 春日はほっとしたように目元を緩めた。元々の柔らかい雰囲気が、さらに強まった気がした。
「それならよかったわ。ちょうどお昼だし、ゆっくり休んできて」
 パソコンの右下を確認すると、確かに午前の仕事が一段落する時間だった。彼女に礼を告げて、事務所の外に出る。いつもと比べて冷風が強いが、変に煮詰まった頭にはちょうどいい薬だ。
 足は自然と、高史が勤める弁当屋に向かっていた。自覚しても引き返す選択が浮かばないのは彼関係なく味が好きだから、本当においしいからだ。意味もなく言い訳を並べているわけではない。
「いらっしゃ……あ、俊哉さん。お疲れ様です」
 接客用とは違うとすぐにわかってしまう笑顔がくすぐったくて、今は少し苦い。
「いらっしゃいませ! 朔さん、いつもご来店ありがとうございます!」
 元気いっぱいの声もすっかり耳慣れた。高史と顔見知りだと彼女――胸のネームプレートには『高崎』という名前がある――に知られてから、ご近所さんの顔なじみという立場に変わった。
「今日のおすすめは、朔さんの好きなぶりの焼き魚が入った弁当ですよ!」
「え、僕言いましたっけ?」
 確かに間違いないが、彼女に話した覚えはない。
守田もりた君に聞いたんです。鰤、冬は特においしいですよね~」
「じゃあ、その弁当でお願いします」
「了解です。ちょっと待っててくださいね」
 高史がカウンターの奥に消えた。注文を受けてから弁当を詰める形式なのも気に入っている理由のひとつだったりする。
「今日はいつもより寒いですね! 家から出たら背中丸まっちゃいましたよ」
「わかります。僕もポケットから手出せませんでした」
「守田君はいつもと全然変わんなかったですけどね。寒いねって話したらそうですか? って返されて笑っちゃいましたよ」
 さっぱりとした笑顔からは一切嫌味を感じない。初対面の時から抱いている印象に変わりはない。
 うまく笑えているか自信がないのは、彼女を生理的に嫌悪しているわけではない。ないのだ。
「お待たせしました。味噌汁がついてるので気をつけてくださいね」
「えっ? 今日は頼んでないよ?」
「寒いのと、たくさん来てくれてるからおまけだって」
「わ、嬉しいな。ありがとうございます。ありがたくいただきます」
 店に背を向けてからわずかに振り返ると、高史と彼女はなにかしら会話を交わしていた。自分が確認する限りシフトの被る日が多いからか、すっかり打ち解けている。
 別に、仕事仲間と仲良くするなんてなんら珍しくなどない。男女関係ない。
『なるほど、初めてなんだ。それは悩むねー』
『そう、なんすよね。なんでも嬉しいって言ってくれると思うけど、それに甘えたくないって言うか』
『ああ、わかるわかる!』
 一週間くらい前だった。仕事で頼まれた買い出しを済ませた帰りに、見慣れた背中を見つけた。
 スマホを確認すると、勤務時間は過ぎていた。その日は夕方までと聞いていたから用事でも済ませているのだろう――そう予想した瞬間、隣に立つ彼女を見つけてしまった。
 たまたま出会っただけかもしれないと考えながらも、隠し事の件と相まって負け犬のように逃げることしかできなかった。二人の楽しそうな雰囲気が苦痛だった。
 こんな顔だから付き合った経験はないと、以前言っていたのを思い出す。
 ある程度人となりを知った今となっては、陰ながら好意を持っていた女性は絶対いたと断言できる。あの底抜けな優しさと懐の深さは、一度でも触れれば離れがたくなってしまうはずだ。享受したいはずだ。
 考えすぎなのは頭で理解している。元からして、彼女についても名前ぐらいしか知らないのに悪い想像を広げても意味がない。恋人がいる可能性だってあるじゃないか。
 強制的に思考を断ち切ったと同時に、午後の仕事も終わった。問題なくこなせた自信は全くないが、怒られていないから多分大丈夫なのだろう。
 事務所を後にした足は変にふわふわしていた。自宅に向かおうとしていることにだいぶ経ってから気づいて、立ち止まる。
(買い物、しなくちゃ)  きびすを返す。時間を見ると六時を過ぎていた。
 気分転換も兼ねて、少々値の張るおかずでも買っていこう。前に見かけてからいつか食べてみたかった物だ、ちょうどいい。
「……うそ」
 無意識に、声が出ていた。
 目的地のショッピングセンターから出てきた、一回り大きな身体。あの横顔、見間違えるわけがない。
 一人じゃなかった。目の前で壁となっていた人が去り、お団子のヘアスタイルが目に入った。見間違えであってほしかった。
 反射的に建物内へ逃げ込む。そうだ、ここにはおかずを買いに来た。ついでに夕飯の材料も買いに来た。献立はどうしよう。時間的にあまり手のかからないものにしようか。だめだ、頭が全然回らない。今どこを歩いているのかわからない。早く冷静さを取り戻さないと高史とまともに対峙できない。
 結局、帰宅して中身を確認するまでどの店でなにを買ったのかわからなかった。視界と脳内が完全に切り離されてしまっていた。
「……やだな。俺、高史のこと信じられなくなっちゃったのかな」
 思わずこぼれた独り言が胸元を深くえぐる。導き出したくなかった結論だった。
 今日は夕方までのシフトだが、残業があるかもしれないと言っていた。なら、「あれ」がそうだというのか。
(残業はあったのかもしれないけど……でも、だったら、なんですぐ帰ってこないんだよ?)  どんどん足元が沈んでいく。闇しか見えない場所へと引き込まれていく。残しているはずの信じる気持ちも塗り替えられてしまいそうになる。
「ただいま帰りました!」
 普段よりも大きな音が玄関から響いた。のろのろと顔を向けると、息を切らした恋人が懸命に呼吸を整えている。
「ちょっと、遅くなっちゃいました……あ、メシこれからですか?」
 そういえば、全然準備が進んでいなかった。さっきから時間感覚を失ったままだ。
「……うん。いろいろ、買い物してたら遅くなっちゃって」
 明らかに安堵している高史を訝しげに見つめると、意図を察したのか軽く頭を掻きながらもごもごと口元を動かした。
「いや、ここんとこ遅番ばっかで一緒に食えてなかったじゃないですか。朝から食いたいなって思ってたんです」
 なにも言葉が思いつかずじっと見つめ返してしまう。高史の顔が明らかに染まった。
「俊哉さんが作ってくれるメシ、すごく好きなんです。向こうにいた時からずっと」
 羞恥に耐えきれなくなったのか、逃げるように居間へ向かう。リュックを下ろしてから背中が大きく上下していた。相当堪えているらしい。
「っは、なに、それ……」
 そんな告白をするならどうして彼女と寄り道なんかしてたんだ。恋人同士という関係に甘えて馬鹿にしているんじゃないのか?
 それでもあからさまな言い訳と聞こえなかったのは、偽りない本音だとわかってしまうから。こぼれる吐息が震えているのは怒りだけのせいじゃない。単純すぎる自身に、いい加減呆れてしまう。
「し、俊哉さん?」
「お前って、ほんと可愛いな」
 きっと状況にふさわしくない表情をしている。高史の胸元に抱きついて誤魔化したが、こぼれた台詞は違う。常日頃感じていた印象だった。
「か、可愛いって」
「自覚ないとこも可愛い」
「……そんなこと言うの、俊哉さんくらいっす」
「そう? バイト先で言われたりしないの?」
「ないです。というか、そんなの俊哉さん以外に言われて、嬉しいわけ、ない」
 高史の愛情はいつだってわかりやすく真っ直ぐで、けれど小春日和のような柔らかさで包み込んでくれる。いつまでも身を預けていたくなる。
 なにかを隠しているのは明らかでも、伝わってくる想いはひとつも変わらない。
「……高史」
 ほら、唇を重ねても明らかじゃないか。戸惑いつつも伸ばした舌を迎え入れ、ゆっくり絡めてくれる。
 なにもかも変わらない。たったひとつを除いて。
 終わらない間違い探しでもしている気分だ。もどかしくて、苦くて、たまらない。
「……どうしたの?」
「いえ、珍しいこともあるなって」
「たまにはいいじゃない。俺だって……さみしかったんだから」
 訝しげな色を残しつつも、高史は一言謝りながら強く抱きしめてくれた。
 もう、ひとりでもがくのは潮時かもしれない。
 最悪な展開にだけはならない。高史は絶対大丈夫。すべてが明らかになる頃にはただの取り越し苦労だと笑い合っていられる。
「……あの、さ。高史」
 すっかり耳慣れたデフォルトの着信音が間近で聞こえた。腕の中の身体がもぞもぞと身じろいでいる。
「すみません、多分バイト先からです」
「あ、そ、そうだね」
 高史が隣の部屋に消えたのを確認してから、震える息をゆっくりと吐き出した。脈打ち過ぎな胸元が苦しくて痛い。
 ほっとしているのか、苦々しいのか、どのみち改めて話をする気力は残っていない。
 いっそのこと、高史が察して話を振ってくれればいいのに。話さないといけない状況にしてくれればいいのに。原因を作っているのは高史なのだから、きっかけを与えてほしい。
 ふと、出会った頃を思い出した。状況は違えども、あの時は逆の立場だった。
 高史も、その時が来たら話してくれるのだろうか。それすらもわからないから、ゆるく首を絞められているようで気持ちが悪い。
「……電話、やっぱバイトからでした」
 高史が戻ってきた。暗い顔をしながら、もともと休みを入れていた日に夜だけ出勤しないといけなくなってしまったと報告してくれた。
「今度の月曜って……ああ、クリスマスイブか」
「最初は断ったんですけど、どうしてもってお願いされちゃって。次の日は昼過ぎまでのシフトに変えてもらいましたけど」
 スマホを握りしめた高史はすっかり肩を落としてしまった。
「初めてのクリスマスだしね」
「……クリスマスはオレも俊哉さんも仕事だから、せめてイブはずっと一緒に過ごしたいって考えてたんですけど、うまくいかないもんっすね」
 付き合い始めてから、高史が記念日やイベント事を大事にしてくれるタイプだと知った。自分は今まで無縁だったのもあってそこまで執着する方ではないのだが、一緒に過ごすだけでも普段とは違う幸せを得られるのだと知った。
「クリスマスは閉店までバイトだったんだろ? それがなくなっただけでも嬉しくない?」
 落ち込んでいるのはこっちも同じなのに、輪をかけた姿を見ていると励ましてやらずにはいられない。なけなしの年上のプライドもたまには役立つらしい。
「俺も仕事が終わったらすぐ帰ってくるから。だからぱぱっと仕事片づけて、俺のこと待っててよ。それともどっかで待ち合わせしようか。高史の手料理を堪能するのもいいなぁ」
「……俊哉さんがおねだりなんて、珍しいですね」
「俺だって恋人の手料理好きなんだぞ。知らなかった?」
 高史の口元がようやく緩んだ。
 残るは、この気持ち悪さの解消だけ。必要なのは、ほんの少しの勇気だけ。
 クリスマスはもう目前に迫っている。

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