星空と虹の橋の小説を掲載しています。
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2024/01/12 16:13:11 探偵事務所所長×部下シリーズ
カテゴリ「夜の太陽はさかさまで輝く」に属する投稿[10件]
後日談
年の瀬も迫り、寒さも堪える中、地元の街中はどこか浮き足だっている。電灯の装飾が増え、特別セールや限定品の看板やポスターが目立つ。
(もうすぐクリスマスだな……)
広場に飾られた、背丈より二倍以上はある煌びやかなツリーをぼんやり見上げる。
心から愛し合える人と迎える、初めてのクリスマス。
少しくらい浮かれてもいいはずのその場所は、重力をかけられたように沈んでいた。
* * * *
本当に彼は優しい。
あの人を「恋人」という括りに入れるなら、比べるまでもないくらいにいつも寄り添ってくれる。やさしく包み込んでくれる。
だから、少しでも助けになりたい。与えてくれたものを返したい。
その第一歩は働くこと。
彼の勧めで病院通いを始めて、担当医にもフルタイムでなければ、と許可ももらった。
『本当にいいんですか? オレは大丈夫ですよ?』
やっぱり心配してきた声も、勤務場所が彼の勤める弁当屋の近くであること、何かあればすぐに連絡すると伝えてどうにか納得させた。
以前伝えた言葉――彼に自由な時間をあげたい思いは今も変わらない形で胸の中にあるし、二人一緒に暮らしているという現実を、改めて実感できることが嬉しかった。
なのに、今は不安がつきまとう。
考え過ぎだと思いたい。それを彼は容赦なく振り払ってしまうのだ。
「その」瞬間を迎えるまで、何度スマホを確認したかわからない。
玄関の鍵が開く音を聞いた瞬間に立ち上がった。壁の時計を確認すると夜の十時半を過ぎている。
ドアが開かれ、恋人が現れる。ようやく、まともに呼吸ができた気分だった。
「高史、お帰り。今日ってもしかして遅番だった?」
全身に気だるさを纏った高史は、どこか不思議そうにこちらを見つめている。
「……あれ、オレ、連絡してなかったですっけ」
首を振ると、高史は慌ててポケットからスマホを取り出した。親指を何度か上下してから、小さな悲鳴を上げる。
「すんません、連絡し忘れてました……!」
出勤中、バイト先から「一人欠勤になってしまったから遅番に変更できないか」と打診が来たらしい。この時期は夜の方が多忙のようだから、一人抜けられるのは相当厳しいのだろう。
「何回か連絡入れたんだけどね。ほんと忙しかったんだな?」
「そ、そうなんです。休憩時間も短かったですし」
ほんの少しだけ視線が逸れていた。普段ならおそらく気に留めない変化だが、今は違う。
改めてこちらに向き直った高史はきれいに頭を下げた。
「心配かけてしまって、本当にごめんなさい」
「忙しかったんだし仕方ないよ。ほらほら、リュック置いてきなって。メシと風呂、どっちにする?」
「……はい。先に風呂入ってきますね。すぐ出てきます」
脱衣所に続くドアが閉められると、思わず震えた息がこぼれた。居間にあるテーブルの前にぼんやりと座る。
高史がこういった大事な連絡を忘れるのはとても珍しいことだった。多忙、というのは彼の中では「よほどの事情」には入らない。基本真面目な性格だからなおさら。
だからこそ、忘れた理由を変に勘ぐってしまう。そう、例えば――。
脱衣所から響く音で、思考が強制的に断ち切られた。慌ててテーブルに並べた夕飯を温め直す。考えまいとしたくても、気を抜けばすぐに囚われてしまう。
高史の支度が整ったところで、自分にとっては二度目の夕飯が始まった。高史用に用意した缶ビールの残りと軽いつまみを嗜みつつ、こっそり隣の恋人を観察する。
小さな違和感以外は、やっぱりいつもと変わらない。
「俊哉さん? どうかしました?」
高史と目が合ったことに驚いてしまった。いつの間にやら堂々と眺めていたのか。とっさに思いついた話題をすかさず投げる。
「いや、あそこの弁当屋ってほんと人気あるんだなーって思ってた。わからないでもないけどね」
「結構来てくれてますもんね。味、お気に入りですか?」
そういう質問を恋人にしてしまうのが、高史の天然で可愛いところだとつくづく感じる。堪えきれずに小さく吹き出すと怪訝そうに見つめられた。
「まあ、ね。家庭の味って感じがちょうどいいのもあるよ。でも……」
手を伸ばして、まだ濡れている高史の髪にそっと触れる。微量ながらも、アルコールのおかげで少し気分が上向いてきた。
「お前にも会えるからね。結構元気もらえるんだよ?」
細めの目が見開かれ、見る間に頬が赤く染まった。視線があちこちさまよい始める。
「なに、どうかした?」
「俊哉さん、わかってて訊いてるでしょ」
「ええ? わからないなぁ」
「……メシ、続き食べます」
微妙にむすっとしながら黙々と箸を進める姿はまるで子どもだった。敢えて頭を撫でてやると、眉間に少しずつ皺が増えていく。それでも振り払わないところに彼の優しさが表れているようだった。
いつもと変わらない時間だった。
紛れもない自身が違和感の原因だと責められてもおかしくないほどに、変わらなかった。
* * * *
違和感を覚えたのはいつからだったろう。
多分、一ヶ月くらい前からだった。妙に難しい顔をして考え込んでいる素振りが妙に目について、気にかけるたびになんでもないと躱され、気づけばその素振りはなくなった。
今思えば、解決したのではなく指摘されたから表に出さないよう努めていたのかもしれない。追求されるのが苦手な高史が取りそうな手段ではある。
――敏感になりすぎている自覚もある。だって、高史の気持ちは両手からあふれるくらいに受け取っているだろう? 同じ想いをきちんと返せているか、なんて贅沢な悩みを持ってしまうくらいなんだろう?
「朔さん?」
急に名前を呼ばれて息をのむ。隣に座る、同じ仕事を担当している女性が心配そうにこちらを見つめていた。
「すみません春日さん、なにか用事でしたか」
「ううん、そうじゃないんだけど……顔色がよくないからどうかしたのかなって。具合悪い?」
二人の子どもを育てているという彼女の訊き方は母親そのものだった。その優しさに申し訳なく思いながら緩く首を振る。
「大丈夫です。仕事中なのにぼーっとしちゃいました。すみません」
春日はほっとしたように目元を緩めた。元々の柔らかい雰囲気が、さらに強まった気がした。
「それならよかったわ。ちょうどお昼だし、ゆっくり休んできて」
パソコンの右下を確認すると、確かに午前の仕事が一段落する時間だった。彼女に礼を告げて、事務所の外に出る。いつもと比べて冷風が強いが、変に煮詰まった頭にはちょうどいい薬だ。
足は自然と、高史が勤める弁当屋に向かっていた。自覚しても引き返す選択が浮かばないのは彼関係なく味が好きだから、本当においしいからだ。意味もなく言い訳を並べているわけではない。
「いらっしゃ……あ、俊哉さん。お疲れ様です」
接客用とは違うとすぐにわかってしまう笑顔がくすぐったくて、今は少し苦い。
「いらっしゃいませ! 朔さん、いつもご来店ありがとうございます!」
元気いっぱいの声もすっかり耳慣れた。高史と顔見知りだと彼女――胸のネームプレートには『高崎』という名前がある――に知られてから、ご近所さんの顔なじみという立場に変わった。
「今日のおすすめは、朔さんの好きな鰤の焼き魚が入った弁当ですよ!」
「え、僕言いましたっけ?」
確かに間違いないが、彼女に話した覚えはない。
「守田君に聞いたんです。鰤、冬は特においしいですよね~」
「じゃあ、その弁当でお願いします」
「了解です。ちょっと待っててくださいね」
高史がカウンターの奥に消えた。注文を受けてから弁当を詰める形式なのも気に入っている理由のひとつだったりする。
「今日はいつもより寒いですね! 家から出たら背中丸まっちゃいましたよ」
「わかります。僕もポケットから手出せませんでした」
「守田君はいつもと全然変わんなかったですけどね。寒いねって話したらそうですか? って返されて笑っちゃいましたよ」
さっぱりとした笑顔からは一切嫌味を感じない。初対面の時から抱いている印象に変わりはない。
うまく笑えているか自信がないのは、彼女を生理的に嫌悪しているわけではない。ないのだ。
「お待たせしました。味噌汁がついてるので気をつけてくださいね」
「えっ? 今日は頼んでないよ?」
「寒いのと、たくさん来てくれてるからおまけだって」
「わ、嬉しいな。ありがとうございます。ありがたくいただきます」
店に背を向けてからわずかに振り返ると、高史と彼女はなにかしら会話を交わしていた。自分が確認する限りシフトの被る日が多いからか、すっかり打ち解けている。
別に、仕事仲間と仲良くするなんてなんら珍しくなどない。男女関係ない。
『なるほど、初めてなんだ。それは悩むねー』
『そう、なんすよね。なんでも嬉しいって言ってくれると思うけど、それに甘えたくないって言うか』
『ああ、わかるわかる!』
一週間くらい前だった。仕事で頼まれた買い出しを済ませた帰りに、見慣れた背中を見つけた。
スマホを確認すると、勤務時間は過ぎていた。その日は夕方までと聞いていたから用事でも済ませているのだろう――そう予想した瞬間、隣に立つ彼女を見つけてしまった。
たまたま出会っただけかもしれないと考えながらも、隠し事の件と相まって負け犬のように逃げることしかできなかった。二人の楽しそうな雰囲気が苦痛だった。
こんな顔だから付き合った経験はないと、以前言っていたのを思い出す。
ある程度人となりを知った今となっては、陰ながら好意を持っていた女性は絶対いたと断言できる。あの底抜けな優しさと懐の深さは、一度でも触れれば離れがたくなってしまうはずだ。享受したいはずだ。
考えすぎなのは頭で理解している。元からして、彼女についても名前ぐらいしか知らないのに悪い想像を広げても意味がない。恋人がいる可能性だってあるじゃないか。
強制的に思考を断ち切ったと同時に、午後の仕事も終わった。問題なくこなせた自信は全くないが、怒られていないから多分大丈夫なのだろう。
事務所を後にした足は変にふわふわしていた。自宅に向かおうとしていることにだいぶ経ってから気づいて、立ち止まる。
(買い物、しなくちゃ)
きびすを返す。時間を見ると六時を過ぎていた。
気分転換も兼ねて、少々値の張るおかずでも買っていこう。前に見かけてからいつか食べてみたかった物だ、ちょうどいい。
「……うそ」
無意識に、声が出ていた。
目的地のショッピングセンターから出てきた、一回り大きな身体。あの横顔、見間違えるわけがない。
一人じゃなかった。目の前で壁となっていた人が去り、お団子のヘアスタイルが目に入った。見間違えであってほしかった。
反射的に建物内へ逃げ込む。そうだ、ここにはおかずを買いに来た。ついでに夕飯の材料も買いに来た。献立はどうしよう。時間的にあまり手のかからないものにしようか。だめだ、頭が全然回らない。今どこを歩いているのかわからない。早く冷静さを取り戻さないと高史とまともに対峙できない。
結局、帰宅して中身を確認するまでどの店でなにを買ったのかわからなかった。視界と脳内が完全に切り離されてしまっていた。
「……やだな。俺、高史のこと信じられなくなっちゃったのかな」
思わずこぼれた独り言が胸元を深くえぐる。導き出したくなかった結論だった。
今日は夕方までのシフトだが、残業があるかもしれないと言っていた。なら、「あれ」がそうだというのか。
(残業はあったのかもしれないけど……でも、だったら、なんですぐ帰ってこないんだよ?)
どんどん足元が沈んでいく。闇しか見えない場所へと引き込まれていく。残しているはずの信じる気持ちも塗り替えられてしまいそうになる。
「ただいま帰りました!」
普段よりも大きな音が玄関から響いた。のろのろと顔を向けると、息を切らした恋人が懸命に呼吸を整えている。
「ちょっと、遅くなっちゃいました……あ、メシこれからですか?」
そういえば、全然準備が進んでいなかった。さっきから時間感覚を失ったままだ。
「……うん。いろいろ、買い物してたら遅くなっちゃって」
明らかに安堵している高史を訝しげに見つめると、意図を察したのか軽く頭を掻きながらもごもごと口元を動かした。
「いや、ここんとこ遅番ばっかで一緒に食えてなかったじゃないですか。朝から食いたいなって思ってたんです」
なにも言葉が思いつかずじっと見つめ返してしまう。高史の顔が明らかに染まった。
「俊哉さんが作ってくれるメシ、すごく好きなんです。向こうにいた時からずっと」
羞恥に耐えきれなくなったのか、逃げるように居間へ向かう。リュックを下ろしてから背中が大きく上下していた。相当堪えているらしい。
「っは、なに、それ……」
そんな告白をするならどうして彼女と寄り道なんかしてたんだ。恋人同士という関係に甘えて馬鹿にしているんじゃないのか?
それでもあからさまな言い訳と聞こえなかったのは、偽りない本音だとわかってしまうから。こぼれる吐息が震えているのは怒りだけのせいじゃない。単純すぎる自身に、いい加減呆れてしまう。
「し、俊哉さん?」
「お前って、ほんと可愛いな」
きっと状況にふさわしくない表情をしている。高史の胸元に抱きついて誤魔化したが、こぼれた台詞は違う。常日頃感じていた印象だった。
「か、可愛いって」
「自覚ないとこも可愛い」
「……そんなこと言うの、俊哉さんくらいっす」
「そう? バイト先で言われたりしないの?」
「ないです。というか、そんなの俊哉さん以外に言われて、嬉しいわけ、ない」
高史の愛情はいつだってわかりやすく真っ直ぐで、けれど小春日和のような柔らかさで包み込んでくれる。いつまでも身を預けていたくなる。
なにかを隠しているのは明らかでも、伝わってくる想いはひとつも変わらない。
「……高史」
ほら、唇を重ねても明らかじゃないか。戸惑いつつも伸ばした舌を迎え入れ、ゆっくり絡めてくれる。
なにもかも変わらない。たったひとつを除いて。
終わらない間違い探しでもしている気分だ。もどかしくて、苦くて、たまらない。
「……どうしたの?」
「いえ、珍しいこともあるなって」
「たまにはいいじゃない。俺だって……さみしかったんだから」
訝しげな色を残しつつも、高史は一言謝りながら強く抱きしめてくれた。
もう、ひとりでもがくのは潮時かもしれない。
最悪な展開にだけはならない。高史は絶対大丈夫。すべてが明らかになる頃にはただの取り越し苦労だと笑い合っていられる。
「……あの、さ。高史」
すっかり耳慣れたデフォルトの着信音が間近で聞こえた。腕の中の身体がもぞもぞと身じろいでいる。
「すみません、多分バイト先からです」
「あ、そ、そうだね」
高史が隣の部屋に消えたのを確認してから、震える息をゆっくりと吐き出した。脈打ち過ぎな胸元が苦しくて痛い。
ほっとしているのか、苦々しいのか、どのみち改めて話をする気力は残っていない。
いっそのこと、高史が察して話を振ってくれればいいのに。話さないといけない状況にしてくれればいいのに。原因を作っているのは高史なのだから、きっかけを与えてほしい。
ふと、出会った頃を思い出した。状況は違えども、あの時は逆の立場だった。
高史も、その時が来たら話してくれるのだろうか。それすらもわからないから、ゆるく首を絞められているようで気持ちが悪い。
「……電話、やっぱバイトからでした」
高史が戻ってきた。暗い顔をしながら、もともと休みを入れていた日に夜だけ出勤しないといけなくなってしまったと報告してくれた。
「今度の月曜って……ああ、クリスマスイブか」
「最初は断ったんですけど、どうしてもってお願いされちゃって。次の日は昼過ぎまでのシフトに変えてもらいましたけど」
スマホを握りしめた高史はすっかり肩を落としてしまった。
「初めてのクリスマスだしね」
「……クリスマスはオレも俊哉さんも仕事だから、せめてイブはずっと一緒に過ごしたいって考えてたんですけど、うまくいかないもんっすね」
付き合い始めてから、高史が記念日やイベント事を大事にしてくれるタイプだと知った。自分は今まで無縁だったのもあってそこまで執着する方ではないのだが、一緒に過ごすだけでも普段とは違う幸せを得られるのだと知った。
「クリスマスは閉店までバイトだったんだろ? それがなくなっただけでも嬉しくない?」
落ち込んでいるのはこっちも同じなのに、輪をかけた姿を見ていると励ましてやらずにはいられない。なけなしの年上のプライドもたまには役立つらしい。
「俺も仕事が終わったらすぐ帰ってくるから。だからぱぱっと仕事片づけて、俺のこと待っててよ。それともどっかで待ち合わせしようか。高史の手料理を堪能するのもいいなぁ」
「……俊哉さんがおねだりなんて、珍しいですね」
「俺だって恋人の手料理好きなんだぞ。知らなかった?」
高史の口元がようやく緩んだ。
残るは、この気持ち悪さの解消だけ。必要なのは、ほんの少しの勇気だけ。
クリスマスはもう目前に迫っている。
* * * *
「それならもじもじしてないでさっさと訊いちゃえよ」
「簡単に言ってくれるよ」
「だって浮気してるとか、そういう雰囲気じゃないんだろ? その意見を信じるなら、多分たいした隠し事じゃないんだよ」
クリスマスを二日後に控えた今日、久しぶりに谷川涼一と会った。用事で近くを寄るから、ついでに会えないかと連絡が来たのだ。そういえば引っ越してから初めて顔を合わせる。
相談するつもりはなかった。けれど付き合いがそれなりに長く、目ざとい彼にはあっさり見抜かれてしまったというわけだ。
「涼一はどうする? 嫁さんが隠し事してるなーって思ったら」
「結構わかりやすい性格だっていうのもあるけど、訊いちゃうかな」
予想通りの返答だった。涼一は基本、公私関係なくストレートだ。自分では頑張っても持てない部分だからときどき羨ましい。
すっかり冷めたミルクティーの残りをあおり、ため息をこぼす。
「結構びびってる自分にびっくりしてるよ。今が本当に、大事すぎるんだ」
過去とはまるで真逆の位置にあるこの環境が、時間が、ほんの少しの衝撃で崩れてしまうのではないかと怯えている自分が常にいる。
信じていないのと同義だと言われても、反論はできない。
「そうやって一人で溜め込むとこ、全然変わらないな俊哉は」
涼一は呆れているようだった。これも反論はできない。
「守田くんなら絶対大丈夫だよ。心配いらないさ」
こちらを見つめる細い両目がどこか柔らかくなった。
「なんで、言い切れるんだよ」
「……今なら言ってもいっか。前に話しただろ? 守田くんに初めて会った時のこと。その時さ、俺に詳しい話を聞きたそうにしてたんだ。でも訊いてこなかった」
『無理に聞きたくないって、思ってるだけです。気にならないって言ったら嘘になりますけど。でも、朔さんがいやなら無理に聞かない。朔さんが、ただここにいてくれれば、それでいい』
仲野洋輔との過去を訊かない理由を問いかけた時、高史は迷いなくそう答えた。
知り合いでもない上に、面倒な事情を抱えている人間に対してかける言葉ではない。信じられないと同時に、初めて救われた気持ちになった。その後仕掛けたくだらない誘惑をはねのけた姿を見て、ますます惹き込まれた。
「それ見て、守田くんなら絶対俊哉のことをどうにかしてくれるって思った。結果は、お前が一番わかってるだろ?」
わかっている。わかりすぎている。夢のような現実を生きている。
「だから俊哉を裏切るような真似は絶対しない。断言してもいい」
無意識に頷いていた。目元が熱い。気を抜いたらその熱がこぼれ落ちてしまいそうで、必死に奥歯に力を込めた。
やっぱり、高史は高史のままだったんだ。
「……あ、でも、待てよ」
何かを思いついたらしい涼一は人差し指で頬を軽く叩き始めた。
「俊哉、やっぱ訊かない方がいいかも」
「な、なんだよその方向転換」
「ていうかお前こそ気づかないの? 鋭いくせに?」
意味がわからない。わからないからこうして相談しているんじゃないか。
「あー、でも今までこういうのは無縁だったんだっけ。じゃあ仕方ないか……」
一人で納得して完結しないでほしい。
+ + + +
ようやく吹っ切れた気がする。
いや、自棄になったという方が正しい。そうならないと今にも飲み込まんと押し寄せる負の波に負けてしまいそうだから。
「ただ……いま」
「やっと帰ってきたね」
あと二時間で一日が終わる頃に、高史は帰ってきた。居間に向かおうとしていた足を止めて軽く振り返ると、どこかたどたどしい動きで靴を脱いでいた。家に充満する空気を敏感に感じ取ったらしい。
「そんな顔してどうしたの?」
敢えて問いかけてみた。
「あの、顔が怖い、です」
朝は普通だったのにどうして、とでも言いたげだが、隠し事をされている身からすれば白々しいというもの。
「とりあえず靴脱いで。で、ここに座る」
指示通り、ベランダ側を背にして正座をした高史の向かいに腰を下ろす。少しだけ気分が落ち着いた。そう、冷静にならなければ話はできない。
内心で我慢できなかったことを涼一に詫びながら、わずかに震える唇を持ち上げる。
「仕事お疲れ様。大変だったでしょ」
「は、はい。クリスマス仕様の弁当がとにかく人気で、客が多かったと思います」
「休憩する暇もなかった?」
「え、いや、ちゃんともらえました」
「じゃあ、その時に出かけてたんだな」
高史の口元が、不自然に開かれたまま動かなくなった。
「駅前で見かけたんだよ。誰かと一緒だったよね」
彼女の名前は敢えて言わなかった。
「なにか持ってるみたいだったから、買い物してたんだよね。結構楽しそうにしてたじゃない?」
「っあの、違うんです!」
浮気を疑われているのだとようやく悟った高史が弾かれたように首を振った。
「高崎さんですよね? 違います。恋人いますし」
「そう、付き合ってる人いるんだ。でも理由にはならないよね?」
おそらく納得してもらえると思っていたのだろう。目の前で表情が消えた。
「今日だけじゃない。前にもお前と彼女が一緒にいるところを見たんだよ? なのに信じろって言うんだ」
唇を開きかけては結ぶを繰り返している。この期に及んでまだ足掻こうというのか。
「お前が隠し事してるのはわかってたけど、まさかそういうことだったなんてね……」
「だから、違います!」
距離を詰めながら否定する高史から、ためらいは消えているようだった。ここまで持っていければ大丈夫だろう。
すべては、高史から本音を曝け出させるための布石。
「だったら、ちゃんと話してくれるよね。なにを隠してるのか」
「そ、れは」
高史の勢いが再び弱まる。この期に及んでまだ足掻こうとする恋人に、怒りを通り越して虚しさがこみ上げてきた。
ここまで問い詰めてもだめなら、一体どうすればいい?
まさか、本当に浮気をしているというのか? それとも愛想をつかしてしまった? 他に好きな人ができた? 答えに窮する理由なんてネガティブなものしか思いつかない。
――ああ、情けなくも涙がこぼれそうだ。泣いても意味なんてないのに。
「しゅ、俊哉さん!?」
うろたえた声の高史に顔を向けた瞬間、気づいた。すうっとした感触が頬を走っている。堪えていたはずが、つもりでいたらしい。いつの間にか自分も嘘をつくのが下手になっていた。
「俺のこと、嫌いになったんならそう言ってくれよ」
「なっ、なに言ってんですか!」
「だって、言えないくらいの隠し事って言ったら、そういうのしか」
高史がいきなり立ち上がった。ぼんやりとした視界で背中を追うと、玄関近くでしゃがみこみ、おそらく鞄の中をあさっているようだった。
全く意図が読めない。こちらに戻ってきた高史の手に小綺麗な包みが握られている意味もわからない。
「これです」
その包みをテーブルの上に置いた。
「……本当は本番まで取っておきたかったんですけど、俊哉さんにこれ以上誤解されたくないから、今種明かしです」
再度包みを手に取った高史は、緊張ぎみにそれを差し出した。
「メリークリスマス、俊哉さん。プレゼントです」
かけられた言葉すべてを、いつもの倍の時間をかけて飲み込む。
「……プレゼント、って、クリスマスの?」
「はい」
プレゼントと隠し事と、どう繋がるというのだろう。頭の回転が恐ろしく鈍い。
「あと、先月の誕生日プレゼントも兼ねてます」
短いため息を挟んでから続いた言葉に、もはや驚くだけの力はなかった。
「本当は二つ用意したかったんですけど、さすがにちょっと、厳しくて」
確かに高史は、金の問題で用意できなかったことを悔やんでいた。祝ってもらえるだけでも嬉しいのに、予約していたレストランでサプライズのケーキまで用意してくれていたから、とても贅沢な一日だったと心のままに伝えたつもりでいたが、納得はしていなかったらしい。
「高崎さんには、いろいろアドバイスもらってたんです。こういうの初めてだったんで、本当に世話になりました」
それが二人で行動を共にしていた理由だとでも言うつもりか。
「でも、それでどうして彼女なんだよ」
もはや単なる嫉妬だった。まだ納得できないのだから仕方ない。
白状し始めてから視線を外さなかった高史だったが、少しだけ天井を仰いだ。なにかを振り切るように改めて姿勢を正す。
「高崎さんにはオレと俊哉さんが恋人同士だって知られてます。バレました」
この短時間でどれだけ衝撃を与えれば気が済むのか。
「うまい言い訳もできなくて……すみません」
全身からすべての力が抜け落ちた。テーブルに額をぶつけてしまったが、その痛みさえも今はありがたい。
女性は変に鋭いところがあるから太刀打ちできないのもわかっているつもりだし、この関係を絶対に口外するなと厳命しているつもりもない。
高史がクリスマスプレゼントを用意してくれているのはもちろん想定していた。だが、その準備のために彼女に協力を仰いでいたというところまでは考えが及ばなかった。さらに関係がバレてもいたなんて……。
涼一の忠告が何本もの針に姿を変えて、あらゆる箇所を突き刺していくようだった。記憶を保ったまま、高史と彼女を見かける前まで時間を戻せたら誰もが理想的な未来を迎えられたのに。
「あの、俊哉さん」
肩に触れられてのろのろと頭を持ち上げると、今にも泣きそうなくらい眉根を下げた高史が映った。
「本当にすみません。こんなことになるなら素直に言うべきでした」
首を振る。高史の気持ちは理解できるし、否定できない。
悪い方に考える癖が前面に出すぎて、一人で暴走してしまったせいなんだ。
「いえ、ちょっと考えればわかることだったんです。オレだって、俊哉さんが誰かと仲良さそうに歩いてたら嫉妬します。どんな事情があったって、嫌です」
「……はは。嫉妬してくれるんだ」
「しますよ。相手のこと殴っちゃうかもしれないです」
高史の眉が一瞬でつり上がった。隣にそんな相手がいたら宣言通りの行動を取りそうな雰囲気さえ纏っている。
目眩がしそうだった。こんな多幸感は現実だからこそ味わえる。膨れすぎて苦しいなんて感想は浮かばない。
高史の服を掴んで引き寄せる。どうしようもなくキスがしたかった。貪るようなキスがしたかった。
唇を重ねると同時に舌を差し込む。驚きで固まっている高史のそれを何度もなぞり、後頭部に回した手に力を込めた。
こんなキスは久しぶりだ。心臓が壊れかけのようにうるさい。
「っん……ぅ!」
後頭部に軽く走った衝撃で、初めて押し倒されていることに気づいた。
「しゅんや、さん……もっと、オレ……」
「して……おれも、ほしい……っ」
互いの口内でねっとりと絡み合う感触がとても気持ちいい。背中のあたりが何度も小さく跳ねてしまう。これ以上続けたらキスでは済まなくなってしまうのに止められない。高史のすべてが、欲しい。
胸元を掠める感触に自然と腰を持ち上げてしまう。期待で背筋がぶるりと震えた。
「……あ」
この空気を強制的に断ち切った犯人は、言うなれば人間の性だった。
「ご、ごめんなさい。こんな、ときに」
息を荒らげながら謝る高史に追い打ちをかけるように、再び腹のあたりから唸り声が響く。知らないふりも、堪えるのももう限界だった。
「っご、ごめんごめん。そうだよね、腹減ってるよね」
「オレ、カッコ悪すぎ……穴があったら入りたいって気持ちすげーわかる……」
頭を抱えて悶絶している。そういえばこんな姿を見るのは初めてだから、新しい一面を見れたと思えば嬉しい。
「考えてみれば俺だってなにも食べてなかったし、むしろいいタイミングだったよ」
「そう、そうかもしれないですけど……!」
もし崖際にでもいたら飛び込みかねないほど落ち込んでいる。自分としてはますます可愛くてたまらないのだが、今は必死に押し殺さねばならない時だ。
「俺は、むしろありがたいと思ったよ」
「……腹、減ってるからですか」
ふらふらと立ち上がり、こちらを見下ろす高史はつい先ほどまでの誰かを彷彿とさせた。
「問題です。今日はどんな日でしょう?」
意味がわからないと顔全体で示す高史に、もっとわかりやすい問題に変える。
「ある日の二日前ですが、そのある日とは?」
三回くらい瞬きを繰り返したのちに、短い声が上がった。
「わかってもらえたみたいでよかったよ。だから……プレゼントも、それ以外もとっとこう? ね?」
耳元にそう囁くとともに小さなキスを贈ると、黙ったまま首が上下した。
* * * *
「俊哉さん、まだ寝てなかったんですか?」
バスルームから戻ってきた高史は家と同じように軽く髪の毛を拭いて、静かにベッドに上がった。
明日、いや今日があるのはわかっている。全身に確かな気だるさも残っているし、目を閉じたらすぐに意識を手放せる自信もある。
特別な一日を、まだ過ごしていたかった。じんわりと満たされた気分に浸っていたかった。
こんな感覚は初めてで、少しの戸惑いと可笑しさが広がる。以前なら贅沢すぎると変に萎縮してしまっていただろう。
「……それ、また見てたんですね」
「恋人からもらった、初めてのプレゼントだからね」
気持ちがするりとこぼれ落ちた。
やっぱり、ずいぶん気が緩んでいる。でも、今日くらいはかまわない。誤魔化そうとしてもきっと失敗に終わっていた。
彼女に相談してはいたものの、最終的に「これ」と選んだのは高史だったという。あれこれ眺めた中で一番納得できて、最後まで高史の頭に引っかかっていたらしい。
「そんなに喜んでもらえて、なんていうかすげえホッとしました」
「そこは彼氏冥利につきるって言ってほしいな」
「そ、そう、か……そう、ですよね」
今、自分は誰よりも幸せな人間なんじゃないかと自惚れてしまう。いや、きっとそれでいいんだ。咎めるものはいないし、いたとしても関係ない。
「ね、高史。これ、つけてほしいな」
身体を起こし、隣で腰掛けたままの高史にもたれかかりながら、プレゼントを目線の高さまで持ち上げた。
「え、今ですか?」
「うん。今、お前につけてほしい」
恋人が選んでくれたプレゼントを恋人につけてもらう――そんな最高の贅沢を味わいたかった。羞恥はとうに捨てている。
一回り大きな手が、プレゼントをゆっくりと掴んだ。まるで大役を任されたような緊張が伝わってくる。
「その、どっちにつけたいですか?」
少し悩んで、左腕を高史の前に掲げた。
改めて体勢を整えた高史は、チェーンを繋ぐ留め具を外した。左腕に通して再び輪にしようとするが、微妙に震えているせいかなかなかうまくいかない。
「す、すみません。こういうの慣れてなくて、不器用で」
「大丈夫。ずっと待ってるよ」
だって、この時間すら愛おしくて仕方ない。
頬を慈しむように撫でるとさらに震えが増して、高史に窘められてしまった。迫力はもちろんない。
「できました……!」
今度は頭にしようかな、とつい悪戯心が成長しかけたところで安堵に包まれた声が響いた。緊張の抜けた手が離れると、確かな重みが加わる。
「ありがとう。どう? 似合ってる?」
「はい。やっぱりシルバ-にして正解でした」
手首を左右に動かすと、向かい合わせに繋がれた二つの馬蹄が落ち着いた輝きを放つ。主張しすぎない、けれど確かな存在感がある。
故意か偶然か、今の自分にこれほど相応しいプレゼントはない。
「……ありがとう。本当に」
「そんな、大げさですよ」
言葉がいくつあっても足りない、なんて場面が実際にあるなんて想像もしなかった。
高史の胸元に顔を寄せる。触れ合った箇所から余すところなく伝わればいいのにと、柄にもないことを望んでしまう。
「そうだ。高史にもつけてあげようか? 俺のプレゼント」
怪訝そうに訊き返す高史に、左手の薬指を指差してみせる。
「つっ、つけたいですけど、衛生上の問題が」
絵に描いたような狼狽ぶりに笑わないでいるのは無理だった。
「冗談だよ。……あ、じゃあネックレスにするっていうのはどう?」
初めてのプレゼントで指輪は重いだろうかと考えもしたが、自分にとって高史はもう離れられない唯一のひとだ。
だからこそ、他の選択肢はなかった。
それでもファッション感覚で身につけられる、いわゆる結婚指輪のようなデザインではない。簡単な彫刻が表面をぐるりと彩っている。
「全然、考えつかなかったです……」
「チェーンを長いのにすれば服の下にも隠しやすいよ。今度一緒に見に行こう?」
安堵と嬉々の混じった笑みを浮かべて頷く高史の左手をそっと取る。
いつかは、本来の場所に身につけてほしいと今願ってしまうのは早計か、単なるわがままか。口にしたら困らせてしまうだろうか。
――いや、考えるのはよそう。感情のままに動いてみるんだ。
目の前の薬指に唇を寄せて軽く吸い上げる。視線を持ち上げると、こちらを凝視する瞳とぶつかり、一瞬ゆらいだ。
「いつかは、ここにもつけてくれると嬉しい」
左手が熱くなった。高史の顔が吸い込まれるように近づいていくのをぼうっと見つめる。指輪交換でもしているようだ……なんて、相当浮かれている。
「……そのときは、俊哉さんに指輪、プレゼントしますね」
腕につけられた幸運のお守りが、一瞬強く光ったように見えた。
第5話:過去の話(朔俊哉視点) #R18
物心ついた時から、心動かされる相手はいつも同性だった。
だから恋をしても基本叶わないものと割り切っていたし、実際その通りだった。
想いを押し込める技だけは得意だった。少しでも気を緩めて吐露してしまえば、間違いなくつながっていた縁は切れる。
それが何よりも、怖かった。
「俊哉、祝え。俺は今度、ついに結婚するぞ!」
「……改まって飲みに誘ってきたのは、それが理由か」
「いいじゃねーかよ。一番世話になってるお前に、最初に報告したかったんだからよ」
仲野洋輔は子どものように唇を尖らせる。思わず苦笑しながらも、祝辞の代わりにビールの注がれたジョッキをコンと当てた。個室ありの居酒屋を選んだ理由もそれだろう。
洋輔は新卒で入社してから持ち前の明るさと人懐こさで横のつながりを築いていたが、一番気を許してくれているのか、昼食や会社帰りの飲みによく誘われ、他愛ない話から深い話まで交わしてきた。
もちろん、自分も同様だった。他に谷川という同僚とも仲はいいが、洋輔の隣が一番落ち着く。恋情を抱くのに、時間もかからなかった。
「それって、前から付き合ってたっていう彼女?」
「そうそう。結婚したーいって言いまくられて、折れたってのもあるんだけど」
苦笑しながらも、もともと柔和な瞳はさらに柔らかくなる。
二年ほど前に合コンで知り合い、意気投合して付き合うことになったと聞いたのが最初だった。洋輔に負けず劣らずの明るさをもっていて飽きないばかりか、ほしいと思った時にすかさず手を差し伸べてくれるような、まさに完璧な女性らしい。
「あ、何だよその苦い顔。あれか、リア充爆発しろってやつか」
「違うって」
つい表に出してしまっていたらしい。自ら望んで「友人」の籠にこもっているのに、想う気持ちというのは時々、恐ろしい。
「結婚式は今んとこしない予定なんだけどさ、祝いの品くれ! 金くれ!」
「金目当てだろ結局!」
結局、同じ展開を繰り返す。
それでも、慣れていた。また時間をかけて、想いを昇華していけばいい。
この想いに関係なく、洋輔が大事な人であることに違いはない。親友だって、そうそう手に入るポジションじゃない。互いに笑い合えるだけで幸せじゃないか。
今までと変わらないレールをただ進んでいた。進んでいると、思っていた。
* * * *
「……なあ」
缶コーヒーを片手に喫煙所の前を通り過ぎようとした時、中から谷川に呼び止められた。
足を止めると、周りの様子を伺いながら中に引き入れてくる。
「どうしたんだ?」
「あのさ。お前、仲野と仲いいだろ?」
その名前に、手から力が抜けた。一瞬の鋭い痛みで我を取り戻し、慌てて屈む。
「おい、大丈夫かよ?」
「ご、ごめん。大丈夫。……その、洋輔がどうかしたのか?」
「いや、あいつ最近変じゃない? って思って」
すぐに答えられなかった隙を谷川は見逃してくれなかった。煙を吐き出してから向けてきた視線は、探るように鋭い。
「こう……違和感があるというか。俺、今あいつとチーム組んでるからわかるんだよ。仕事も、前は絶対にしなかったようなミスをするようになってるし」
どううまく切り抜けるか。そればかりが脳裏をぐるぐると回って、目眩を起こしそうになる。
「リーダーが本人に直接面談してみたらしいんだけど、何も答えてくれなかったんだって。まあ、あいつって意外と溜め込むタイプだからなぁ……」
「だから、俺が何か知ってるかって、思ったの」
「そう。知ってる?」
確信と、逃避を許さない声音で問われる。せめて逸らさないようにと首に力を入れても、まっすぐな視線につい下を向いてしまう。
明らかな劣勢を救ったのは、ポケットにあるスマートフォンだった。
「……ごめん、電話だ」
逃げるように喫煙所を出る。非常口のある階段まで足早に進み、画面を見て喉を引きつらせる。
……無視は、できない。震える指で画面をスワイプした。
「出るまで時間、かかったな?」
感情の抜け落ちた声だった。とっさに、人に呼び止められていたと微妙な嘘をつく。
「今から第二資料室。来れるよな?」
頷きたくないのに、頷くしかできない。声を絞り出そうとした瞬間、決まり文句が続いた。
「来ないと、今すぐ自殺してやる」
+ + + +
籍を入れたという報告を笑顔とともに告げられて、三ヶ月が経過しただろうか。
「洋輔……なんか、元気ない?」
「ん、そんなことないって。ほら、結婚するとどうしたって環境変わるって言うだろ?」
結婚前から関わっていた長期のプロジェクトが終盤に近づき、多忙な洋輔を昼に誘った。自分も別の仕事を任されたばかりで、揃って昼休憩を取るのは久しぶりだった。
結婚の二文字は口にしていないのにそう返してきた違和感を覚えつつ、当たり障りのない相槌をうつ。
「奥さんは元気?」
「まあ、ね。仕事やめて、家事頑張ってくれてるよ」
今時、子供もいないのに専業主婦とは珍しい。あるいは、これから授かる予定なのだろうか。
この時の違和感を、もっと膨らませておくべきだった。
もっと気にかけていれば、洋輔の性格を改めて認識しておけば、あの夜は訪れなかったと信じたい。
「……洋輔」
久しぶりの定時退社後の時間を、自宅でのんびり過ごす。明日は土曜日だし、理想的で贅沢な時間の使い方だ。
明日になったら、今日病欠だった洋輔に連絡でも入れてみよう。ここ数日、目にわかるほどやつれて見えたからむしろ休んでくれてほっとしている。
そう考えていた矢先の、インターフォンだった。
「えと、大丈夫か? とにかく、中に入れよ」
廊下の蛍光灯に照らされた洋輔はうつむいたまま、立ち尽くしていた。「癖毛だから毎朝セットが大変なんだ」と困ったように撫でていた茶色の髪の毛はドライヤーで適当に乾かしたように、乱雑に撥ねている。
肌に感じる空気がずしんと重い。言葉には素直に従ったから、何かしらの目的はあるらしい。
……こんな、普段とは真逆の洋輔は初めてだった。かろうじて動いている機械のようだ。
「今日、珍しく休んでたから心配してたんだよ。ずっと疲れてたもんな」
答えは未だ返ってこない。それどころか、リビングに入ったところで足を止めたまま、視線を床に固定している。
説明できない気持ち悪さが胸元から広がっていく。どう動くか迷って、とりあえずテレビを消した。彼が好きなコーヒーでも用意してあげよう。
「……せろ」
聞き間違いかと思った。
だから足を止めただけで、何も答えようとはしなかった。
洋輔が、動いた。逃げたいけれどできない身体を無遠慮に抱きしめてくる。
「抱かせろ。俊哉」
理解できない。したくない。頭が思考を激しく拒否している。
しっかりしろ。両足を踏ん張って、洋輔の腕の中から逃れた。
「コーヒー、淹れてやるからそこ座ってろ。話なら、ちゃんと聞くから」
「俺は本気だ!」
急な叫び声に振り向いて、固まる。
いつもは太陽のように輝いている洋輔の双眸は、すっかり曇っていた。いや、いびつな光を閉じ込めて、こちらを容赦なく照らしている。
下まつげの裏にある、目と同じ大きさの黒い染みにひどく狼狽する。会社ではあんな痕、ひとつもなかった。
……もしかして、化粧でもして、誤魔化していた?
エンジンがかかったように洋輔が近づき、すれ違う。彼はキッチンに向かい……あるものに、手を伸ばした。
「っ、ようすけ!」
「抱かせてくれないなら、ここで死んでやる」
銀色の切っ先が自らの喉元をまっすぐ狙っている。よく見ると細かく震えていて、ほんの少しでも誤れば肌に食い込むくらいに近い。
冗談と言えない。洋輔の目は本気で、妄執に支配されている。
願いを押し通すまで、あの体勢を解かないつもりだ……!
「何が、あったんだよ? どうして、いきなりそんなこと言うんだよ」
だとしても、おとなしく受け入れるつもりは毛頭ない。うまく話を引き出せれば、洋輔の抱えているものをわずかでもなくせれば……。
「お前、俺のこと好きなんだよな?」
二度目の衝撃に耐えうる精神力は、なかった。
引きつったような笑いをこぼして、洋輔は続けてくる。
「なんとなく、気づいてたぜ。お前が俺のこと、そういう目で見てるんだって。でも、言わなかった。俺は彼女がいたし、それを気遣ってお前も言わなかったんだろ? そうなんだよなぁ?」
無意識に、首を振っていた。後ずさった瞬間、ダイニングチェアに右足をとられてしまう。
立ち上がれない。洋輔を見る、気力もない。
「別に気持ち悪いなんて思ってなかったよ。むしろ今はありがたいね! そんなに一途に俺を好きでいてくれたんだって、嬉しくないわけないだろ!?」
今までの努力が、硝子が崩れ落ちるように弾けて、ぱらぱらと散っていく。
洋輔のためを想って取ってきた行動は何だったのだろう。積極的にむしろ出るべきだったのか。修復不可能なところまで行くべきだったのか。わからない。わかりたくない。
「お前の一途な愛がほしいよ……なあ、俊哉……?」
「……ざ、けるな」
侮辱だ。中身のいっさい見えない「愛」を向けられた。
拳を握りしめ、こみ上げる激情に喉を震わせる。
頭を持ち上げると、どこぞの貴族のように片膝をつき、うつろな笑みで見下されていた。屈辱までも与えてくるなんて、いくら親友でも許せるはずがない!
「ふざけるな……何が、一途な愛だ! わかったような口を聞くなよ!」
怯んだ瞬間を逃さず、包丁を奪い取って背後に転がす。シャツを掴み上げて揺さぶった。
「俺がどんな思いで耐えてきたと思ってるんだ! お前の幸せを邪魔したくないって、必死に気持ちを捨てようと、して……!」
もう少しだった。どんなのろけ話を聞かされたとしても笑顔で、あるいは冗談を交えつつ聞けるだけの余裕を得られるはずだった。
「ああ、やっぱりお前は俺を愛してるんだな……」
とても静かで、不気味さを感じさせる、声。
「今の……告白にしか聞こえなかったぞ?」
全身が粟立った。掴んだ手を離そうとして、捕らわれる。
やさしい笑顔だけがそこにはあった。期待をもたせるような、警戒をさせないような、笑みが。
「なあ、素直になれよ。少しでも、俺に愛されるんだって期待したんだろ?」
「ちが、う……こんなの、間違ってるだろ……」
「だって、俺は今、とてもお前がいとおしいよ? キスして、抱きたいって思ってるよ?」
抗いたいのに、鼓膜を震わせる声が頭を痺れさせ、力を奪っていく。
贋物だとわかっている。単なる逃げ場として扱われている。けれど、理由なしに卑劣な行動に出る男でないのも知っている。
だからちゃんと話を聞かせてほしい。助けになりたい。こんな方法、さらに傷を抉るだけだ。
わかって、いるのに。
「俺にくれよ……お前の愛を、俺にぶつけろよ……」
洋輔は泣いていた。声が、潤んでいた。
でも、ここで身体を投げ出すのは間違っていた。
脅迫に負けず、真正面から洋輔と向き合うべきだったのだ。
+ + + +
「やっと来たのか。遅かったな?」
第二資料室は、今は物置としての役割が中心になっていて、ほとんど足を踏み入れる者がいない。
棚こそそれなりに整理されているが、口の開いたままのダンボールが通路の真ん中を陣取っていたり、部屋の隅に置かれた半透明のゴミ袋に何かが詰め込まれていたりと、長い間放置されているのがまるわかりだった。
扉から見えない位置で、壁側の棚に寄りかかっていた洋輔は、社内用の仮面を知っているからこそ余計に、不気味に映る。
「十五分後くらいに、チームの会議があんのよ。俺、昨日のお前思い出してたら勃っちまってさぁ……こんなんじゃ集中できないから、お前、抜いてくんねぇ?」
形だけの問いに、拒む権利などなかった。
素早くベルトを外し、下着を下ろして半勃ちのそれを口に含む。髪の毛をぐっと掴まれて顔をしかめたが、かまわず行為を続けた。
「積極的じゃん? 俺としては大歓迎だけどな」
早く終わらせたい。あくまで事務的な態度で、全体に舌を這わせて袋を揉みしだき、吸い上げる。
唾液に苦味が混じり出す。吐き気を覚えることもあったが、どんな感情も向かなくなった。
「あ、あ……お前、ほんとうまいな……どこで、学んできたんだよ……?」
目を閉じて、無理やり集中する。イかせるだけで終わるんだ。これくらい、なんてことはない。
「無理、我慢できないわ。……中に、いれさせろ」
無心になっていたせいで、反応が遅れてしまった。両手を素早く頭上にまとめられ、ベルトに手をかけられてしまう。
「や、やめろ……! 会議に、間に合わなくなるだろ!?」
「静かにしろよ。こんなのがバレたら、お前も終わりだぜ?」
一瞬で息をつまらせる。愉快でたまらないと言いたげな笑い声が鼓膜を打った。
遠慮なしに指を突っ込まれても痛くない秘部の代わりに、心臓がきしむ。心と切り離された身体は、洋輔をすんなり受け入れるようにできてしまった。
「あ、う……っ!」
それでも、洋輔自身で貫かれる瞬間だけは圧迫感で苦しい。深い溜め息をこぼして激しい律動を始める洋輔についていくのが精一杯だ。
「口、ふさいどけ……お前、声が大きいからな……」
ようやく両腕が解放されてすぐ、片手を口元へ持っていく。がたがたと揺れる棚を気遣う余裕もない。
感じたくないのに痺れは容赦なく押し寄せてくる。いっそ、身体を新品と交換できたらいいのに。心と身体が連動するように、改造してほしい。
「中に、出すからな……ちゃんと、受け止め、ろよ……っ!」
埋め込まれたものが痙攣して、じんわりとした熱が広がっていく。素早く引き抜かれて支えを失い、その場に崩れ落ちる。
「やっぱ、お前最高だわ。……あいしてるぜ、俊哉」
――お前は絶対に、逃がさない。
まるで呪縛だった。
彼の目の届く範囲にいる限り、絶対に捕らえてしまう黒い無数の糸。
逃れたい。どんな手を使っても、振り切りたい。
誰かに愛されたいなんて二度と望まない。結末がバッドエンドばかりなら、物語自体を綴ろうなんて思わない。
欲望を吐き出すための人形の役目を続けるのは、もう、限界だ。
……逃げるんだ。
気取られないよう、追いつかれないよう、どこでもいいから遠くへ、逃げるんだ。
実家が大変なことになっているとの嘘が通り、一ヶ月後には退職が決まった。
洋輔にはなおも激しく求められ、絶対に嘘だと決めつけながら時には虐待じみた行為までされたが、決して口を割らなかった。一ヶ月後の自由を思えば、増える傷などいくらでも耐えられた。
念のために、端末に登録していた実家の電話番号を筆頭に、少しでも手がかりとなりそうな情報は片っ端から破棄した。両親だけは絶対に守り通さないといけない。
そして当日……定時と共に会社を飛び出し、自宅とは反対方向の電車に乗った。
この日に解約できるよう、マンションの管理人と話をつけていたのだ。
『お前が……お前が、俺の拠り所をなくしたせいで……』
『殺してやる……お前も、俺と同じ場所へ、引きずりおろしてやる……!』
背中を常に狙われていても、自分にとっては間違いなく自由だった。
――悪夢に、うなされるまでは。
エピローグ
マンションから数十分も歩くと、海岸に出る。
最寄りの駅からすぐに行ける方が観光地としてメジャーなこともあって、地元の人間だけが利用するプライベートビーチのような雰囲気を醸し出している。
引っ越してきてから初めて、この海岸沿いを二人で歩いてみた。人の手がほとんど入っていない砂浜は自然のままで、サンダル越しでもわかる柔らかな感触が気持ちいい。駅のある方向はホテルと思しき建造物が目立っている。確かに、景色は最高だ。
犬を散歩している若い夫婦もいれば、ランニングをしている中年の男性もいる。その背中を何となく追うと、太ももまでの高さの砂山が海を見守るように鎮座していた。
俊哉に倣って、その場に腰を下ろす。オレンジが残り火のように、水平線上で燃えている。
「そういえばさ。俺、いつまで高史の奥さんみたいなことすればいいの」
「いつまででもいいですよ。オレがそのぶん頑張りますから」
「じゃあ気兼ねなくおんぶにだっこでいようかな」
腕を絡めて、俊哉は小さく笑う。
「……なんてね。俺ももう少ししたら、仕事始めるよ」
俊哉が心身ともにゆったりと過ごすには、一度都心から離れた方がいい。そう訴えて、次の住処を寝る間も惜しんで探した。
ある程度は生活に不便を感じないこと、という条件が意外に重かったものの、互いにピンときた場所ゆえに心地よさは随一だ。
就職に失敗してから世話になっていたバイトを辞めるのは寂しさを禁じ得なかったが、快く送り出してくれた仲間たちの気持ちは、日々の励ましとなっている。
「仕事復帰、早くないですか? 無理しなくていいんですよ?」
「……高史って、無意識にダメ人間を量産する天才なんじゃないの」
「な、なんですかそれ。オレ、真剣に言ってるのに」
「天然なのがさらに恐ろしい~」
こうして軽口を叩き合うのもすっかり定着した。大体は、まさに今現在のように俊哉に言いくるめられてしまうのだが、それでも楽しくて、嬉しい。
立ち上がって波打ち際へ近づいた俊哉は、こちらを少し振り向く。逆光に目を細めると、唇をとがらせた表情がうっすらと見えた。
「俺の貯金分と今のバイト代だけじゃ、そのうち金尽きるよ」
実に現実的な意見だった。すっかり主夫が板についているのもあって、家計にも敏感なのだろう。
「それに、高史の時間も増えるでしょ」
自分の時間なんて考えすらしなかった。それだけ、俊哉のことで埋め尽くされていたとも言える。
「俺のこといつも気にかけてくれるのはありがたいけど、結構心配してるんだからね。ほとんど休みないし、相変わらず掛け持ちバイトしてるし」
何だか、肩身が狭くなってきた。心配をかけていたことに気づかないとは、意外と余裕がなかった証拠だ。
「……俊哉さんが本当に心配なんですよ。今もまだ、うなされてたりするし」
あの人の影が完全に消えるには、もう少し時間がいる。
背後に立ってそっと抱きしめた。あたたかい海風と混じった俊哉の匂いが鼻腔をかすめる。
「……大丈夫だよ。強がりじゃなくて、本当に。だから、これからは高史も支えさせてよ」
回した腕に、ぬくもりが重なる。
「それに、俺も高史に出迎えてもらったり、おかえりって言われたい」
あまりに可愛すぎる願望に、つい疑ってしまったのは仕方ない。悟られたら機嫌を損ねるのは必至だから、さらに引き寄せることで誤魔化す。
「……俊哉さんには、かなわないっすね。いろんな意味で」
「これでも、お前より年上だからね」
再び持ち上げた視線の先に、夜の太陽がある。
遮るもののない輝きは、半欠けとは思えない力強さをもってこちらを見返し、照らしていた。
第6話 #R18
「あ、あの、今日、ですか? ってかオレ、告白とかしてない……」
「したようなもんだろ?」
明らかに誘った目で舐めるように見上げてくる俊哉に、本気でめまいがしそうだった。
部屋に戻った瞬間、俊哉に背中から抱きしめられた。思わず食料品が詰まったビニール袋を床に落としてしまう。
「しゅっ、俊哉さん? いきなり、何を」
「ちょっと、動揺しすぎじゃない?」
どこか楽しそうに小さく笑いながら突っ込む俊哉の腕を外して、落とした袋を拾う。そのまま部屋に上がると、背後からどこか戸惑った声がかけられた。
「黙ってスルーするの、そこ」
「敢えてです。すげー緊張してるんで」
あんまりくっつかれると、名前呼びを受け入れてくれた嬉しさも手伝って先へ先へといってしまいそうになる。
「じゃあ、すごく意識してるんだ?」
隣に立って、買ってきた物の整理を手伝いながら俊哉はまた笑う。もしかして試されているのだろうか?
「俊哉さん、オレの気持ち知らないわけじゃないっすよね?」
帰り道、電車に揺られながら今後のことを妄想していなかったわけじゃない。あの人への気持ちの整理がちゃんとついたらもっと仲を深めていって、ここだというタイミングで告白しよう、なんてプランを練ったりしていた。
まるで学生のようだと笑われるだろうが、それだけ真剣で慎重なのだとわかってもらいたい。他の誰よりも、俊哉には。
「まあね。高史、すごくわかりやすいから」
「なら、なおさらからかうような真似はやめてください。オレ、ほんと真剣なんです。あなたのこと、大事にしたいんです」
強引にキスマークをつけておいて、どの口が言うんだと突っ込まれてもいい。これは紛れもない本心だ。
目元を緩めた俊哉は、ふわりと身体を預けてきた。
「しゅ、俊哉さん! だから……!」
「わかってる。お前が俺を大事にしようとしてくれてるのは、わかってるよ」
こちらを見上げた俊哉の視線がただ、柔らかい。何でも受け止めてもらえそうな、しなやかな強さを感じる。
「高史が一緒に生きてほしいって言ってくれて、俺がどれだけ嬉しかったかわかる? まともに礼も言えなかったくらい嬉しくて……たまらなかった」
涙で歪みかける顔を、懸命に笑みの形にしようとする俊哉がたまらなくいとおしくて、震える両腕で抱きしめ返した。
もう、絶対に離さない。傷もつけさせない。
「ね、高史……お願い。キス、して」
蠱惑的な誘いだった。それをかわす余裕は、今の自分にはかけらも残っていない。
「んん、っふ……ぁ!」
唇だけを交わすのはそこそこに、呼吸ごと奪うように隙間をなくして、舌と唾液を勢いのままに絡める。主導を自分が取っているようで経験値の差か、なめらかに動く俊哉の舌に背筋を甘い痺れが幾度となく走る。
「……っは、たか、し……」
押しつけてきた中心の昂りを感じて、どきりと胸が高鳴る。同時にこちらの調子も筒抜けとなってしまった。
「あ、あの、今日、ですか? ってかオレ、告白とかしてない……」
「したようなもんだろ?」
「しゅ、俊哉さんはどうなんですか。ほんとに、オレのこと」
「好きだよ」
声も視線も、ひとつの歪みなく貫いてくる。
「放っておけないって理由だけで赤の他人拾って、身体張って自殺止めて、一緒に生きてほしいなんて言ってくれる高史が……俺にはもったいないくらい、好きだよ」
少し背伸びをして、耳朶に柔らかく熱い感触を当ててくる。それが夢ではないと繰り返し訴えている。
「だから、今がいいんだ。今、お前に抱いてほしい」
俊哉の想いの前では、自分の覚悟などちっぽけな存在だった。
「……ホテルまで、我慢できますか」
「生殺し?」
「ここ、安アパートだから壁薄いんです。俊哉さんの声を、誰にも聞かせたくない」
言葉を詰まらせた俊哉は、俯きながら小さく首を上下させた。
+ + + +
駅前にあるビジネスホテルは、ダブルベッドの部屋だけが空いていた。
本当に、なんて奇跡だろう。
バスローブ姿でベッドの縁に腰掛けたまま、視線だけを四方八方に散らす。自分よりも長くシャワーを浴びているのは、これからに向けての準備を進めているためだろう。
――俊哉を抱くんだ。間違いなく、この手で。
緊張と不安と歓喜と申し訳なさと……浮かぶ感情にいちいち名前をつけるのも忙しい。きっと笑われる。
「めちゃくちゃ緊張してるじゃん」
いつの間にか、俊哉がシャワーを済ませてこちらに歩み寄っていた。
雰囲気のせいか、バスローブのせいか、いつもより色っぽく見える。濡れた髪の毛が首筋に張り付き、そのまま目線を追うと見えるか見えないか絶妙な位置で白い布に覆われた胸元にたどり着いて……それきり、移動できない。
「お前、今、どんな顔してるかわかる?」
隣に腰掛けてきた俊哉は、猫のように身体をすり寄せた。
「すごく、俺を抱きたくてたまらないって、顔」
間近で微笑み、吐息を乗せて唇をひとつ、舐める。
――頭の中で、何かがぶちりと千切れた。
その場に押し倒して、噛みつくように口づける。おねだりとわかる伸ばされた舌を絡め取り、自らのそれと擦り合わせながら股の間をぐいぐいと膝で押した。
「んぁ……あ、や、だ……」
とろんとした瞳で見上げる俊哉から、視線が外せない。
「……自業、自得です」
初めて指を差し込んだその箇所は、想像を遥かに越えた軟らかさだった。
「っは、もっと、そこ、上……こす、って」
そこだけではない。胸元も腹部も背中も、俊哉の身体は細身とは思えない柔らかさだった。そして、敏感だった。
尻を突き出した格好でねだる姿が扇情的で、また喉を鳴らしてしまう。
とっくに理性はやられていた。「決して嫌がることはしない」という誓いだけは何とか頭に刻み込めているが、経験者の俊哉にうまくコントロールされている気がしないでもない。
「きもち、いいですか」
「いっ、い……たかしの、太くて……っあ、あ!」
指示された箇所を強めに押し上げると、内側が生き物のようにうねる。透明な蜜をとめどなく垂らしている俊哉の中心にも手を添えて、同じくらいの力で扱き上げた。
「ばっ……や、一緒に、するな……!」
「一回、イった方がいいんじゃないですか」
経験者の余裕を、崩してやりたかったのかもしれない。止めようと伸ばされた手をかわして、同時に刺激を与えていく。
「すごい……俊哉さん、腰、すごく揺れてる。気持ちよすぎるんだ?」
「おかし、なる……ぅ、あ、んぁ……!」
正直、こっちもおかしくなりそうだ。多分ものすごく必死な顔をして、暴走しそうな自分を抑えている。吐き出す息は獣のように荒いし、中心に無視できない熱が集中して、苦しい。
俊哉の呼吸が一段と荒くなってきた。二本の指の抜き挿しをさらに速め、先端の割れ目に爪先を当てた瞬間、そこが弾けた。
「……めちゃくちゃ、出た」
濃い白濁まみれの手を呆然と見つめる。
「当たり、前だろ……っ」
肩で呼吸を繰り返しながら、俊哉はこちらを軽く睨みつける。
「こういうの、久しぶりなんだぞ……少しは、手加減、しろよ……!」
ようやく、彼が自ら指示を出していた理由がわかった。少しずつ、自分を受け入れる身体に慣らすためだったのだ。
いくら初体験とはいえ、あまりな行動に思わず正座して俯いていると、シャンプー混じりの柔らかな香りが鼻腔をくすぐった。俊哉の頭の撫で方は、恋人というよりは子ども相手に近い。
「可愛いな、ほんと」
「可愛いのは、俊哉さんです」
「図体のでかいやつがそうやってしょんぼりしてるとこの、どこが可愛くないって?」
触れるだけのキスが降ってくる。
「……もう、大丈夫だから」
どういう意味だろう?
「ここからは、お前の好きにしてくれていいから」
俊哉は満ち足りた笑みを浮かべる。
「お前に、上書きしてほしい。今までの俺を忘れるくらい、抱いてほしいんだ」
なんて、殺し文句。
みっともなく泣きそうだった。固く抱きしめて、俊哉の想いを噛みしめる。
「その前に……俺も、高史を気持ちよくさせてあげるよ」
バスローブの前を解かれ、手のひらで素肌をなぞりながら押し倒してくる。
理解する前に、張り詰めていた中心にふわりとした感触が生まれた。
「しゅ、俊哉さん!」
「高史の、すごく大きいな……」
軽く上下に扱いてから、自らの口元をその場所へと持っていく。やろうとしている行為を把握したと同時に、俊哉の舌が周りを撫で始めた。
「う、あ……っ」
わざと濡れた音を立てて、ぬるりとした感触が全体に這い回り、擦られる。根元までを咥え込まれた時は頭の中が一瞬真っ白になった。
「ん……どんどん、あふれてきてる……」
道具を使った自慰とは比べ物にならない。
腰の揺れも、さらに甘い刺激を求める欲も止められない。他人にしてもらうのが、こんなにも気持ちのいいものだったなんて。
「俊哉さ……っ、オレ、もう……」
「いいよ、咥えててあげるから、イって……」
頭を上下に動かしながら一層強く吸い上げられて、呆気なく熱を吐き出した。
力の入らない身体をベッドに沈めるも、確かな咀嚼音を聞いて思わず首を持ち上げる。
「飲んだん、ですか」
俊哉はただ、微笑んでみせた。口の端から、自らの中にあったものがたらりと筋を作り、喉を伝って胸元までたどり着く。その感触のせいだろうか、小さくも甘い声をこぼす。
再び、熱が収束していく。頭の中が、俊哉のことだけで埋め尽くされていく。
「早く、きて」
ベッドに横たわり、両腕を広げてねだられれば――乗らないわけには、いかない。
勢いのままに繋がろうとして、すんでで装着していないことを思い出す。
「いいから」
腕を掴まれた。
「そのままで、やって。中に出してかまわないよ」
「いくらなんでも、それは!」
「出してほしいんだ」
澄んだ、まっすぐな双眸だった。
「出してもらうまでが、上書きだから。……お願い」
余裕も理性も、とっくにすり切れていた。
ベッドから浮いていた腰に手を添えると、てらてらと光る蕾に一度触れさせてから少しずつ押し進めていく。
溶ける。気を抜くと飲み込まれる。それでいて気を任せたくなってしまう。四方八方から誘惑されているような心地になる。
自身を愛しい人とつなぎ合わせた感想は、ぐちゃぐちゃだった。
たったひとつの確固たる言葉は、ますます増した「いとおしい」だけ。
「オレ、下手じゃ……っ、ないですか?」
「へたじゃ、な……あ、っああ!」
「いいとこ、あたりましたか……」
「っま、って……ひさし、ぶりだからぁ……あぁ、ん!」
枕を握りしめて頭を左右に振るたび、黒い髪で彩られた首筋が視界を煽る。見えるところにつけたら俊哉が困るだろうと思いつつも、止められない。
――この人は全部、オレのものだ。
「な、に……?」
薄い痕が生まれた箇所を人差し指でなぞって、律動を再開する。枕にあった両手をそれぞれで絡めると縋るように握り返される。目尻と口端から流れ落ちる雫が、自分のためにあふれていると思うだけで目元が熱くなる。
「……泣いてるの?」
微笑みながら問われて、初めて気づいた。
泣くなんていつ以来だろう。自覚したらいたたまれなくなってきた。
「自分でも、よくわかんないです。俊哉さんとこうしていられて、幸せすぎなのかも」
「俺だって、一緒だよ。……本当に好きな人とするのって、こんなに満たされるんだって」
だから、もっと好きにして。
もっと、高史で満たして。
飽きるほど互いの身体を貪って――夢見心地を覚ます音でまぶたを持ち上げて映った、胸元でくるまる俊哉の穏やかな表情に、また涙がこみ上げそうになった。
第5話
就職活動以来袖を通していなかったリクルートスーツは、少しきつくなっているように感じた。
朔は「服装なんて気にしなくていい」と言っていたが、ラフな服装で、朔の知り合いの墓石の前に立つのは気が引けた。
「明日って、バイト休みだったりする?」
梅雨もそろそろ明けるか明けないかといった時期にさしかかった頃だった。
夕食中に、改まった表情で朔が切り出した。
大事な用事が控えているに違いない。なら、答えは決まっている。
「午後にバイトありますけど、休みます」
「……いいのか?」
迷いなく頷くと、朔は苦笑をこぼした。一体何を言うつもりなんだろう。
「それなら……明日、一緒に来てもらいたいところがあるんだ」
訊き返すと、苦笑は苦痛にゆがんだ。箸を握る手が細かく震えている。
「知り合いの、墓参りに付き合ってほしいんだ」
* * * *
電車をいくつか乗り継いで、郊外の駅からタクシーで町外れまで移動する。墓は小高い丘の上にひっそりと存在しているようだった。
霊園の半ばまで進んだ朔の足がある墓石の前で止まり、スローモーションがかかったように振り向く。しばらく見つめたあとに、手にしていた花束を花立に飾り出した。
墓石には「仲野家」と名前が彫られている。
「ご友人とか、ですか?」
家を出てから、初めて朔に話しかけた。
ずっと悲痛な面持ちを貼りつけている彼は、とても会話できるような状態ではなかった。
「……谷川に、この場所調べてもらったんだ。もう少し落ち着いたら、あいつにもちゃんと事情話さないと」
線香の煙が、鉛色まで昇りつめたところで消える。手を合わせる朔に少し迷って、倣うことにした。
脳裏に、新聞の切り抜き記事が蘇る。やっぱり、目の前の墓石に眠っているのは……。
「勤めてた会社で、知り合った男だった」
やがて、何の感情も読み取れない声が吐き出された。
「自殺したんだ。住んでたマンションで、首を吊ったって」
ひゅっと、短く息を吸う音が聞こえる。朔の眉間に深い皺が刻まれていた。自らを抱きしめ崩れ落ちかける身体を慌てて受け止める。
「大丈夫ですか? ゆっくり、息を吐いて」
朔の身体の震えが少しでも落ち着くようにと、優しく背中をさする。
腕に触れた手は、驚くほど弱々しかった。
「ごめん、ありがとう。冷静にって思ってたんだけど……ほんと、弱いなぁ」
「……あの、別にオレ、いいですよ。あの時言ったこと、嘘じゃないです」
「聞いてほしいんだ。君に」
一瞬で、肌に食い込むほどの力が込められた。
再び向けられた双眸の奥に、小さいながらも意志の強い光が見える。
拒む権利は、最初から存在していなかったのだ。
+ + + +
「同期だったんだ、あいつは。新卒で入社した頃から馬が合って、気づいたら……好きになってた」
霊園の近くにある休憩所に移動する。白を基調とした内装は、今の気分にはどこかまぶしく映る。
「でも、俺はずっと隠しておくつもりだった。一番の友人だって言ってくれたあいつの気持ちを裏切りたくなかったし、付き合ってる彼女もいたしな」
膝の上に置いた拳が震えていることに気づいた。そっと手のひらを重ねると、消え入りそうな微笑が返ってきた。
「そのうちあいつがその彼女と結婚して、俺も少しずつ気持ちの整理をつけてた。……でも」
数ヶ月して、その友人が少しずつおかしくなっていった。
妙にやつれているのに何でもないと過度な笑顔で誤魔化して、けれど朔は強気に出れなかった。無理に突っ込めば、あっけなく壊れてしまいそうな気がして怖かったという。
「……ある夜に、あいつが突然やってきてさ。何を、言ってきたと思う?」
――抱かせろ。
手に持っていた缶を握りつぶしそうになった。何だ、その残酷な願いは。
前髪をかき上げて、無理に朔は笑い飛ばそうとした。飛ばそうとして、震えた吐息だけがこぼれる。
「俺の気持ちにうっすらと気づいてたけど、好きな人がいたし、敢えて触れなかったんだって。それは別にいいんだ。でも……そんなの、できるわけない。できるわけ、なかったのに」
「……言われた通りに、したんですか」
今にも死ににいくような様相だった。抱かせてくれなければ死んでやると、包丁を自らに向けて脅されもした。明らかに本気だった。
朔は力なくそう続けた。過去のことだ、仕方のないことだったと納得しようとしても、腹の底が熱くてたまらない。
「それからあいつは、家でも、ひどい時は会社でも、俺を抱いたよ。……半年くらい、そんな関係が続いたかな」
頭の中で、顔も知らない相手が朔をあられもない姿にしていく。いいように弄んで、けれど朔は従順に甘い声を響かせて、媚薬を浴びた後のように求め続ける。
「……どうして、」
「拒まなかったんだって? ……俺も、どっかおかしくなってたんだろうな。ずっと好きだったわけだし、あんな形でも相手と結ばれたんだって、ばかみたいな勘違いをしてたんだよ」
逃げないと誓っておきながら、耳を塞ぎたい衝動に駆られて仕方ない。
相手も正常な判断ができていなかったせいだと、精神的に追い詰められていたのだと想像はできても、納得なんてできない。
「でも、俺も我慢できなくなって……会社をやめて、住んでたマンションも引き払ったんだ」
そのまま朔は、足取りを掴まれないようスマートフォンを契約し直し、転々とその日暮らしを続けながら次の住まいを探していた。
谷川に連絡を入れようと思ったのは、たまたまらしい。そうしたらまるで狙ったように……彼が数日前に自殺したことを、教えてもらった。
「あいつの住んでた地元の新聞片っ端から見たら……ほんとに、載ってた」
両手で顔を覆う。肩を抱き寄せながら、改めて記事に書かれていた内容を思い出していた。「よく怒鳴り合う声が聞こえていた」という近所の証言もあったことから、最初は妻の計画的殺人ではないかと疑ってもいたらしい。
「……それで、自分のせいだって、思っていたんですね」
「夢を、見るようになったんだよ」
うなされていた姿を、解放してくれ、縛られたくないと訴えていた声を、思い出す。
「俺が死んだのはお前のせいだって、お前が逃げ場を壊したから死ぬ羽目になったんだって、ガリガリにやせ細ったあいつが延々と訴えてくるんだ。縋りついて、泣きながら……訴えて」
たまらず、震える身体を腕に抱きしめた。
濡れた感触が肩口に走る。もっと濡らしてほしくて頭をぐっと引き寄せると、はっきりとした嗚咽が聞こえ始めた。
「もう、自分を追い込むのはなしにしましょう」
これ以上、無駄に自らを傷つける行為は繰り返させない。
「で、も……助け、られたかも、しれないって思ったら……」
この人は本当に優しすぎる。他人を優先しすぎる。いくら仲がよくても、逃げ出したくなるほどに心身を傷つけられたなら恨んで当然なのに、後悔に苛まれ、悪夢から抜け出せないでいる。
「だからって朔さんが自殺しても、誰も、報われません」
それだけははっきりと言える。きっとあの世で、互いに悔いるだけだ。
「オレと一緒に、これからの日々を生きてください。お願いします」
朔にとって、その人がどれだけ大切だったのかは知る由もない。冷徹かもしれないが、知る必要もないと思っている。
自分にできるのは、朔に癒やしの手を差し伸べて、生きる力を取り戻す手伝いをすること。一途に愛を注ぐことだ。
見返りなんて望まない。朔が心からの笑顔を浮かべて、ここにいてくれるだけでかまわない。
「プロポーズ、かよ……」
普段の調子に近い軽口が嬉しかった。つい緩んでしまった口元はそのままに、肯定する。
「……すっ飛ばしすぎだぞ。高史」
「すみません。……俊哉さん」
今度は、突き飛ばされなかった。
時間を少しだけもらって、改めて俊哉の想い人だった人の墓石に向かう。
「あなたにも、何か事情があったんでしょう。部外者なのもわかってます。……でも、同情はしません」
図々しいと思われても、不謹慎だと思われてもいい。
俊哉の隣に立つことを許されたのは、守田高史である自分だ。ゆえに、きっぱりと宣言しておかなければならない。
「二度と、あなたの元へは行かせません。あの人は、ずっとオレが守っていきます」
いつの間にか握りしめていた拳を、ひと指、ひと指、ほどいていく。
俊哉に誓った言葉が曇らないように、共に前を向き続けられるように、抱いた「仲野さん」への感情はすべて置いていこう。
目を閉じて深呼吸をひとつしてから、俊哉の待つ元へ向かう。
休憩所の前で立っていた俊哉は、泣きそうな笑顔で出迎えてくれた。
第4話
朝も夜も、アルバイト先で「最近変わったな」と口々に言われるようになった。異性の同期いわく、表情が柔和になったらしい。恋をしていると図星まで指されてしまった。
朔は再びあの部屋で見送り、出迎えてくれるようになった。
たったふたつ違うのは、バイトが休みの時は、買い物以外の用事でも誘ってくれるようになったこと。デートかと一度は浮かれたが、なけなしの明るさを寄せ集め、表面に乱雑に貼り付けただけのような笑顔を向けてくるたびに締め付けられる思いだった。
何かを吹っ切りたい。あるいは忘れたい。
それは明らかに、未だベールに包まれたままの過去だろう。
物言いたげな視線を投げてくることが増えたのも、吐き出したいという心の訴え「なのかもしれない」。
しょせんは想像に過ぎない。
自分の役目は、朔自ら強く望み、動いた瞬間に手を差し伸べてどんなものも受け止める体勢を取るだけ。
「過去はどうでもいいから隣りにいてほしい」という願いは、変わらないかたちで脳裏に刻まれている。
* * * *
「どうして、何も訊かないんだ?」
あの日のように、分担して夕飯の準備を進めていた時だった。
お玉をぐるぐると動かす自分を黙って見つめていたかと思えば、互いの間で漂っていた言葉をぶつけてきた。
「……何をっすか?」
敢えてとぼけてみせる。訊かれたくないから、ではもちろんない。
「俺の過去だよ」
コンロの火を消して、鍋に蓋をかぶせた。
「無理に聞きたくないって、思ってるだけです」
朔としては意外だったのだろうか。目を軽く見開いている。
「……気にならないって言ったら嘘になりますけど。でも、朔さんがいやなら無理に聞かない。朔さんが、ただここにいてくれれば、それでいい」
はっきりと、朔の顔に朱が走った。
この人は、口ではあれこれ言いつつも素直な反応をしてくれる。それが本当に可愛くて、手を伸ばさずにはいられなくなる。抱き寄せて、唇に触れて、そのまま布団になだれ込んで……。
……最近、誓いはちゃんと守れているのに詳細な妄想を浮かべることが増えてきてしまった。口では立派なことを言っていてもしょせんは男なのだと、少し落ち込む。
「そんなに、俺に入れ込んじゃって。さ」
視線を逸らした朔は、歪んだ笑顔を浮かべていた。苦いと感じているのか、それ以外の感情か。
「俺が、もし人を殺したことがあるって言ったらどうする?」
完全にこちらを振り向いた朔は、悪役を演じようとして失敗した顔をしていた。眉間に深い皺が刻まれていることに、きっと気づいていない。
「あなたは、そういうことができる人じゃないです」
だから、きっぱりと否定してやった。
「たった二ヶ月程度一緒にいただけで、そうやって言い切れるんだ?」
「人を殺してるなら、うなされて縋ってくる真似なんてしない」
信じられない。朔の目はそう告げていた。
少し迷ったあとに、包み込むように抱き寄せる。耳に刺さる抗議を無視して、露わになっている首筋に唇を当てた。
「な、にして……!」
「何があっても、あなたを信じるという証です」
首筋を押さえて全く迫力のない目で睨みつけてくる朔に、平静を装いながら返す。
「何を言われても、あなたを嫌いにはならない。あなたを、信じます」
あなたが好きだから。
中身はきっと繊細なあなたを、これからも守っていきたい。
今にもこぼれ落ちてしまいそうなほどに、朔の目が見開かれた。
「……メシの準備、再開しましょうか」
わかりやすい狼狽を続ける姿にまた可愛さを覚えて、苦笑で隠しながら台所に向き直った。
+ + + +
だが、その日の夜にまさかの反撃を受けた。
「一緒に、寝てもいい?」
いつもは人半分ほどの隙間を作って布団を並べているのだが、朔は当然のようにこちらへとやってきた。枕もしっかり握られている。
「なに、その顔?」
驚く以外に何ができよう。確かに一緒の布団で眠る妄想もしたことがある。あるが突然目の前に降って湧かれても、舞い上がるというより戸惑うらしい。
「いっ、いえ。ちょっと、妄想が形になったのにびっくりして」
うっかり本音を漏らしてしまったが、朔は苦笑しただけで半ば強引に隣へ滑り込んできた。
「……真面目な人ほど実はむっつりって言うけど、本当なんだ」
想い人のぬくもりが、すぐ近くにある。吐息までもが聞こえる距離は、想像以上の緊張を生み出すらしい。そういえば、好きな人とこんなことをするのは初めてだ。
「……さっき、ありがとう」
身体の向きをどうするか真剣に悩んでいたところに、静かな声が薄闇に溶けた。
「普通なら信じられるかって思うのに、守田くんのは不思議と信じられたんだ」
気持ちが、伝わっていた。「信じてもらえた」だけでも心は踊り出す勢いで、単純と呆れつつも堪えられない。
「そうだ、谷川とも知り合いになってたんだね。さっき、久しぶりにスマホの電源入れて連絡したら、いろいろ教えてくれたよ」
谷川とコンタクトを取っていたことを、敢えて朔には伝えていなかった。いずれは事情が伝わるだろうから――というのは単なる建前で、勝手に秘められた過去に触れようとしていた罪悪感から逃れたかっただけなのかもしれない。
「言ったんですか? その、自殺のこととか」
「元気だから心配すんなってだけ。アイツ、今時珍しいかもってくらい友達思いだから、素直に白状したら絶対すっ飛んできちゃうよ」
声が微妙に上ずっていた。きっとすべてを白状するには、まだ時間が必要だろう。事情は知らなくとも、何となくわかる。
谷川から来ていたメールを思い返して、内心で頭を下げる。
「……でももう、逃げてたら……」
続けられたつぶやきに、思わず訊き返そうとした時だった。
「っ朔、さん」
左腕に暖かな感触が回る。別の生き物のものみたいで、どう落ち着かせればいいのかわからなくなる。左と右で、汗のかき方が全然違う。
「……緊張しすぎじゃない?」
「だ、だって、そりゃあ当たり前っすよ」
「さっきキスマークつけたくせに?」
「もう、勘弁してください……!」
これ以上煽られたら我慢が効かなくなる。暴走して、引かれたくないんだ。本気の恋なんだ。
「別に、俺は構わないよ?」
さらに、左腕を引き寄せられた。
妙に気だるいような、ねっとりとした空気が生まれて、身体にまとわりつく。
緩慢な動きで、隣を向いた。
まっすぐな視線が自分に絡みついて、離さない。
薄く開いた唇が、軽く上下する。舌を忍ばせた蛇のように、さそう。
「っ、ん……」
身体を起こして、ふわりと唇に触れて、軽く吸い上げた。そのまま下唇を食んで、離す。
「もっと、しないのか?」
ちらりと覗いた舌と胸元をかすめる感触に、意識が吸い込まれそうになる。だめだ、まだ相手の気持ちをちゃんと聞いていない。
「朔さんがオレと同じ気持ちだったら、続き、します」
振り切るように背中を向けた。うるさく脈打つ心臓を落ち着かせたくて、視界をシャットアウトする。
「……ほんと、守田くんって真面目」
言葉とは裏腹に、声にはうっすらと歓喜がにじんでいた。堪えきれなかったというように、小さな笑いまで聞こえる。
「でも、そういう君だから、俺も意地張ったりしないでいられるんだろうな」
背中に触れたあたたかさとお礼の五文字が、全身にじんわりと染み渡って目元から流れそうになる。
やがて、規則正しい呼吸が聞こえ始めた。
この人が心休まる時間を、初めて共有できた瞬間だった。
第3話
つながりかけていた互いの縁は確実に切れた。きっと修復もできない。
認めたくなくても、相手の前に分厚い壁があれば諦めざるをえなくなる。
もしかしたら、気づかないうちに出ていくかもしれない。
朝、目が覚めるのが怖くてたまらなかった。バイトもできるなら休みたかった。鎖でつないでおきたいなんて、物騒なことをつい考えてしまいたくなるくらいに。
朔がやってきてもうすぐ二ヶ月が経とうとしている。すでに一人きりの生活は考えられない状態にまで陥っていた。
けれど、自分の都合だけで縛りつける権利も当然、なかった。
* * * *
夕方からのバイトが始まるまでの時間を使って、アパートに駆け戻った。
遅刻してもこの際かまわない。朔の姿を確認するまでは、とても仕事なんて手につかない。
ノブを回すと、鍵がかかっていた。一瞬で駆け巡るマイナスな想像を必死に振り払いながら鍵を外す。
「鞄、ある」
部屋の隅に置かれた唯一の持ち物を抱きしめて、深い溜め息をつく。おそらく、買い物にでも行っているのだろう。
「オレ、ほんと余裕なさすぎ」
最高に格好悪い。もう少し感情を制御できる方だと思っていたが、のめり込むほど冷静さを失うタイプらしい。
朔が戻ってこないうちにこの醜態を隠してしまおう。
鞄を慌てて元の位置に戻そうとして、うっかり手を滑らせてしまった。A5サイズのクリアファイルが中から飛び出す。
「ん、これは……」
クリアファイルには、コピーされた新聞の切れ端が挟まっていた。
「自殺……?」
小さな記事には、二十代の男性が自宅で首を吊っていたという内容が書かれている。遺書と見られる直筆の文書が見つかったこと、事件当日は妻を始めとした知人全員にアリバイがあったことから、自殺と断定されたらしい。
なぜ、こんな記事を朔が? まさか、自殺の参考にでもしようと思ったのか? いや、それはさすがに飛躍しすぎている。
瞬間、鋭い声が玄関先から飛んできた。
「さ、朔さん……!」
ビニール袋をその場に投げ捨てて、見たことのない剣幕で近づいてくる。
「見るな!」
手の中のクリアファイルを奪い取り、守るように抱き込む。全身が細かく震えていた。
「すみ、ません。オレ忘れ物、しちゃって。探してたら、鞄蹴飛ばしちゃって、それで」
朔は何も返さない。はっきりとした拒絶だけが伝わってきた。
「……何も聞かないです。忘れ物あったんで、またバイト、行ってきます」
後ろ髪を引かれる思いでアパートをあとにする。
事情が知りたい。あなたを救うために、知りたい。
でも、この気持ちをあなたには知られたくない。
極端な思いに板挟みにされながら、頭の中はある確信で埋め尽くされていた。バイト中、どうやって仕事をこなしていたのかいまいち思い出せない。怒られていないから目立つミスはしていなかったようだ。
帰宅中、当たっていないでくれと何度も願った。願ったのに……現実は、清々しく非情だった。
「朔さん……!」
いない。最初から存在していなかったかのように、彼の姿はなかった。
感情のままに、再び夜の街に駆け出す。買い物かもしれないと一番近くにあるスーパーに寄って隅から隅まで回ってみたがいない。
コンビニ、ドラッグストア、飲食店、とにかくあらゆる店に入って探した。死にものぐるいだった。こんなにも離れたくなかったのだと今さらな後悔に襲われながら足を動かして……気づけば、最初に出会った路地に立っていた。
「ここにも、いなかったら……どこにいるんだよ」
明日には見つかるかもしれない。欠片ほどの希望に縋りついて、仕方なく部屋に戻る。
「鞄……?」
クローゼットの横にひっそりと、朔の持ち物であるはずの黒い鞄が置かれていた。
忘れていったのか? それとも、いらないから敢えて置いていった?
忘れていったと思いたいのに、朔の態度が容赦なく打ち消す。
――狭い部屋のはずなのに、どうしてこんなにも広い。
――まさか、自殺したんじゃないか。明日のニュースで流れたらどうしよう。
無理にでもバイトを休めばよかった。それ以前にキスをしなければ、抱きしめなければ。
今さらな後悔ばかりが、枯れ葉が渦を巻くように頭の中で踊る。
目を閉じても、恐怖が身体を支配しようと足元から這い寄って、言い様のない気持ち悪さに襲われる。悪夢から覚めるようにまぶたが開いてしまう。
ふと思いついて、元の位置に戻した鞄を手に取る。中身を探る手に当たったものを引っ張り出すと、予想通りの長財布だった。
「……失礼します」
身分証明書にある住所を、スマートフォンにメモする。
今は少しでも可能性のあるものに賭けたかった。
+ + + +
午前のバイトが終わると、電車に飛び乗った。二回ほど乗り換えて、下車した駅から多分十五分は歩いている。ホームセンターや高級食材を中心に扱っている有名なスーパーなどが立ち並ぶ、駅前らしい光景から二階、三階建て一軒家が目立つ閑静な住宅街へと変わっていく中、ようやく足を止めた。
「ここ、か……」
画面上の地図から、ライトグレーのマンションへ視線を移す。木製の観音扉の両側を彩るように二本ずつ植えられた樹木が、灰色の隙間から漏れている光を懸命に浴びていた。
その光を追うように横に伸びた廊下を一本、一本と見上げていき、最上の四本までたどり着くと、思わず拳を握りしめる。気持ちを改めて入口をくぐると、ガラス張りの扉が門番のように立ち塞がっていた。
右側の壁に、目的のものは設置されていた。銀色の郵便受けは細かな傷が目立つものの輝きは曇っていない。
正方形に区切られたボックスの正面にある番号とその下にある名前たちを素早くなぞっていく。朔の住んでいた部屋番号は四〇六だった。
ネームプレートは空だった。意味もなくボックスに触れて、冷たい感触を確かめただけで終わる。端末を持つ手の力が抜け落ちそうになった。
過度な期待はしていないつもりだった。仮に誰かが住んでいればどうにかして話を聞きたい、それほどの考えしかなかった。ただ唯一のわかりやすい手がかりがなくなり、八方塞がりになったのも事実だ。
どうすればいい。また地元へ戻って、くまなく探すしかないのか。
「俊哉!?」
聞いたことのない声で探し人の名前を叫ばれて、大げさに振り向いてしまう。
「……あ、じゃ、ないよな。申し訳ありません、人違いでした」
人のよさそうな男だった。そのまま踵を返そうとする背中に、反射的に声をかける。
もし、今求めてやまない人の名前と一致するなら、この人は思わぬ救世主だ。
「なんでしょうか?」
「あの、あなたは、朔俊哉さんを知ってるんですか?」
自らを落ち着かせるように、ゆっくりと言葉を綴る。
「なんで、その名前を」
「たまたまですけど、ちょっと前に知り合ったんです」
訝しげだった男の顔が、はっきりとした反応を示した。再び歩み寄り、両肩を揺さぶってくる。
「どこにいたんだ? あいつ今何してんだ!?」
「……とりあえず、移動しませんか」
必死に感情を押し殺した声は、男の熱を覚ますのに有効だったらしい。
我に返った男は謝りながら、駅の近くにあるというファミレスまで案内してくれた。
さりげなく手元を盗み見ると、銀色に輝く指輪が左薬指にはめられていた。
「俊哉も一緒だった会社で勤めてるんだ。あいつとは仲良くしてた」
谷川と名乗った男は、注文したアイスコーヒーを一口飲み込んでから苦笑混じりにつぶやいた。
「急にいなくなっちゃったっていうか、ね。連絡先は知ってたから、電話もメールもしたんだけど連絡つかなくて」
谷川の眉間に深い皺が刻まれる。
この分だと、彼の状況は自分と似たり寄ったりのようだ。落胆と申し訳なさが一気にこみ上げて、息が詰まりそうになる。
「守田くん、だっけ。俊哉と知り合ったって言ってたけど……」
向けられる期待感にいたたまれなくなりながら、緩く首を振る。
「……成り行きで一緒に住んでますが、いなくなってしまったんです。それで、探してて」
自殺したがっていたことは伏せておいた。念のため、移動前に地元の図書館に寄って今朝の新聞すべてに目を走らせてきたが、自殺のニュースは載っていなかった。
……夕方は、まだわからない。
「そう、か」
深い溜め息をつきながら、ぐったりとソファに身を預ける。
もどかしい。手を必死に伸ばしているのに、全然届かない。目印さえ見えない。
「あいつが、自殺したせいなのか……?」
独り言のようにつぶやかれた内容に、心臓が大きく跳ねる。
新聞の切り抜き記事も、「自殺」のニュースだった。
谷川は、朔がひた隠しにしている過去を知っている? すべてではなくとも、足掛かり程度ならば、聞き出せるかもしれない。
「……あの」
――聞いて、いいのか?
続きを口にする前に、頭の隅から声が響く。
あんな剣幕で切り抜きを奪った朔の知らないところで、勝手に深部へ踏み込んでいいのか……?
「あ、すまない。電話だ」
席を外した瞬間、心から安堵している自分がいた。余裕がなさすぎて、見境がなくなりかけている。怖い。
「ごめん、もう帰らないといけなくなっちゃったんだけど……」
「大丈夫です。話、聞かせてくれてありがとうございました」
谷川とは連絡先を交換して、もし見つかったら連絡してほしいと約束を交わした。
+ + + +
地元に戻ると、すっかり週末の夜にふさわしい雰囲気に変わっていた。ところどころで豪快な笑い声が漏れ聞こえてきたり、帰宅途中と思しき家族連れとすれ違う。自分の状況と真逆すぎて思わず苦笑してしまう。
「あんた、一体どこに雲隠れしてるんだよ……」
もう一度図書館に寄ろう。夕刊に目を通さないと、ひとまずの安心さえ得られない。
その決め事とは裏腹に、二の足は自然とあの路地に向かっていた。バイトに向かう途中にも訪れていたのに、どれだけ執着しているんだろう。
頭上に一瞬の衝撃が走る。今日は降水確率が珍しくゼロだったが、やはり外れだったらしい。
フードを被ると、ますます出会った夜を思い出す。偶然目にとめなければ同居生活が始まることも、好きな人ができることもなかった。
――一瞬、夢かと錯覚した。
ふらふらと、路地の闇に吸い込まれていく。飲まれる一歩手前で足を止められた。
黒い塊に、少しずつ白が加わっていく。崩れ落ちそうになる足元に、懸命に力を込めた。夢じゃない現実なんだ、暗示のように何度も言い聞かせた。
そうでなければ、何かがすれ違いざま、肩に衝撃なんか走らない。
「スマホ、落としたよ。……カバーついてる方で、よかったね」
塊が立ち上がって、確かなぬくもりと感触を返してくるわけが、ない。
強引に端末をジーンズのポケットにねじ込んだ朔は、大げさに溜め息をついた。
「……今度こそ、いなくなるつもりだったんだ。君も追いかけてこれないような場所まで、行くつもりだった」
「オレのせいですか。オレが、あんなことしたから」
朔は黙って首を振った。慰めかと思ったが、本当に自分のせいなら、この場所にはいない。
賭けに出てみることにした。
「っ、守田、くん?」
腕を掴んで、軽く抱き寄せた。確かな戸惑いが伝わってくるが、抵抗はない。
もう少し欲を出してみたい。素直な願いを、押し殺せなかった。
「帰りましょう。オレの部屋に」
「で、も……俺は」
振りほどこうとせず、おとなしく抱かれたままの態度が本心なのだと信じて、手を引いて足早に歩き出す。
「お、おい! 離せって」
「いやです」
「俺、戻るなんて一言も」
「もう絶対に離しません。離したくない」
部屋の中に入っても、解放することができなかった。強気に出てみても、最後の最後で不安を消せない。
「……こういう時は強引なんだ」
苦笑混じりのつぶやきだった。
「手、もう離して。ここまで来たら、逃げないよ」
「なら、もう一回抱きしめさせてください」
答えを聞く前に、今度は固く閉じ込める。ようやく朔がいる今が現実だと頭に染み渡って、泣く寸前のような吐息がこぼれる。
初めて気づいた。幼い子どものように、みっともなく身体が震えていた。
部屋からいなくなった事実以上に、永久に会えなくなってしまうという未来に出会うのが怖かったのだ。
「もう、いなくならないでください。ここに、いてください」
ずるい言い方だ。脅迫と変わらない。仮に頷いたとして、その場しのぎとどう違うのか。
わかっていても、態度を変えられなかった。
絶対に離したくない。朔の過去なんてどうでもいいから、隣にいてくれさえすれば、今はかまわなかった。
「……今思い出したけど、荷物、忘れてたしな」
そっと背中に回された腕に、必死にこみ上げる激情を飲み込んだ。
第2話
初めての同居生活は、男同士でもどこかくすぐったく感じるらしい。
朝は見送ってくれる。帰ってくると、洗濯は済んでいて夕飯もできている。「気をつけて」「おかえり」という声が絶対にある。
最近は、昼は外食ばかりだというのを気にして、弁当まで用意してくれるようになった。
互いへの緊張感はだいぶ薄れてきたように思うが、朔の表情には未だ悲痛の影が纏わりついている。時折見せてくれるようになった笑顔も心からのものではない。
『っ、う……』
『朔さん、朔さん』
『やめ……も、いや、だ……』
時々、夜中にうなされている姿を知ってから、ますます秘められたままの「自殺したい理由」を知りたくなる。
けれど、無理に聞き出すだけの度胸はなかった。
少しでも口にすれば、この生活が終わってしまいそうな予感がしたのだ。
――何となくの形で続いている朔との日々を、今はなくしたくないと思っている。
* * * *
「そうだ、朔さん。オレ、今日夕方のバイトないんです。どっか食いにいきません?」
弁当箱におかずを詰めていた朔は、不思議そうにこちらを見返してきた。
「……なに、敬語?」
「だって、朔さんオレより年上だから」
昨日の夜に昔好きだった漫画の話になり、世代のズレを感じて年齢を発表しあったら、互いに驚く結果が待っていた。
朔は同い年くらいだと認識していて、自分は年下だと思っていた。
そういえば、彫りの深い顔とよく評されているせいか、昔から年上に見られがちだった。
対する朔はすっきりとした顔立ちをしているが、丸い瞳と、耳まで覆う髪型で若く見える。
「今さらだし、俺は別に気にしないよ」
「……いや。オレが気になっちゃうんで。すいません」
「守田くんって結構真面目だよね」
口元をわずかに緩め、瞳が柔らかな弓形を描く。一際大きく跳ねた心臓の音がどうか伝わらないようにと、つい祈ってしまう。
最近、ふいに見せてくれる自然な表情や仕草のひとつひとつに、余分な反応をしてしまうことが増えた。心臓はおろか顔も熱くなったりすると戸惑いさえ生まれる。
そういった「症状」に心当たりが全くないと言い切れないから、余計に。
「食べに行くのはほんとにいいよ。この間、さんざん出前食いまくったし」
「でも、いつも家事してもらって申し訳ないし」
「守田くんの家に居させてもらってる立場なのに?」
そもそも、無理やりここに引き留めているのは自分だ。だからこそ何か返したい。
その気持ちがにじみ出ていたのか、朔はやれやれというように苦笑した。
「じゃあ、夕飯作り手伝ってくれるか? 買い物とか、意外と大変なんだ」
「わかりました」
共同作業は初めてだ。思ったより浮かれている自分がいた。
+ + + +
梅雨真っ只中でさっぱりしたものが食べたいと、冷やし中華をメインに二、三品作ることにした。
彼の作る料理はシンプルだが味付けはちょうどよく、まさに「家庭の料理」というお手本にふさわしいものばかりで、つい食べすぎてしまう。
それはしっかり把握されていたらしく、二人分にしては買い込む食材が多かった。彼が大変だとこぼしていた理由を改めて理解して、嬉しくも申し訳なく思う。
「包丁使い慣れてたな。もしかして料理得意?」
酢をベースにしたタレは初めてだったが、さっぱりしていてとてもおいしい。
「大学ん時から一人暮らしなんで、慣れてるってだけです。朔さんには敵わないです」
「あれだけ使えれば全然大丈夫だよ。俺は料理好きな方ってだけだから」
料理が好き。また、彼のことをひとつ知れた。
「……なら、これからもずっと朔さんに作ってもらおうかな」
本当に自然に、唇からこぼれ落ちていた。
出会って間もない男に対して言う言葉じゃない。きっと変に思われる。うまく受け流すなりしないと、空気が変わってしまう。
「馬鹿だな、そういうのは彼女にでも言ってやれ」
向かいの朔は冗談だと受け取ったようだった。当然の対応にほっとした……ではなく、残念に感じている事実にまた、動揺する。
――おかしい。これじゃまるで、俺が朔さんを……
「彼女、いないっすよ」
「へえ。守田くん優しくて頼りがいあるし、モテそうなのに」
「見た目が近寄り難いってよく言われるから、そのせいかなと。そう言われてもどうにもできないんで、もういいかなって」
もともとそこまでの欲はなかったが、今は顕著だ。
それは朔がいるから? 朔の存在に、満たされているから?
「朔さんこそ、彼女いそうだけど」
「……俺は、いないよ。ずっとね」
合っているけれど合っていない。そんな続きが、聞こえた気がした。
「大体、いたらここで世話になってないだろー?」
不自然にテンションを上げたとわかる、微妙にうわずった声だった。気づかないふりをして相槌だけをうつ。
「男のために飯作ったり洗濯したりしないで、彼女のもとに行ってますね」
敢えてふざけてみせると、朔は弱々しく笑い返した。
+ + + +
ふいに、まぶたが持ち上がる。
隣から、苦痛に支配された声が聞こえた気がした。上半身を起こして隣を見やると、うつ伏せでもがく姿があった。
「朔さん、朔さん。大丈夫か?」
常夜灯をつけると、朔はシーツを握りしめて激しく顔を歪ませていた。まるで急所を刺され、耐えきれない痛みと戦っているかのような状態だ。
こんな表情は初めて見た。どれだけの恐怖が、彼を飲み込もうとしているのか。
「……や、めろ……」
肩を揺らしていた手が、止まる。
「ちか、よるな……俺は、俺は……もう」
誰かから逃げている? それは、彼がひた隠しにしている事情と関係があるのか?
「いやだ……もう……解放して、くれ……!」
絞り出すようなか細い叫びに、一層強く身体を揺らして名前を呼ぶ。早く現実へ戻すべきだと、頭の中で警鐘が鳴り響いていた。
「……っ、あ?」
一度息を詰めて、朔はうっすらと目を開けた。呼吸を失敗して咳き込む彼に、背中を支えながら水を差し入れる。大きく上下を繰り返す細い肩が、いつにも増して痛々しい。
「ゆっくり、落ち着いて。ここには、オレしかいません」
今までは、うなされていても声をかけてやるか、少し時間が経てば規則正しい寝息を取り戻していた。
一体、どんな夢を見ていたんだ。
何が、あなたを引きずり込もうとしていたんだ。
ようやく落ち着いてきた彼はぼんやりとこちらを捉えて、名前をつぶやいた。
「オレです。大丈夫ですか?」
それがスイッチになったかのように、朔はカップを放り投げると自らを固く抱きしめた。連れ帰った夜のことを思い出す、すべてを拒絶する体勢だ。
「こわ、い……俺は、いやだ……もう」
「朔さん!」
思わず強く抱き寄せた。子供をあやすように背中をゆっくり撫でる。
「大丈夫だから、ここにはオレとあんたしかいない。あんたが見ていたのは夢だ、現実じゃない」
どんな夢かはわからない。でも、何でもいいから解放されてほしかった。自分だけを、感じていてほしかった。
背中に回されたぬくもりが、死ぬほど嬉しかった。震えた手で服を握りしめる感触に、心臓が高鳴った。
ああ、やっぱりこのひとが好きなんだ。
このひとを、どんなものからも守ってやりたいんだ。
抱擁を解くと、朔は涙に濡れた双眸をこちらに向けた。零れ落ちそうなことに気づいて親指で拭うと反射的にまぶたが降りる。
気づくと、唇を重ねていた。
くぐもった短い声が口内に響く。それでも、抵抗はなかった。角度を変えてみても朔はおとなしく、なすがままだ。
もっと、深くつながりたい。
朔の顎に添えた指に力を込めて、吐息の注がれるその箇所に舌を伸ばす。無抵抗なだけかと思った瞬間、先端に触れる感触が確かにあった。
背中に指すべてを滑らせて、返ってきた舌を絡め取る。自分こそ、夢を見ているようだ。
「……っ、俊哉、さん……」
呼吸のついでに、名前をささやく。
つい招いた自惚れが、夢の終わりの合図だった。
「や、めろ……!」
突き飛ばされた。突然のことに呆然としていると、目の前の朔は胸元をぎゅっと握りしめて小さく震えていた。
「す、みませ……」
うまく口が回らない。傷つけた、すでに傷ついているこの人に、さらに傷を負わせてしまった。
謝っても謝りきれない。何をやっても上辺にしかならない。
「オレ、ちょっと、頭冷やしてきます」
歩きながら思わず見上げた夜空は、雲ばかりに支配され輝きが見えない。
照らしてほしかった。つい生まれてしまった邪な感情を、すべて浄化してほしかった。
第1話
「それ」を捉えたのは、本当に偶然だった。
予報にない雨に降られて、傘代も惜しいとパーカーのフードを被りながら足早にアパートへ向かっている時だった。
視界の端に黒い塊のようなものを捉えた気がして、思わず足を止めた。
シャッターの下りた空き店舗が二つあり、その間を仕切るように伸びた道幅の狭い道に、自転車が数台乱雑に置かれている。そこに黒い塊が転がっていた。
近寄って、ぞっとした。うつ伏せに倒れた男だったからだ。
「おい……おい!」
抱き起こして頬を叩いたり、軽く揺さぶってみるも反応はない。街灯にうっすら照らされた顔に血の気がないのも手伝って、心臓がいやな音を立て始める。
バイト先から自宅までは、徒歩と電車の時間を合わせて一時間ほどの距離がある。雨はこの駅に到着まで残り二駅のところで、降り出していた。
どれだけの時間倒れていたのかはわからないが、今日は梅雨が近いわりに気温が低い。体感温度は寒く感じているはずだ。
おそるおそる胸元に耳を当てて心音を探ると、はっきり打ち返してくる感触があった。よかった、最悪の事態だけは免れた。
「とにかく病院に連れてかないとだな……」
隣駅の方が近いが、電車で移動するわけにはいかない。タクシーを呼ぶしかないだろう。
「……らない……」
スマートフォンを取り出しかけた手が、止まる。
意識を失っているはずの男の声が聞こえた気がした。腕に感じる弱々しい感触は、彼が掴んでいるのか。
「びょうい、ん……いらない……」
念のため呼びかけてみると、うわ言のような声が漏れていた。伝わるかわからないが、一応答える。
「だめだ! あんた、そのままだと死ぬぞ」
「しにたい、しなせて……おれは、しにたい……」
まさか、自殺願望者なのか?
気にはなったが、謎を解いている暇はない。かまわずタクシーを手配しようとして……やめる。
うわ言のようでありながら同じ言葉を繰り返している男の本気を、示されている気がしたのだ。
『お前って、よくお人好しって言われない?』
バイト先で仲のいい先輩に以前言われた言葉を思い出して、つい短い溜め息がこぼれる。
これもきっと、何かの縁なんだろう。そう思い込みながら、先ほどとは違う理由でタクシーを呼び出した。
+ + + +
「気がついたか?」
夕方に差し掛かる頃、閉じっぱなしだった彼の目がゆっくりと開いた。
「覚えてるか? あんた、熱出して倒れてたんだ。二日も寝たまんまだったぞ」
アパートに着いて早々衣類をすべて取り替えている時、四十度近い熱を出していることに気づいた。意識が全く戻らない上に熱も併発しているとなれば、つきっきりで看病するしかない。
朝夕で掛け持ちしているバイトは、仕方なく休みにするしかなかった。
「……あの世って、やっぱりしんどいんだな」
かすれてはいるが、心地のいいトーンの声だった。寝ぼけているのか、内容は全く理解できない。
「ここはあの世じゃない。オレの部屋だ」
とりあえず何か飲ませるのが先だろう。冷蔵庫にあるスポーツドリンクを取りに向かう。
男は周りを観察するように、首を緩く左右に動かしていた。その目がこちらの姿を捉えた瞬間、痩けた頬をわずかにこわばらせる。
「誰、だ?」
「守田高史(もりたたかし)だよ。ここの家主。倒れてるあんたを介抱した」
簡素にまとめると、目を大きく見開いた男はいきなり上半身を起こした。
「おい、いきなり動くな!」
「何で……俺を助けた」
布団を握りしめた男は、また意味不明の言葉を口走った。
「あんなとこで倒れてるやつを見捨てられるほど、オレは非道じゃない」
「それで、構わなかったんだ! 俺は、俺は……っ」
咳き込んだ男の背中を撫でながらペットボトルを渡すが、乱雑に押し戻されてしまう。
「世話に、なった」
立ち上がろうとする男を無理に止める必要はなかった。飲み食いせずに寝ているだけだった人間が、急に動けるわけもない。
「いいから、馬鹿なことを言ってないで寝てろ」
拒否したかったらしいが、身体が言うことを聞かないのだろう。再度渡したペットボトルをしぶしぶ受け取ったのを確認してから、台所に向かう。
結局、男は作った粥も食べると再び眠りに落ちた。
* * * *
バイトに向かうはずだった足は、最寄り駅に着く寸前にアパートへと引き返していた。
次の日になり、何とか少し動ける状態にまで回復した男は、それでも念のためバイトを休もうとしていたのを止めた。
『もう三日も休んでるんだろ? 俺なら、ちょっと食欲も出てきたし、動こうと思えば動けるから。大丈夫』
やけに強く訴える声に拒否しきれず、従ったのだが――。
あの日と同じようないやな予感が、ふいに頭の中を支配したのだ。
病院は行きたくないと訴えていた声。あの世という言葉と、見捨ててもかまわないと言い切った声。
――予想、当たってないでくれ。間に合え。早く、早く。
玄関の取っ手を回すと掛けていなかったはずの鍵が掛かっている。すうっと全身が冷えるような感覚が走ったが、すぐさまジーンズのポケットに手を突っ込んだ。
部屋の中に、男の姿がない。慌てて辺りを見回して、浴室の扉が開いていることに気づいた。
「何を、やってるんだ……!」
浴槽の上に広がる、薄い赤。縁に上半身を預けて、薄い赤の中に浸された片腕からは、赤の元が……。
慌てて腕を引き抜き、引っ張り出したタオルで傷口を塞いだ。ぐったりとした身体を抱いて居間に戻る。
「なんで、戻ってきた……」
「あんたがこういうことやってないかって思ったから。戻ってきて、本当によかった」
救急箱から取り出したガーゼを数枚押し当て、包帯でしっかり巻く。一時期、建築現場のバイトをやっていた時によく怪我の処置をしていた経験が、こんな形で役に立つとは。
「どうして、そんなに死にたいんだ?」
今までは、敢えて口に出さなかった。でも、もう見て見ぬふりはできない。
「君には、関係ない」
視線を合わせず、弱々しくもはっきりと拒否される。
「関係なくないだろ。オレはあんたを介抱したし、今こうして助けてもいる」
「……俺は死にたいんだ!」
弱っている身体に不釣り合いの力で、手を振り払われた。
「遊びじゃない、本気なんだ! もう、俺は……逃げたいんだ」
言葉尻が不安定に揺れていた。決して目を合わせようとせず視界を遮断する姿は、嘘がばれたくない子供を思わせた。
「逃げたい」――それよりも真実に近い気持ちが、男の胸の中に隠されているのだろう。
自分は「止めてほしい」と解釈した。でなければ、わざわざ人の家でなんてやらない。無理やりにでも外に出て、誰の目にもつかない場所で死を選ぶはずだ。
「巻き込んで、本当にすまななかった」
ふらふらと立ち上がる彼の腕を掴んで止めても、身体は玄関へ向かおうと抗う。
「金なら、そこにある俺の鞄の中にあるから好きにもらってくれ。世話してもらった礼だ」
「待てって」
「離してくれ。……頼むから」
本人が話さない限り、死にたがっている理由はわからない。
だからといって、黙って見過ごせるほど冷淡なつもりはなかった。たとえ、彼にとって不本意であったとしても。
「離さない」
「……なんだと」
「あんたが自殺をやめるまで、俺が監視する」
今度こそ、彼はこちらを振り向いた。初めて真正面から見たが、憔悴しきっていてもすっきりとした顔立ちだとわかる。
「仕事、あるんじゃないのか」
「幸い、いい人たちばっかりなんでね。今日も急に休んだけど、特に咎められなかった」
無茶苦茶だ。彼は力なくそうつぶやいた。
同意見だが、それ以上に放っておけない気持ちが強いのだから、仕方ない。
+ + + +
「本当にずっと家にいるとは思わなかった……」
「ネットって便利だしな」
軽い皮肉を返すと、彼は唇を噛んでそっぽを向いた。そのまま宅配のチャーハンを荒く口に運んでいく。
監視を始めて、初日こそ彼――朔俊哉(さくしゅんや)は捨て猫のような警戒心をあらわにしていたが、三日も過ぎる頃には薄まり、というよりも諦めかけているようだった。
「いつまでこの監視生活を続けるつもりだ?」
「朔さんの口から自殺しない、って宣言がない限りはこのまんまだ」
バイト先には、「家に来た親が体調を崩してしまった」と苦しい嘘をついて休みをもらっていた。普段から信頼関係を築いておいて本当によかったとつくづく思うし、いい人たちばかりで感謝しかない。
それでも、バイトだけの収入で生活している身としては正直、限界は近い。
「面倒しかかけてない赤の他人に、何でここまでできるんだ?」
見返した朔の顔には、本当に謎で仕方ないとでかでか表記されていた。若干警戒の色が見えるのは、裏があるのではないかと勘ぐっている証だろうか。
確かに、何の見返りもなしにここまでする人間はそうそういない。疑われて当然だ。
箸をラーメンの丼に置いて、まっすぐに朔を見返す。
「放っておけなかったから」
「……それだけ?」
「ああ。死にたい、自殺したいって繰り返すあんたを、放っておけなかった」
「目の前で死なれたら迷惑だから?」
「それもちょっとあるよ。でも、それ以上にただ、あんたを放っておけなかったんだ。あと」
「何だ、まだあるんじゃないか」
「本当は助けてほしいんじゃないかって、思ったから」
下手に誤魔化すのも嘘をつくのも得意ではない。むしろ包み隠さず、心の中を開放するべきだと判断した。
邪な気持ちはひとつもない。あるのはただ、放っておけない、助けたいという想いだけ。
朔は虚をつかれたように目を見開いて、俯き、それから……小さく、笑った。
まるでずっと蕾だった花が開いたようだった。しかし、今にも枯れ落ちてしまいそうに儚い。
「放っておけないって、俺は子供か」
「あんなに駄々をこねてたら、子供と変わらない」
「子供か、そうか……そう、かもな」
笑いを収めた朔は、改めてこちらを見つめた。うまく言えないが、背負っていた荷物をひとつだけ捨てて少しすっきりしたような顔をしていた。
「わかったよ。俺の負けだ」
その言葉を本当に信じていいのだろうか。じっと見つめていると、呆れた笑いを返された。
「どうやっても君に止められちゃうし。自殺はできないって運命なんだろうね」
それでも、心配は拭えない。目の前からいなくなり、忘れた頃にひっそり命を絶つんじゃないかと物騒な想像をしてしまう。
「明日、出ていくよ。迷惑かけて本当にすまなかった」
「家、どこにあるんだ?」
何を言っているんだろう。朔もそう思ったようで、わずかに目を瞠った。
「……家はないよ。これから探そうかなって」
意外な返答だった。朔の着ていた服はくたびれた様子がなく、ホームレスのイメージとは全く結びつかなかった。
「なら、しばらくここにいればいい」
一番いやだったのは、この人の事情も知らないまま他人に戻ってしまうこと。
きっと、お人好しを募らせすぎている。朔にも、いい加減迷惑に思われても仕方ない。実際、戸惑った視線を思いきり投げられている。
「さすがに、そこまでしてもらう義理はないよ」
「いいんだ。言っただろ、放っておけないって」
だんだん恥ずかしくなってきた。まるで、想い人を必死に引き止めているかのようだ。
「頼むから。オレの目の届くところにいてくれ」
とっさに顔を逸らした朔の頬は、薄く染まっていた。
「……そこまで言われたら、仕方ないな」
バイトから帰宅した高史が、手に見慣れない物を持っていた。
「それ、かぼちゃの帽子?」
荷物を置いた高史は、「やっぱり」と言いたげに苦笑を浮かべた。
「そうです。ほら、今日ってハロウィンでしょ? それで軽くコスプレしましょうって店長が」
帽子には不敵にも不気味にも見える笑みが刻まれており、魔女のような黒い三角帽子を被っていた。男女関係なしに、アイドルのような可愛い系の人に一番似合いそうなデザインをしている。
確かに、街中ではオレンジを基調とした飾り付けがやたら目立っていた。スーパーの総菜コーナーでは三角の目や口にくり抜かれたかぼちゃがあちこちに鎮座していたほどだ。
「……高史も被ったんだ」
「他の人はともかく、オレは似合わないからやめた方がいいって一応訴えたんですけどね」
昼に行った時は店員も店の装いも普通だった。夜だけの特別だったか。
「高崎さんは似合う似合うって笑ってくれたけど、面白がってただけかもしれないっす」
高崎――高史と仲のいいバイト仲間で、自分とも顔見知りだ。ちなみに仲も知られている。それでも全く態度を変えず接してくれる、ある意味心強い女性だったりする。その彼女の笑みが容易に浮かんで、思わず苦笑してしまった。
「俺も見たかったなぁ。高史のかぼちゃ帽子姿」
夕飯を用意する手を止めて、恨めしそうに呟く。
「そんな……本当に似合わないですよ。お客さんも顔が引きつってたと思うし」
「そんなの関係ないよ。単に、俺が見たいだけ」
唇を意識的に持ち上げると、ますます高史は困り果てた顔をした。おねだりに弱いとわかっている上での言動だから、我ながらたちが悪い。
「正直、そう言われると思ってました」
「なら、聞いてほしいな。大丈夫、俺しか見てないんだもの」
そういう問題ではないことももちろん、わかっている。
「……絶対笑わないでくださいよ」
背中を向けて、かぼちゃを頭に乗せる。たっぷり時間をかけて振り向いた。
「かわいい。結構似合ってる」
「慰め言わないでいいですよ」
「違うよ。ほんとにそう思ったんだって」
こちらを一瞥した高史はわずかに口を尖らせる。
「若干笑ってますよね?」
「可愛いの見ると笑顔になるでしょ? それだよ」
精悍な顔つきの高史が、「恥ずかしがっている」とすぐにわかる仕草を全身にちりばめている。そのギャップが要因だった。
伏し目がちの目線。唇にも少し力が入っている。肩が微妙に丸まっているせいで身体全体もどこか小さく見える。両脇でぎゅっと握られた拳もなかなかにポイントが高い。
加えて威圧感を与えない、生まれ持った高史の雰囲気も充分貢献している。街中で風船を配ろうものなら、子どもたちがすぐに集まってきそうだ。
かぼちゃ越しに頭を撫でると、戸惑いで揺れる瞳が返ってきた。年上の気分を久しぶりに味わえてちょっと楽しい。
「あーあ、コスプレするって知ってたらお店行ったのになぁ。接客する姿も見たかったよ」
「や、やですよ。無駄に緊張しちゃうし」
「うそうそ。ありがとう、満足したよ」
できれば写真に収めたかったけれど、さすがに不機嫌にさせてしまうだろう。自分がされても気持ちのいいものではないし、仕方ない。お礼の代わりに軽いキスを送った。
「お礼……こんなんじゃ、足りないです」
夕飯の準備を再開しようとして、そんな呟きが聞こえた。
振り向いた先の高史は気まずそうにこちらを見つめている。わがままを言いたいのに言えないともがいているようだった。
「もしかして、俺にも帽子被ってほしい、とか?」
核心を突いた自信があったが、反応はいまいちだった。気を遣っている可能性もある。
「それくらい構わないよ。俺だってわがまま言ったんだし」
「ち、がうんです」
全く意図が読めない。
そんな疑問に答えるためか、しゃがみ込んだ高史がリュックの中に手を突っ込む。ビニールの擦れる音と共に、見慣れないロゴが印字された白い袋が出てきた。A3サイズの書類よりも一回り大きい。
「中、見てみてください」
高史は腹をくくったような表情をしている。変に緊張しながら、袋の中に手を突っ込み、引き抜いた。
「……え、なにこれ」
そうとしか言い様がなかった。
視線の先にある写真の男性が、ヴァンパイアの格好をしている。その上にはでかでかと「ヴァンパイアコスプレセット」の文字。その名の通り、必要な衣装が一式揃っているらしい。
何とも言えない空気が互いの間に流れる。高史がこんな物を用意しているとは予想もしなかったから、どう会話を繋げればいいのかわからない。
「……俊哉さんに、似合うと思ってつい、買っちゃったんです」
必死に声を絞り出している。
「最初はこの帽子を被ってくれたらいいな、ぐらいだったんですけど。でも、ついコスプレ売ってる店に寄り道しちゃって。そうしたらいつの間にかそれを」
「いや、高史が我慢できなかっただけでしょ」
つい突っ込むと、高史はますます肩を丸めた。叱られた子どもそのものだ。
「実は高崎さんの入れ知恵じゃないの?」
「違います。全然関係ないです。俊哉さんも帽子似合いそうだとは言ってましたけど」
さすがの彼女もそこまではいかなかったか。
とりあえず開封して中身を広げてみた。白いシャツに黒いベスト、胸元につけるスカーフは白かと思いきやワイン色に近い赤だった。マントではなく燕尾服のような黒一色の上着が、一番の特色かもしれない。見慣れたヴァンパイア衣装よりもクールさが強調されているように感じた。
邪な気持ちで、懸命に衣装を選んでいる高史の姿を想像したら呆れるより微笑ましく思った。自分に一番似合うと信じて買ってきてくれたことはどうあろうと嬉しい。
「あの、すみません。やっぱなしでいいです。オレどうかしてました」
慌てて手を伸ばしてきた高史から、衣装ごと避ける。
「言ったじゃん。構わないよって」
細い両目が見開かれる。己の欲のままに買ってきた面影が全くみられないのが、面白くて可愛い。
「高史が俺に似合うと思って買ってきてくれたんだし、その気持ちに応えないとね」
おまけにせっかくのハロウィンだ、少しでもその気分を味わわないともったいない。
心配そうな視線を背中に感じながら、バスルームに向かった。
「どう? 似合う?」
「はっ、はい! その、めちゃくちゃ格好いいです」
再度問いかけたところで、慌てた声が返ってきた。だが、また熱い視線を向けられる。恋人の意識を独り占めできている優越感が、初体験の恥ずかしさを飲み込んでいた。
衣装のサイズはちょうどよく、高史の見立て通りしっくりと来ていた。自分をよく理解してくれている証のようで、幸せをしばし噛み締めていたのは内緒だ。
「コスプレなんて初めてやったけど、意外と楽しいね」
身を翻すと、燕尾がふわりと舞った。それだけなのに口元が緩む。子どもに戻っているような気分だった。
「んー、首元はちょっと落ち着かないな。あんまりネクタイしないせいかな?」
顎のすぐ下まで巻かれたスカーフの感触に慣れない。結び目付近を両手で軽く緩めながら位置を調節する。
「もう、そんなにガン見されたら恥ずかしいんだけど?」
未だ言葉を発さない高史に敢えてふざけた物言いをしてみせる。
「ご、ごめんなさい」
「いい加減にしないと、イタズラしちゃうぞ?」
上目で高史を捉え、頬に触れながら呟いた。
ショートしたロボットのように、恋人が見事に固まった。こんなにいい反応をされたら、もっと何かを仕掛けたくなってしまうじゃないか。
せっかくだから、ヴァンパイアに相応しい言動でも取ってみよう。定番台詞をそれっぽく置き換えてみるだけでもきっと面白い。さらに恋人だからこそできることもプラスして……。
しなだれかかるように、目の前の身体に抱きついた。困惑気味に名前を呼ばれてもただ笑みしか返さない。
狙うは、すっと整った首筋。
「トリック・オア・トリート。お菓子をくれないと……お前の血をいただいちゃうぞ」
最初は、軽く吸い上げた。
次に、わざと濡れた音を立てて、舌先で舐め上げた。
――やばい。思った以上に照れる。悪ノリしすぎた。伝わってくる鼓動が瞬く間に速くなって、つられて全身が熱を帯び始める。
「あ、あの、ごめん高史。やりすぎた」
「……持ってないです」
囁きに似た声が、言い訳をかき消す。
「お菓子持ってないから、血、吸ってください」
鼓膜をくすぐる囁きに気を取られていると、視界がぐらりと傾いた。
その先には、ヴァンパイアに魅入られた人間がひとり。
「……興奮、したの?」
ストレートな問いに、正直な反応が返ってくる。
「だって、俊哉さんずっとエロすぎます……!」
押しつけるように唇を塞がれて、中もかき回される。無防備だった舌もあっけなく捕らわれ、根元から先までをなぞられる。息継ぎの間も催促するように先端を突かれる。
――自分は、なんておめでたいんだろう。さっきの後悔が一瞬で消え去った。
もっと虜にさせたい。二度と離れられないように、飢餓感を覚えるほどに。
「……っん、我慢できないなんて、ますます悪い子だな、高史」
「貴方には我慢のきかない人間なんです……っ」
「じゃあ、お望み通り罰を受けてもらわないと……ね」
頭を引き寄せ、舌を這わせた首筋に今度は歯を立てる。短い悲鳴が耳朶をくすぐった。
キスマークのようにも見える薄い歯形を満足げになぞる。高史は自分だけのものだという、紛れもない証。
「っ、あ」
突然、首筋に小さな痛みが走った。
「オレも、貴方の血が欲しかったんです」
こちらを見下ろす二つの瞳が、湖のように揺らめいている。その中に存在しているのは明らかな欲だった。一言許しを出せばたちまちのうちに食らい尽くされてしまう。
もちろん構わない。けれど、今はまだ、この「役割」に浸っていたい。
「駄目だよ。高史は罰を受けてる最中なんだから」
さらに波紋の増した瞳に誘われるように、押し倒した高史にゆっくり覆い被さっていく。
視界の端を掠めたかぼちゃのオレンジが、電灯並みに眩しく見えた。