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 バイトで、珍しくミスをして怒られてしまった。 想像以上に堪えている自分がいて、…

短編・男女

短編・男女

綺麗な月に魅せられた私は

 バイトで、珍しくミスをして怒られてしまった。
 想像以上に堪えている自分がいて、最寄り駅まで一直線に向かっていたはずの足は公園に寄り道していた。通り道にあるとはいえ、立ち寄ろうという意識がなければ来ない場所だ。
 そもそも、夜はあまり好きではない。小学生の時に、コンビニに出かけたまま帰ってこない父親を毎夜、自宅の前で待っていた過去があるせいでいい印象がない。
 そう、今日のようにさんさんと輝く満月の日もあった。
 じわりと蘇りそうな重い感情を振り払うように、一度目を閉じる。この公園は海沿いにあるから、特に夜景が素晴らしかったはずだ。綺麗な景色は昼夜問わず嫌いじゃない。それを眺めていればきっと心も洗われるに違いない。
 公園内で一番広そうな大通りを足早に抜けて、海に面した散歩道へ向かう。潮の香りが一段と強くなってきた。
 やがて視界が開けた瞬間、思わず足が止まる。
「うわ……これは想像以上だな……」
 柵の向こうで様々な人工光が並んでいる。水面に帯状となってぼんやり映り込んでいるものもあり、また違って見えて面白い。今日は風があるから若干ゆらゆらしているが、もしなかったら鏡のようになるのだろうか。
「月もあったらもっとよさそう」
 ネットで海と月がセットになった風景写真に遭遇するたび、あんな神秘的な瞬間に出会いたいといつも思う。
 少し歩いてみることにした。海風がとても心地いい。ようやく猛暑続きの日々から脱したかと思えば、次の季節がすぐそこまでやってきている。
「あ、こっち行き止まりか……っ!?」
 方向転換をした時だった。道に沿う形で一つずつ設置されているベンチに、何かがいた。
 ベンチを囲むように緑が植えられているので少しわかりにくかったが、人影だったと思う。
(い、いや、人がいてもおかしくないよね……)
 絶対に怪談の類いじゃないと言い聞かせて、正体を確かめるべく改めて向き直る。
 ――確かに、人だった。人、だと思う。
 曖昧になってしまったのは、一言で言うなら「綺麗」だったから。
 視界の先のその人は、肩まで伸びた、癖の強い茶髪を片耳にかけながら首を傾げた。スウェットのような黒の上着にジーンズというシンプルすぎる服装なのに、端正な顔の効果でおしゃれに見える。
「あの、何か用ですか?」
 改めて問いかけられて、我に返る。慌てて頭を下げた。
「す、すみません! お兄さんがすごく綺麗で、見とれちゃったんです」
 言い終わってから、頭を上げたくないくらい恥ずかしさがこみ上げた。何を馬鹿正直に告白しているんだ!
 いっそ笑ってくれと願った瞬間、小さく吹き出す声が聞こえた。
「あ、ありがとう。あんなにはっきり言われたら、そう返すしかないっていうか」
 願いが叶ってありがたいが、落ち着く時間が欲しい。
 よほどツボに入ったのか、口元に拳を当てながらくつくつと笑い続けている。さっきはどこか人間味がない印象だったけれど、今は違う。
「思いっきり笑っちゃってごめんね。……久しぶりに、こんなに笑ったよ」
 そう言いながら何かを堪えるように、双眸を少し細める。
「あの、もしかしてお兄さんも嫌なことがあったんですか?」
 気になると思った時には、表に出ていた。怒られた自分の姿と重なって見えて、同情心が生まれてしまった。
 唇を一文字に近い形に戻した彼は、薄めの眉を困ったように寄せる。
「それって、ナンパのつもり?」
「ち、違います! ほんとにそう思ったんです。私もそうだから」
 下がっている目尻を少しだけ持ち上げた彼に、バイト先でいつもは絶対しないミスをしてしまったから、綺麗な景色を見て癒やされたかったと続ける。
「そうだなぁ……癒やされたかった、ってのは合ってるかな」
 また、堪えるような顔つきになる。
「それでも、君すごいね。鋭いねって言われない?」
「思ったこと口に出しすぎ、だとは」
 吹き出したということは、出会ってすぐのお兄さんにも充分理解されたようだ。……優しい人でよかった。
「仕事柄いろんな人と会うけど、君みたいな人は初めて会ったかも。なんか、元気出た」
 改めて向けられた笑顔は立派な証明になってはいたが、恐れ多すぎる。
「ほ、褒めすぎでは……むしろ邪魔しちゃってましたし」
「ううん、本当に癒やされたよ。ありがとう」
 素直にお礼を、しかもイケメンから告げられるなんてそうそうない経験だから、無駄に慌ててしまう。
「というか、僕も君の邪魔をしちゃってたんじゃない?」
「いえ、私もいつの間にかすっきりしてました。綺麗なお兄さんと話ができたおかげです」
「またそんなことを……」
 冗談抜きで、誰かに話を聞いてもらいたかったのかもしれない。この人との出会いは、そんな願いを掬い上げてくれた結果だったのだと思えた。
 特別な出会い。運命。そんな言葉が頭をよぎる。
 ふと、ショルダーバッグに入れているスマホが震えた。スリープを解除して、思わず声を上げる。
「やば、もうこんな時間!」
 相当話し込んでいたらしい。明日は一限から授業があるから、あまり遅くなるときつい。
「すみません、私帰ります。いろいろ、ありがとうございました」
 一抹の寂しさを覚えながらも踵を返す。
 ――本当に、このまま赤の他人同士に戻ってもいいの?
「待って。君さえよかったら、また話したいな。……ダメかな?」
 足が止まった。止めざるを得なかった。
 振り返った先のお兄さんは、不安そうにこちらを見つめていた。
「ダメじゃ、ないです」
 湧き上がる歓喜を必死に堪える。声が震えそうだった。
「ありがとう。……本当に、君に出会えてよかった」
 お礼を言いたいのは自分こそだ。
 嫌いだった夜が、この出会いのおかげで少し好きになれたのだから。

  + + + +

 お兄さん――(かおる)と話す日は週に一度あの公園で、夜の数時間だけと決まった。彼の仕事の都合が理由だったが、社会人なら仕方ないし、自分もバイトのある時しかこの公園は通らないからむしろありがたかった。
 週に一度の楽しみができた影響か、当日は無意識に浮かれているらしく、友人にやたら怪しまれてしまった。
 事情は話していない。薫と、他言無用でお願いしたいという約束を交わしていた。
『二人だけの秘密。って言うと特別感があって面白くない? 子どもみたいだけどね』
 そう言って悪戯っぽく笑う薫に乗った時点で仲間なのだ。
 話す内容は本当に他愛ない。大学やバイト先で何があったとか、自分自身について話すこともある。先週は好きな食べ物が「そば」だと告げたら薫も同じだったことが判明した。
 薫は自身についてあまり話さない。だからひとつ知るたび、宝物を見つけたような嬉しさが募る。
 もっと知りたいと願うのは、やっぱりわがままなのだろうか。


「薫さん!」
 ベンチに腰掛けていた薫が顔を上げた。いつもと違う雰囲気に見えた理由はすぐわかった。
「今日は結んでるんですね」
「ちょっと暑いからね。絢奈(あやな)ちゃんと一緒だ」
「そう、ですね」
 隣に座りながら、つい後頭部に手をやってしまった。こういう一言には照れるばかりで、未だにまともに返せない。
 無駄に高鳴る心臓を落ち着かせたくて、鞄からペットボトルを取り出す。中身はとっくにぬるくなっていたが、充分仕事をしてくれた。
「あ、その紅茶。今飲んでる人多いよね」
「そうなんですか? 甘くないのが好きなんで買ってみたってだけなんですけど」
「CMで流れてるからかな。ネットでも写真載せてる人よく見るよ」
 確かに、パッケージは女性に受けそうなお洒落と可愛さが融合したようなデザインをしている。そういえば自分もそれに惹かれて手に取っていた。
「薫さん、流行りものに詳しいですよね。私ほんと疎くて……テレビも家にないから、友達からいろいろ教えてもらうんです」
 前は鞄につけている、友達からもらったキーリングにも反応していた。デフォルメされた動物がぶら下がる格好でついているチャームが可愛いと、特に動物好きに売れているらしい。
「今日もなんだっけ、流行りかわかんないですけどドラマにハマってるんだって言ってました。薫さんはドラマとかよく観ます?」
「……ドラマ?」
 返ってきた声が、心なしか硬い。
「いや、僕はあんまり観ないかなぁ」
 思わず隣を見やるもいつも通りだった。気のせいだったのか?
「友達、どんなドラマにハマってるって?」
「え、ええと。確か、『まぶしい月に誘われた僕は』ってタイトルでした。まだ数話しか観てないけど面白いって言ってました。特に誰かがよかったって」
 何しろ、昼休みぐらいの時間を使って情熱たっぷりに語ってくれるから、細かいところまで覚えきれないのだ。
「……そう、なんだ」
 歯切れの悪い声だった。横顔でも、どこか強ばっているのがわかる。
「す、すみません。もしかして嫌いな作品でした?」
 我に返ったように、薫はわずかに目を見開いた。こちらに慌てて向き直ると何度も首を振る。
「ごめん、何でもないよ」
 そう言われても納得できないレベルの態度だった。
「嫌いじゃないんだけど、僕はあんまり、って感じかな。それだけだよ」
 ――何でもないって態度には見えないです。何かあるんですか?
 いつもなら己の性格を恨みつつ、疑問をぶつけていただろう。実際、喉から出かかっていた。
 飲み込まざるを得なかったのは、はっきりとした拒否を感じたから。鈍い自分でもわかってしまったから。
「それぞれ、好みありますもんね。しょうがないですよ」
 とっさに作った笑顔は、まがい物だとすぐわかる代物だったと思う。
 正直、自分でも驚いている。どうしてこんなにショックを受けているんだろう。心臓が苦しいんだろう。
「……うん。絢奈ちゃん、ありがとう」
 頭にそっと重みが加わった。優しく撫でる感触に苦しみが和らいでいくようだったが、泣きそうになる。
 ありがとうの意味は、違うところにかかっている。でも、それを紐解くことは許されていない。
 出会ってからもうすぐ二ヶ月、まだ二ヶ月。与えられた時間は、長くても最終の電車に間に合うまでの数時間。
 物足りないと、もっと仲良くなりたいと、欲が生まれてしまう。
「薫、さん」
 離れていく手を、勢いのまま掴んだ。驚く薫を見つめ続けることはできず、俯きながら懸命に唇を動かした。
「私、もっと薫さんと会いたいです。話、したいです」
「……ありがとう。でも、ごめんね」
 本当に申し訳なく思っている声音だった。
 だからこそ、首を左右に振るしかなかった。

  + + + +

 先週からいつもの場所に向かう今までずっと、強まる不安と戦ってきた。友達やバイト先で何度心配されたかわからない。
 先週、薫はいなかった。
 終電に間に合うぎりぎりまで粘ってみても、主に女性が何人か通っただけで一切姿を見せなかった。
 仕事が忙しいだけ。社会人なのだからそういうこともあるに決まっている。
 そう言い聞かせようとしても、浮かぶのは余計な欲を出してしまった後悔ばかり。
「着いちゃった……」
 ベンチが近づいてくる。いっそ、もう会いたくない、という最悪の展開さえ迎えなければいい。会ったらいの一番に頭を下げよう。
 いた。髪は結ばれ、服装もボタン付きのシャツという異なる格好の、薫が座っている。
「あ、あの、薫さ」
「絢奈ちゃん、ごめん」
 逆に頭を下げられた。
「先週は仕事で来れなかったんだ。急に決まったからどうにもできなくて」
 顔を上げた薫は思いきり眉尻を下げていた。柔和な印象を通り越して、自信のない性格のように映る。
「だ、大丈夫ですから。そんな、気に」
 しないで、と続けられない。一度、緩く唇を噛む。
「……仕事で、安心しました。もう、会えなくなるかもって思ってたから」
「どういうこと?」
 本気で訝しんでいる。薫の中では大した問題ではなかったとわかって、猛烈に恥ずかしくなる。
 どうやってかわそうか必死に考えていると、背後に人の気配を感じた。そちらに気を取られた瞬間、身体がぐらりと傾いだ。
 目の前が黒で染まる。背中にぬくもりを感じて、薫に抱きしめられているのだと初めて知った。
「な、なんで」
「ごめん、少し大人しくしてて」
 息の当たる箇所が熱い。たまらず、固く目を閉じた。背後で悲鳴みたいなものが聞こえたがそれどころではない。
 考えてみれば、男の人から抱きしめられた経験なんてない。全身が汗ばんできた気がするし、変にふわふわもする。五感すべてが薫に集中しているようだ。
(緊張しすぎて……もう、意味わかんない……)
 今すぐ遠くに逃げて、いろんなところを落ち着けてから戻りたい。「大丈夫?」なんて突っ込まれたらどうしよう。
「……もう、行ったかな。ごめんね、いきなり」
 とにかく早く展開が変わって欲しい。必死の願いがようやく届いた。
「い、いえ」
 超密着の時間は終わりを迎えたが、身体の調子は全く戻らない。うかつに顔を上げられなくて、どう対処すればいいのか途方にくれる。
「絢奈ちゃん? 大丈夫?」
 最悪の展開を迎えてしまった。どうしよう、どう言い訳しよう。
「っひ……!」
 頭の中がパニックになっているせいで、肩に触れられた瞬間、短い悲鳴を上げてしまった。
 しかも、後ずさるという最悪の、おまけつき。
「ご、ごめんなさ……」
 謝りたいのに、うまく言葉が紡げない。ぼんやり浮かび上がる薫の顔が若干傷ついているように見えて、今すぐ頭を下げたいのに、できない。
「いや、謝るのは僕だよ。説明もなしにあんなことしちゃって、本当にごめん。怖かったよね」
 違うのに、ただびっくりしただけで本当に嫌な気持ちはなかったのに。むしろ変に緊張するばかりで、熱が出たみたいで。
 無意識に首を振っていた。声の出し方を忘れてしまったように、苦しい。
「絢奈、ちゃん?」
 間近でそっと名前を呼ばれて、反射的に顔を上げた。
 街灯に淡く照らされた顔は、今まで一番整っていた。不思議と、きらきら輝いているようにも見える。
 恥ずかしさは消えないのに、魅入られたようにもっと見つめていたいと願う自分が、いつの間にか頭の片隅に存在していた。
 薫の双眸がわずかに細まった。ゆっくり持ち上がった腕がこちらに伸ばされるのを、今度は黙って見守る。
 頭を一度、撫でられた。そのまま肩に、ぬくもりが移動する。
 心臓が激しく高鳴り始めた。さっき逃げたことが信じられないほど、嬉しさを覚えている。
 ――もしかして、これって。
 久しく忘れていた。中学生の頃先輩に一度抱いたきり、隅に追いやられていた感情。
 こんな、噴火するように急に湧き上がってくるなんて。
 周りの時間が一気に流れ込んできた。黙って見つめ合えていたのが不思議でならない。
「あ、あの、私、今日は帰ります!」
 それだけを告げるのが精一杯だった。
 これ以上、想い人となってしまった薫の前に立っていられなかった。

 それがきっかけなのか、事実は本人にしかわからない。
 薫は、公園に一切姿を見せなくなった。

  * * * *

 目的のアカウントに辿り着いて、名前を何度も確認する。
 友達に教えてもらったように操作して、メッセージ送信画面を出した。

 ――最近、ファンになりました。これからも頑張ってください。

 自分のアカウント名は「絢奈」。名前の後ろには、チャームについているウサギの絵文字をつけた。
 オープンな場所でのメッセージだから、ありきたりな内容しか送れなかった。
 それでもどうか気づいて欲しい。何でもいいから、反応をして欲しい。


 薫に繋がる手がかりを得たのは、本当に偶然だった。
 バイト先で雑誌の整理をしている時、想い人に瓜二つの俳優が表紙を飾っていた。髪型は異なっていたが、伸びたら多分、ほぼ同じになる。
 思わず中身をめくっていた。
 ――皐月(さつき)(かおる)
 インタビュー記事の終わりに、名前があった。
 唯一知る「薫」だけが、一致していた。
 顔がたまたま似ているだけ。下の名前が一致しているだけ。本名かもわからない。それでも無視できないほどに、第六感が訴えていた。
 帰宅して、「皐月薫」を改めて検索してみたら信じられない量の情報が手に入った。
 歳は二十八であること。大学生の頃から俳優を続けていて、二年前に出演した『まぶしい月に誘われた僕は』の役が当たりとなり、今や主役も脇もこなせる名優になったこと。
 スマホを持つ手が震えた。残ったピースが急に嵌まり出したようだった。

 ――いっそ、このまま自然消滅した方が、お互いのためにいいのかもしれない。ましてや、恋心なんて無駄だ。再会できたとして、今までみたいに誰にも見つからないとは限らない。見つかったら迷惑しかかけない。

 そう思い込もうとしたのに、できなかった。我慢すればするほど募って、会いたくて、たまらなかった。
 自分にとって、皐月薫は「お兄さん」以外考えられなかったのだ。


 アラームの音にぼんやりと目を開ける。状況を把握できなくて白い壁を見つめていたが、跳ね起きた。メッセージの進展を待つ間に寝落ちてしまったらしい。
「何もなし、か」
 メッセージは最後の手段だった。約束の夜に関係なく、バイトのある日は必ず公園に寄った。それでも会えなくて、友達に心配されるほどいつもの自分がわからなくなって、そんな時に出会った雑誌から行き着いた希望だった。
 これが絶たれたら、打つ手はなくなる。父のように、本当に手の届かない人になってしまう。どうして大切な人はみんな、隣からいなくなってしまうんだろう。
 いつの間にか小さくしゃくり上げていた。苦しさのあまり、薫と過ごした二ヶ月近い日々が赤一色に染まろうとしている。
「顔、洗ってこよ……」
 仕事があるから連絡できないのだと無理やり言い聞かせ続けるしかできない。今日が休日で本当によかった。
 その後も横になりながらスマホを眺め続け、いつの間にかまた眠りに落ちていた。再度目が覚めた時には、昼もだいぶ過ぎていた。
 重いままの気分をどうにかしたくて、水温の低いシャワーを浴びる。望む未来になるとは限らない。理屈はわかっていても、今は今しか考えられない。
「……え、通知、光ってる」
 服を着るのもそこそこに、スマホに飛びつく。起きた時は何もなかった。
 画面をつけて――思わず、取り落としてしまう。
 来た。待ち焦がれたメッセージが、届いていた。
 震える指で通知欄をタップし、起動したアプリには、個別と思われるメッセージが数通に渡って綴られていた。
 歪みそうになる視界を手の甲で何度もクリアにしながら、幾度となく目を走らせる。
 すぐに、身支度を始めた。

『急に来なくなってごめん。僕があの公園にいるっていう情報が広まり出して、行きにくくなっちゃったんだ』
『……本当は、迷ってた。正直に話すと、君が僕のことを好きだと思ってくれてること、気づいてた。素直に嬉しかったんだ。でも、駄目だとも思ってた』
『君はまだ若いし、歳だって結構離れてる。そうじゃなくてもこんな人間だから君に迷惑だってかかるかもしれない。何も気にせずずっと話ができる人を失いたくなかった。……怖かったんだ』
『でも、言い訳しても駄目だね。君に会いたかった。また、他愛ない話がしたかった』
『本当に身勝手だし、怒られて当然だけど……許してくれるなら、また会ってください』

 いろいろ伝えたかった。それでも長文を打つのはもどかしくて、移動中に返せたのはたったのふたつ。
 残りは、直接伝えればいい。

『私にとって薫さんは、綺麗なお兄さんのままです』
『私も、会いたい』

 電車の扉が開いた瞬間、飛び降りる。改札を出ると、薄い長袖でも少しひやりとする風が全身を撫でた。太陽の見えなくなる時間が、ずいぶん早まっている。
 公園に向かって走った。目的地はいつもの場所ではなく、駐車場。
 十台は留められそうなスペースの一番端に、その車はあった。書いてあった通り、シルバーで染まっている。
 合図は、助手席側のガラスを五回ノック。
 解錠の音が聞こえた。ドアノブを掴み引っ張るが、うまく力が入らない。もう片手も添えて、ようやく開いた。

「二度も僕の願いを叶えてくれて、本当にありがとう」

 泣き笑いの顔で出迎えてくれた「お兄さん」と同じ表情を、きっと自分もしていたに違いない。

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(画像省略)「雪孝(ゆきたか)さんって流れ星に三回願い事唱えたら、ってやつ信じて…

探偵事務所所長×部下シリーズ

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叶えてほしい現実的な願いは

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雪孝(ゆきたか)さんって流れ星に三回願い事唱えたら、ってやつ信じてなさそうですよね」
 まとまった休みを、僕の家で一緒に過ごしているときだった。
 前日まで友人と一泊二日の小旅行に出かけていた(のぼる)くんの土産話を聞いている途中、突然なにかを思い出したかと思えば、そんなことを言われた。
「突然だね。まあ、その通りだけども」
「やっぱり」
 隣に座る昇くんは小さく笑った。年齢より幼く見えるその顔に、いつも密かに「萌え」ていたりする。
 子どもの頃、助けてもらった祖父が憧れの人だったと目を輝かせて孫の僕が引き継いだ探偵事務所の門をくぐってやってきてから、一年ほどが経った。
 最初は毛を逆立てた犬のようだった彼も今はすっかりすっかり馴染んだし、先輩の梓くんにもいい感じに可愛がられている。
 なにより、僕の大事な大事な恋人にもなった。
「泊まったホテルの屋上で星空鑑賞会やってたんですよ。予約制だったんで参加できなかったんですけど、流星群が見やすい日だったらしくて」
 それはもったいないことをした。見やすいとはいえど結局は運だから、流れないときは本当に流れないし、腰を据えて観賞できる機会も意外とないものだ。
「見やすくても、流れるときはほんと一瞬じゃないですか? だから三回唱えるなんて絶対無理だよなぁって」
「当たり前だよ。ていうか来るのがわかってたとしても、単なる迷信だから無駄無駄」
 ちょっと言い過ぎたかな? でも理屈が通らない事柄ってどうにも気持ち悪くて納得できないんだよね。昇くんはこんな僕の性格は充分わかってくれているとは思うけれど。
 その当人は、呆れたように苦笑していた。
「ほんとバッサリですね。でも、絶対叶うってわかってたらしてみたいでしょ?」
「うーん、まあ」
「叶う理由は置いといてですよ」
「そりゃあね」
 実用的なところなら最小限の労働で稼げるようにしてほしいとか、夢物語ならなにもしなくてもお金が湧いて出てきますようにとか、まあ、いろいろあるけれど、一番は……
「……なに、ニヤついてるんですか」
 どうやら顔に出ていたらしい。
「そりゃあ、一番叶えてほしい願い事考えてたからね」
 聞くべきかやめるべきか。昇くんの顔にははっきりそう描かれている。でも言った方がたぶん面白く、可愛い方向に転がるだろう。
「絶対叶うなら、愛愛愛! って叫ぶかな」
「あい……?」
 眉根を寄せている昇くんの頬に触れて、続ける。
「昇くんともっとラブラブになりたい、ってこと」
 単なる悲鳴か反論だったのかはわからない。
 唇を食むように何度か角度を変えたキスをし終わると、怒ればいいのか恥ずかしがればいいのかわからない昇くんの表情があった。
「雪孝さんって変なときに論理的じゃなくなりますよね」
「え、そう?」
「そうですよ! いきなりら、ラブラブとか言い出して!」
 結構本気で願っているんだけどな。今でも充分幸せだけど、たとえば「僕なしじゃ生きられないです!」とか言われてみたい。本当にそうなったら、昇くんらしさが消えてしまうから本気で願っているわけでもないけど、一日くらいなら……。
「だ、大体今も結構そうじゃないですか。おれ、ほんとに雪孝さんのこと……好きですもん」
 視線は逸らしつつ、こちらの服の裾を遠慮がちに掴んで、なんとも可愛らしいことを言ってくれる。なのに僕ったら、ちょっとだけ意地悪したくなってしまった。
「本当に?」
「だったらキスとかしません」
「じゃあそのキス、たまには昇くんからしてほしいな」
 反射的に僕を見た昇くんの瞳がいっぱいに開かれている。昇くんは照れ屋さんだし、僕からするのは全然嫌いじゃないけど、たまにはされる側の立場に立ったっていいでしょ?
「願い事三回唱えれば叶うかな? あーい」
 ずるい、と恋人の表情が訴えている。別に激しくなくても……いや、それはそれで嬉しいし、燃える。
「あーい」
 一瞬視線を伏せた昇くんが、勢いよく距離を詰めてきた。背中にソファーの柔らかな感触が走る。
「あー……」
 三回目の言葉は、押し倒した勢いとは裏腹に優しく、けれど深いキスに飲み込まれた。

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(画像省略)「僕だって必死に頑張ってるんだよー! ひどいよあやと!」 事務所の備…

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やる気スイッチの簡単な押し方

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「僕だって必死に頑張ってるんだよー! ひどいよあやと!」
 事務所の備品(主に飲み物とお茶請け)を補充して戻ると、いきなり所長に抱きつかれた。
「ちょ、ちょっとどうしたんですか!? あ、(あずさ)さーん!」
「大丈夫、たいしたことないから」
 いつも通りのクールな返答だが、彼女の意識がお茶請けだけに向いていることは知っている。
「おいおい、新人に泣きつくたぁいつからそこまで貧弱に成り下がったんだよ」
 聞き慣れない声、しかも結構ドスが効いている。
 最悪の想像をしながらおそるおそる出所を探すと、資料が並べられた棚に見知らぬ男が立っていた。
「あ、あの、取り立てですか?」
「あぁ?」
「す、すみません! つい!」
「お前わざとやってんな?」
「あっ、ち、違うんです!」
 無意識とはいえ、失礼な問いをしてしまった。男は呆れたようにため息をつく。
「まぁいいわ。おい、そいつのやる気をあげろ。お前が適任らしいからな」
 未だ抱きついたままの所長はか細く「梓くんの裏切りものぉ~」と呟いた。その当人はうきうきでお茶請けをひとつひとつチェックしている。
「あの、あなた様はいったいどちら様で」
桐原綾人(きりはらあやと)だ。こいつの尻拭いばっかしてる記者だ。情報屋扱いされてるけどな」
 前髪を軽くオールバックにまとめた目尻の細い彼は、所長を鋭く睨みつけた。が、所長も負けじと桐原を睨み返す。迫力は全然ない。
 しかしその名前、どこかで聞いたことがある。
「……あっ! 所長とよくやり取りしてる!」
 電話のときはかなり砕けた口調だったので、気になって質問してみたことがある。
『腐れ縁の記者よ。情報集めがうまいから、悔しいけどついつい頼っちゃうんだよね』
 まさか所長となにもかも正反対のように見える相手だったとは思いもしなかったが。
「直談判しないとスルーされそうだったんでな。やっぱ来て正解だったわ」
 素晴らしい読みっぷりに拍手したくなってしまった。
「好き勝手言ってくれちゃって……ていうか尻拭いなんて人聞きの悪い! ちゃんとお金払ってるし手伝いだってしてるじゃん」
「毎回すんなり終わらせてくれんなら文句言わねえよ。そもそも終わった試しねえし」
「君の仕事は大変なんだよ!」
「そりゃお互いさまだ!」
 大型犬と小型犬が吠え合っているようにしか見えない。勝手に巻き込まれているおれは誰が助けてくれるのだろう。梓はチェックを終えたものの、食べる物を真剣に吟味しているためか話しかけづらいオーラを発している。
「もー今日はことさらめんど……難しい依頼持ってきてくれちゃってさぁ。知ってる? 僕ここんとこ連日寝不足なのよ。みんなも残業しながら頑張ってくれて、やっと朝に終わったのよ。これでちょっとゆっくりできると思ったら君がやってきたんだよ。ひどくない?」
「気の毒だが知らん。お前にしかできない仕事だから諦めろ。依頼料上乗せするって言ったろ」
 なに?
 聞き捨てならない言葉が聞こえた。
「上乗せされたってもう頭が働かないよ~。せめて締め切りを二日くらい延ばしてくれたら」
「駄目だ。ケツは今夜十時まで。これでもだいぶ譲歩してんだ」
「ね、(のぼる)くんひどいでしょ? 恋人としてなんとか言ってやってよ」
「ちょっ、なにあっさりバラしてんですか!」
「気にすんな。前に浮かれまくりのこいつから一方的に教えてもらった」
「名前だけだよ。顔を見せるなんてもったいないからね」
「どうでもいいですよ所長のバカ!」
 もう何発か殴りたい気持ちでいっぱいだったが、使い物にならなくなったら困る。
 そう、報酬だ。ただでさえ収入が不安定な我が探偵事務所、もらえるときはちゃんともらって蓄えておかないといけない。梓もあんな状態でなければ同じことを言っていたに違いない。
 桐原の「お前がやる気をあげろ」の言葉をようやく飲み込んで、所長の手を引いて事務所のドアを開ける。
「少し、おれに時間をください」
 来客予定は入れていなかったから、廊下には誰も来ない。ビルの二階には事務所しかない。隠れてこそこそやるには絶好の空間だった。
「所長、疲れているのはわかりますが、なんとかこなせませんか? おれ達も手伝いますから」
「昇くんは依頼内容聞いてないからそう言えるんだよ」
 改めてその内容を聞いて、正直眉根を寄せてしまった。これは確かに、修羅場明けの身にはつらい。所長の訴えもよくわかる。
 内心申し訳ない気持ちを抱きつつ、所長を見上げる。
「でも、報酬を余分にいただけるんでしょう? こんなチャンスめったにありませんよ」
「むー……」
 反論を止めた所長は、じっとこちらを見つめてきた。下がりっぱなしの眉尻が溜まった疲労を表していて、恋人としては今すぐベッドに寝かせてやりたくなる。が、これも多めにもらえる依頼料のためだ。
「じゃあ、今から僕がするお願い、聞いてくれる?」
「おれでできることなら何でもやりますよ」
「ありがとう。とびきり濃厚なキスをしてほしいな」
 さらっと言われて、全身が硬直した。キス? 濃厚?
「ほら、僕たち最近全然触れ合いっこしてないじゃない? 本当は今夜君をめいっぱい抱く予定だったのにそれもなくなりそうだし」
 刺激の強い予定をさらさらと紡がれて突っ込みが思いつかない。確かに恋人らしいアレコレはお預けだったし、欲なんてないと変に恥じらうつもりもない。
「……でも、桐原さんは夜十時までとは言ってますけど、それより早く終わらせれば、時間作れますよ」
 必死に視線をキープして提案する。酷な内容なのはもちろん百も承知だし、所長はたぶん意図に気づいている。
 曇っていた瞳に少し輝きが戻った。
「ということは、昇くんも望んでくれてるんだ?」
「誰だって、恋人といちゃいちゃしたいもんでしょう」
 半ばやけくそのまま、所長の唇を塞ぐ。舌を差し込むと待ちわびていたと言わんばかりに絡め取られた。
 よほど飢えていたのか、舌への、口腔への愛撫が半端ない。久しぶりの刺激に耐えられず、所長の服を必死に掴む。
「っん、ふぁ……あ、」
 壁を挟んでいても二人に聞こえるかもしれないのに、声が抑えられない。背中を撫でる動きさえ甘い高ぶりに変わって、無意識に追いかけてしまう。身体をすり寄せたい衝動と必死に戦っていると、唇が解放された。
「ゆきたか、さん……」
 恋人が満足そうに笑っている。柔和なイメージが完全に消えた、色欲にまみれかけた男がそこにいる。丸眼鏡の奥で、鋭い二つの光がおれに絡みついている。
「続き、絶対するからそのつもりでね。昇」
 そして颯爽と事務所に戻っていった。
「調子に、乗らせすぎちゃったかな……」
 うまく事が進んだこと。恋人としての夜が確約したこと。
 嬉しい気持ちは本物だったが、言いしれない恐怖があるのも本物だった。

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(画像省略) 平日の午後。 忙しくも暇でもなく、どこかのんびりとした空気が漂って…

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お役御免はまだまだ先?

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 平日の午後。
 忙しくも暇でもなく、どこかのんびりとした空気が漂っている、いつもの探偵事務所のはずだった。
「ごめん、ちょっと出てくるね」
 そう言い残して足早に出て行った所長を、後輩がぽかんと見送った。さすがに違和感を覚えたらしい。まあ、確かに「あの状態」の所長を見るのは初めてだから仕方ない。というか久しぶりじゃないだろうか。
 少なくとも、彼がこの探偵事務所にやってきてから一度も起こっていなかった。……いや、一度あったかな? そのときは(所長的に)運よく、三浦が体調不良で休みだった。
「あ、あの(あずさ)さん。所長、なんか変な物でも食べてましたっけ」
「……どうして?」
「いや、外出るの相当珍しいじゃないですか。でもそれだけじゃないっていうか」
 両手が空いていたら右に左に動いていそうな素振りを見せながら出入口のドアを振り返る。追いかけたいけれどどこに行くべきかわからない。心情としてはそんな感じだろう。
 ただ、私ならわかる。
 短くため息をついて、びっくりしたように名前を呼んできた背中越しの彼に答える。
「私、探してくるから。悪いけど、事務所をお願い」


 たっぷり二十分はかけて、周りの雰囲気より時間が昔に巻き戻ったような佇まいの喫茶店に辿り着く。
 入口をくぐると、すっかり顔なじみになった店長がわずかに苦笑しながら頭を下げた。毎回お世話をかけますという思いと共に目線を下げ返すと、一番奥まった場所にある二人席に腰掛けた。
「久しぶりに出ましたね、この発作」
 眉根を寄せた所長がにらめっこしているターゲット――一冊の本を指差しながら、出された水を半分まで飲む。今の季節、夕方でもまだまだ暑い。
「三浦くん、びっくりしてましたよ。ほとんど外出ない所長がいきなり飛び出したから」
「……(のぼる)くん、なんか言ってた?」
「気になるなら早く戻ってあげたらどうですか?」
 大事な人の動向を探っておきながら視線も身体も石のように動かない。無駄とわかっていて敢えて告げたのは、これが唯一の対処法だから。
 しかし、三浦と深い仲になってから相当我慢でもしていたのか、眉間の皺がいつも以上に深い。長引きそうな予感に早くも投げ出したくなる。
「……ったく、相変わらずこういう本は己の目線で好き勝手書かれてて反吐が出る。盛大な自分語りすぎて金の無駄だね」
「所長にはそうってだけですし、別に絶対手に取ってって命令されているわけじゃないでしょう。いつも突っ込んでますけど」
「大体数千円払って簡単に解決できるなら誰も苦労なんかしないんだよ。あ、ここに書かれてる手法、僕ならもっとコスパよくこなせるけどね」
「それいわゆるブーメラン発言なんじゃないですかね」
 未だに不思議で仕方ないのだが、頭の中が暴発しそうなくらいに煮詰まってどうしようもなくなったとき、事務所を飛び出すと道中で購入した自己啓発系の本を片手にこの喫茶店に入り、ひたすら毒づくのがお決まりになっている。曰く、「自分ならこうだ、という論を思い浮かべまくっていくうちにすっきりしていく」らしい。敢えて掃除をしたり散歩に出かけたりするとリフレッシュするというのと同等か、いや、一緒に括るのは憚られる。
 とにかく、所長なりの落ち着きの取り戻し方なのだ。
 自分が相手役を務めているのは、偶然にも毒抜き中の所長を見かけてからだった。
『梓くんの冷静なツッコミがすっごく助かるってことがわかったから、できれば付き合ってもらえると嬉しいな』
 普段の所長に早く戻れるなら仕事も滞らずに済む。そのためだけに役目を続けているけれど、面倒なのに変わりはない。
「私、次から三浦くんにバトンタッチしようかな」
 喫茶店自慢のショートケーキをつまみながら呟くと、視線がぐいんとこちらを捕らえた。本を閉じ終えていないのに珍しすぎる。
「や、やだよ!」
「どうせいずれは二人で住んだりするつもりなんでしょう? 私のいないところでこうなってもおかしくないですし、予行演習だと思って」
「む、無理無理! こんな姿を昇くんに見られるなんて無理!」
 ……まったく、本当に無駄にプライドが高い。
 少なくとも三浦は、絶対嫌いにはならない。むしろ、しっかり支えられるようになりたいと決意するタイプだ。
(気づいたらたくましく成長してそうね……)
 その未来はちょっと楽しみかもしれない。例えば、完全に所長を尻に敷いていたりとか……
 ――パタン。
「こ、ここにいたんですね二人とも……!」
 二つの音は、ほぼ同時に聞こえた。
 所長のすっきり顔が見事に固まっている。さすがの自分も驚きを隠せないまま背後を振り向いた。
「三浦くん、どうしてここが」
「いや、やっぱり気になっておれも出てきちゃったんです。来客の予定ないしって思って……」
「私のあとを、追いかけて?」
「途中で偶然見かけたんですけどすぐ見失っちゃったんです。で、手当たり次第探してたらここに」
 一応、三浦が後をつけていることを想定して敢えて遠回りしてみたりしたのだが、偶然なら仕方がない。
「これはもう、神様のお告げなんですよきっと」
 ケーキと紅茶まできっちり平らげて、未だフリーズ中の所長に適当な理由を告げながら席を立つ。本を閉じたなら毒抜きは終わったという証だ。つまり、役目は終わった。
「あ、あの梓さんここで一体なにを? まさかサボりですか?」
「サボりじゃない」
「す、すみません……」
 口にした物はあくまで必要経費だ。何も注文せず留まるだけなんて失礼にもほどがあるじゃないか。
「それに、三浦くんが気になってることは所長が丁寧に説明してくれるから大丈夫」
 助けを求めるような視線を感じた気がするが、あくまで気のせいだろう。というか誤魔化すなんて無理。
「所長。サボりじゃないって、ちゃんと証明してくださいね」
 敢えて身体ごと向き直り、満面の笑顔を向けて、今度こそ喫茶店を後にする。
 所長の情けない悲鳴が聞こえた気もするが、これもまた、気のせいに違いない。

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(画像省略)「所長。これ、頼まれてた資料です」「お、ありがとー。ちょうどいいから…

探偵事務所所長×部下シリーズ

探偵事務所所長×部下シリーズ

穏やかに、確実に、時は流れゆく

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「所長。これ、頼まれてた資料です」
「お、ありがとー。ちょうどいいからちょっと休憩しようか。ほら、(あずさ)くんも」
「……わかりました。じゃあ、せっかくなんでお茶請け買ってきますよ。もうすぐなくなりそうだったので。いいですよね?」
 彼女がそう言い出すときは「自分が食べたいものがある」という証拠なのだが、突っ込む者はいない。止めても無駄というより、だいたい素晴らしいチョイスをしているからという理由が大きい。
 かすかな鼻歌をこぼしながら扉をくぐって行った梓を見送ると、牛乳だけを混ぜたコーヒーを応接に使うテーブルに置く。待ってましたとばかりに所長が隣に腰掛けた。
「……うん、おいしい~。すっかり僕好みの味になったね」
「そりゃほぼ毎日淹れてますからね」
「仕事もすっかり手慣れて」
「入所して一年以上経ちましたからね。もちろん、まだまだ勉強不足ですけど」
「そっか、もうそんなに経ったんだ。あっという間すぎて実感がないなぁ」
 うんうんと、納得するように首を上下している所長に同意する。ここに来た当初は、まさか所長と恋人同士になる未来なんて想像すらしていなかった。濃ゆい日々すぎる。
「ここの所員としての貫禄はそれなりについてきたけど、変わらないところもあるよね」
「そう、ですか?」
「うん。結構容赦ないツッコミするところとか、ある意味生意気なところとか」
 失礼なことしか言われていない。まあ、仮にも一番偉い人にうっかりストレートを投げつけてしまうのが悪いのは自覚しているが、所長も所長で特に咎めたりしないのがいけないんだ。
 その張本人はなぜか嬉しそうに笑っている。
「でも僕、(のぼる)くんのそういうところ結構好きなんだよね。なんか、裏表なくて微笑ましい」
 今度は乱された。この人のぶっこみ方、いつもタイミングが読めない。
 どう返すべきかと必死に思考を回していると、肩を引き寄せられた。反射的に視線を向けた先には、やっぱり幸せそうな所長の顔が待ち構えていた。
「ちょ、ちょっと。仕事中ですし梓さん帰ったんじゃないですよ、買い出しですよ、そろそろ戻ってきますって」
「大丈夫だって。梓くんは僕たちの関係知ってるし」
 そうだとしても、実際見られたらたまったもんじゃない!
 ……訴えたところで言うことを聞いてくれないのも、悲しいかな一年の付き合いで学んだことだった。
「……だ、だったら。せめてこれ、やめてくれません?」
 頭を優しく撫で続けている手のひらを指差すも、可愛くないぶりっこ声で拒否された。
「君がここに来てからの日々を思い返してしみじみしてるんだもの、無理無理」
 声が甘くて柔らかくて、反論したいのにできない。なんだかんだで、こういう時に感情を誤魔化さないでくれるところが自分も好きだったりする。
 梓が戻らないことを祈りつつ、ぎこちない動きで身体を寄せていく。左側から伝わってくる、徐々に馴染みつつある熱が心地いい。
 始めの頃は反発ばかりして、人間としても新人としてもまるで駄目な人間だったのに、よくクビにされなかったどころか恋人関係にまでなるなんて、本当人生はどう転ぶかわからない。
 今でも単なる気まぐれなのでは、と不安になることもあるけれど……不思議と、このひとの隣にいるとネガティブな感情はたちまち消えてしまうのだ。
「あ、昇くんなんだか可愛い顔してる」
 頭を撫でていた手で顎を掬われた。訊き返す暇をもらえなかった原因は、唇を覆う柔らかい感触のせい。
「あー、そんな反応されると止まらなくなっちゃうなぁ。もっとしていい?」
「っだ、だめに決まってるでしょ! このエロ所長いいかげんに……!」

 コンコン。
 ごほんごほんっ。

 犯人、いや、救世主は誰か、言わずもがな。
 慌てて隣を突き飛ばし、平謝りしながら救世主を招き入れたのだった。

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(画像省略)「もう、所長! お願いですから片付け手伝ってくださいよ!」 たまらず…

探偵事務所所長×部下シリーズ

探偵事務所所長×部下シリーズ

息抜きの場所は恋人の隣だけ

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「もう、所長! お願いですから片付け手伝ってくださいよ!」
 たまらず一喝したおれの声で、仕事机で突っ伏していた所長がのそりと顔を上げた。お客さんと対峙する時だけちょっと精悍になる顔はだらしない姿へと変貌している。
「えー、それは部下の仕事でしょー?」
「ええそうですね。でもお客さんが来るまであと一時間しかないんですよ? それまでにこの小汚い部屋を綺麗にしないといけないんですよ? わかってます?」
 打ち合わせに使う机の上を整えるくらいならもちろん何も言わない。だが足元は調べ物や探し物のために無造作に投げ出されたバインダーやら本やらでぐちゃぐちゃのごたごた状態だし、どこか息苦しいから埃も舞っている気がする。足元と空気を整えないと、おもてなし用の飲み物お茶菓子の用意まではとてもできない。唯一の先輩である(あずさ)はそのおもてなし用の買い物に出てしまっている。
(のぼる)くん、そうは言ってもだね、僕は朝方まで資料をまとめていたんだよ。ものすっごく疲弊してるんだよね」
「じゃあ来てくれたお客さんをドン引きさせてこの事務所の悪評を垂れ流されて最悪潰れてもいいって言うんですね」
 疲れているのはわかっているけれど、敢えて厳しい口調で言わないとこの所長は動いてくれない。
 口も手も動かさないといけないなんて、はっきり言って効率が下がるだけだ。早く「わかりました手伝います」って白旗を揚げてくれないかな……。
「でもまだ一時間もあるよ? 馬鹿でかい事務所じゃないんだから、そんな急がなくても間に合うと思うけどなぁ」
「そうやって余裕かまして、お客さんの約束時間に遅れます連絡に救われたことが何度もありましたよね。それに早く片付け終わればその分休めるじゃないですか」
 仕事のスイッチが入ると何回も惚れ直してしまうほど完璧で無駄がない男に変身するのに、オフだとどうしてだらけやすくなってしまうんだろう。もちろんいつも完璧でいろ、だなんて思ってはいないが、時と場合を考えてほしい。少なくとも今は半分くらいスイッチを入れてほしい。
「いいから、ほら立って! バインダーと本を棚に戻すくらいはせめてやってください。それは所長の方が片付けしやすいでしょ? それだけでもおれは助かりますから」
 所長の机の後ろの窓を開けると、涼しい風が優しく吹き込んだ。一度だけ深く呼吸をしたら、焦燥感が少しだけ落ち着いた。
 よし、続きを頑張ろう。さっきは「潰れてもいい」なんて口走りはしたものの、本当にそうなってほしいわけじゃない。何だかんだでおれは自分のポジションが気に入っているし、所長のことも……誰よりも、好きなんだから。
「昇」
 踵を返したところで、一言名前を呼ばれた。
 反応する暇もなく、おれの身体は所長の膝の上に乗せられていた。
「ちょ、ちょっと! こんなことしてる暇ないでしょ!」
「ファイルの片付け以外も頑張って手伝うから、元気ちょうだい」
 力の抜けた笑みを向けたかと思うと、猫のように頭を胸元にすり寄せてきた。背中にがっつり両腕を回されているので身動きが全然取れず、なすがまま状態になっている。諦めて覚醒した所長に賭けるしかなかった。
 ……仕事モードの所長しか知らない女の人が見たら、どう思うんだろう。まあ、まず幻滅はされるだろうな。でもこうやって甘えてくるところは可愛いってなるかも。ギャップ萌えとかいうやつ。おれも時々感じることあるし……。
「呆れてるでしょ」
 すっかり全身の力が抜けてしまって、ぬいぐるみのような気持ちでいたら、いつの間にか所長に見つめられていた。
「……所長の言葉を信じてるだけですよ」
「僕はね、君につい甘えちゃうんだよ」
 頭を優しく撫でてくれる。つい目を閉じたくなる心地よさだった。
「結構しっかり者だし、いろいろお小言言うけど、僕への気持ちが全然変わってないっていうのもわかるから、ついね。すっごく頼りにしてるんだ」
 思わず息が詰まった。完全プライベートじゃない時にそんなことをはっきり言わないでほしい。
「そうやって素直なところも甘えたくなるんだよなぁ。二人きりになると未だにせわしなくしてるのも可愛いし」
 変な声が出そうになった口を、ぎりぎり手のひらで覆った。何もかも見破られている。急激に顔が熱くなってきた。
 目の前の所長が、なぜか困ったように笑っている。また、おれが自覚ないまま所長いわく「欲に繋がるスイッチ」的なものを押してしまったらしい。そのたびに一応気を引き締めるけれど、正解が未だにわからない。
 口元の覆いをそっと外して、所長の顔が近づいてくる。自然と瞼を下ろした。少しかさついた感触と、ほんのりとしたコーヒーの香りで包まれる。
 触れるだけのキスが何度も降ってくる。お互いに物足りないのはわかっていた。それでも多分、ほんの数センチ距離を詰めても所長はそっと押し戻すだろう。根は真面目でちゃんと大人なのだ。
「……あーあ。全く、惜しいなぁ。今の昇、本当に可愛くてすごく色っぽいのに」
「なんですか、それ……」
 軽いキスでも、何度もされたら身体が熱くなるんだな……。
 仕事があるのに、早くしゃんとしないと。
「ねえ、急遽休みになりました、ってしたらダメ?」
「ダメに決まってるでしょう」
「そこは普通、特別ですよっていうところじゃない?」
「寝ぼけたこと言わないでください!」
 ……大人、はやっぱり撤回しよう。
「そういう冗談を言えるってことは、もう元気になった証ですね。ほら、片付け再開しますよ! 梓さんももうすぐ帰ってくるだろうし」
 勢いをつけて立ち上がる。事務所の出入口近くに置いてある時計を見たら、タイムリミットまで四十分を切っていた。いよいよ焦らないとまずい。
「本当、憎たらしいほどしっかりしてるよね。部下に相応しくて助かりますよ」
 ふてくされている。片付けはしてくれるようだが、明らかにテンションが低い。これはしつこく引っ張るタイプの方だ。
 こうなったら、一肌脱いでやるしかない。
 のろのろとバインダーを拾い始めた所長の隣にしゃがみ込んで、強引に顎を持ち上げる。
「……さっきの続きも、仕事終わったら付き合いますから」
 最終的におれがこうして折れるから、所長の甘え癖も直らないんだろうなぁ。
 そう自覚していても弱いから、おれ自身もどうしようもない。

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2023年12月 この範囲を1話→最新話 の順番で読む この範囲をファイルに出力する

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(画像省略) 今話題のドラマの最新話が終わった途端、翠(すい)に抱き寄せられた。…

俺はエメラルドのご主人様じゃない!

俺はエメラルドのご主人様じゃない!

番外編:あなたが与えてくれるから

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 今話題のドラマの最新話が終わった途端、(すい)に抱き寄せられた。
「え、どうした? いきなり」
 改めて向き直ると、翠の眉尻が少し下がっていた。ドラマを楽しんでいた男とはまるで思えない感情の降下ぶりだ。
「もしかしてつまんなかったとか? 俺はわりと今週の展開はよかったけど」
「いえ、違うのです」
 また抱きしめられる。
「……今のドラマもですし、漫画や小説でもありますが。こうして恋人を抱きしめて、ぬくもりを感じる、という描写がありますでしょう?」
 若干気恥ずかしさを感じたあの場面か。隣を盗み見たらにこにこと笑っていた。
「今さらながら……羨ましいと、感じてしまいまして。私は、人間ではありませんから」
 パワーストーンの化身である翠は、見た目こそ人間と変わらない姿形をしているが、異なる部分がいくつもある。
 そのうちのひとつが、一切の熱を持たないこと。
 冷たいわけではない。ただ、なにも感じない。言い方はアレだが、壁に触れているような感覚に近い。
「もし私にぬくもりがあったら、文秋(ふみあき)が寒いときに暖めてあげられたのに。お互い暖め合うという体験もできましたのに」
 少なくともそういう展開に憧れるのは若いときだけ……という突っ込みはとりあえず脇に置いておこう。
「俺は、お前の言うぬくもり、結構感じてるよ?」
 背中を労るように撫でる。聞こえてきた小さな笑い声はどこか寂しさを含んでいた。
「元気づけてくださっているのですね。ありがとうございます」
「いや、本当だよ。なんていうか、物理的にじゃなくてさ」
 うまい説明が浮かばず口ごもってしまう。これでは余計な気を遣わせてしまうだけだ。必死に頭をフル稼働させる。
「たとえば、さ。出会った頃、俺にエメラルドの力を注ぎ込んでくれてただろ?」
「半ば無理やりでしたけれど、文秋は受け入れてくれていましたね」
 化身だと信じられなかった俺に、エメラルドに備わっているという癒やしの力を毎日与えてくれた。あまりにも非日常すぎて不信感はなかなか消えなかったものの、その力に助けられ、ありがたく感じていたのは事実。
「それからも俺のこといつも気にかけてくれて、守ってくれてる。そういう気持ちが、俺にはすごくあったかいんだ」
 大切な人が相手だから。
 主人という肩書だけでないと充分にわかるから。
 ぬくもりを通じて安心感や幸福感を得られるのも、その理由があればこそだ。
「それに、恋人同士になってからよくこうやって抱きしめてくれるけど、いつもほっとするんだぞ?」
「……私の想いが、伝わっているからですか?」
「そうそう。翠の想いの強さは相当だし。あったかいどころか熱くなるくらいだよ」
 だんだん物語の登場人物のように思えてきた。伝え慣れない台詞のオンパレードだが、少しでも翠の助けになるなら構わない。
「ふふ、文秋。今いただいた言葉、物語でもよく聞くものですよ?」
「え、そ、そうなのか。でも、いつも思ってることだから。嘘じゃないよ」
「承知しております。だからこそ、正直驚いているのです」
 向き直った翠は、少し顔を赤らめていた。
「物語上の台詞を実際耳にすると、こんなにも嬉しいのだと」
 触れるだけのキスが一度、与えられる。ぬくもりはなくとも、とても優しくて、胸の中にほんのりとした熱が生まれる。
「今のも、あたたかいですか?」
「うん」
「それならよかった」
「ちなみに……俺は、どうなんだ?」
「もちろんあたたかいですよ。今は少し熱いくらいです」
「……うるさいよ」
 満面の笑顔が今はちょっぴり意地悪く見える。照れ屋なのはもう性分なのだから仕方ない。

「でも、私は諦めません。なんとしても、文秋に最高のぬくもり体験を提供したいのです」
「最高のぬくもり体験……変な方向に努力するの、もうやめろって」
「変ではございません。すべては主であり恋人でもある文秋のため!」
「……(あい)くん、出てきてくれないかな」

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(画像省略) おかしい。 気づけば、翠の姿を見ていない。「翠(すい)ー?」 呼び…

俺はエメラルドのご主人様じゃない!

俺はエメラルドのご主人様じゃない!

番外編:小さな地獄と大きな宝物

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 おかしい。
 気づけば、翠の姿を見ていない。
(すい)ー?」
 呼びかけに返る声は、部屋にも頭の中にもない。
 恋人兼、従者(と言って譲らない)のエメラルドの化身である翠は、断りなく主の前から姿を消す男では決してない。……いや、ケンカをした場合は除く、だったか。
 至って普通の、休日の朝を迎えていた。翠のキスで起こされ、のろのろと部屋着に着替え終わる頃には朝食がテーブルに並べられていた。この後はのんびり遠出しながら買い物をすませよう、なんて会話を交わしていたはず。お互い、不機嫌になるような要素はひとつもなかった。
「……(あい)くーん。っていないか」
 双子の弟である、アクアマリンの化身である藍の名前を呼んでみるが反応はない。主である天谷千晶(あまやちあき)のお店に出勤しているのかもしれない。
 双子が会っているという線が消えた、ということは……。
「翠、いるんだろ?」
 それでも反応はない。全く理由がわからず、次第に変な苛立ちと不安がない交ぜになっていく。
「……主人を、意味もなく放っておくのか?」
 なるべく対等の立場でいたい自分にとってあまり使いたくない手だったが、忠誠心の高い彼なら百パーセント効果があるに違いない。そう信じていたのだが……。
 ――最終手段もダメとか、よっぽどのことが起きたらしい。
 たまに翠は、「大げさすぎだ」と突っ込みたくなることでひどく思い詰める癖がある。理由を尋ねると知らぬところで自分が原因の元であるパターンが多いのだが、今回もそうなのだろうか。
 張本人から探れないのなら、自らが探っていくしかない。
 改めて、起床してからの流れを思い返してみる。朝食を終えて、翠はいつも通り洗い物に、自分はテレビを観ながら出かける準備をしていた。
 ――翠が消えたのは、洗い物が終わった後ぐらいか。
 わずかな望みをかけて台所に向かう。翠と暮らし始めてからあまり立たなくなってしまった自分でもわかるほど、いつでもゴミひとつない……
「あれ?」
 違う。今回はたったひとつだけ、違和感がある。
 その違和感に手を伸ばして、なんとはなしに観察してみる。
「……あ、欠けてる?」
 数ヶ月前、いつも頑張ってくれている翠にお礼がしたくて、透き通るエメラルド色で飾られたガラスのコップをプレゼントした。彼と一定の距離以上は離れられない生活でサプライズを仕掛けるのは至難の業だったが、通販に大いに助けられた。
『毎日水を飲ませていただきます! ……本当に、本当にありがとうございます、文秋(ふみあき)
 涙を浮かべるほどに喜んでいた翠。
 宣言通り、ほんの少量だとしても毎日欠かさず使っていた翠。
 そういえば朝もニコニコとコップを使っていた。
「間違いなく原因はコレだな」

「申し訳ございませえええぇぇぇん!!」

 これから切腹でもされそうなほどの悲壮感を込めた声が、部屋中に響いた。
 視線を床に移動させれば、燕尾服姿の男が綺麗な土下座を披露している。
「わた、私は大罪を、犯しました……主であり、恋人でもある文秋さんからいただいたプレゼントを、こ、壊してしまうなどと……!」
「あの、翠」
「大事に大事に扱ってまいりましたのにまさか、気づかぬうちに破損していたなんて……いえ、そんな言い訳など通用しません! 傷物にしてしまったのは事実!」
「いや、あのさ」
「どうぞ罰をお与えください。今回こそ情けは不要です。恋人の感情も殺して、あくまで従者として」
「翠」
 あくまで静かに呼びかけると、縮こまっていた身体が小さく震えて、止まった。
 しゃがみ込んで肩を二、三度労るように叩く。
「俺は怒ってないよ。お前が大事に使ってくれてたの毎日見てたんだから、ちゃんとわかってる」
「……しかし、私の気が収まりません。あの時、私は本当に嬉しかったんですよ」
 声が震えている。さすがに自分も胸が痛い。
「わかってるって。俺も軽々しく『だから気にするな』なんて言わないよ」
 飲み口の一部がわずかに欠けたコップを翠の隣に、静かに置く。
「俺はさ、このコップが翠に起こりそうだった災いを肩代わりしてくれたんじゃないかなって思ってるんだよ」
 ようやく、翠が顔をこちらに向けてくれた。
 頬に、明らかな筋が描かれている。数ヶ月前とは全く違う意味合いになってしまった涙の痕を両方拭って、敢えて声のトーンを上げてみた。
「ほら、パワーストーンもそういうのあるだろ? 欠けた時は、役目を全うした証だって。あんなに大事にしてもらったから、お礼したいって思ってくれたんだよ」
 大の大人が、絵本にでも出てきそうな物語を口走っている。
 けれど買ったブレスレットに飾られたエメラルドから「化身です。よろしく」と登場した翠と恋人同士となっている現実を見れば、あながち嘘でもないと思うのだ。
「……文秋さんも、すっかり私達の世界にも馴染みましたね」
「まだまだ、藍くんに怒られてばっかりだけどね」
 翠が、わずかにだが笑ってくれた。それだけでこんなにも胸があたたかくなる。
 欠けたコップを手に取った翠は、何度か側面を優しく撫でた。愛おしくにも、今までの働きを労るようにも見える。
「このコップは、後でベランダにある鉢植えに埋めましょう」
 訊き返そうとして、つぐむ。
 役目を終えたパワーストーンは、土に還す。そういうことだ。
「重ね重ね、お騒がせして申し訳ございませんでした」
「黙って消えた時はさすがに焦ったけどね。理由知って納得したっていうか」
 変なタイミングで言葉を切ったのが気になったのだろう、どこか心配そうに翠が見下ろしてくる。
「……俺も、エメラルドが欠けた時は、この世の終わりって感じだったから」
 言い終えると同時に、全身を包まれる。
 力強くとも、ぬくもりを感じなくとも、世界一気を落ち着けてくれる場所だ。
「大丈夫です。二度と、私は文秋から離れません」
「わかってる。嫌だって言っても、絶対無理だからな」
「望むところです」
 目が合った次の瞬間には、唇が重なっていた。ただ触れ合わせているだけなのに、やけに心臓が高鳴る。
「……そうだ」
 このままベッドになだれ込んでもいいかも、と思いかけた頭にある考えが浮かんだ。
 おそらく同じ気持ちになりかけていたのだろう、翠の双眸が若干残念そうに曇っている。
「これから、新しいカップを買いに行こう」
「新しい、ですか?」
「そんで、今度は翠が気に入ったデザインのカップにしよう。どう? 妙案だと思わないか?」
 だんだんと、エメラルドの瞳がきれいな光を帯び始める。
「でしたら、ひとつだけわがままを申し上げてもよろしいでしょうか」
「おお、許す」
「文秋も同じカップを購入なさってください。いわゆる『おそろ』ってやつですね」
 頷いた瞬間、視界に映ったふたつの瞳はどんな宝石もかなわない、自分にしか見ることのできない輝きを放っていた。

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(画像省略) 最高にうまい夕飯に、自宅の二倍以上はある広さの部屋、横になったら本…

俺はエメラルドのご主人様じゃない!

俺はエメラルドのご主人様じゃない!

番外編:星空と温泉と恋人な従者と

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 最高にうまい夕飯に、自宅の二倍以上はある広さの部屋、横になったら本当に三秒で眠りに落ちそうな心地のいいベッド。
 極めつけは、夜景が一望できる部屋付き温泉露天風呂だ。
「ああ、最高すぎる……」
 事情があるにせよ、思いきって奮発してよかった。恋人と来ているとはいえ、その事情のおかげで一人分の代金で済んでいるのも大きい。
「温泉というのは本当に心身が癒されるものなのですね。文秋さんの顔を見ているとわかります」
 檜の浴槽にゆったり身体を預けている隣で、相変わらず姿勢よく直立しながらエメラルドの化身、翠が笑いかける。服装だけはいつもの燕尾服ではなく、場所に合わせて浴衣を身につけさせた。単純に見てみたかったというのもある。
 予想通り似合っている。イケメンは服装を選ばないらしい。
「でも、お前どっか不満そうだけど?」
 翠はぐっと喉を詰まらせた。まさか、見破られるとは思っていなかったのか?
「その微笑み、わざとらしい」
「……ますます、鋭くなられて」
「毎日一緒だしね」
 多分、癒やしの石と言われるエメラルドのプライドの問題だろう。自分としては比べられないほど、どちらも欠かせない「力」なのだが。
「そうだ、翠もそこに座って見てみろよ、空。すごく綺麗だぞ」
 会話の流れを変える目的以上に、都会ではなかなかお目にかかれないこの夜空を翠と共有したかった。
 素直に正座をして首を持ち上げた彼の、二つのエメラルドが強く輝く。
「……これが、天然のプラネタリウムというものなのですね」
「周りが暗いと、もっとよく見えるみたいだけどな。それでも充分すごいよ」
 よく見ると、同じ星でも輝きが強いものと淡いものがある。まじまじと眺めるなんて学生の時の星の観測以来だからどこか懐かしさも感じる。
「確かある特定の配置がされている星達を繋ぐと星座ができるとか。文秋さんはおわかりになりますか?」
「それが、さっぱり。こういう時にちゃんと勉強しておけばよかったって思うよ」
「ご心配なく。私がしっかり学ばせていただきます」
 どこまでダメ人間にする気なんだと言いたいが、それがすんなり通る奴でもない。ほどほどにな、と一応忠告しておく。
「……でも、わからなくてもこうやって、綺麗な星を翠と眺めてるだけですごく楽しいし、嬉しいよ」
 温泉効果だろうか、内心がするりとこぼれて少し驚いてしまった。翠も同じ気持ちなのか思いきり見つめ返されて、恥ずかしさが増すばかり。すくった温泉を顔に当てても当然効果はない。
「そんな、びっくりした顔で見るなって。珍しいのはわかってるよ」
「違います」
 即座に否定されたと同時だった。
 変な浮遊感を覚えたと思ったら、視界が一変して翠の顔だけで埋め尽くされた。背中には少しだけひんやりとした木の感触がある。
「なんだよいきなり!」
「お静かに。他のお客さまに聞こえてしまいますよ」
 憎らしいほど落ち着きに満ちた声だった。いきなりお姫さま抱っこをされたのだ、黙ってなどいられるわけがない。それより一瞬とはいえ、パワーストーン的に温泉に触れてもいいのか。
「予定ではもう少し後だったのですが、文秋があまりにも可愛らしいので我慢ができませんでした」
 爽やかに見える微笑みを携えて、こいつは一体何を言ってるんだ。無視できない嫌な予感が急激にこみ上げてくる。
「本当は温泉に浸かりながら行うのが王道であり燃えるそうなのですが、私の体質により不本意ながらこのような形で失礼します」
「ま、待て待て。さっきから何を言って」
「もちろん、文秋と過ごす濃密な恋人としての時間のことを、ですよ」
 やばい。予感が大当たりしてしまった。
 しかしここから逆転劇のシナリオは描けそうにないし、力ずくで逃げることも当然できない。
「お、お前、今度はどんな本を読んだんだ。それともドラマか、アニメか?」
「それは秘密です。文秋に勉強しているところを知られたらサプライズにならないでしょう?」
 それに毎回振り回されるこっちの身にもなってくれ!
 ――と、反論できなかったのは。
「いいから……もう、黙って」
 吐息のかかる距離で囁かれ、すぐに塞がれてしまったから。
 頭や耳元を撫でられながら口内もたっぷり愛撫され、すっかり全身の力が抜けたところで、翠の、熱を帯び始めた声が注がれる。

「文秋も、楽しんでいるでしょう? 私には、お見通しですよ」

 今度こそ、返す言葉はなかった。
 つくづく、愛おしくて悔しさや憎らしさも感じるほどに優秀な「従者」で「恋人」だ。

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(画像省略)「文秋、おはようございます。朝ですよ」 片耳をくすぐる声と口付ける音…

俺はエメラルドのご主人様じゃない!

俺はエメラルドのご主人様じゃない!

第11話

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「文秋、おはようございます。朝ですよ」
 片耳をくすぐる声と口付ける音で、瞼を持ち上げる。すっかり定番となった朝だった。
「もうちょっと、寝かせて……」
 抵抗するように身体を丸めて、腰に走った痛みに眉根を寄せた。今も含め、休日の朝はだいたい寝てばかりの場合が多い。
 異様に喉が乾いていた。やたらと喘いでいた自らの姿をぼんやり思い出して、意識がいやでも覚醒してしまう。
 諦めて起き上がろうとしたが、翠の腕が許さなかった。
「どこへ行かれるのです?」
「水を、飲みに……」
「それでしたら、こちらに」
 仰向けに寝かされ、いつの間に置いてあったのかペットボトルが翠の手に握られている。てっきり渡してくれるものと思い伸ばした腕を無視すると、飲み口を自らに向けた。
「ちょっと、な……っん!」
 一瞬不敵に笑った翠の唇に、抗議の声を塞がれてしまう。
 水が少しずつ喉に流れ込む。わずかに冷えた温度が心地いい。
 緩く上唇を吸い上げてから離れた口が、もう一度ほしいかと問いかけてくる。頷くと再び水を流し込まれ、舌も緩く絡め取られる。受け止めきれなかった水が、唾液と共に顎を伝って首筋をくすぐった。
「……っふ、ぁ……や、さわるな……っ!」
 胸元や腹部をなぞる手に身を捩るが、楽しそうな笑い声が返ってくるだけで止めてくれない。
 恋人という関係が追加されてから、特に家では全く遠慮しなくなってきた。しれっと「あなたが可愛いせいです」と責任転嫁してくるし、手に負えないこともしばしばだ。
 最終的に折れて受け入れてしまうのも原因だとわかってはいる。それでも……拒めなくなってしまう。
「や、もう、ほんとむり、だから……!」
 胸の尖りを摘み上げられ、抜けそうになる力を懸命に振り絞った。ようやく払い除けられたと安堵したのもつかの間、翠に両腕を縫いつけられてしまう。
「文秋……まだ、愛してほしいでしょう?」
 淡い緑に、深みが加わる。明らかにあふれる愛で、魅惑的に輝き出す。
 これだ。この瞳に、毎回丸め込まれてしまう。身も心も虜にせんとばかりに、宝石のような光を放つエメラルドに惹き込まれてしまう。
「だめだ……主の命令が、聞けないのか?」
「ベッドの上では対等でいたい。そう仰ったのは文秋ですよ?」
 実は腹黒なんじゃないかと裏付けるような言い回しに、一瞬言葉を詰まらせたのが運の尽きだった。
 躊躇なく差し込まれた舌が、今度は思考までもを奪い取るように余すところなく愛撫していく。翠の深いキスは、いつも簡単に理性を奪っていく。それだけうまいのか、自分が弱いだけなのか、わからない。
「大丈夫です。これ以上、負担はかけませんから」
 足を開かれても、抵抗する力はもう出てこない。つい数時間前までさんざん翠自身を埋め込まれた秘孔に、細い指が触れた。
「ちょっと、いつまでいちゃいちゃしてるわけ?」
 場に不釣り合いな第三者の声に、互いの動きが止まる。
 はっきりとした不快を露わにする兄を気に留める様子もなく、藍は呆れながら近寄ってくる。
「文秋の体調に左右する身体になったくせに、まだ無理させるつもり?」
 あれから、エメラルドの力は強まりも弱まりもせず、自身の中に存在し続けている。ブレスレット側が未だ曇ったままなのもあり、翠と藍は飲み込んだほうが本体となったのだろうと、ひとまずの結論を出していた。
 確かに、ブレスレットを持たずに出かけてみても問題なくついてくるし、以前に比べて護られている感覚も強い。共存しているという表現がしっくりくる状態にあった。
 代わりに、具合の良し悪しが翠にも伝染するようになった。例えば、起き上がるのも厳しいほど体調を崩すと翠もソファーでぐったりとしている。
 ただ、仕事熱心な翠は最近、そんな状態でも気力を振り絞り、本人いわく簡単な仕事なら片付けるようになっていた。むろん、そのたびに藍から突っ込まれている。
「ほんっと重すぎる愛なんだから」
 兄を大好きな弟に言われたら、いろんな意味で終わりだと思う。
「……もしかして、それを言うためだけに来たの?」
 頭上から感じる重圧を避けるように問うと、栗色の頭を左右に動かした。
「今日って大河(たいが)が石を見に来る日だったでしょ?」
 先週、平日の夜で構わないから連れて行ってほしいと後藤にお願いされて、三人で店を訪れた。たまたま藍も出勤していたということでついでに紹介する流れになったのだが、後藤はわりと藍を気に入ったようだった。
『いやー、オレ以上にストレートなタイプ初めて見ましたよ。藍くん、面白いですねぇ』
 藍もまんざらではない様子だった。似た者同士ゆえに惹かれ合うものがあったのかもしれない。
 後日改めて、よさそうな石を見てもらいたいと約束したところでその日はお開きになったのだが、それが今日だったのだ。
「時間までまだ余裕があるじゃないか。来るのが早すぎだ」
 完全に諦めた翠が、ベッドから下りて手早く身支度する。こっそり視線を投げてきた藍に軽く頭を下げた。
「そう? さっきの調子じゃ、大河が来てから慌てて準備するのが目に見えてるよ?」
 翠は無言でキッチンへと向かった。藍の優秀なストッパーぶりは、いつ見ても感心する。自分もこれくらいの強さを身につけるべきなのだが……惚れた弱みというのは厄介だと思う。
「それにしても、こうやって藍くんが催促に来るの珍しいね」
「だって、実家が天然石の店やってるっていうから、いいお得意様になる可能性もあるし。そういう客は大事にしないと」
 わざわざ言い訳がましく説明しているところがどうも引っかかる。探るように見つめていると居心地の悪さでも感じたのか、急に顔を逸らした。
「と、とにかく。そろそろ千晶の出勤時間だから行くけど、ちゃんと来ないと承知しないからね!」
 藍が消えたと同時に、いつもの朝食の準備が整った。翠の機嫌も戻っている。さすがにいつまでも引きずるほど子どもじゃない。
「全く、私もそこまで見境がないわけではないのに、全然わかっていないようですね」
 ……そうでもなかったみたいだ。
「俺は本当に助かったけどね」
「文秋さん……私の主なのに、藍の味方をなさるのですか」
 心から悲しそうな顔をしていたので、やれやれと頭を撫でてやった。……これも、ずっと閉じ込めてきた自分への想いが解放された影響だと思う。思いたい。
 翠の肩を掴んで引き寄せ、耳元に唇を寄せる。
「明日と明後日は何も予定ないし、ずっとふたりで過ごせるんだから……そんな顔するなよ」
 言ってから、今夜から明後日にかけて我が身に起こりそうなことを想像して若干の後悔が襲ったが、結局まあいいかと諦めてしまう。
 幸せそうな翠を見ている自分も、同じくらい幸せに感じているから。
 淡く輝くエメラルドに手を伸ばすと、あの日出会った時と同じ輝きを返してくれた。

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(画像省略)「おはようございます。文秋さん。具合はいかがですか?」 取り戻したい…

俺はエメラルドのご主人様じゃない!

#R18

俺はエメラルドのご主人様じゃない!

第10話 #R18

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「おはようございます。文秋さん。具合はいかがですか?」
 取り戻したいはずの朝がやってきた。意識はそこまで混濁していないのに、まだ夢を見ているらしい。
 上半身を起こした。風邪を引いていたのが嘘のように、気分がすっきりとしている。
「全然、大丈夫みたい」
「そうですか! ずっと眠っておられたので心配でしたが……安心いたしました」
 どうせなら答えてやろうと思っただけなのに、普通に返事が来た。
 改めて、柔らかな笑顔を見つめる。やがて訝しげな表情に変わり、首をかしげられた。
 次第に違和感を覚えていく。
 夢にしてはやけにリアルだし、身体に触れているものすべてにも、確かな質感がある。
「大丈夫ですか?」
 背中に触れる手のひらも、記憶の中と寸分違わない。
「……翠?」
「はい」
 ふたつの、淡く輝く緑がまっすぐに注がれる。
 頬に手を伸ばした。温度は感じない、だが夢ではありえない本物の感触だった。
「ほん、もの?」
 白い手袋を抜き取り、直に触れる。頬と変わらない感触が返ってくる。
「はい」
「夢じゃ、ないのか?」
「……確かに、戻りました。ただいま、と申し上げるべきでしょうか」
 眼差しが、秋の日差しを受けたように優しく煌めく。あの日、エメラルドに惹かれた時と同じような光を放っている。
 自分と一緒に窓の外にあったはずのブレスレットは、ベッドサイドに置かれていた。やはり、藍が来てくれていたみたいだ。
 エメラルドに輝きは、変わらず戻っていない。
 なのに、ただいまと彼は言う。視線を戻した先に、泣きそうな笑顔の彼がいる。
 目の前の光景を本当に信じていいのか、受け入れていいのか、迷いはまだ消えない。
 それでも、触れられている。声も聞こえている。夢で納得できるはずがなかった。
 勢いのままに抱きしめる。ないはずのぬくもりを確かめるように、力を込める。
「なんでだよ……なんで、普通に戻ってきてるんだよ……」
「私にも、よくわかりません」
「俺が、どんな気持ちでいたと思って……」
「……申し訳、ありません」
「もう、あんな無茶、絶対に……!」
 抱き返してきた腕の力に胸が震える。感覚に直せば永久にも長い時間を越えて戻ってきた翠のすべてを、ただ堪能する。
 向き直った瞬間に、自然とエメラルドにとらわれてしまう。妙に熱が秘められている気がして、さりげなさを装って逸らそうとした。
「逃げないでください」
 頬を包まれてしまった。ベッドに乗り上げて、距離を詰めてくる。
「確かめたいことが、ございます」
 背筋が粟立つほどに真剣な声音だった。吐き出す吐息が震える。必死に記憶を巻き戻して言葉の意味を探るが、引っかかるものはない。
「ほんとに、兄さんなの……?」
 翠の背中にかけられた弱々しい声が、流れていた空気を霧散させた。
「藍くん……」
 信じられない。藍の表情は固まっていた。
「小さな気を、感じたと思ったんだ。でも、気のせいだと、思って。期待したら……だめだって」
 声が震えている。翠がそばまで歩み寄り、少し乱暴に頭を撫でた。
「……戻ってこられた理由は、私にもわからないんだ。でも、ここにいる」
 無言で見上げた藍は堪えるように唇を震わせて、姿を消した。
『今日、絶対店に来なよ。来なかったら、承知しないから』
 藍も、同じ気持ちだった。化身ならいつ迎えてもおかしくない結末だからこそ、平常さを装って受け入れようとしていた。
 自分に向けていた言葉の数々を思い出して、胸が締めつけられそうになる。
「……文秋さん。朝食の準備をしますので、少々お待ちください」
 翠の言葉で我に返る。そうだ、出勤の準備をしなければならない。けれど。
「さっき話があるって言ってたけど、いいのか?」
「いえ、大丈夫です。……帰宅してからに、します」
 そこまで出し惜しみされると逆に気になってしまうのだが……答えは通勤中にもらった、後藤からの連絡で察してしまうこととなる。
『昨日、翠さんのスマホから休みますってメッセージ来てたんで、オレが連絡しておきました』
『うわ、そうだったのか! 悪い、助かった』
『代わりに、俺も愛してるって告白送ってきた理由を絶対、包み隠さず! 教えてくださいね。それも先輩のしわざだってのはわかってますから、逃げてもダメですよ』
 翠のスマートフォンを持っていた時に、そんなことを打ち込んだ気がする。一昨日の夜は正直、翠が戻ってきてほしいとひたすら祈っていた記憶だけがこびりついていて、あとは霧にでも巻き込まれたような状態だった。
『……文秋さん。その、お顔が赤いです。大丈夫ですか?』
 返事ができないでいると、ぼそっと翠の突っ込みが入った。
 言うな。しかもその言い方、もしかして理由をわかってないか?
 ……わかっていないほうが珍しいと、気づいてしまった。後藤に「告白する」と宣言を送っている以上、スマートフォンを見ないわけがない。
 ますます、熱が上がりそうになった。


 店に来るまで気持ちが落ち着かなくて大変だったと語った天谷は、翠の姿を見た瞬間に自分のことのように喜んでくれた。
「もう、絶対に無理だと思っていたから……奇跡としか、言いようがないわ」
 全く同じ感想だった。ブレスレットに残ったエメラルドは完全に輝きをなくしているのに、翠は全く変わらない姿で隣にいる。
「やっぱり、このエメラルドはただの石だよ。パワーストーンの力は完全に消えてる」
 ブレスレットを丹念に観察していた藍は、眉根を寄せたままこちらに返す。今度は自分の全身を訝しげに眺め始めた。
「でも、翠さんはここにいる。力があるということなのよね?」
 翠は曖昧に頷いた。
「自分のことながら、私も本当に謎なのです。以前よりも力は弱まったような気はいたしますが、使うこともできますし」
「あんた、一体何をやったの?」
 翠がいる手前、白状するのは勘弁願いたかったが、一斉に向けられた六つの目からは逃げられそうになかった。諦めて、エメラルドの欠片を飲み込み、ムーンストーンを口に含んで願い事をとなえたことを伝える。
「まさか、それで本当に願いが叶ったと、いうのかしら……?」
 信じられないとでも言いたげなつぶやきだったが、同じ気持ちだった。だが、パワーストーンの化身という非現実的な光景を目にしている以上、否定もできない。
「……だから、あんたからエメラルドの力を感じてたのか」
「俺、から?」
 翠も驚いている。
「前より弱いけど、感じるんだ。僕もこんな現象は初めてだから、理由とか全然わかんないけど……感じるよ」
 藍の言葉を噛み締めながら、腹部に手のひらを当てる。
 確かに、ムーンストーンはなくなっていた。無意識に飲み込んでしまった可能性もあるだろう。
 それでも、信じたかった。最後のチャンスを与えてくれたのだと思いたかった。
 あるいは、試練を乗り越えてみせると誓った覚悟が本物なのか、見定めるためかもしれない。
 どっちでも構わない。もう二度と、後悔はしたくない。
 肩に触れてきた翠の手に自らのものを重ね、緩く握る。
「……もらった奇跡を、無駄にしないよ。翠が護ってくれたように、俺も護るから」
 エメラルドが、大きく揺らめく。噛みしめるように頷いた。
「これじゃあ……もう、二人の反対なんてできないわね、藍?」
 小さな笑い声に、慌てて二人を振り向く。
 あたたかな微笑みを浮かべる天谷と、苦虫を噛みつぶしたような不機嫌顔の藍が並んでいる。正反対だが、自分たちの想いを完全に把握しきっているとわかる表情だった。
「でも、監視はやめないからね。ちょっとでも怠惰な言動を取ったりしたら承知しないから。兄さんが止めてもやめないよ」
「……ありがとう。まだ頼りない主だけど、藍くんに認めてもらえるように、頑張るよ」
 藍は身体ごとそっぽを向いた。照れ隠しなのは、誰の目から見ても明らかだった。
「天谷さんも、いろいろありがとうございます。これからも、また相談させてください」
「もちろんよ。お二人のことも、ずっと応援しているわ」
 純粋な気持ちに、お礼を言うのが精一杯だった。
「あ、そうだ。今度、俺の後輩連れてきますね。実家が天然石の店をやってるらしいので、きっと打ち解けると思いますよ。……翠のことも、知ってますから」
 一瞬目を見開いた天谷だったが、「楽しみにしています」と一言返してくれた。
「……兄さんを助けてくれて、ありがとう。文秋」
 店を出てからつぶやくように告げられた礼に驚いて、背後を振り返る。
 藍の姿はなかった。姿を消したまま佇んでいるのか翠に訊こうかと思ったが、頭を軽く下げるだけに留めておいた。
「弟まで名前呼びなんて、ちょっと妬けますね」
 少ししてからぼそりと嫉妬を露わにした翠に、突っ込む余裕はなかった。
 翠は多分、スマートフォンを確認している。自らへの返事を、読んでいる。
 ……帰ったら、文面では交わし合った想いと改めて向き合わねばならない。
 それでも、内にあるのは緊張だけだ。覚悟は、とうにできている。

  + + + +

 藍の願いでなければ、翠は仕事が終わったら一分一秒でも早い帰宅を催促したと思う。
 後藤は、今日は時間を取れないと告げたらあっさり納得してくれた。にやついた笑みが気がかりだったが、無駄な怪我は負いたくなかった。
 まるで、身体が微妙に浮いているように足元がおぼつかない。鼓動もずっと速い。いつもの調子で湯船に浸かったらのぼせそうになってしまった。せっかくの夕食も味が全然わからない。
「……文秋さん。そんな、あからさまに緊張なさらないでください」
 ついに、隣の翠から苦笑交じりの突っ込みが入ってしまった。
「ご、ごめん。こういうの、ほんと慣れてなくて……気分、悪いよな」
 だが、首を振った翠は歯切れの悪い物言いを繰り返している。訝しげに見つめると、目を逸らされた。
「……率直な感想で恐縮なのですが、文秋さんがあまりにも可愛らしいので、すでに我慢の限界を迎えそうです」
 観念したように飛び出した台詞に、一瞬思考が停止する。
 反射的に立ち上がりかけた身体は、背後から抱きしめられてしまった。
「申し訳ありません、文秋さん」
 予想外の謝罪に、間抜けな声が漏れる。
「今の私は、従者失格ですね。文秋さんの身体を労る余裕もありません。正直、情けないです」
「……風邪のことなら、すっかり忘れてたよ」
 日中は溜まっていた仕事を必死に片付け、夜は天谷の店で報告と、本当に濃い一日だった。
 翠から返ってきたのは短い否定だった。
「文秋さんと私のような事例は本当に聞いたことがないのです。予想もつかない事態が起きないとも限らない。ですから……本来ならば、しばらく様子を見るべきなのです。少しの負担もかけるべきではないと、わかっているのです」
 腕に、力が込められる。
「文秋さんを傷つけたくない。それなのに、私は……」
 こんな時ですら堂々と甘えていて、呑気な自分が恥ずかしい。本当に翠は、優秀な「従者」だ。
「俺は、大丈夫だよ」
 そんな翠にしてやれるのは、羞恥心を捨てて覚悟を示すことだった。
 自らの使命に蓋をして構わないと、主として告げることだった。
「全然根拠はないけど、大丈夫だって信じてる」
 翠に向き直り、安心させるために口端を持ち上げてみせる。
「実際、一日分溜まってた仕事をひたすら片付けてた疲れはあるけど、それだけなんだよ。変な感じとか全然しないし、ほんと普通。お前も嫌な予感とかしないだろ?」
「それは、確かに……しかし、藍は力が弱まっていると言っていましたから、信憑性は」
 唇に指を当てて、それ以上の言葉を封じた。そっと抱き寄せて耳朶に触れる。
「俺は、今すぐ話が聞きたい。……これは、命令だ」
 一瞬、息が詰まった。その力に心を震わせながら、ほんの少しの隙間も埋めるように、自分の熱が翠にも伝わるように、固く引き寄せる。
「文秋さん。朝の話の続きを、させてください」
 鼓膜にかかる囁きに、小さな声を上げながらひとつ頷いた。
「後藤様にお送りしていたメッセージを、読みました」
「……うん」
「あのお言葉は、本心と受け取ってよろしいのでしょうか? ……文秋さんの想いは私と同様だと、そう考えても、よろしいでしょうか?」
 よく聞くと、声は震えていた。
 翠も、緊張していた。同じだった。それだけなのに、胸の奥からあたたかいものが広がっていく。
 翠とまっすぐ向かい合う。風で揺れる木々のような揺らめきを、エメラルドは発していた。
「好きだ。これからもずっと、俺の隣にいてほしい」
 呆然としている翠の唇に一瞬触れて、胸元に頬をすり寄せた。
「文秋、さん……!」
 触れた箇所から伝わる細かな震えが、翠の内心を一番に表しているようだった。愛おしさのままに腕を回す。
「こうして抱きしめられる日が来るなんて、思いもしませんでした……絶対、叶わないものだと思って、私は……」
 互いに、さらに力を込める。想いがあふれて止まらない。身も心も、もっと翠を求めてしまう。
 宝物を扱うように頬に触れ、唇をふさぐ。重ね合わせるだけのそれはすぐに終わり、口内を柔らかいものが撫で回していく。
 呼吸のタイミングがわからないほどに、激しい。思わず無理やり顔を逸らす。
「ばか、がっつきすぎ……」
「申し訳、ありません。でも」
 もう、我慢ができない。
 敬語の取れた口調と掠れた声に意識をとられていると、噛みつくように再び奪われた。勢いのあまり身体が傾いで、ソファーに押し倒されてしまう。
「っは、ふ……ぅ、ん!」
 両肩を押さえ込まれ、完全に舌を絡め取られる。粘着質な音が絶えず鼓膜を愛撫し、余すところなく自らの舌をなぞろうとする動きに背筋が甘く痺れて、力が抜けていく。
「ずっと、こうしたかった」
 跨り、見下ろすふたつのエメラルドは穏やかな光ではなく、底の見えない深い緑で照らしていた。森の陰からこちらを狙いすます、鋭い双眸にも見える。
「本当に、愛しています。あなただけが、私のすべてです」
 身体が浮き上がった。いつぞやのように、寝室まで運ばれる。抵抗するものはすべて、とうに失せている。
 手袋が外された瞬間、背中にぞわりとした感触が走り抜けた。首筋に顔を寄せて、鋭い痛みを一瞬生み出す。
「……お前、どこでこんな知識、知ったんだよ」
 吸われた箇所をなぞる指がシャツの裾まで辿り着いた時に、つい尋ねてしまった。嫌なわけではもちろんないが、男同士の行為は初めてだからなおさら、恐怖を隠せない。
「不安に思われるのもわかりますが、お任せください」
 内心を読みきった台詞と共に、柔らかな笑みで見下される。
「絶対に、怖い思いはさせません」
「そ、んなこと言われても……っん!」
 裾から滑り込んだ両の手のひらが胸元を撫でた。そのまま何度も、円を描くように動き回る。
「胸、文秋さんは弱いんですね……」
 男は触られても何も感じないと思っていた常識が、覆されてしまう。
 引っ掻くように指先が掠めた時も、一際大きな悲鳴を上げてしまう。
「やめ、やだ……も、いじるな……!」
「でも、とても気持ちよさそうです。ね……?」
 言いながら片方を強めに摘まれ、もう片方を湿った感触に包まれた。溜め息にも似た声が鼻を抜ける。
 下半身の震えを止められない。熱が収束していくのを止められない。
「可愛いです、文秋さん……」
 うっとりと呟きながら、服の上から緩く反応を示している自身に触れる。形を確かめるように握り込まれた。手のひらが上下するたびに、ぴくりぴくりと腰が跳ねる。
「っあ、ん……!」
「大丈夫……逃げないで、私に委ねてください……」
 外気に晒されたそれに直接触れられた瞬間、吐息までもが震えた。快楽しか生まない手の動きに、羞恥も声も我慢する余裕すらない。粘着にまみれた音さえも、甘い痺れに変換されてしまう。
「す、い……も、いくぅ……っ!」
 先端を手のひらで撫でられ、乳首を強く吸われる。強い刺激に耐えられるはずもなかった。
 頭が一瞬白く弾ける。熱が吐き出されていくのを他人事のように感じながら、全身にかかった力が一気に抜ける。呼吸がまともにできない。
 何も考えられないくらい、それこそヒーリングの時のものとは比べられないほどの倦怠感が襲う。
「……文秋さん、とても色っぽくて、可愛くて……ずるいです」
 頬を愛おしそうに撫でる動きとは裏腹に、翠の表情から普段の柔和さは消えていた。
 余裕の全くなかったキスを思い出す。ずっとこうしたかったという言葉を思い出す。
「我慢、しなくていいよ」
 自然と、つぶやいていた。
「翠がどんな風にしてきても、全部受け止める」
 重い頭を持ち上げて、一瞬だけ唇に触れる。
「今は、俺たちはただの恋人同士だから……思うまま、してほしい。俺も、頑張る、から」
 のたうち回りたい気持ちを、ベッドに横たわり固く目を閉じて耐える。
 布の擦れる音が聞こえて、うっすらと開けた目を見張った。
 翠が、プレゼントした服に着替える時以外、決して脱ごうとしなかった執事服に手をかけていた。上着を取り、中のベストを外す。シャツのボタンを外そうとしたところで、そっと留めた。
「俺に、やらせて?」
 誠心誠意の奉仕を表した服を、すべて取り去る。
 改めて見る翠の裸体は、素人目で見ても惚れ惚れするほどに均衡のとれた美しさだった。中心で屹立しているものさえ、いやらしさをあまり感じない。
 そっと身を寄せる。この身体に抱きしめられ、護られてきたのだと思うだけで、喉の奥が震える。苦しくて愛しくて、同じように護りたいと心から思う。
 翠の中心に触れようとすると、やんわりと止められた。
「先程、言いましたよね? 愛してほしいと」
「い、言ったけど! 俺も」
「今夜は、すべて私にお任せいただきたいのです。……私が、どれほどにこの瞬間を求めていたかを、知っていただきたい」
 後半を耳に注ぎ込まれ、短い悲鳴が漏れる。
「す、翠……なんか、キャラ違う」
「そうでしょうか」
 どこか爽やかに答えながらも、ベッドに押し倒してくる。
「そうだとしたら、文秋さんのせいです。……本当に、限界です」
 いきなり、自身を濡れた感触が走った。翠に咥えられたのだとわかって頭を掴んでも、動きは止まらない。引きつった悲鳴がただ漏れるばかりだ。
「そ、んな……きた、ないだろ……!」
「いいえ。文秋さんは、きれいです」
 物語にしか出てこないような台詞を平気で返しながら、全体を柔らかいものが撫で回していく。形だけの拒否ばかりがこぼれる。もっとほしいと、揺れる腰が訴えている。
 自身から届く音で、達したばかりとは思えないほどに先走りがあふれていることを知り、熱が集中していく。手のひらすべてで扱かれているだけでも、大きさを増しているように聞こえてしまう。
「っ、あ!?」
 息が詰まった。ありえない箇所に、ありえない異物感がある。
「な、んでそんなと、こ……!」
「少しだけ、我慢してください」
 無理だ。中で指が動くたび、まともに呼吸ができないくらいに苦しい。
 名前を呼ばれて答えた唇を、緩く食まれた。伸ばされた舌は表面を愛撫するだけで、中には差し込まれない。
 心地よさに、少しずつ全身の力が抜けていく。その隙を狙ってか、埋め込まれた指が再び動き出す。
「絶対に、痛い思いはさせません。……私を、信じてください」
 何度も頷く。言葉通りにいつも護ってくれていた男を、信じないわけがない。
 一度引き抜かれ、再び侵入してきた指の威圧感が増した。一本増えたようだ。苦痛はだいぶ和らいできたものの、変な気持ち悪さは抜けない。
 中で指が折り曲げられた。ぼんやりそう思った瞬間だった。
 重ねられた唇の隙間から、男とは思えない高い声が、響いた。
「っな、に……!?」
 自分でもよくわからない。いやだと訴えようとしたが、翠は再度その箇所を擦り上げる。
「や、やめ……そこ、だめだ、って!」
「いいえ。むしろ、よいのです」
 歓喜さえ滲ませながら重点的に突かれ、押される。さっきとは違う意味で声が我慢できない。
 前を全く弄られていないのに、射精感がこみ上げる。意味のわからないまま欲には勝てず、再び熱を吐き出した。
「今の場所が、文秋さんが一番に感じるところです」
 それを、探していたというのか。まさか、男にもあるなんて。
「……文秋さん」
 呼吸がいくらか落ち着いたところで名前を呼ばれ、包装を開ける音で翠と目が合った。
 ただの男の顔がある。自らの欲に支配され、止めることもかなわないけれど、本気で拒否をすれば従うぎりぎりの理性も残している。わずかに下がった眉尻がそれを物語っているように見えた。
「……言っただろ? お前に、愛してほしいって」
 もちろん、意思に変わりはない。
 今は恋人という対等な立場なのだから、余計な気遣いはいらない。
「今だけ……『さん』は、取ってほしい」
「文秋、さん?」
「それ、いらない。名前だけを、呼んでよ」
 今のでなけなしの理性は吹き飛んだだろうと、頭のどこかで察知していた。
 翠自身が、一気に埋め込まれた。比べものにならない苦しさに、喉が一瞬詰まる。
「文秋、私を煽った、結果です……」
「まだ……こんなものじゃ、ないんだろ?」
 従順な裏にある翠の姿が、どんどん顕になっていく。貪欲に求めるだけの男へと変貌していく。
「っあ! ひ、ぁ……!」
 接合部から響く濡れた音と肌のぶつかり合う音、鼓膜を愛撫するような甘い囁きに全身が溶けてなくなりそうだった。本当に自分のものなのかわからない声を絶えずこぼして、快楽を受け止めるだけで精一杯だった。
 繋がれている手に力を込めると、同じ力を返してくれる。いつの間にか下りていた瞼を持ち上げると、薄闇の下でも美しく輝くエメラルドが待っていた。
「俺の、エメラルド、だ……きれいな、俺の……」
 二度と、曇った姿は見たくない。いつまでも、初めて見た時と変わらない輝きで魅了してほしい。癒やしてほしい。
 腹の底から、抗えない熱が押し寄せる。収束して、弾けようとする。
 声にならない悲鳴が、喉から吐き出された。腹に湿った感触が走り、意識が急速に霞んでいく。
「文秋、愛しています……もう、絶対に離れない……」
 俺もと、答えたつもりだった。
 唇と頬を撫でる感触に安堵しながら、繋がっていた糸を自ら切った。

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(画像省略) その日の夜に診察を受け、念のためと次の日も夕方まで経過を見た上で再…

俺はエメラルドのご主人様じゃない!

俺はエメラルドのご主人様じゃない!

第9話

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 その日の夜に診察を受け、念のためと次の日も夕方まで経過を見た上で再度診察を受けたが、軽い打撲以外の症状はなかった。
 担当した医者はしきりに首をかしげていた。衝突した車は四十キロほどのスピードを出していたと言う。運転手はぎりぎりでブレーキをかけたが間に合わず、確かに人のぶつかる感触があったと素直に証言してくれている。
 答えは自らの中でしか告げられなかった。
 翠が護ってくれたのだ。失うかもしれなかった命を救ってくれたのだ。
 だから、礼が言いたい。全力で抱きしめてやりたい。
 エメラルドのもう半分は、履いていた靴の中に落ちていた。ブレスレットと合わせてハンカチにくるみ、鞄の中にしまっている。
『本体が割れたり、浄化しても力が回復しなかったりすることはあるけど、それはパワーストーンとしての使命を最高の形で終えられた証だからいいんだ』
 藍の言葉がよみがえるたび、全身から熱が奪われる。それでも、敢えて信じないことにした。持ち主が必要だと強く願っているのだから、パワーが失われたなんてあるわけがない。
 水晶の力を借りれば、月光の力も借りれば、きっと翠は帰ってくる。
 その日のうちに帰宅許可をもらい、すぐに水晶の上に乗せる。スマートフォンで月の満ち欠けを調べると、満月は来週だった。
 石の状態からして、三日の浄化で足りないのは想像がついた。
 満月の前後まで続ければ、きっと戻ってきてくれる。確証なんてない。あるのは確固たる願いだけだ。
「藍くんが押しかけてきた時みたいだな。……でも、今度は耐えられる。お前が戻ってくるって信じながら、待つよ」
 ブレスレットを手に取って、額に押し当てて固く目を閉じた。
 翠が戻る以外の未来は絶対に認めない。こんな……こんな別れなんて、認めたくない。

  * * * *

 突然やってきたひとりきりの休日は、過ごし方がよくわからなかった。
 当たり前だったはずの朝でさえ、まるで他人の家にいるように戸惑っている。
 違和感を拭いきれない思いでブレスレットを窓辺からテーブルに移動させる。エメラルドの輝きは当然戻っていない。
 いつもの朝食を用意しようと冷蔵庫を開けたが、やる気が起きない。結局、ブラックコーヒーを淹れるだけで終わらせてしまった。
 具合が悪くてどうしようもない時を除いて、朝食をさぼったことはなかった。
 スマートフォンには、後藤をはじめとした後輩や同期、先輩からも気遣いのメッセージが届いていた。ありがたい気持ちで返事をしながら……ある名前で、止まる。
『浅黄さんが事故に遭ったと、マンションの知り合いの方に教えていただきました。藍もとても心配しています』
 藍までに心配をかけているなら、なおさら返事をしなければと思うのに……指が、動かない。
 きっと、藍がやってくる。必ず、エメラルドを確認するだろう。
 頭を振った。それは、認めているようなものだ。
 戻ってくる未来を信じている。信じているからこそ、逃げるべきではない。
 微妙に震える指でぎこちなくフリックしていく。送信ボタンを押す前に一瞬ためらい、スローモーションのように進めた。
『退院されたのとのことで、本当によかったです。もしご迷惑でなければ、夜に藍と少しだけお伺いしてもよろしいですか? というか、藍が今日に伺いたいと言って聞きません』
 最後の一文に、彼らしさが詰まっていた。つまり、拒否権は最初からない。
 返事をした後に、ブレスレットを手に取る。エメラルドを撫でるとくすぐったそうにしていたことを思い出して、親指で両方の表面をなぞった。
 返ってくる声は、ない。
 夜まで何をすればいいのだろう。買い物に出かける気力さえない。テレビをつけてみても、内容は全く頭に入ってこない。パソコンを起動すればパワーストーンの化身についての情報ばかりを検索して、予想通り見つからなかった。
 掃除をしようと思い立ったが、きれいな箇所しか見当たらなかった。……翠が、いつの間にか掃除の知識まで身につけていたのだ。
 ソファーに力なく座り込む。
 静寂が、全身に突き刺さる。部屋がやけに広く感じる。前は当たり前だった空気を吸うのが、苦しい。
 気づけば、窓の外はすっかり暗くなっていた。
 操られたようにガラスの器を持って、窓辺に置く。
 スマートフォンが、天谷からの連絡を知らせてくれた。軽く着替えを済ませたところで、ちょうどインターホンが鳴る。
「こんばんは。昨日の今日で本当にごめんなさい」
 いつもは下ろしたままの、緩いウェーブのかかった黒髪をサイドでまとめた天谷は、視線が合った瞬間に双眸を細めた。
「いえ、気にしないでください。俺こそ、わざわざ来ていただいてありがとうございます」
「本当に、大怪我じゃなくてよかったわ。不幸中の幸い、という感じかしら」
 身体的には、そうなのだろう。精神的には……逆かも、しれない。
「……やっぱり。やっぱり、兄さんの気配を感じない」
 背後で、訝しげな藍の声が響いた。すでに、リビングの方へと足を進めている。
 慌てて背中を追いかけた。寝室に続く引き戸を開けると、彼の手にガラスの器が乗せられていた。
 横顔だけでもわかるほどに、呆然としている。気力をすべて失ったような、普段の藍とは真逆の状態に置かれていた。
「どうしたの、藍」
 天谷の声が硬い。我に返ったようにわずかに身を動かした藍は、テーブルの上に器を置いた。
 短く息をのむ声が聞こえる。
「どうして、エメラルドが割れてるの」
 いつもの、責め立てるような口調ではなかった。努めて、冷静な姿を演じているのかもしれない。口の中に苦味が広がっていく。
「事故に、遭った時……翠が、護ってくれたんだ」
 鋭く名前を呼ばれて振り返ったと同時、視界が黒で染まった瞬間を昨日のことのように思い出す。
「翠が、車の前に現れて……俺を、かばってくれたんだ」
「だから、大怪我をしなくて済んだ……そういう、こと?」
 おそるおそる尋ねる天谷に、首を縦に振る。
「兄さんは、あんたに降りかかる災難を察知したんだよ」
 藍のつぶやきが、静かに響く。
 鈍い輝きに変化していたエメラルドを思い出した。まさか、あれが……その、証だった?
「そして、すべての力を使って……あんたを、護った」
 その意味は考えたくない。容赦なく貫いてくる視線を避けるように、首を振る。
「このエメラルドは、パワーストーンとしての役目を、終えたよ」
「そんなの、俺は信じてない」
 言葉でも、振り払う。
「ここにあるのは、ただの……エメラルドだ」
「俺は認めてない!」
 よろめいた身体を、両肩に触れた天谷が支えてくれる。
 目の前がちらつく。背中を優しく撫でる感触に合わせて、呼吸を繰り返す。
「割れたって、力が回復すれば戻ってくるんだろ? ほかにいい方法があるなら教えてよ、これじゃだめだって叱ってくれよ!」
「戻らないよ。方法もない」
 あくまで、藍は冷静だった。ブレスレットとエメラルドの欠片を手に取り、両方に指を這わせる。
「兄さんは……パワーストーンとして、使命を立派に務めたんだ。あんたは主として、ありがとうと言うべきじゃないの?」
「それは、翠に直接伝えたいんだ!」
 翠自身に受け止めてほしいと願っている。だからこそ、彼が戻ってくることを信じているんだ。
「天谷さん……天谷さんは何か知らないんですか? こうすれば力が絶対戻るっていう方法、ないんですか?」
 振り向いた先の天谷は、眉根をきつく寄せながら俯いて、首を振る。
 感情すべてが、現実を受け入れまいと拒否反応を起こしている。わずかな可能性を求めよと、理性に何度も訴える。
「前にした話、覚えてるよね。主と化身の、恋の話」
 藍の双眸は、一点の曇りもなく研ぎ澄まされた刃をまっすぐに構え、こちらに突きつけているようだった。
「今のあんたはまさに、その状態だよ。兄さんの後を追うって言い出してもおかしくない状態だ」
 エメラルドを握り込む。まるで、死者を弔うような儀式に見えてしまう。
「もし、本当にそんな道を選んだら……僕は、あんたを許さない」
 卑怯だ。強引に現実を飲み込ませ、逃げないようその場に打ちつける真似を、するなんて。
「藍、もう帰りましょう。大丈夫、浅黄さんは大丈夫だから」
 藍の肩がぴくりと震え、背後の天谷を捉える。眉間に一瞬、力が入ったように見えた。
「……先に、戻るよ」
 水晶の上に戻したブレスレットたちを見つめた格好のまま、姿が消えていく。
 ソファーに力なく座り込む。輝きが戻らないと宣言されたエメラルドをただ、呆然と見つめる。
「ごめんなさい、浅黄さん」
 天谷の声は微妙に震えていた。
「藍は本当に、浅黄さんを心配しているの。でも、お兄さんのこともあるから……今は、特に」
 言葉を返すだけの気力も、今はなかった。
「……また、お店にいらして。メッセージでもいいから、何でもお話しましょう。いつでも、お待ちしてます」
 静寂が、部屋を埋め尽くす。反射的にリモコンの赤いボタンを押して雑音を入れ、シャワーだけで入浴を済ませた。
 空腹を訴える音を静めるために、冷蔵庫に向かう。こんな状態でも呆れるほどに、身体は正直だ。
「……そういえば、朝に下ごしらえしてたっけ」
 事故のあった日に翠が用意していたものだ。ラップのかけられた、作り置き状態の料理たちを取り出す。
 最初は、本当に最低限の家事しかしない自分と同等レベルの知識だったのに、特にスマートフォンを持たせてからネットの賜物か、母親のような知恵を少しずつ身につけていた。
 きっと、嬉々として家事をやる化身など翠ぐらいだろう。
「今日も、うまいよ」
 ブレスレットに感想を告げる。
「また……食べたい。お前の、料理」
 声が震える。歯を食いしばって、こぼれ落ちそうなものを堰き止める。
 時間をかけて、すべての料理を平らげた。

  * * * *

 休み明けに出勤した自分を待っていたのは、終わり間近のプロジェクトに追われるメンバーだった。
 五体満足を祝う声もそこそこに、一日欠勤していたぶんも含めたタスクがずらりと目前に並べられる。
 むしろ、ありがたかった。無心で仕事に打ち込んでいれば、その間は忘れていられる。何も考えなくて済む。


「ただい……」
 途中で台詞を切って、無理やり苦笑しながらリビングに向かう。
『文秋さん。今日もお疲れ様でございました。すぐに夕飯の準備をしますから、ゆっくりご入浴ください』
 部屋の電気をつけると、翠の声が自然と脳内で再生される。
 テーブルに置いてあるブレスレットを、少し迷って窓際に移動させた。
 ベッドにスーツを脱ぎ捨てて、風呂場に向かった。ブレスレットをつけて出勤する時は、風呂を沸かすのだけは自分の仕事だった。
 だが、今日も湯船に浸かる気分にはなれなかった。
『本日は残業で遅い帰宅になりましたので、さらっと食べられるものにしました。午後九時以降の食事は肥満に繋がるので推奨されないんだそうですよ』
 今日もその時間に近くなったが、買ってきた弁当は好物の丼ものだった。
 なのに、全然箸が進まない。
 結局その弁当は冷蔵庫にしまって、インスタントの茶漬けにした。
 テレビをつけた。翠は好奇心が高いのか、基本的に選り好みせずどんな番組も楽しそうに観ていた。特に面白い番組には、放送が終わると感想をつぶやいていた。
 衝動的に消した。抱えた膝に顔を押しつける。
 翠が離れない。この家全体に翠と暮らした証が残りすぎて……簡単に、脳裏によみがえってしまう。
 諦めろと囁く声と、諦めるなと怒鳴る声が頭の中でせめぎ合って、決着のつかない争いを続けている。
 本心は……窓辺に置いたブレスレットが、物語っていた。
 わかっている。単なる悪あがきだと、本来なら翠が護ってくれたこの命をつないでいかねば、前を向かねばならないとわかっている。
 でも、それを受け入れるには、あまりにも時間が足りない。
 ふと、気配を感じて顔を上げた。
「……藍、くん」
 キッチンに近い場所で、どこか気まずそうに立ち尽くしている。普段とは程遠い様相だった。
「どうしたの? ……ああ、俺の監視に来たんだ?」
「そうだよ。ご飯もまともに食べてないみたいだし」
「大丈夫だよ。仕事忙しいし、迷惑かけたくないし」
 口を開きかけた藍は、再び閉じた。そのまま姿を消す。
「厳しいなぁ」
 その厳しさに甘えるしかできない自分の弱さに、嘲笑がこぼれた。

  + + + +

「文秋さん。短い間でしたが、お仕えできてとても幸せでした」
 目の前に突如現れた男は、突如別離の言葉を放った。
「このような形でおそばを離れますこと、本当に申し訳ございません。ですが……悔いは、ございません」
 突然すぎる。まだ何も言えていないのに、そばを離れることすら許していないのに。
 どうして声が出ないんだ。身体が動かないんだ。
 少し離れた場所に立ったまま、男はきれいなお辞儀を披露する。
「これからも文秋さんが幸福でいられますよう、陰ながら応援しております」
 再び向けられた男の顔には、満ち足りた笑みが刻まれていた。
 黒い背中が遠ざかっていく。
 喉をかきむしって、声が出るようにと祈った。膝を叩いて、足が動くようにと祈った。
 どれも届かない。人形にでもなってしまったように、小さくなっていく背中を見つめるしかできない。
 何を怯えている? ここでもがいていても、待っているのは後悔しかないとわかっていながら、なぜ?
 頬を濡れたものが走り抜ける。
 ――もう、後悔は訪れているんだ。


「あ、先輩。お疲れ様です。大丈夫っすか?」
 休憩所の扉が開く音で、こびり付いていた夢がさっと霧散する。
 俯いていた顔を持ち上げると、後藤が気遣うように見つめながらやって来た。隣に並んで、柵に寄りかかる。
「……大丈夫だよ。後藤も疲れてるだろ?」
「はは、さすがに。プロジェクト終わりかけだから仕方ないっすけどね」
 仕事があるほうがむしろありがたい。余計なことは、考えたくない。
「ブレスレットもないから、余計にお疲れですね。翠さん、まだお休み中なんですか?」
 頷く代わりに、苦笑してみせる。
「死ぬかもしれなかったのを軽傷で済ませてくれたから。もうちょっとかかるんじゃないかな」
 敢えて口端をさらに持ち上げてみせたが、後藤の表情はあまり変わらない。
 後藤に伝えたのは、「エメラルドが割れた」以外の内容だった。これ以上、事実を広めるのは……いやだった。
「ねえ、先輩」
 珍しく、後藤の声が硬い。
「翠さん、本当に休んでるだけなんですよね?」
 全身の体温が地に沈んでいくようだった。寄りかかっていなければ、しゃがみ込んでいた。
 何を言えば正解なのかわからなくなった。後藤は鋭いから、下手なことを返せば余計に泥沼と化してしまいそうで怖い。だが、沈黙も同じことだ。
「……そうだよ」
 結局、肯定を繰り返すしかできなかった。
 ひときわ強い風が背中を撫でる。今日は気持ちのいい秋晴れのはずなのに、冷たい。
「オレ、実は翠さんとID交換してるんです」
 沈黙に耐えきれず、席に戻ろうとした足を後藤の意外な告白が止めた。
 丸い瞳は、真摯な光だけを放っている。
「翠さんがやろうとしていることの結果を、心待ちにしているんです。だから……早く、よくなってほしいです」
「……何を、企んでるんだ?」
 問いかけても、教えてはもらえなかった。

  + + + +

 ようやく、プロジェクトが終わりを迎えた。特に大きなトラブルもなく無事に完遂できたことが本当に嬉しい。
 だが、それ以上にあるのは虚無感だった。胸元に巨大な穴が空いていて、どんな感情も容赦なく吸い寄せてしまう。
「浅黄さん! これからお疲れ様会やりますけど、もちろん来ますよね?」
 退社の準備を進めていると、メンバーの一人から笑顔で誘いを受けた。
 正直、乗り気ではない。だが、胸元に空いた暗い空間を、虚無感を、なくしたかった。酒の力を借りれば、なくせるかもしれない。
「あれ、先輩、確か用事あるって言ってませんでした?」
「えー! 浅黄さん、先週から特に頑張ってくれてたのに?」
「用事があるんだから仕方ないじゃないですか。ね、先輩?」
 混乱するばかりの自分を振り返った後藤の瞳には、はっきりとしたメッセージが込められていた。
 ――話を合わせろ。
 意思の強さに負けて首を縦に振ると、渋々ながらメンバーは諦めたようだった。
 後藤は後から合流する旨を告げると、無人の会議室へと案内した。
「後藤、一体どういうことだよ?」
「すみません、誰かが入ってくるかもしれないんで手短に。……先輩、帰ったら翠さんのスマホで、オレとのメッセージ見てください」
 全く予想のつかなかった内容を切り出されて、言葉を失う。
「何となく、そうしたほうがいい気がしたんです。今週入ってからの先輩、うまく言えないんですけど仕事に逃げてるように見えて、心配で」
 どこまでも、この男は見抜いてくる。握りしめていた拳を、そっと後ろ手に隠した。
「もしかしたら、翠さんが絡んでるんじゃないかって思って……翠さんずっといないから、オレ」
 続きを、後藤は打ち切った。どこまで、どこまで想像を広げている?
「とにかく、見てください。翠さんに怒られたら、オレにけしかけられたって言っといてください。オレが言うのもなんですけど……絶対、後悔しませんから」
 そのまま会議室を出て行く後藤を、呆然と見つめる。
 まるで、生まれた空洞を翠のスマートフォンが埋めてくれるとでも言いたげに聞こえた。


 翠のスマートフォンは、電源を切ったままリビングの棚に置いていた。
 初期化して処分してしまおうと何度も思った。その衝動を抑えるのは、電源をつけたあとのロック画面だった。
 解除に必要な番号は、翠の性格を考えると連番や同じ数字を並べたものではない。……ここまでは、いつも通りの推理だった。
 敢えて解かないことで、無意識に処分を防いでいたのかもしれない。
 端末を握りしめる。後藤の「後悔しない」という言葉が、ひどく心を揺らす。
 正しい行動がどれなのか、わからない。見るほうが後悔する可能性もある。
 でも……確かな形で残っている翠の「声」を目に入れろと催促されたら、乗ってしまったら、止めることはできない。
 ランダムな数字でないことを祈りながら、翠との日々を再生しながらヒントを探る。
 最初はあまりの非日常ぶりになかなか受け入れられなかった。
 拒絶から微妙な気持ちになったところで、力の使いすぎで集中的な浄化を必要とする事態になった。藍にも出会い頭怒られてしまった。
 そのおかげと言っていいのか……翠自身も大事にしたい存在なのだと気づいて、気づけば唯一無二のパートナーとして、認識するようになっていた。
 愛して、しまっていた。
 たまらず、抱えた膝に額を押しつける。いろんな翠の表情が脳裏を埋め尽くして、押しつぶされそうだ。
 自分に置き換えて、考えてみる。ランダムにしないなら、誕生日よりも秘匿性のある番号を選ぶなら……。
 弾かれたように顔を上げた。自分のスマートフォンを持ってきて、カレンダーを確認する。
 あんなにも使命感にあふれていた翠だからこそ、設定するだろう。そう信じながら予想した数字――エメラルドの化身として初めて出会った日を入力していく。
「はず、れた……」
 あの日は今日と同じ満月だった。それが、目印になった。
 本当に、翠らしい。
 震えそうになる指を堪えながら、メッセージアプリのアイコンに乗せる。確かに、「後藤大河」の文字と見慣れたアイコンが表示されていた。

『絶対恋人になれますよ! 先輩の浮かれ姿、楽しみにしてますから!』

 後藤のメッセージに、硬直してしまった。
 早とちりだと懸命に落ち着かせる。震える親指を、下にスワイプした。

『こんばんは。……私、決めました』
『お疲れです。何をです? もしかして告白とか?』
『はい。明日、文秋さんに想いを告げるつもりです』
『ま、マジっすか……! でも、前はしないって言ってたのに』
『……迷っていたのですが、もう吹っ切れました。想いが成就しなかったとしても、ずっとおそばにいると決めました』

 日付は、事故のあった前日だった。
 呼吸が乱れていく。さらに、会話を遡った。
 記憶が曖昧になるほど飲んだ日、後藤からの連れて帰る連絡の後に、会話が続いていた。

『さっきはお邪魔しました。あんな状態まで飲ませてしまってほんとすみません』
『いいえ。むしろ、新しい文秋さんを拝見できて嬉しいです』
『嬉しいって、ほんと翠さん先輩が好きだなぁー』
『大事な主ですからね』
『……あの、ぶっちゃけたこと訊いてもいいですか?』
『私で答えられることでしたら』
『翠さん、先輩のこと好きでしょ?』
『…………ええ。私はずっと、文秋さんのことを愛しています』

「うそ、だ。こんなの」
 何度も目を走らせる。
 何度も同じ答えが視界に返ってくる。
 愛を示す言葉が、翠の声で響き渡る。
 画面を見たまま、その場に座り込んだ。

『愛して……そんなに、好きなんですね。でも、いつから?』
『文秋さん、ブレスレットをとても大事にしてくださっているでしょう?』
『そう、っすね。先輩、アクセサリーとかつけるタイプじゃないんで、ブレスレット見た時はほんとびっくりしました。運命だと思った、って言ってましたね』
『……そんなことを、仰ってくださっていたんですね。でも、私も同じ気持ちです』

 胸に、突き刺さったような感覚が走った。

『実体化していない時から、文秋さんが大事にしてくださっている想いは伝わっておりました。そんな方に迎えていただけたことが本当に嬉しくて……運命だと、思いました』

 目に、熱いものが集まっていく。

『実体化してから、とても大事にしてくださる文秋さんはどのような方なのかと気になるようになって……ご自身よりも他の方を思いやる文秋さんを支えてさしあげたい。そう思うようになりました』
『……それ、翠さんしかできないですね』
『最初はだいぶ混乱させてしまいましたが……最近は、頼りにしてくださっているみたいです』
『普通にしてますよ! 先輩、何だかんだで翠さんといるの楽しそうですもん』
『後藤様のお墨付きなら、安心ですね』

 さらに会話を遡る。ほとんど、主である自分の話題だった。
 翠らしさが、さらに詰まっていた。確かな愛が、あふれていた。
「あ、ああ……」
 端末を抱き込んで、声にならない嗚咽をこぼす。
「好き、だ……俺も、お前が、好きだよ……」
 うわ言のように、何度も繰り返す。
 こんな形で知りたくなかった。いなくなってから想いが通じ合うなんて……通じ合った瞬間に、あふれて止まらなく、なるなんて。
 天谷の言う通りだった。我慢なんてできない。同じ想いと知ったら、留まれない。
 どうして、隣にいないんだ。こんなに、身が張り裂けそうなほどに求めてやまないのに!
 誰でもいい。何でもいい。試練ならいくらでも乗り越えてみせると約束するから、共に歩むチャンスを与えてほしい。
 翠のいない非日常は、耐えられない。
 キーボードを呼び出して文字を打ち込む。ベッドサイドのテーブルに置いていた器を持って窓辺に歩み寄った。
「ムーンストーンは、願い事、叶えてくれるんだよな……?」
 窓を開けた。肌寒くも感じる風が全身を通り過ぎる。
 美しい円を描いた月が、雲ひとつない灰混じりの黒い空を飾っている。身体ごと向けて目を閉じると、包み込むような熱が生まれてくるようだった。
 愛おしさを込めて、ふたつのエメラルドを撫でる。
 破片を淡い光の方向に掲げてから――自らの体内に流し込んだ。
「お前だけを、危険な目に遭わせたりしない。俺も、お前を護るから」
 だから、かえってきてほしい。また、隣にいてほしい。
 ムーンストーンを口の中に含む。
 ブレスレットを握りしめた両手を、額に押し当てて願いを繰り返す。どれくらいの時間が経ったのかわからなくなっても、身体の感覚がなくなる感覚が襲ってきても、決して止めなかった。
 背中に声をかけられた気がして、振り向こうとした瞬間に全身の力が抜けた。
 糸の切れる音が、脳裏に響いた。

  * * * *

 ふと、意識が浮上した。だが、目を開けられない。身体全体が沈み込んでいる。息を吸おうとした瞬間、咳き込んでしまった。
 ああ、風邪を引いてしまったんだ。ぼんやりと理解する。
 背中が柔らかい。もしかして、ベッドに寝ている? いつの間に?
「……す、い?」
 ほんの少しの期待を込めて名前をつぶやくも、返ってくる声はない。
 やっぱり、言い伝えは言い伝えのままだったのか。翠たちに出会えた奇跡は、二度と起こりはしないのか。
 とにかく、会社に連絡しなければ。
 懸命に手を伸ばして、ベッドサイドにあるスマートフォンを手に取った。後藤の名前が見えたことに気が緩んで、何とか病欠の連絡を入れる。
 かけられた布団が重りに感じる。このまま眠っていたいと悲鳴を上げている。
 もがく身体を、何かが押さえた。大丈夫、と声をかけられた気がした。
 ああ、きっと藍が呆れながら様子を見に来たんだ。自分がへたっているから、怒りたくても怒れずにいるのだろう。
「情けなくてごめん、藍くん……明日には、治るから……」
 頭を撫でられて、意識は再び闇へと沈んでいった。


 夢を見ていた。
 そうわかるのは、目を開けた時に、別の気配があったからだった。ずっと求めていたひとのものに、近かったからだ。
 首を動かして名前をつぶやいた。口がうまく動かない。
「はい」
 高くも低くもない、耳にやさしく響く声が返事をする。エメラルドがふたつ、うっすらと見えた気がした。やっぱり、都合のいい夢を見ている。
 片手を持ち上げるつもりで意識を送ると、少し硬い布に包み込まれた。いつも翠がしている、白い手袋に酷似した感触だった。
 本当に翠がいるみたいだ。隣で、手を握ってくれているみたいだ。
「おります。文秋さんのおかげで、私はここにおります」
 口元が緩んだ。現実も、思い描いた通りの展開になればいいのに。
 いや、してみせる。諦めた瞬間に足は止まってしまう。叶うまで、何度でも願いを込めるんだ。他の方法だってあるかもしれない。
 一番大事に想ってくれる彼を、今度こそ大事にしたいから。二度と後悔はしたくないから、素直に己の願望を受け入れて、素直に想いを告げるのだ。
「もう、いただいております。……私こそ、夢を見ているようです。このまま、覚めないでほしい……」
 唇に柔らかなものが触れる。少し口を開くと、さらに深く重なった。
 本当に幸せな夢を見ている。夢だからこそ許される内容だ。
 もう少し、この気分に浸らせてほしい。

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(画像省略) ムーンストーンのおかげか、悪夢にうなされることもなく眠ることはでき…

俺はエメラルドのご主人様じゃない!

俺はエメラルドのご主人様じゃない!

第8話

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 ムーンストーンのおかげか、悪夢にうなされることもなく眠ることはできた。
 それが過ぎれば、やってくるのは憂鬱な朝だった。
「文秋さん。朝です」
 耳元をくすぐる声は、いつも通りの柔らかいトーンだった。
 抵抗するように少しずつ瞼を持ち上げていくと、いつも通りの微笑みが待っていた。
 遠ざかる背中をぼんやり追いかける。
 布団から抜け出すのがひどく億劫に感じる。このままベッドの上で、何も考えず一日を過ごしたい。翠がいなければ、間違いなくそうしていた。
 いつも通りでないのは、自分だけだった。
 だが、最後だけがイレギュラーだった。
「文秋さん。大変申し訳ないのですが……本日も、お留守番でもよろしいでしょうか」
 着替え終わって、ベッドサイドに置いていたブレスレットをつけようとした時だった。
「……あ、別に、構わないよ」
 声の震えを抑えるのが精一杯だった。
 やっぱり、気にしていたんだ。キスまで交わしていれば、いくら懐の深い翠でも思うところがあるのは当然だ。
 どうすれば正解だったのだろう。いや、正解なんてなかった。探す余裕なんて欠片もなかった。
「本当に申し訳ありません。我儘をお聞き入れくださり、ありがとうございます」
 そして柔らかく抱きしめてくる。いつもは安堵感だけを与えてくれる力なのに、木の葉同士が擦れ合うようなざわめきも止まらなかった。


「先輩、もしかしなくても翠さんとケンカしました?」
 後藤がやたら強い口調で昼食に誘ってきた時点で、嫌な予感はしていた。時間帯にしては人の出入りがあまりない店を選んだのも、だ。
 注文を終えて、早速とばかりに身を乗り出してきた後藤に苦笑を返す。
「してないよ。するようなこともないし」
「つまり、何もなかったと?」
 頷くと、呆れたような溜め息をつかれた。
「……先輩、今どんな顔してるかわかってます? オレ、最初具合でも悪いんじゃないかって思ったぐらいでしたよ」
 鏡で見た時は、特別顔色も悪くなかった。目覚めた後こそ最悪だったが、睡眠自体はしっかり取れたから寝不足でもない。
「朝から全然笑ってないし、雰囲気ぴりぴりしてるし、周りも若干びびってます。病気にでもなったんじゃ、って心配してる人もいるし」
 それなら、思い当たる節はあった。
 とにかく、仕事に打ち込もうと思った。無心になれば余計な考え事が入り込む隙間はなくなる。
 考えてもわからない問題なら、放棄するしかない。
 自分の中では確かに成功していた方法だったが、周りから見たら失敗だったようだ。
「……それは、悪かった。気分転換も兼ねて誘ってくれたんだな」
「間違ってないですけど、翠さんと何があったのか心配してるのもありますよ」
 ちょうど、注文したものが運ばれてきた。ここで会話を打ち切ってしまおう。
「本当に何もないんだよ。……だから、もうこれ以上詮索するのはやめてほしい。頼むから」
 後藤の気持ちはありがたい。こうしてしつこいくらいに気にかけてくれるのは、相談が苦手な自分の性格を知った上での行動だともわかっている。
 でも、今回はどうにもならない。
「翠にキスをされた」と真実を告げれば、きっと後藤は翠に告白するべきだと返す。一番避けなければならない展開を、勧められる。主とパワーストーンの化身の悲恋話を伝えても、前向きなこの男はきっと二人なら大丈夫だと励ましてくる。今は、その励ましに応えられる気力はない。
 後藤は短い相槌をうつと、黙々と食べ始めた。諦めたように見えるが、考え込んでいるようにも見える。敢えて突っ込まずに無理やり食べ物を詰め込んでいく。
「今日は、オレと二人でとことん飲みましょう! 先輩」
 グラスの水を飲み干すと、予想外の誘いをかけてきた。
「オレたちが担当してるプロジェクトもちょうど落ち着いてますしね。タイミングいいなぁ」
「ちょ、ちょっと待てって。どうしてそうなるんだよ!」
 大体、酒は強くない。一度調子に乗って飲み過ぎて、えらく絡んでしまったらしい過去があってからなおさら、セーブするよう心がけてきた。
 後藤も酒が強くないことは知っているはず。何を考えているのか全くわからない。
「もう決定です。酒のせいにしていろいろ吐き出しちゃいましょう」
「言われて実行できるか!」
「先輩はしたほうがいいです」
 真剣な声と目に、一瞬喉が詰まる。
「翠さんにも言えないことなら、いない今のうちに吐き出しちゃったほうがいいです。オレはただ聞くだけだし、言っちゃっても酒のせいにできますから」
 要は、言いかたじゃないか。
 声には出さなかった。言っても、この様子では逃がしてくれそうにない。
「……無駄に終わると、思うけど。それでもいいなら、仕方ないから付き合ってやるよ」
 してやったりと笑う後藤に、こぼれるのは苦笑だけだった。

  + + + +

 目を開けると、ないはずの静寂が聞こえていた。
 背中がやけに柔らかい。あの居酒屋に寝られるようなスペースなどあっただろうか?
 上半身を起こすと、毎年会社でもらう壁掛けカレンダーが目に入った。……会社で?
「文秋さん、お加減はいかがですか?」
 横から聞こえるはずのない声が届いて、反射的に振り向こうとして失敗する。頭が痛い。
 背中を支えられながらゆっくり頭を持ち上げて、差し出してくれた水を少しずつ口に含んだ。冷えた感触が喉から通って、気分を一瞬爽快にしてくれる。
 自宅にいることは、わかった。
 だが、いつの間に? 最後の記憶は店にいて、だいぶ酒を飲んでしまっていた時だった。一緒にいた後藤は帰ったのか?
「……翠、今、何時?」
「夜中の二時です。十一時すぎにお帰りになってから、今の時間までずっと寝ておられました」
 回らない頭を両の手のひらに預けながら、覚えている範囲で記憶を巻き戻す。
 いつの間にか個室の部屋を予約していた後藤と、本当に普通の飲み会が始まった。翠のこととは全く関係のない話から始まり、拍子抜けしながらも少しずつ緊張は解けて、アルコールのせいもあって気分は上昇していった。
 後藤が珍しく、自らの恋愛の話をしてくれていた。実家が天然石を売っていると知った女性がやたら宝石で有名な石をねだるようになってきて、即別れたという内容だった。それ以来、実家の仕事については極力口にしないようにしてきたらしい。
 それから……記憶が、さらに曖昧になっている。翠に対して罵倒か悪口か愚痴かわからない内容を漏らしていたり、やたら後藤に質問をしていた気もする。もしかしたら泣いてもいたかもしれない。
 とにかく記憶が途切れ途切れで、それらも正しいのか自信はない。酒の飲み過ぎを避ける原因になった状態と全く同じだ。
 後藤に詳細を確認するべきか敢えてしないべきか、とても迷う。
「……もしかして、後藤が送ってくれたのかな」
「はい。飲ませすぎてしまって申し訳ないと仰っておりました」
 それでも、迷惑をかけてしまったのは確かだ。
「翠も、ごめん。酔っぱらいの面倒なんか見させちゃって」
「いいえ。文秋さんの新しい面を拝見できて、むしろ嬉しかったです」
「また、そういう言い方する……」
 天然なのか優しさなのかわからないが、内心救われる。背中を撫でる手のひらにも、とてもほっとする。
 ……いや、大事なことを忘れていた。
「変なこと言ったりしてなかった、よな?」
 おそるおそる顔だけを向けると、翠が変わらない微笑みを返してくれる。
「大丈夫です。整合性は取れていませんでしたが、それも酒に酔った方の特徴でしょう」
「いや、待って。その大丈夫が、全然信用できない。怖いんだけど」
 勢いあまって告白まがいのことをしてしまった可能性もありうる。
 足元が真っ暗になった気がした。「やたら人に絡む」という酒癖にこれほどの恐怖を感じる日がやってくるなんて、やっぱり酒は何が何でもセーブしないといけない。
 翠は少しだけ眉尻を下げた。
「ほとんど、言葉にならない言葉を仰っておられました。私がベッドまでお連れした際には寝言のような状態でしたし、わからないと言ったほうが正確でしたね」
「それなら、いい。むしろよかった」
 余計な力が抜けたら、頭痛が再発してきた。思わず眉間を手の甲に押しつけると、背中の感触が頭に移動した。
「頭痛がひどいですか?」
「う、ん……でも、仕方ないよ」
「少しなら、和らぐといいのですが……」
 頭の中に、じんわりとした熱が広がっていくような感覚が走る。鐘を激しく打ち鳴らすような痛みが少しずつ引いていく。
「いかがですか?」
 呆然と顔を上げて、翠を見つめた。
「だいぶ、よくなった。こういう痛みも取れるんだ?」
「症状によっては厳しいですが、軽くする程度なら」
 これなら、シャワーも軽く浴びられる。
「ありがとう。浄化はしなくて大丈夫?」
「ええ。本日はずっと家におりましたし」
 そういえば、どうして留守番を願い出たのだろう。ある意味自分も助かったが、今の全く変わらない言動を見る限り、昨夜のことは気にしていないようだった。
 結局、振り回されているのはひとりしかいない。
 翠の手を借りてベッドから降り、浴室に向かうところで名前を呼ばれた。
「……あの、文秋さんは」
 翠の眉間に、深い皺が刻まれる。
「どうか、したのか?」
「私の存在は……文秋さんにとって迷惑ではありませんか?」
 どうして、いきなりこんな質問をされるのかわからなかった。
「どういう、ことだよ?」
 近寄って訊き返すが、表情はますます影を濃くしていく。
 真意を探りたかった。
 どんな言葉をかければいい。
「私は、文秋さんと共にいても、いいのでしょうか」
 自らに問いかけるような内容だった。こんなに弱気な翠は初めてだった。
 珍しく留守番を申し出た理由を、改めて考える。他に考えられるとしたら、何だ。
「……お前、もしかして藍くんと、何かあった?」
 あれだけ取り乱した様子を見せてしまっていれば、藍に問いつめようと考えてもおかしくない。
 身体の内に、ひどく冷えたものを流された気がした。吐露した翠への想いまでは、さすがに伝えていないと信じたい。
 翠は無言のまま、縋りついてきた。幾度となく抱きしめられてきた自分には、いつもと違うのがわかる。
 初めて、翠の裏側に触れた気がした。抗えない愛おしさがこみ上げる。
 背中に腕を回して、翠がするように緩く撫でる。少しでも彼の気が紛れるようにと祈りを込めて、何度も繰り返す。
 悲しさと穏やかさが同居した、不思議な時間だった。この時間がもっと続けばいいのにと、叶わない願いを込めてしまう。
 酒が残っているせいだ。酒の力で、気持ちが大きくなってしまっているだけだ。だからもう少し、浸らせてほしい。
「……ありがとう、ございました」
 気づけば、時間は終わりを迎えていた。
 向かい合った翠は何かを堪えるように、相変わらず眉根を寄せている。泣き笑いにも見えた。
 背中を向けてしまった彼には、これ以上の追求はできそうになかった。

  + + + +

 通勤中、スマートフォンを取り出したと同時に振動が来た。連絡を取ろうと考えていた相手からのメッセージ通知に、すぐさま指をスワイプする。
『先輩、おはようございます。具合は大丈夫ですか?』
『何とかね。昨日送ってくれたみたいで、迷惑かけて悪かった』
『気にしないでください。誘ったのはオレですしね』
『……あの、さ。俺、全然記憶ないんだけど……どんなこと、言ってた?』
『オレも酒入ってたし、全然覚えてませんよ』
 明らかな嘘だった。あくまで聞き役に終始するつもりらしい。拍子抜けはしたが、これはきっと「知らないままでいろ」というお告げなのかもしれない。
『翠さんはなんか言ってました?』
『……なんで、そこで翠が出てくるんだよ』
 気持ち端末の画面を身体に寄せる。極力見ないよう努めてくれてはいるのだが、念のためだ。
『先輩、酒が入ると結構積極的なんだなーってわかったんで、その勢いで! みたいな?』
『あるわけないだろ!』
 面と向かっての会話でなくて本当によかった。頬が熱いから、きっと赤くなってしまっている。絶対見られたくない。
『そっかー。残念』
 一体どんなハプニングを期待しているのやら……呆れながらも、画面を消してポケットにしまう。

「文秋さん。今夜、お話させていただきたいことがございます。少しだけ、お時間をください」

 ある意味ハプニングとも取れることは、今朝に起こっていた。
 家を出る前に、真剣な顔をして告げられた言葉が頭の片隅にこびりついている。
 正直、恐怖しかなかった。
 ――もう仕えるのをやめたい。姿を消した状態で、あくまで普通のパワーストーンとして護るだけに務めたい。昨日の酔っぱらい姿がやっぱり我慢ならなかった。
 ネガティブな内容しか浮かばず、こぼれそうな溜め息を幾度となく我慢している。マイナス思考を吹き飛ばしてくれるパワーストーンがほしいと、つい願いたくなってしまった。
 しかし、こんな日に限って次から次へと仕事が舞い込んで、時間の経過が異様に早く感じてしまう。
 ようやく一息つけた頃には、あっという間に午後を迎えていた。
『文秋さん、大丈夫ですか?』
 喫煙所の階段にぐったりと座り込むと、翠の労るような声が響いた。片手を軽く左右に振ってみせる。若干残っている二日酔いのせいもあるから、仕方ない。
『肉体疲労も回復できる力が私にあればよかったのですが……お役に立てず、申し訳ございません』
「ばか、今でも充分助かってるんだからそういうこと言うなって。っていうかそんな力まであったら毎日浄化しても足りないぞ」
 苦笑にも聞こえる小さな笑い声が聞こえた。
『あの、今朝申し上げたことですが……今夜でなくとも、私は構いませんよ。今日はゆっくりお休みになったほうがよろしいかと』
「大丈夫だよ。残業が長引いたりしたらさすがに考えるけど」
『……承知いたしました。しかし、本当にご無理はなさらないでください』
 頷いて、おまじないのようにエメラルドをひと撫でしかけ……途中で止まる。
 気のせいか、微妙に輝きが曇っているように見えた。
 別の社員がタイミング悪くやってきてしまい、翠に調子を訊きそびれてしまう。あの日を彷彿させる、隠すのも難しいほどの不調ぶりは見られないので最悪の事態だけはないと思いたい。
 今日は帰ったら浄化を忘れないようにしよう。
 改めて気合いを入れ、残りのタスクを黙々と処理していった。


 一時間ほどの残業で、今日中に片づけねばならない仕事は終えた。
 未だ必死にパソコンと格闘している後藤や他の残業組に一言ねぎらいつつ、自分は翠から労りの言葉をもらいながら退社する。
 会社を出ると一気に疲労が襲ってきた。やっぱり、話を聞くのは明日にしてもらうべきか。だが、あの剣幕は先延ばしにしてはならない雰囲気だった。
 悩みながらも、ふとエメラルドの曇りを思い出して、腕を掲げてみる。
 明らかに、先程よりも濃くなっていた。あの時と同じくらいの様相に、思わず翠の名前をつぶやいてしまった。
『……文秋さん。どうも、嫌な予感がいたします』
 翠から返ってきたのは、緊迫した声だった。
『気をつけてください。はっきりとしたことが言えず申し訳ないのですが、得体の知れない気持ち悪さを感じます』
 いきなりの展開に理解が追いつかない。どう気をつければいいのか、とりあえず神経を周りに散らしながら足を進めていく。背中から伝わってくる翠の緊張が、冗談で済ますなと警告する。
 駅前に近づくにつれ、オフィス街から飲食店や居酒屋の目立つ光景へと変化していく。駅へは横断歩道か歩道橋を渡らないと辿り着けない。
 当然、後者を選んだ。何事もなく駅に到着し、電車に乗り込む。
 乗車中も、映画のような展開――テロリストに車両を占領された、爆破予告があった、みたいなベタなものしか思い浮かばない――が訪れるのではと、思考を飛躍させてみたが当然起こりもしない。
 最寄り駅を後にする頃には、疲労も相まって神経がゆるんでいた。どこかぼんやりした頭で駅前を抜け、人通りの少ない住宅街を進んでいく。

 背後から鋭く名前を呼ばれたが、どこか他人事のように聞いていた。
 視界の左側を黒い影が横切る。空気を切り裂くような甲高い音が鼓膜を襲い、全身を殴られたような衝撃が襲った。
 何が起きたのか飲み込めず、その場に座り込んだまま呆然と前方を見つめる。
 切迫した声をかけられた方向を見ると、二つのまばゆい光に照らされていた。大丈夫ですか、と繰り返し尋ねられていることに気づいて、手をついて立ち上がる。指に当たった感触を確認するとスマートフォンだった。
 光の正体は青い車だった。車に横から衝突させられたのだと、やっと現状を把握する。
 改めて全身を軽く動かしてみる。一瞬の衝撃に息が詰まりかけたものの、目立つ怪我はなかった。腕や腰あたりに鈍い痛みを感じるだけだ。
 二つのサイレンが近づき、止まる。
 実況見分で完全にこちら側が被害者だと証明されたところで、病院で診察を受けることになった。誘われるままに乗り込む。
 現実感が未だ欠けていた。行動する自分を、もうひとりの自分が見下ろしているような感覚だった。
 同行者の存在を尋ねられる。首を振りかけて……視界に、色が戻った。

「……翠?」

 名前をつぶやいても、答える声は響いてこない。
 もう一度、呼びかける。
 聞こえない。あの低音がなぜか、返ってこない。
 救急隊員が、つぶやいた名前をしきりに呼びかけているので、勘違いで誤魔化すことにした。

 敢えて、何も答えないようにしているんだろう?
 すべてが終わって家に帰れば、夕飯の支度を手際よく進めてくれて、風呂から上がればおいしい料理たちが待っている。そんな夜がやってくる。
 わかっているのに、どうして恐怖に怯えるような心地が抜けないのだろう。
 左腕につけたブレスレットを確認して、目を見開く。
 エメラルドが、半月のように欠けていた。一切の輝きも、消えていた。

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(画像省略)「そっかー、翠さんてメシ食えないんですね。腹減らないってこと?」「空…

俺はエメラルドのご主人様じゃない!

俺はエメラルドのご主人様じゃない!

第7話

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「そっかー、翠さんてメシ食えないんですね。腹減らないってこと?」
「空腹、という概念がありません。たまにミネラルウォーターをいただきますが、自らの浄化用ですね」
「へえ、面白いな~」
 何だろう、この光景。
 三人で話したいという後藤の申し出で実現した飲み会だったが、スーツ姿の男二人と居酒屋に似つかわしくない執事服姿の男一人という珍妙な構成に、思わず突っ込まずにはいられない。
 ふと、翠の姿が消えた。瞬きほどの時間の後に引き戸が開かれ、注文したものが運ばれてくる。
「この瞬間はちょっと緊張しますね」
 ここはかつて、翠がうっかり姿を現してしまった居酒屋だった。社員以外に見つかってはいなかったが、どうしても慎重にならざるを得ない。
「会社近くで個室のある飲み屋ってここぐらいしかなくって……すいません、翠さん」
 後藤が申し訳なさそうに頭を掻いた。
「とんでもございません。あれは完全に私の落ち度ですから」
「今考えると、まるで映画のワンシーンみたいでカッコよかったっすけどね」
 心の中で首を縦に振る。
 あくまで自然に高野の手を退ける手際、焦燥など一切見せず、本当にその理由なのだと納得させる冷静な物言い……最後まで、スマートだった。
 顔に似合った物腰を披露すれば、女性があれだけ騒ぐのも今はわかる。
「それにしても、後藤んちの実家が天然石を売ってる店やってるとはなぁ」
 道理で、パワーストーンについて馬鹿にしたりしなかったわけだ。
「あんまり興味なかったんですよ。でも、今度実家帰ったらいろいろ見てみようかなって思ってます」
「俺がブレスレット買った店もおすすめしとくよ」
「お、じゃあ今度紹介してくださいよ」
 縁がつながっていく。不思議な感覚だった。
 ブレスレットを鞄にしまってトイレに立つと、後藤もついてきた。酒でうっすら染まった頬を持ち上げながら見つめてくる。
「先輩、やっぱり翠さんは惚れてますよ。あんなに甲斐甲斐しく世話するなんて、普通ないですって」
「……もしかして、今回の飲み会の目的はそれを見極めるためか」
「翠さんとじっくり話してみたかったのもありますよ。会社だと難しいですし」
 一度失態を犯しているのもあってか、翠は本当にそばに控えているのかわからないほどの空気感を醸し出している。後藤もこちらの事情を察して表面上は何ら変わりのない態度で接してくれているのだが、内心では気になって仕方なかったらしい。
「ジャケット脱がせてもらうのなんて、生で見たの初めてですよ。あ、あと食べかすついてるって紙で拭き取ってたやつ! あんなことまでできちゃうんだーって」
「あ、あの拭くやつは俺も初めてされたんだよ!」
 しかも爽やかな微笑みのおまけつきで、場所が場所でなかったら高速で逃げ出していたと思う。
「オレ先輩のこと大好きですけど、さすがにあれはできないな~。じゃあ何で翠さんはできるのかっつったらもう、愛で決まりでしょ!」
 笑いながら後藤は先に出ていく。酒のせいで厄介さに拍車がかかっている。これ以上からかわれる前にお開きにしてしまおう。
 手を洗い終えたところで、ポケットに入れていたスマートフォンが震えた。
『お時間のある時に、閉店時間後にお越しいただけますか? できれば、翠さんがいらっしゃらない時に』
 通知の主は天谷だった。
 翠抜きで話がしたいとは、大事な内容なのだろうか……。
 すぐに思いつく理由は、藍だった。あれから全く姿を現さなくなってしまい、密かに心配していた。「藍のことは気にしなくても大丈夫」と一見素知らぬ様子の翠も、内心は同じ思いでいるはずだ。
 タイミング的にはちょうどいい。改めて連絡する旨を伝えて戻ると、二人もスマートフォンを取り出していた。
「お帰りなさいませ、文秋さん」
「先輩、そろそろお開きにしますか?」
「ああ。俺もそのつもりだったからいいよ」
 翠からスマートフォンを受け取って鞄にしまうと、後藤の不思議そうな視線とぶつかった。
「翠さんのスマホって、先輩管理なんですか?」
「ああ、違う違う。……こういうこと」 
 たまたま手にしていた伝票を翠に渡すと、意図を理解した彼の姿が消える。後藤が短く悲鳴を上げた。
「で、伝票浮いてる!」
「消えるのは、あくまで自分の姿だけみたいなんだよ。俺も最初見た時はびっくりした」
 同じ理由で、最初から身につけている以外の服を着せて消えると、本物の透明人間が完成する。こちらの世界に関わるものは決して消せないらしい。
「外に出る時は別に持っていかなくてもいいんじゃ、って言ったんだけど、メモとかしたい時にないと困るんだって」
 その証拠に、本当に時々だが会社のデスクの下に潜ってこっそりいじっている時がある。傍から見ると白い光が浮いている怪奇現象のような光景だが、意外とバレていない。心臓にはだいぶ負担がかかっている。
「なるほどなるほど、そういう理由ならよかったです」
 何がよかったのか、理由は教えてもらえなかった。

  * * * *

BANDE STONE(バンデ ストーン)」に足を運べたのは、あの飲み会から次の週になってしまった。
 翠は「休息日」を理由にいない。生活スタイルを以前と同様の形に戻そうと提案した際、休息日はいらないとずいぶん粘られた。半ば強引に納得してもらったが、撤廃させようと画策している雰囲気は時々伝わってくる。
 大事にしたい気持ちはもちろんあるが、好きな人がずっとそばにいると落ち着かなくて仕方ない。そういう意味でも「休息日」は必要だった。
 駅についたところで、天谷に連絡する。扉の鍵を開けておいてくれるらしい。
「浅黄さん、いらっしゃい。変なお願いをきいてくださって、ありがとう」
「いえ。俺も話をしたいと思ってたので、ちょうどよかったです」
 やっぱり、この店はほっとする。ゆっくり石を見たいなといつも思うのだが、八時半に閉店なために平日は難しいことが多いし、土曜日と祝日は客足が増えるからやっぱり難しい。
「ら、藍くん?」
 天谷の隣に現れた、あの日振りの青年の姿をまじまじと見つめる。
「何びっくりしてるの? 僕だってここの従業員だもん。いてもおかしくないでしょ」
「いや、そうなんだけど……ここで見るのは初めてだから」
 ということは、藍の本体もここにあるということだ。気になってわずかに視線を四方に配るが、それらしいものは見当たらなかった。
「浅黄さん、藍の本体が気になるの?」
 小さく笑いながらズバリ指摘されてしまった。
「あ、バレました?」
 天谷はカウンターの裏で身を屈めると、白い布に包まれたものを取り出してテーブルに載せた。
 思わず、息を呑んだ。
 覆いを外した中には、正方形の透明なケースに囲まれた、透明感のある石が鎮座していた。
「これ、もしかして原石なんですか?」
「そう。とっても綺麗でしょう?」
 自然に囲まれた湖を連想させる、透き通った濃い目のブルーはまさに生まれたままの宝石だった。水色の水晶と言われたら、知らない人は納得してしまうだろう。
「僕の本体鑑賞会はもういいでしょ。あんたをここに呼んだのは話があるからなんだよ」
「天谷さんじゃなくて、藍くんが?」
 勧められた椅子に、背筋を伸ばして腰掛けてしまう。あまりよくなさそうな話題と想像するのは、単なる邪推だろうか。
 原石をしまった天谷を横目で確認してから、藍は軽くこちらを睨みつけてくる。
「その前に確認だけど……あんた、兄さんのことどう思ってるの? ほんとは」
 まさかの質問だった。思わず喉を一度鳴らして、声を絞り出す。
「この間言った通り、大事な存在だよ」
「本当は好きなんでしょ?」
 見抜かれて、いたと言うのか。
「大事だっていうのは嘘じゃない。でも、恋愛感情も持ってる。間違ってないよね」
 否定したくても、これほどに断言されたら……できない。意味がない。
 短く溜め息をつく藍の隣で、天谷はどこか嬉しそうにピンクの唇を持ち上げている。
「で、告白するつもりなの」
「い、いや。するつもりはないよ」
 意外だったのか、原石と同じ色の双眸が訝しげに細められる。
「翠はただ仕事熱心なだけだって知ってるから。言わなくても、答えはわかりきってる」
「……そう、かしら」
 天谷はわずかに眉根を寄せて、首をかしげた。
「ふーん。意外と臆病なんだね」
「うん。でも、今本当にいい雰囲気だし、それをわざわざ壊す理由もないだろ?」
 瞬きなしにしばらく見つめてきた藍は、納得したように頷いた。
「なら、その意識をずっと保っておくことを勧めるよ。ちょっと手間が省けたかな」
 視線が外れる。どこか彼方を見つめる横顔は、苦い過去を振り返るような物悲しさを含んでいた。眺めているだけで胸が締めつけられそうだ。
「あんたみたいに、僕たち化身に恋をする人間は過去にもたくさんいたよ」
 驚いたが、特に男女の主従関係ならありえない話ではない。常にそばにいて、「主を守るのが使命」の意識のもとで行動されれば、恋情が生まれてもおかしくはない。
「めでたく結ばれた二人も多かったよ。でも、その後もずっと幸せでいられたと思う?」
 こちらを振り向いた藍は、今にも泣きそうに口元を歪めていた。
「僕たちはね、人間じゃないんだ。外見はそっくりでも、違うんだよ。これ以上背も伸びないし、見た目だって変わらない」
 心臓がいやな音で脈打ち始める。膝の上に置いた両手を、固く握りしめた。
「人間側が、そんな僕らを見て耐えられなくなっていくんだ。好きでいればいるほど苦しんでもがいて……最終的に、壊れる」
 背中がすうっと冷えた心地がした。
 出会った時は互いに同じくらいの年格好でも、人間は年を重ねるごとに外見も重ねていく。決して抗えない、自然の摂理だ。
 化身は、その摂理に当てはまらない。出会った時と全く変わらない外見のまま、隣にいるのだ。
 恋人同士になった自分たちの、何年も後の未来を想像した。
 果たして、仲睦まじく笑い合っていられるのか?
 心からの笑顔を浮かべていられるのか?
「僕らのほうも、そうなってしまった仲間がいっぱいいた。本体を破壊されて強制的に消滅させられたり、中には……主を、衝動的に殺めてしまったことも……あったって」
 思わず、両腕を抱きしめる。天谷が、苦痛に耐えるように固く目を閉じた。
 想像以上の、世界だった。神秘的な雰囲気に惹かれ、時には宝石に匹敵するような輝きで魅了さえするパワーストーンからは考えられない、まさに裏の歴史だった。
「みんながみんな、そういう結末ばかりを迎えたわけじゃないよ。でも、ほんの一握りだ。それだけ主と僕らが恋人同士になるっていうのは……残酷なんだ」
 愛さえあれば二人で生きていける。そんな単純できらきらとした、夢の詰まった話ではない。
 頂点が見えないほどにそびえ立つ試練を乗り越えられるほどの覚悟がなければ、幸福は得られない。藍は、そう告げているようにも見えた。
「僕らにとって一番悲しいのは、望まない形で使命を全うできないことだ」
 藍の拳が、固く握りしめられる。
「本体が割れたり、浄化しても力が回復しなかったりすることはあるけど、それはパワーストーンとしての使命を最高の形で終えられた証だからいいんだ。そうでない形で消滅するのは……つらい」
 こちらを見つめる藍からは、いつもの刺々しい雰囲気はまるでなかった。自らの思いをわかってほしいという切望だけがただ、存在している。
「僕は兄さんが大事だけど、それだけが理由じゃない。主であるあんたにも、傷ついてほしくないんだよ」
 天谷がかつて教えてくれた、自分のために翠の宿るエメラルドを選んでくれた話を思い出し、目の奥が熱くなる。
 藍も兄に負けないくらい、優しい。主である人間を第一に考えてくれている。
 常に厳しい態度だった理由が、ようやくわかった気がした。
「……でも、藍。私はやっぱり、否定だけもできないの」
 ずっと黙って聞いていた天谷の言葉に、藍はただ首を振った。
「またそれ? どっちも幸せになれないのに、千晶はいいって言うの」
「本気で想い合っているなら、無理やり止める権利はないはずよ。本人たちだって、諦めることなんてできない。それなのに否定され続けたら、待つ未来は変わらないと思わない?」
「普通に生きていられるほうがましじゃないか!」
「藍も、恋をすればわかるわ。本気であればあるほど、理屈で簡単に解決できる感情じゃないの。一度好きになってしまったら、だめなの。止められないのよ」
 キスを黙って待ち望んだ夜を思い出した。翠の感触を追いかけるように、自らに手を伸ばしてしまった夜を思い出した。
 感情に、ブレーキが効かなかった。求める心を止められるものは、なかった。
「捨てることだって簡単にできない。それだけ強くて、厄介な感情なのよ」
 恋情を捨てれば一番平和に解決できるとわかっていながらできないのは、今の言葉ゆえだった。
 告白しないのは、残酷な結末を迎えないため。
 ひた隠しにするのは、想いを捨てられないため。
 八方塞がりとはこのことだ。足を取られて、水面に這い上がれないような苦しさが募る。もがくほどに、深みにはまっていく。
「浅黄さん、大丈夫?」
 はっと、顔を上げた。照明がやけにまぶしい。
「あの、藍くんは……?」
「姿を消してる。……私も、ちょっと言いすぎちゃったわね」
 頭がぼんやりしている。考えすぎて、思考回路が使い物にならなくなってしまった。
「……私は、浅黄さんが後悔しないように行動することが一番だと、思ってるわ」
 強制さの感じない、語りかけるような声音だった。
「藍も私もいろいろ言ったけど、浅黄さん自身がどういう未来を歩みたいかっていう気持ちが一番大事」
 慈しむような柔らかい微笑みが、頭に染み込んでいく。
 天谷は店の中央にあるテーブルからボール型の器を持って戻ってきた。濁りのある乳白色の石が数個、中に入っている。
「お好きなものを、ひとつ差し上げるわ。私からのプレゼント」
「そんな、申し訳ないですよ」
「私と藍に付き合ってくださったお礼だから。それに、今の浅黄さんにはこの石がふさわしいと思うの」
「確か、ムーンストーン……でしたよね」
 旅人の安全を願ってこの石を持たせた、という記述がヨーロッパに残っていることから、旅路を守る石とも言われているらしい。
「浅黄さんと翠さんの歩む未来が、安全なものでありますように。ね?」
『千晶のおせっかい』
「いいじゃない。藍だって、お兄さんには幸せでいてもらいたいでしょう?」
『別の意味、込めたりしてないだろうね』
「私はあくまで、お二人の旅路を守ってくれますように、って思いよ」
 ひとつひとつ石を手に取り、じっくり眺める。角度を変えると、うっすらと青白い光が見え隠れしている。
 眺めているだけで、エメラルドとは違う安心感に包まれる。なぜか、母親を思い出した。女性が好む石というイメージがあるが、それも関係しているのだろうか。
 ふと、最後に手に取った石が、妙に輝いているように見えた。他と比べて若干透明度は高いようだが、「気がする」レベルの域は出ない。念のため別の石を持ってみたが、同じ現象は表れなかった。
「それが気になるの?」
「……なぜだか、よく光って見えるんです。他の石と見た目が変わらないのに」
「それ、ブレスレットを手に取っていただいた時と同じね。ピン、と来たということじゃないかしら」
 ますます吸い寄せられていく。お守りでいてあげると、優しく語りかけられているようだった。
「これに、します。おいくらですか?」
「本当に気にしなくていいのよ?」
「いえ、俺の意思でほしいと思ったので。ちゃんと買わせてください」
 納得したように、天谷は耳元の赤い石を揺らした。


 一瞬だけ躊躇してから、玄関の扉を開ける。
 すぐに翠が駆け寄ってきた。明らかに心配をかけてしまっている。
「ご連絡が全くありませんでしたし、事故にでもあったのかと心配で心配で」
「ごめん、うっかりしてた」
 鞄を受け取った翠は、ふと動きを止めた。
「翠、どうした?」
「……他の石の気配を感じますね」
 黙ったままにしておこうと思ったが、早速見抜かれてしまった。石同士、繋がるものがあるのかもしれない。
「ムーンストーンだよ。……天谷さんに、藍くんの件で改めて謝らせてくれって言われて、店に寄ってたんだ」
「この石は、お迎え予定はなかったんですね」
「不思議なんだけど、ブレスレット買った時みたいにピンと来たんだよ」
 袋からムーンストーンを取り出して、翠に渡す。
「……特別強い力を秘めているようには感じませんが、文秋さんとの相性がいいのでしょう。パワーストーンは、力が強ければ強いほどいいというわけではありませんから」
 どこか拗ねたような表情の意味がわからず、目で理由を尋ねる。
「文秋さんは、そのムーンストーンも今後、ずっとお持ちになるのですか?」
 ――自分を護る、たったひとつのパワーストーンでいさせてほしい。
 向かい合って囁かれた言葉が脳裏に響く。
 ようやく、意味を理解した。なんて誤解を生みそうな告白だろう。天井の見えない忠誠心に、むしろ微妙な気持ちになってしまう。
「大丈夫だよ。このムーンストーンは寝室に置いておこうと思ってる。これからの人生が幸せでありますようにって、天谷さんが願いを込めてくれたんだ」
「……人生、ですか?」
「これからの人生を、旅にたとえてくれたんだ。旅の安全を守る石だっていういわれがあるんだろ?」
 掲げてみるとやはり一段と美しい、淡く青白い光を放っている。
「私はてっきり、どうしても叶えたい願い事があるのかと思っておりました」
「そんなのもあるんだ」
「ええ。特に満月の夜に、石を口に含んで願いをかけると叶う、という言い伝えがあるのです」
 なかなかにロマンチックな内容だった。本当にそれで叶うなら、どんなに幸せだろう。
「でも、私でもきっと叶えられます。文秋さんの願いは、私の願いです」
 まっすぐに見つめられ、ムーンストーンを取り出すふりをして視線を逸らす。こんなことでいちいち心を乱していたら身が持たない。
「ないですか? 願い事。あったらぜひ教えてくださいね」
「……ありがたく、受け取っておくよ」
「私は本気ですからね!」
 叶えられるはずがない。
 お前と恋人同士になって何事もなく日々を過ごす、だなんて。


「文秋さん、大丈夫ですか?」
 問いかけられて、意識が現実に戻る。……今、何をしていた?
 俯きかけて、夕食の最中だったことに気づく。箸を落としてしまっていたようで、翠が上下を綺麗に揃えた状態で差し出してくれていた。
「ごめん……ありがとう」
「もしかして、今日は激務だったのでは? 顔色もあまりよくありません」
「大丈夫。食べて寝たら、元気になるから」
 皿に盛りつけられた食べ物を全力で流し込む。
 風呂でもぼんやりしてのぼせかけたし、予想以上に二人の話が尾を引いている。
 望むように行動するのが一番だと天谷は言った。
 ――想いに蓋をして、ただの主従関係を保つこと。
 それが願望だと思い込みたいのに……どうしても、胸のあたりのしこりが邪魔をする。剥がそうにも剥がれない。
 わかっている。そのしこりは、純粋な欲望だ。
 ――好きだと言ってもらいたい。抱きしめてもらいたい。キスをしてもらいたい。それ以上のことだって、構わない。
 欲望というのは際限がない。無理やり認めろと言わんばかりに、心全体に巣くうそれをかき集めようとする。
 恋人同士になれたとて、死ぬまで幸せな日々が続く可能性は限りなく低いと知っていながら、茨の道を進めと暗に告げているのか。翠にも、歩かせようというのか。
 ――だめだ。欲望は抑え込まなければならない。互いが一番に安定した道を、歩み続けなければならない。
「ごちそうさま。……ほんと疲れたみたいだから、もう、寝るよ」
 翠の気遣う視線を振り切るように、ソファーから立ち上がる。頭を強制的に休める必要があった。こんな状態で思考を回しても、負のスパイラルからは抜けられない。
「文秋さん……もしや、天谷様のお店で何かあったのでは?」
 洗面所から戻ると、寝室の前に翠が立ち塞がっていた。
「やはり、そうなのですね。藍に、なにか言われたのではありませんか?」
 予想しなかった問いに足を止めてしまった隙を、翠は見逃してくれない。
「だから、天谷さんにお詫びされてだけだって」
 顔を見れない。見たら、きっと余計なことを口走ってしまう。
「とにかくもう寝させてくれよ」
「文秋さん!」
 強引に寝室へ向かおうとした瞬間、足に固い感触がぶつかる。
 衝撃に耐えきれず傾いていく身体は、途中で止まった。
「大丈夫ですか?」
 腹部に翠の腕が回り、ぶら下がるような形で支えられている。焦るあまりテーブルの角に足をぶつけて転びかけるとは、とんだ醜態を晒してしまった。
「……大変、失礼いたしました。本当に、お疲れのようですね」
「だから、そうだって言ってるだろ? それより、もう離して」
「落ち着いて。私がこのまま、ベッドまでお連れします」
 視界がいきなり天井に移った。少しずらせば、翠を下から見上げる形になる。
 どう考えても、横抱きだった。女性は憧れるだろうが、少なくとも男性の自分は全くときめかない。好きな人にされても、むしろ羞恥しか感じない。
 暴れたい衝動を必死に堪えて、頭を翠の胸元に押しつける。下ろしてもらうのを切実に待った。
 やがて、背中に柔らかい感触が走った。全身からも無駄な力が抜けていく。
「到着しました。どうぞ、ゆっくりお休みください」
 布団をきっちり顎の下までかけて、頭を労るようにひと撫でしながら微笑んでくれた。
「文秋、さん……?」
 ふいにこみ上げた寂しさのあまり、離れようとしていた背中に手を伸ばしていた。
 振り返られて、我に返る。慌てて布団の中に掴んだ証拠を戻しても、意味はなかった。
「いや、ごめ、なんでもない……んだ」
 言い訳が浮かばない。心が神経質になっているあまり奇行に走ってしまったんだと、自らに言い聞かせるしかない。
 反対側を向いて、翠が去ってくれることを黙って祈るしかなかった。
「……失礼、いたします」
 上半身が浮いたような感覚が走り、息苦しささえ感じる力がかかる。かすかな香りと翠自身の力のせいか、波立つ感情が穏やかになっていく。
 言葉は、何もなかった。何も言えなかった。翠の両腕を、耳に届く呼吸をただ、感じているしかできなかった。
 翠は主を純粋に助けようとしてくれているだけなのに、どんどん熱が上がっていく。あれほどにもがいていた時間が嘘のように、想いが許容量を越えて、あふれてくる。
 温度のない、けれど誰よりも安心を与えてくれる身体に、包まれていたい。
 喉の奥から迫ってくるものがあった。久しくなかった、今は我慢しておきたいものだったが、無意味だった。
 閉じた瞳の隙間からにじみ出て、こぼれ落ちてしまう。枯れることを知らないように、止まらない。
「泣いて、いらっしゃるのですか?」
 嗚咽を堪えているせいで、答えられない。
 こちらの顔を覗き込んできた翠は、眉根を寄せた。
「教えてください。どうすれば、涙を止めてさしあげられるのですか?」
 目元を拭う動きに合わせて、薄く瞼が降りる。再度持ち上げても視界は歪んだまま、まともに捉えることができない。
 止まる方法があるなら、教えてほしい。
 これ以上あふれない方法を、教えてほしい。
「……お前が」
 だめだ。それは、翠を否定することと同義だ。
「人間だったら、よかったのに」
 止められなかった己の身勝手さが腹立たしい。泣く資格すらない。
「ごめ……翠、ごめん……」
 謝るくらいなら、唇を噛み切る思いで押し殺せばすむ話だった。ただの自己満足に、ひどく惨めでならない。
「それ以上力を込めたら、傷がついてしまいます」
 唇の表面をそっとなぞられる。くすぐったさで力が抜け、かすかな吐息がもれる。唇を一周したあの時の指を思い起こさせた。
 気づけば、翠の閉じられた瞼が目の前にあった。口から息が吐き出せない。
 一気に情報が頭に流れ込んだ。身を捩るも、翠に動きを封じられてしまう。
 どうして。どうして、キスをするんだ。好きでもないくせに、このキスの意味はなんなんだ。
「っ、ふ……」
 角度を何度も変えて、触れるだけのキスが続く。翠に体温はないのに、重なった部分が熱くてたまらない。背中を滑る手のひらの気持ちよさに、声が止まらない。
 唇が解放されるとすぐ、頭を首筋に押しつけられた。若干の震えは自らのものか、翠のものか。
「……私こそ、申し訳ございません。今のは、忘れてください」
 絞り出すような声だった。顔を見て問いつめたいのに、許してくれない。
 一度離れて戻ってきた翠は、枕を持ち上げて何かを置いた。
「文秋さんがお迎えになったムーンストーンを、枕の下に入れさせていただきました。こうするとよく眠れますよ」
 他の石について触れたのは、初めてだった。
 またこみ上げてくる涙を抑えたくて、目を閉じる。後頭部を撫ぜる動きに、少しずつ意識が沈んでいく。
「どうぞ、ゆっくりお休みください。ムーンストーンの力がきっと、落ち着けてくれます」

 翠の心を覗ければいいと、一瞬願ってしまった。
 強い使命感ゆえの行動なのかと、恐怖をかなぐり捨てて問いかけたかった。

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俺はエメラルドのご主人様じゃない!

俺はエメラルドのご主人様じゃない!

第6話

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 朝から気持ちが落ち着かなかった。ある意味藍がいてくれてよかったと安堵するほど、翠とやけに目が合うたび感情が渋滞を起こす。
 無駄に意識しているせいではなかったとわかったのは、寝室で外出用の服に着替えていた時だった。
『買い物に行かれるのでしたら、ブレスレットをお持ちください』
 ベッドサイドに置いていたスマートフォンが震え、通知欄に表示されていた名前にすぐ内容を確認すれば、そんな文章が綴られている。
 さりげなく翠を見やれば、翠はキッチンに背中を向けて立っていた。藍はテレビに意識がいっているようで、気づく素振りはない。
 自分も、窓際に向かってベッドに腰掛けた。手の中の端末がまた震える。
『藍に抗うことにしたのです。私の意思を貫いて、諦めてもらうつもりでいます』
 文面だけでも、妙に吹っ切れた気持ちが伝わってくる。
 嬉しいと素直に喜べばいいのか、相変わらずの使命感だと呆れればいいのか、悲しめばいいのか、浮かんだ感想は複雑だった。
 大体、あと一歩進んだらキスをしてしまうところだったあの瞬間についてはどうなんだ。人の心臓を散々うるさくしておきながら特に触れていないし、使命感に燃えているようだし、ちらっとでも浮かべてしまった期待は意味がないということか。
 全身が熱い。下手な行動に出られないぶん、藍の存在に改めて感謝したくなる。
『やはり、駄目ですか? 私はもう、不要な存在ですか?』
 ああ、またマイナス思考に囚われている。子どもと大人を同時に相手しているような気分になる。
『そんなわけないだろ。どうすればいいんだ?』
『ありがとうございます……!』
 即返ってきた返信のあとに送られてきた作戦は、翠が藍を引き付けている間にブレスレットを素早く持ち出してほしいという実に単純なものだった。
 もう家を出るだけという状態にしたところで藍に出かける旨を告げ、すぐに翠が話しかけて意識を逸らす。その隙にテーブルの上にあるブレスレットを持って玄関をくぐり、エレベーターまで駆け出した。
 あっさりと、成功した。思わず、誰もいないところでテンション任せに抱き合ってしまったのは……あまり思い出したくないほど、恥ずかしい。

  + + + +

『私の我儘を聞き入れてくださって、ありがとうございます。今、とても楽しいです』
「それならよかったよ。……でも、帰ったら藍くんに雷以上のもの、絶対落とされるよね」
『私も一緒に怒られます。いえ、むしろ私だけが怒られるようにします。ご安心ください』
「いいよ。俺もちゃんと怒られるから」
 翠は息を詰まらせたようだった。
『……文秋さん、今日はいつも以上にお優しい気がします。あ、もしかして気を遣ってくださってますか?』
「久しぶりにブレスレットつけてるからだよ。すごく大事なものなんだから当たり前だろ?」
 予想外の、心臓に悪い質問をぶっこんでくるのはやめてほしい。ただの買い物、翠にとってはただの仕事、何度もそう言い聞かせる。
 久しぶりの恋は、戸惑いばかりだ。
 寝て起きたら、変わらないはずの光景がどこか違って見えた。自然と翠の姿を目で追ってしまうし、妙に輝いて映る。普段通りを装うのが大変だった。
(そういえばこれって、俺的にはデート……になるのかな)
 姿は見えずとも、確かに一緒にいる。客観的に見たら小声の独り言でも、確かに会話をしている。
 はっきりと、心が浮き立つのを感じた。気を抜いたらきっと、怪しい人間に変化してしまう。
 ただ、今日の買い物は日用品の補充だけだ。駅前のホームセンターやスーパーに寄るだけで終わってしまう。何とも短いデートだった。
 翠自身にもあまり負担はかけられない。姿を消していたとしても、今日は雲の少ない快晴だ。念のため、長時間の外出は控えたほうがいいだろう。
 それでも、少しだけでいいから、二人だけの時間を堪能したい。わがままとわかっていても、願う気持ちを抑えられない。
『あの、文秋さん』
 遠慮がちに、翠が声をかけてくる。
『私の身勝手な願いを……聞き入れてくださる余裕はまだ、ありますか?』
「……どんなの?」
『久しぶりの文秋さんとの時間を……もっと、堪能したいです』
 唇が緩むのを必死に堪える。自惚れた通りになるなんて、思わないじゃないか。
「いいよ。俺も、ちょうどそう思ってたところだったんだ」
『ほ、本当ですか……!』
 そんなに大げさに喜ばれると勘違いしてしまいそうになる。姿が消えた状態で本当によかった。
『私は、私はきっと、つかの間の夢を見ているのかもしれません!』
「そういうこと言ってると、このまま帰るぞ」
 慌てて謝ってくる翠の姿を想像して可愛いと思うなんて、つくづく恋愛の力は恐ろしい。


『都会でも、緑の多い場所はあるのですね。とても美しく、気持ちが和らぎました』
「都会って言っても郊外だから、駅前からちょっと外れればああいう場所は結構あるよ」
 癒やしの力を持つからなのか、自然の多い場所に行ってみたいと翠からリクエストがあった。
 電車で二駅移動した先にある公園の散歩コースを、一時間ほど歩いてみた。コースの両端に立ち並ぶ木々の緑から瑞々しさは収まり、柔らかな日差しの似合うような色合いに変化していた。もうすぐ、秋がやって来る。
 短時間でいいから、翠と並んで歩いてみたいと思った。話しながらでもいいし、ただのんびり歩くのもいい。
『また、あの公園を訪れたいですね。他にもコースがあるようですし、紅葉の時期はさぞ美しいでしょう』
 また、願望が合致した。偶然にしてはできすぎている。そんなに期待させたいとでもいうのか?
「……そろそろ、買い物行こうか。いい加減、藍くんも我慢の限界迎えてるかもしれないし」
 余計なことを考えるのはよそう。今は、二人だけの時間を精一杯楽しまないと損だ。
『……一刻も早く、藍には諦めてもらうよう尽力します』
 苦笑しながら改札をくぐり、まずはホームセンターに向かう。ここは他の支店に比べて規模が大きく、この店舗にしかない商品も多数あるらしい。わざわざ足を運んでくる客も多いと聞く。
「あれっ、先輩?」
 空耳かと思ったが、違った。
「うわー、すげー偶然ですね!」
 スーツ姿で見慣れているから、私服だと一瞬誰だかわからなくなる。
 長袖の赤いチェック柄のシャツを羽織った後藤は、いつもの人懐こい笑顔でこちらに歩み寄ってきた。
「え、もしかしてこの店に用事? 後藤んちの近くにもなかったっけ」
「あるんですけど、俺が愛用してる洗剤ここにしかないんですよ。こうやってちょいちょい来て、買いだめしてるんです」
「……洗剤、こだわってたんだ」
「ひどっ! よく落ちるんですよ、先輩も使ってみてくださいよ」
『文秋さん、私も参考にさせていただきたいです』
「じゃあ、見てみようかな」
 頷いた後藤だが、なぜか立ち止まったまま、視線を下に固定している。
「久しぶりじゃないですか? ブレスレット」
「あ、そ、そうだな。やっと持ち出せたっていうか」
 後藤の口元がいやらしい感じに広がっていく。
「先輩、嬉しそうですもんね~。あ、それか噂の気になる君とデート中だったり?」
 反射的に、口を塞いだ。見開かれた目が理由を要求している。
「っせ、先輩何するんですか! びっくりしたなーもう」
「いいから余計なことは言うな。洗剤教えてくれ」
「はぁ? ああ、気になる君がやっぱり近くにいるんすね?」
「繰り返すなって!」
『……文秋さん。気になる君って、なんですか?』
 問いかけてくる声が、穴の底から響いてくるような音に変化している。
 今さらながら、適当に受け流せばよかった。翠に関してはあとでどうとでも誤魔化せる。過剰な反応をしたせいで、ややこしい展開に変化してしまった。
 訝しげに見つめていた後藤は、内緒話をするように顔を近づけてきた。
「……もしかして今、誰か近くにいたりします?」
「だから、いないって」
「違います。……もっとはっきり言いましょうか。執事みたいな男の人、いるんじゃないですか?」
 完全に固まってしまった。黙認したようなものとわかっていながら、言葉が出ない。
『……文秋さん。どこかに移動したほうが、いいかもしれません』
 落ち着きの戻った声がスイッチになったように、頭が少しずつ回転を始める。
 他人の目が一切入らない、まさにプライベートルームのような場所に向かう必要があった。

  + + + +

 最初はカラオケボックスを考えたが、監視カメラのある店もあると聞いたことがあるので、日帰り利用ができるホテルにした。
 部屋に入った途端、心身の力が抜けてベッドに座り込む。後藤はとりあえずといった様子で窓辺に移動し、所在なげに立ち尽くしていた。
「……飲み会の時に、おかしいなって思ったのか?」
 思い当たる節はそれしかなかった。何とか誤魔化せていたはずが、たったひとり例外が、存在していた。
 後藤は苦笑しながら軽く首を振った。
「オレ……実は前に一度、会社であの人見てるんですよ」
 一日に二度、青天の霹靂レベルの衝撃を受けるとは思わなかった。
「給湯室の前で、見ました。やたらすげー人がいるなって思ったら急に消えたんで、ほんとびっくりして。奥から普通に先輩出てきたのも意味がわからなかったし」
 全身が粟立った。目撃者がいなかったなんてとんでもない。やっぱり見られていたんだ!
『文秋さん、本当に申し訳ありません!』
「お前……だから、家出る前に絶対出てくるなってあれほど……」
『あの時のは完全に私の落ち度です! 言い訳にはしません!』
「当たり前だ!」
 頭を抱えてしまう。もう、信頼できる後輩にバレてよかったと無理やり思い込むしかない。
「すげー……ほんとに、その辺にいるんですね」
「翠、もう出てきていいぞ」
 やけくそに命令すると、背後から相槌が聞こえた。
 後藤の反応が、完全に子どもに戻っている。正面に回り込んだ翠は、両膝と両手をついて深く頭を下げた。
「私の失態で文秋さんにいらぬご迷惑をおかけしてしまい、誠に申し訳ございません。どうぞ、どんな罰でも構いませんのでお与えください」
「ばか、やめろって! 後藤もいるんだから!」
 現代に全く似つかわしくない主従劇を第三者の前で繰り広げる精神力は持ち合わせていない。渋々頭を持ち上げた翠は、気の毒なほどにしょんぼりしていた。
「……後藤。気持ち悪いとか、思ってないのか?」
 目を輝かせた後藤が不思議でたまらなかった。普通は超常現象すぎて引くレベルだと思うのに、全く正反対の反応でこちらが戸惑ってしまう。
「いや、びっくりはしてますよ」
「びっくりだけって、すごいな。俺は受け入れるまでだいぶ時間かかったのに」
「会社で見た時はさすがに信じられなかったですよ。でも飲み会の時にも出てきて、なんていうかトドメ刺されたみたいな。夢じゃないんだって」
 もう、腹をくくることにした。
 詳細を聞きたそうな後藤に、翠がエメラルドの化身であることを話す。翠は備えつけの緑茶を淹れてそれぞれに渡した後、背後におとなしく控えていた。
「まるでおとぎ話ですね」
 後藤は、改めて翠を見やる。
「でも、先輩が持ってるエメラルドに特別な力があるのはわかるっていうか、説得力がありますよ」
「そう、なのか?」
「ブレスレットつけるようになってから、先輩表情柔らかくなりましたもん。ずっと忙しそうでしたし、心配だったんですよ」
 周りから見たら、自分の大丈夫はやせ我慢のようなものだったらしい。もはや笑うしかない。
「まあ、気づいてたのはオレくらいだったと思いますけどね。ほら、常日頃お世話になってますから」
 無邪気な笑顔に救われる。改めて、できた後輩だとつくづく実感する。
「……後藤。本当にありがとう」
「私も、心より御礼申し上げます」
 翠が柔らかな笑みを浮かべて頭を垂れる。内心の喜びが、手に取るように伝わる。
 出会った当初の自分のように「得体の知れない存在」だと恐れられる可能性もあった。偶然目撃していたのもあったとはいえ、彼は強い。天谷という仲間の存在や、決してそばを離れなかった翠の一途さのおかげで今という時間を手に入れられた自分とは違う。
 ふと、考える。もし、最後まで翠自身を拒絶していたらどうなっていただろう。
 姿だけは消してもなお、健気に使命を果たそうと尽力する翠を想像して胸が痛くなった。
 あるいは、ブレスレット自体を処分していた可能性も……ある。
「気にしないでくださいって。オレこそ、話してくれてありがとうございます。絶対誰にも言いませんから、安心してください」
 いつも以上に後藤が頼もしく映る。もう一人理解者が増えるのは、何だかんだでありがたい。
「それよりも、ですよ」
 ブレスレットを外してもらうようお願いされる。翠抜きで話をしたいのだと理解して、素直に従った。どこか不満そうな翠に詫びを入れ、廊下を進む後藤についていく。
 エレベーター前で立ち止まった後藤は、満面な笑顔で振り向いてきた。……また嫌な予感が広がっていく。
「先輩の気になる君って、翠さんじゃないですか?」
 やっぱりだ。やっぱり、見抜かれた。
「やっぱり~。さっきの慌てっぷり、すごかったですもん」
 もはや何も言うまい。黙って羞恥に耐える。
「お似合いだと思いますよ。翠さん、なんか思いっきり甘えても受け止めてくれそうな感じしますもん。告白したら案外うまくいくんじゃないですか?」
「……男同士なのに?」
 後藤はそのあたりを全く気にしていないようだった。確かに昔ほど敏感な世の中にはなっていないと思うが、ここまで普通なのも珍しい。
「オレはあんまり気にしないですね。知り合いにそういう人何人かいるから、余計にそう思うのかも」
 ――だから、オレはずっと先輩たちの味方ですよ。
 その励ましは素直に嬉しい。
「でも……翠は俺が好きってわけじゃないよ」
 翠は事あるごとに「自分を護るのは私の大事な使命です」と口にしている。
 いくら……何度も抱きしめられたり、自身を触られたことがあったとしても、恋愛感情に結びつけるのは安易すぎる。
「あいつは俺をすごく大事にしてくれてるけど、それが使命だから。あくまで仕事なんだよ」
「そう、ですかね……?」
 後藤はどうも納得がいっていないようだが、本人と話せば現代社会では貴重な真面目ぶりを実感できると思う。
「なら、試してみたらどうです?」
「試す?」
「色仕掛けとか、そういうのですよ」
 また、何て提案をしてくるのか。
「先輩には難しいかもですけど、そこは頑張ってもらって。そうでもしないといつまで経っても平行線のままいきそうですもん」
 全力で首を振った。全く想像ができない。勢いをつけても乗っかる気にはなれない。
「難しく考えなくていいんですよ。思いきってキスをしてみるとか、押し倒してみるとか」
 熱で倒れそうだ。どこかの漫画やドラマじゃあるまいに、気軽に言いすぎである。
「想像してみてくださいよ。片想いの相手に迫られたりしたら、期待しちゃいません?」
 逃げ道を封鎖されて、唇が触れるぎりぎりまで迫られたあの瞬間が甦る。
 今なら、キス以外のことも望んでしまいそうだ。そう、ヒーリング中の、あの行為のようなことまで……。
 両手で顔を覆いたくなってきた。妄想力が逞しくて、歯止めが効かなくなったらどうしようと不安にさえなる。
 ふと、尻ポケットに入れていたスマートフォンが震えた。
『まだ、お時間かかりそうですか?』
 たったそれだけの文章だが、翠の眉尻を下げた表情が鮮明に浮かんでくる。
「ほら、そろそろ戻るぞ。買い物もあるんだし」
「今のって翠さんですか? スマホまで持たせてるなんて、愛ですねぇ」
「明日から仕事増やそうかなぁ。後藤くんだけ」
「か、勘弁してください!」

  + + + +

「……よくも、僕をハメてくれたね」
 買い物を終える頃にはすっかり日も落ちて、肌を撫でる風は若干肌寒くなっていた。
 玄関を開けると、思いきり眉をつり上げて仁王立ちしている藍が待ち構えていた。予想通りの光景とはいえ、気迫は半端ない。さらに鳥肌も立ちそうになる。
「ちょ、ちょっと! 僕は本気で怒ってるんだけど?」
 姿を現した翠は荷物を持って、藍の横を通り抜けていく。
 二人の背中を追ってリビングに辿り着くと、翠がこちらを振り向いていた。意思の強固さを示すような、曇りのない輝きを放っている。
「藍。私は決めたんだ。どんなことがあっても、文秋さんの隣に立ち続けると」
 藍の息を呑む音が聞こえた。
「文秋さんをお護りするのは、私だけでありたい。ずっとだ」
 翠の、自らの使命に対する誇りは本当に輝かしいほど強く、純粋だった。
 ブレーキを必死にかけ続ける。恋愛感情なんてない。あるのは使命感だけだ。
「……入れ込みすぎるのは危険だっていう言葉の意味、わかってて言ってるの」
 翠はただ、頷いた。言葉で飾らないからこそ、込められた想いが伝わる。
「あんたは……あんたは、どうなの。兄さんの気持ちに、応えられるの?」
 藍は気の毒なほど必死な形相をしていた。もはや言葉ではどうしようもない。認めたくないのに認めないといけなくなる。そんな叫びが聞こえるようだった。
「藍、これはあくまで私の勝手な私情だ。文秋さんは関係ない」
「何言ってんだよ! それじゃ、それじゃ兄さんが不憫すぎるじゃないか!」
 言葉を発するべきなのに、ふさわしいものが見当たらない。
「不憫なわけがない。文秋さんは本当に私を大事にしてくださっている。それだけで充分だ」
 唇を震わせる藍に、そっと声をかける。
「……藍くん。俺にとって、翠はとても大事な存在だよ」
 これは、あくまで「翠の主人として」の気持ちだ。恋愛感情は、封じておかねばならない。
「主として、エメラルド本体も彼も、ずっと大事にしていく覚悟でいるよ。支え合って生きていけたらって思ってる」
「文秋、さん……」
 翠の口元が、次第に綺麗な三日月を描いていく。
「あんた、それってさ……」
 どこか呆れたように藍はつぶやいたが、首を振って続きを飲み込んだ。翠の意思とは比べものにならない、そう言いたかったのかもしれない。
「俺は翠のことずいぶん頼りにしてるんだって、改めて実感したよ。特に仕事中なんか、ブレスレットがなくて心許ない気持ちがダダ漏れちゃって、後輩に心配かけちゃった」
 誰のことかわかったらしい翠は苦笑している。
「今も、知識もほとんどない頼りない主だけど、本気で翠も大事にしようって考えてる。……これじゃあ、やっぱり甘いかな?」
 ブレスレットの持ち出しを許してほしいと頭を下げるのは違う。言葉で、行動で、納得してもらうしか方法はない。
「そんなことはありません!」
 間髪いれず返してきたのはやっぱり翠だった。
「これ以上ないくらい幸せな思いでいっぱいです。文秋さんの想いを一人占めできるなんて、私は本当に贅沢な存在ですね」
「贅沢って、だから大げさなんだよ翠は」
 両手ごと包み込まれた。言葉の選択もいちいち恥ずかしい。そういうのも期待させる要因なんだとわからせてやりたくなるが……今は、甘んじて受けておきたい。
「二人して、そんなに入れ込んじゃって……絶対、幸せになんかなれないのに」
 俯いていた藍は、こちらを鋭く睨みつけた。明るい水色は、荒れた海のように揺らめいている。
「二人の、馬鹿!」
 そのまま消えてしまった。どこか気まずい沈黙が降りる。どう見ても納得してもらえた雰囲気ではない。
 兄が大好きだから阻止している、とは言い切れない態度だった。
 他の理由があるとして、一体何なのだろう。
「翠……藍くんがあんなに必死な理由って、何なんだろうな」
「そう、ですね」
「何か知ってるのか?」
「いえ。私は、特には」
 翠の微笑みは、これ以上踏み込んでほしくないという意思表示に見えた。

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(画像省略)「僕、決めたんだ。これからしばらく、あんたと兄さんを見張らせてもらう…

俺はエメラルドのご主人様じゃない!

#R18

俺はエメラルドのご主人様じゃない!

第5話 軽く #R18

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「僕、決めたんだ。これからしばらく、あんたと兄さんを見張らせてもらう」
 朝食を食べ終わった頃に予告通り現れた藍は、ぼんやりした頭に活を入れるような声でそんな宣言をしてきた。
「見張るって……まさか、ここで暮らすつもり?」
「違うけど、近いかもね。僕の目的は兄さんに余計な力を使わせないようにすることと、あんたにもっとパワーストーンの主としての自覚を持ってもらうことだもん」
 微妙に頭痛がしてきた。ただでさえ昨夜の言い合いを引きずっているのに、さらなる異分子がやってきてしまった。
「藍、それは天谷様にご了承いただいているのか?」
 問いかけた翠の声は硬い。藍は一瞬怯んだ様子を見せたが、気丈に見返した。
「も、もちろん。僕ら化身のことをちゃんと教えるためだって言ったら、許してくれたもの」
 天谷が謝罪のメッセージを添えていた理由がわかった。翠も呆れたように息をつく。
「天谷様にもご迷惑がかかる。文秋さんと私のことはいいから、主をきちんとお護りするんだ」
「その千晶に、兄さん一人でヒーリングやったって聞いてびっくりしたんだよ! 石七つ分の力を使った自覚、ないわけじゃないよね?」
 やはり、それなりに負担のかかる行為だったらしい。いくら精製より疲れない行為だと言われても、相対的にしか比較できておらず、知識不足を改めて実感する。
「……兄さんは、ちょっと入れ込みすぎだよ。まさかとは思うけど」
「藍。本当に私は大丈夫だから」
 翠の表情はますます硬くなる。首を振る動作が、拒絶に見えた。
「現に、こうして問題なく動けている。毎日、きちんと役目を果たせている。文秋さんが気を配ってくださっているおかげだ」
「で、でも!」
「文秋さんをお護りするのは私にとって何よりも大事な、最優先事項なんだ。パワーストーンの化身である藍が、それを制限するのか?」
 反論が尽きたのか、藍は口元を細かく震わせている。翠の意思は言葉だけでもぶれがなく、完璧だった。
「別に、俺はいいよ」
 だからこそ、自分がいる。
「文秋さん!?」
 驚愕する翠の隣で、藍も目を丸くしている。
 天谷に心の中で深く頭を下げながら、続ける。
「天谷さんが許可してるなら、ちょうどいい機会だし甘えさせてもらおうかなって。藍くんスパルタだけど、いろいろ教えてくれるし」
 翠の無言の圧力が重石のようにのし掛かる。なるべく彼の方は見ないようにして、藍に笑いかけた。
「わかってるじゃない。千晶のことは心配しなくていいよ。何かあったらちゃんと行くし」
「文秋さん!」
 距離を詰めてきた翠の瞳を懸命に見返す。少しの隙も、覗かせてはいけない。
「翠。主人の意思に、背くのか?」
 会社でも、ここまであからさまな先輩面などしない。自分をよく把握している翠にとっては、素人の演技を見せつけられているに過ぎないだろう。
 だが、同時に察するはずだ。
「……いいえ。仰せのままに、ご主人様」
 それだけ、翠と二人きりになりたくないのだと。
 乱されてばかりの感情に、穏やかさを取り戻したい。立ち止まって、ゆっくり呼吸のできる環境がほしかった。


 その日の夜に、仕事終わりの天谷から改まった謝罪の電話がかかってきた。直接謝りたいという言葉に、近くのコンビニに買い物に行くと嘘をついてマンションの前に移動する。
「浅黄さん! ……もう、何と言えばいいのか。本当にごめんなさい」
 深く頭を下げられて、逆に申し訳ない気持ちになる。
「翠にやってもらったヒーリング、藍くんからすれば問題だったみたいですね。俺がちゃんと止めるべきでした」
 顔を上げた天谷は、難問を前にしたように目を細めた。
「……石七つ分の役割を、化身がすべてまかなうという事例はないそうよ。もしかしたら、ヒーリングでなかった可能性もあるかもしれないわね。浅黄さんは効果を実感できた?」
 ヒーリングでないとしたら、あのすっきりした気分はやはり……自身を弄られたせいと、いうことになる。
 曖昧な態度でいると、天谷は考え込むように、顎に手を当てた。
「……翠さんは、他の石を持たせたくないのかしら」
 つぶやかれた内容に苦笑しながら否定する。仲間を拒否するなんて、あるわけがない。いつもの、無駄に頑張ろうとした結果に過ぎない。
「多分、石は揃ってないけどやってあげたいって思ったんですよ。本当に仕事熱心ですから」
 なぜか、まじまじと見つめられる。見覚えのある視線に思えるのは……単なる気のせいだろうか。
「天谷さんはヒーリングしたことあります? あるなら、参考にしたいです」
 敢えて問いかけると、天谷は我に返ったように瞬きを二、三度繰り返してから頷いた。
「ちなみに、藍にしてもらったのはヒーリングに適した石の選別と、最中にアクアマリンの力を高めてもらっただけ」
 翠と全然違うし、そのほうが何倍も効果は高そうだ。
 どうして強行したのだろう。主のためを思うなら、藍のように石の選別から始めてほしかった。
「これじゃあ、藍くんに怒られてもしょうがないですね。やっぱり最低限の知識はつけないとダメだな」
「……私の勝手な想像だけど、浅黄さんが知識をつけても、翠さん相手には意味がないかもしれないって思ってるわ」
 本気で意味がわからなかったのだが、天谷は小さく苦笑するだけだった。
 なぜか、翠がますます遠くに行ってしまったような気がした。

  * * * *

 過去の自分を褒めたい。
 こんなに堪え性のない性格だったのか? 我慢の聞くほうだという認識は間違っていたのか?
「先輩……今週はもう完全に、タバコ吸えなくてイライラしてる人そのものになってますよ……」
「いいから、黙って書類探そうか。ここで手伝い打ち切ってもいいんだぞ?」
「す、すいませーん」
「……いや。悪い」
 後藤がわざわざ手伝いを頼んできた意図は、わかっているつもりだった。バインダーだらけの棚からこちらを振り向いた顔に、かすかな笑みが刻まれている。
 藍は言葉通り、おはようとお休みまでの時間を、過ごすというより見張りのように居座るようになった。藍が「兄を完全に任せても問題ないと納得」できるまでブレスレットの持ち出し禁止に加え、週に数回天谷の店へ出勤する予定も無視した徹底ぶりである。翠がこっそり行っていた力の分け与えも早々にバレて、本当に「無防備」な状態だった。ちなみに、家事もパワーストーンの化身がやることじゃないと止めようとしていたが、翠の断固とした拒否の前にあえなく失敗していた。
 ブレスレットがなく、翠の守護もない。それでも、これでよかったはずだった。翠と距離を置けて、気持ちにゆとりが出て、たとえ束の間でも以前の日常が戻ってくるだけのはずだった。
「……どうして、うまくいかないんだろう」
「え、何か言いました?」
「悪い、独り言だから気にしないでくれ」
 無意識に口から漏れていた。ますます自分らしくない。
 藍は家でも基本的に翠の近くに控えていて、自分と二人きりになるのを阻止している。
 そんな彼に、いつからか苛立ちを向けるようになっていた。翠も主人である自分の意志を尊重してか、藍に対して一切文句を言わないでいる。笑顔は一切見せないくせに、だ。
 ――どうして、黙って受け入れているんだ。
 一度そう訴えかけて、あまりの身勝手さに気づき、愕然とした。
 藍がただ単に気に入らない。そういう感情とも違う。
 藍も、仲の良さ……というより、兄を好きという気持ちをわざと見せつけているわけではない。純粋に心配でたまらないから目を離したくないのだと、言外に語っている。
 わかっているのに、こみ上げてきてしまう。
「先輩……本当に大丈夫ですか? 顔色悪いですよ」
 横で、後藤が眉をひそめていた。
「昨日、寝るのが遅かっただけだよ」
「見え見えの嘘、つかないほうがいいですよ。何か悩んでるでしょ、先輩」
「くだらない悩みだから」
「なら、なおさら言ったほうがいいですって。口に出すだけでも違いますから。……これ、先輩が相談に乗ってくれる時の口癖でしたよね」
 痛いところを突かれてしまった。どのみち、この後輩は簡単に逃してくれそうにない。
「……仲良くしてた人のそばに、他の人がずっとくっついてて、苛々してしょうがないってだけ。くだらないだろ?」
 なぜか、後藤の目が丸く開かれる。若干戸惑っているようにも見える。
「……あの、先輩。それってもしかして、いわゆる『嫉妬』ってやつじゃないですか?」
 突然放り込まれた二文字に、こちらも戸惑ってしまう。
 だが、まるでパズルのピースがぴったりと嵌ったような納得感と説得力があった。
 嫉妬? ……藍に?
「先輩のことだから、恋愛とは関係ないのかもしれないですけどね。例えば友人同士でもそういうのあるって言いますし」
 それは、藍を見ていればよくわかる。彼は本当に兄を大事に想っている。だからこそ自分に対して厳しい。
 だが、この嫉妬は?
 翠をどういう存在だと思っていて、この感情が生まれた?
 大事な存在であるのは事実だ。藍の想いの強さにはかなわないだろうが、方向性は似ているはず。なのに、この嫉妬は?
 ……顔が熱くなってきた。うそだ、こんな反応、まるで……。
「顔、真っ赤ですけど……」
「言うな。わかってるから」
「え、ってか、マジですか? 先輩、その仲良くしてた人って」
「知らない。そうだって決まったわけじゃないし」
「往生際悪っ! なんで素直になれないんですか」
「本当に手伝い打ち切るぞ」
「すいませんもう黙ります」
 大体、翠は人間じゃない。性別も男だ。女性にあまり興味が持てなかったのも、恋愛したいという願望が低かっただけに過ぎない。その時が来れば付き合って結婚するものだと思っていた。
 だから、あるわけがないんだ。
 あるわけがないのに……どうして、心臓の早鐘が、収まらないんだ。


 戸惑いながら玄関のドアを開けると、やはり通常通りの出迎えが待っていた。
「お帰りなさいませ。お仕事、お疲れ様です」
 向けてくれる微笑みも変わらないが、心からのものだとわかる。藍という、翠にとって招かれざる客がいるからこそ、余計にわかる。
 後藤のせいだ。後藤が変にけしかけるから、何の変哲もない光景にさえ反応してしまっている。
「文秋さん?」
 距離を詰められて、全身が固まる。
「いかがなさいましたか? 具合でも悪いとか……?」
「ちょっと、いつまでそこに突っ立ってんの? まさか、変なことしようとしてないよね?」
 遠慮なしに近寄ってきた藍が、無駄に入ってしまった力を抜いてくれた。
「ごめん、何でもない。……もう、風呂入るよ」
 鞄を翠に押しつけて、洗面所に逃げ込んだ。深く息を吐き出す。
 平常心を無理やりにでも呼び戻さないと、絶対に翠から追求されてしまう。それだけは避けないといけない。
 唯一一人きりになれる風呂場の存在が、こんな時だからこそ余計にありがたかった。
 入浴剤を混ぜた湯船に、四肢を投げ出す。季節関係なく、長湯してものぼせない程度の温度が一番好きだ。
 気分が落ち着くと、今度は後藤との会話を巻き戻そうとしてくる。頭を振ってもにやついた笑みが離れない。
 帰宅中もスマートフォンに届く興味津々な質問たちに、あの時うっかり相談してしまった自分を激しく後悔した。
 きっと人の気も知らないで、脳天気に楽しんでいる。うっかり言いふらしたりしないようにと釘をさしておいたが不安は残る。
 恋愛感情なんて、あるわけがない。
 翠も主、というより男相手とは思えない言動を取ることもあるが、すべて「使命」のためだ。忠誠心あふれた姿を見れば絶対わかってくれるのに、言えないのがもどかしい。

『さっき言ってた仲良くってどれだけです? 一緒に遊んだりとか?』
『遊ぶっていうか、なんて言ったらいいのか』
『はっきりしないですね~。なんか、具体的な行動とかされてないんですか?』
『具体的ってなんだよ?』
『自分だけにやたら優しいとか、笑いかけてくれるとか、触ってくるとか、いろいろありますよ』
『……ないよ。多分』
『絶対多分のとこ大事ですって! ほんとにないんですか?』

 本当は、ある。
 正面から、背後から、抱きしめられた。それは翠の持つ力を分け与えるため。
 よく笑いかけてくれる。それは彼の仕事ぶりを褒めたりした時限定だ。
 ヒーリングをした時は……うっかり、股間付近をなぞられて反応してしまったために、処理を手伝わせて、しまった。
『文秋さん……』
 耳元で、翠の心地いい低音がよみがえった。思わず両耳を塞ぐと、全身を包む腕の強さとかすかな香り、撫でる手のひらの優しさまでもが次々と呼び覚まされていく。
 久しくされていない行為だから、記憶も感覚も薄れていくのが普通じゃないのか。なのに……どうして、こんなに鮮明なんだ。
『怖がらないで……私に、ただ身を預けてください……』
 台詞までが、リアルに耳元をくすぐる。呼応するように、中心を撫でる手のひらを思い出してしまう。止めようにも止められない。
「いや、だ……」
『大丈夫……ここにいるのは私だけです。怖がらないでください』
 幻聴まで聞こえてきた。体温が上昇して、思考の動きが鈍くなっていく。見慣れたタイル状の壁もどこか霞んでいる。
 耳の覆いを外した両手が向かう先は、中心だった。包み込んで、生まれた甘い熱に背中が震える。
 無心になって、翠の動きをなぞろうとしてしまう。普段以上に刺激が強いのは、そのせいなのか。
「っあ、はぁ……っ」
 声が反響して、鼓膜を否応なしに攻める。羞恥心もあるのに、手の中のものはさらに大きさを増していく。
 翠の声が、手つきが、離れない。
 両手の動きを、止められない。
「す、い……っ」
 名前をつぶやくと同時に、湯の中で熱が吐き出されたのを感じた。徐々に正常を取り戻していく思考回路が、詮を抜くようにと命令を送る。
 湯が、穴に吸い込まれていく。すべてをなかったことにするように、したいという願いを叶えるように。
 ……叶うわけがない。
 記憶喪失にでもならない限り、この残像は脳裏にこびりついたまま、離れる気配は訪れそうにない。
 見えない柵で、周りを少しずつ囲まれている気分だった。


「……あれ、藍くんは?」
 簡単に風呂掃除も終えて戻ると、リビングには翠の姿しかなかった。
「天谷様に仕事の相談を持ちかけられたようで、一旦帰りました」
 よりにもよって、こんな時にいなくなるとはタイミングが悪すぎる。
「あ、ありがとう……」
 水を飲もうと思っていたら、翠がコップを差し出してくれた。思考を読まれたのかと一瞬焦ってしまう。
「ずいぶんと長風呂でいらっしゃったので……具合を悪くされたのではないかと、心配で様子を伺いに行くところでした。何事もなくて安心いたしました」
 内心で深い溜め息をつく。あんな姿を見られでもしたら、一ヶ月は家に帰りたくない。
 ふと、静寂が降りかかった。翠に、いつも以上に見つめられている気がして落ち着かない。多分自意識過剰だ。
 コップを翠に渡して、髪を乾かしに再度洗面台に向かう。普段ならテレビを観るなりして少し落ち着いてから行うのに、聡い翠は違和感を覚えたのかもしれない。
「な、なんでついてくるんだよ?」
「文秋さん。今日は、私にさせてくださいませんか?」
 まさかの申し出だった。そんな照れくさいことを許可するはずがない。
「今日だけ、お願いします」
 切実な声と縋る瞳を向けられて、完全に反論を詰まらせてしまう。ずるい。卑怯だ。
「……ドライヤーの風、大丈夫なのか」
「短時間でしたら、問題ございません」
「……今日だけ、だからな」
 安堵と歓喜を混ぜた笑顔でドライヤーを手に取る。
 他人に髪の毛を乾かしてもらうなんて、小さい頃以来だった。髪型に気を遣うようになった大学生までは、自然乾燥が当たり前だった。
 頭をくまなく撫ぜる動きに眠気を誘発される。他人に乾かしてもらうのは、予想以上の気持ちよさを生み出すらしい。
 鏡越しに盗み見た翠は、とても穏やかで満ち足りた表情を浮かべていた。この時間を、とても堪能している。
 いつしか、自分も同じ心地だった。こんな空気は、藍が来てから久しくなかった。
「文秋さんの髪の毛は、柔らかいですね」
 温風を止めて、櫛で丁寧に梳かしていく。
「まあね。だからワックス使わないとすぐ崩れちゃうんだよ」
 髪を下ろすと歳より若く見られがちなのも理由だった。
「翠の髪も柔らかそうだよな」
 振り返り、訝しげな翠の頭に手を伸ばす。ストレートで艶のある黒髪は、いつでも完璧に整っている。
「うわ、さらさら」
 ひと房摘まんでみたり、軽く撫でたりしてみる。翠は風呂にも入らないが、そうと信じられないほど、世の女性たちの嫉妬が集結しそうな手触りだった。
「……あ、悪い。髪、乾かしてくれてありがとう」
 呆然と見つめる翠の視線に我に返り、そっと手を引っ込めた。気持ち悪く思われて当然な行為をしてしまった。
 最後の蛇足はともかく、予想以上のリフレッシュ効果だった。先程の風呂場での醜態も忘れられそうだ。
「……せっかく、これで我慢しようと、思いましたのに」
 ついでに歯磨きもしてしまおうと鏡に向き直ったと同時、そんな言葉が背後から聞こえた。
 聞き返そうとした声は、途中で短い悲鳴に変わる。
「な、なんだよ。今は、力を使う必要ないだろ?」
 翠の表情は肩口に押しつけられていて、見えない。
 当たり前の突っ込みでもしないと、心音の強さが伝わってしまいそうで怖かった。背中から回された腕を振りほどきたいのに、敵わない。
「文秋さんのご意思に背いた願望であることを承知で、申し上げます」
 悲痛ささえ感じる、必死に絞り出したような声が、首筋までをもくすぐる。
「藍に構わず、どうかまた私をお連れください」
 さらに、引き寄せられた。口からこぼれる吐息はただ、あつい。
「文秋さんが私をお迎えしてくださってから、持てる力のすべてでお護りしたいと、一番のパートナーでありたいと、願ってきました。だからこそ、それが叶わない今が本当に辛くてたまらない……」
 声が震えている。心臓まで締めつけられているような心地だ。
「私は確かに、文秋さんに入れ込みすぎなのでしょう。……藍が気にかけるのも、無理はありません」
 特別な理由が、あるというのか。だが、問いかける余裕はない。
 ないはずのぬくもりが伝わってくる気がするのは、自らの熱のせい?
 苦しい。でも、いやじゃ、ない。
「でも……もう、無理です。もう、私は……」
 言葉を連ねるたびに唇が擦れて、風呂場での自慰を思い出してしまう。否応なしに熱が高まっていく。
 必死に拳を握りしめて、湧き上がる高揚感を抑える。口を開いたら、どんなものがこぼれるかわからない。
 抱擁が解かれた隙に逃れようと後ずさって、失敗した。背中に当たる壁は、何度力を込めてもびくともしない。当たり前なのに、繰り返してしまう。
 正面に立った翠は、両脇に手をついて逃げ場を封じた。
 強く輝くエメラルドに、囚われる。
「お願いです。またお側にいさせてください。文秋さんを護る、たったひとつのパワーストーンでいさせてください」
 触れて、しまう。
 息がかかって、口の中に入り込んで、唇が……重なって、しまう。
「もー、やっと戻ってこれたー!」
 反射的に、目の前の身体を突き飛ばしてしまった。操られたようにトイレに逃げ込む。
「兄さん、こんなところで座り込んでどうしたの?」
「いや、ちょっと探しものをしてただけだ。もう見つかった」
 完全に遠ざかった気配に、ようやくまともに息を吸えた。

 誤魔化せない。
 明らかに、自分は期待していた。あのまま唇が触れればいいのにと、願う心があった。
 そう願う理由は……目を逸らしても、逸らしきれない。

 あんな、異性相手にするような行為でたたみかけてくるなんて、ずるい。
 おかげで、自覚してしまった。後藤の思惑通りに、なってしまった。

 すべてを遮断するように目を固く閉じても、うるさい心音や先程の光景がよみがえるだけだった。ベッドに横たわっても変わらない。
 今だけ、エメラルド部分を握りしめて眠りにつきたい。
 翠が実体化してなければいいのにと、つい願ってしまいたくなった。

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(画像省略)「先輩、もしかしてもしかすると、彼女ができたんじゃないですか?」「は…

俺はエメラルドのご主人様じゃない!

#R18

俺はエメラルドのご主人様じゃない!

第4話 軽く #R18

20240113164650-noveladmin.jpg

「先輩、もしかしてもしかすると、彼女ができたんじゃないですか?」
「は?」
「だって、やっとブレスレットしてきたと思ったら今日はしてないし。だから『私とブレスレット、どっちが大事なの!』って日夜痴話喧嘩を」
「違う! お前のその妄想力はどこから出てくるんだよ!」
 二人だけで残業に勤しんでいるから、現実味のない妄想など生まれてきてしまうんだ。早いところキリのいい部分まで終わらせないと、翠にも無駄に心配をかけてしまう。
 日曜日に、あるルールを設けたいと提案した。
 平日のうち、一日は休息日、いわゆる浄化メインの日を作ること。
 翠は予想通りの反論をしてきたが、もちろん想定済み。あらかじめ購入していたスマートフォンをプレゼントして、互いに連絡し合う案も付け足した。
 これはかなりの威力を発揮したようで、まるで宝物を扱うような手つきで端末を眺めていた翠だった――が、まだ粘られてしまった。
 困り果てた末に取った手段は、「情に訴える」というシンプルながら強力な方法。
『俺だって、ブレスレットがないのは心許ないよ。でも、まだ俺は翠の力をちゃんと把握できてないから、余計に心配なんだ。俺を助けると思って、頼むから聞き入れてほしい』
 端末ごと両手で包み込んで頭を下げると、翠はほぼ反射的に案を受け入れることを了承してくれた。


(全くの嘘じゃないけど、利用したみたいで良心は痛むよな)
 改札を抜けて、足早に駅の出口へと向かう。週の中日はどうしても疲れが溜まるから、早く帰ってベッドにダイブしたい。
 スラックスのポケットから振動が伝わった。画面を確認して、返事の早さにびっくりする。電車を降りる前に連絡を入れたばかりだった。
『お仕事本当にお疲れ様でこざいます! 首を長くしてお待ちしております。何かありましたらすぐにご連絡くださいね』
 やっぱり親みたいだ。
 胸の辺りがほのかに温かい。気を抜くと口の端が持ち上がってしまいそうになる。
「お帰りなさいませ! 鞄、お持ちしますね」
 出迎えてくれた翠が忠犬のようにも見えてきた。鞄を持ってリビングに向かう後ろ姿は、尻尾を激しく振りながらおもちゃを咥えて駆け出しているようだ。
「……え、何か、やけに豪華じゃない?」
 すっかり翠の手料理が落ち着いた夕食だが、今日はまるで地元に愛される定食屋のような、シンプルな盛り付けながら食欲をそそる洋食の数々だった。品数が少ないのにそう見えるのは、翠の盛り付け方がうまいのだと何となく理解できる。
「はい! 残業でお疲れの文秋さんのために、腕によりをかけました。先日、ご迷惑をおかけしたお詫びも兼ねております」
 翠は苦笑を浮かべる。割合としては後者のほうが多そうに見える。あの三日間のことは、よほど悔しかったのだろう。
「……ありがとう」
 ただ礼だけを告げると、翠は口元を綻ばせた。


 思えば、誰かとテーブルを囲んで食事をするのは、年末年始に実家に帰って以来だった。
 作ってもらった料理を食べながら、会話を楽しむ。残業終わりだからこそ、のんびりとしたこの空間が贅沢に感じる。
 翠が一生懸命に話を聞いてくれるのも何だかんだで嬉しい。つい、次から次へと言葉が出てきてしまう。
「後藤様と残業でいらしたのですね」
「明後日までにまとめないといけない資料があってさ。ある程度まで目処はついたから、何とかなりそうだよ」
「月曜日に、課長の大田様からご依頼されていた件ですね。文秋さんが関わっておられるプロジェクトとは別件でございました」
「そう……って、翠まで把握してなくていいって」
「何を仰いますか! 従者として、仕事面でもご助力できるようにしておかなければ」
「本当に、いいんだよ」
 仕事中、やけにおとなしかった理由がようやくわかった。つくづく、自らの使命に対して常に全力な男だ。
 だが、翠に求めている範囲ではない。箸を置いて、改めて向き直る。
「職場だと、ずっと気を張ってないといけないだろ?」
「え、ええ……。確かに、文秋さんの神経は緊張に包まれておりますね」
「最近忙しいのが続いてるから余計にだと思うけど、そんな状態だからこそ家ではリラックスしてたいんだよ」
 言わんとしていることを、翠も把握してきたらしい。二つのエメラルドが大きくなって、自分を照らしている。
「癒やしって役割はお前にしか務められないんだから、それで俺を助けてほしい。もちろん、無理は厳禁だからな」
 翠はぶるぶると全身を震わせると、立ち上がって深く頭を垂れた。相変わらず大げさな反応に口元が緩む。
 癒やしてほしい、だなんて言葉が自然と言えてしまうのも、彼の持つ力の影響なのかもしれない。だが、悪い気はしなかった。
「しかし、文秋さんと特に関わりがある方のお名前や人となりはある程度把握しておきたいと思います」
「え、なんで?」
 顔を上げた翠の笑みが一層深まったが、なぜか背中の辺りに冷たいものを流された気分に襲われたので追求は避けておいた。


「文秋さん。よろしければ、ヒーリングなどいかがでしょう?」
 風呂から上がると、キッチンもリビングのテーブルも綺麗に片付いていた。翠の機嫌も元通りだった。
「ヒーリング?」
「ご説明するより、こちらのページを見ていただいたほうがわかりやすいかもしれません」
 渡されたスマホを受け取る。早速使いこなしているようだ。
「……ああ、天谷さんからちらっと聞いたことがあるかも」
 チャクラというエネルギーの溜まり場みたいな箇所が、上半身の中心を走るように七つ――尾骨、下腹部、へその辺り、胸、喉、眉間、頭頂――ある。チャクラを象徴するカラーもそれぞれ決まっており、例えば緑ならば胸、青ならば喉となる。
 それらの色と同色の石を置いて仰向けにゆったりと寝そべり、石の力で弱ったエネルギーを回復するのがヒーリングというものだ。
「石が揃ってないけど、できるって?」
「問題ございません。私が立派に務めてみせます」
 やけに自信たっぷりなのが逆に気にかかる。
「……もしかして、結構力を使うんじゃ? 石が七ついるのに問題ないって」
「一晩、水晶と月光浴で浄化していただければ回復します」
「ってことは結構消費するんじゃないか!」
「文秋さん。先ほど仰っていただいたことをもうお忘れですか?」
 翠は笑みを深める。嫌な予感も深まる。
「私は癒やしのエメラルドだから、その方面でもっと助力してほしいと」
 自らの言葉で首を絞められる時が、こんな最速でやって来るとは思わなかった。
「それに、嘘は申しておりません。一晩の浄化で充分に回復するのは本当です」
「いかにエメラルドの精製が重労働だったのかがわかるなぁ」
 半目でつぶやくと、翠はわざとらしく咳払いをした。パワーストーンの化身なのに、仕草はどんどん人間に近づいていく。
 就寝の支度を整えて、念のためブレスレットも水晶の上にスタンバイしてからベッドに仰向けになる。いつもはTシャツにトランクスの格好で寝るのだが、今日はハーフパンツを身につけておいた。
 間接照明を背にした翠が、こちらをまっすぐに見下ろす。いつもの柔らかさは鳴りを潜めていた。森の中で寝そべり、ぽっかり空いた空間から夜空を眺めているような気分に包まれる。
「文秋さん、ゆっくり目を閉じてください」
 意識せずとも、瞼が下りた。
 変に緊張が始まってしまう。様子がわからないとこんなに不安になるとは。
 瞬間、身体がぴくりと跳ねた。
 無機質な感触が、股間に近い下腹部から伝わってくる。しかしそれも一瞬で、染み渡るようなぬるい熱に変わる。
「ひ、ぁ……す、翠!」
「お静かに」
 下腹部からへそ、胸の中心へと、翠の手のひらが優しく緩く撫で上げ、熱を与えていく。全身が宙に浮かんだような爽快な気分と、神経の糸が一本でも途切れたら眠りに落ちてしまいそうな緊張感が同居している。
 確かに気持ちいい。いい、のだが。
 くすぐったいだけではない。変な声が漏れてしまう、表現しきれない感触が走っている。
 翠の手は頭頂までたどり着くと、再び下降していく。少し乱れた吐息を吐き出したと同時に指先が通過して、唇を掠めた。
「んっ……」
 短く、息を吸う音が聞こえた気がした。
 止まった指先は、円を描くように全体をなぞる。これも、ヒーリングの儀式なのか?
 謎を残したまま喉と胸を通過し……へそをなぞり、先へと進む。
「あ、ぁ……」
 だめだ、声を我慢できない。下腹部がこんなに弱いとは思わなかった。自ら生み出した熱が中心に集まるのを、いやでも実感してしまう。理性とは裏腹に、かき集めようとしてしまう。
「……文秋さん、終わりました」
 声をかけられても、視界を何とか確保するしかできなかった。気だるくて、うまく四肢を動かせない。
 濃い青と薄い橙の混ざった空間に、翠の輪郭がぼんやりと浮かび上がっている。また余計な心配をかけてしまうと焦るのに、言うことを聞かない。
「文秋さん、大丈夫ですか? もしかしてご気分が優れないとか」
 首を振ると、少しだけ意識が戻った。上半身を懸命に持ち上げる。
 短くも誤魔化しようのない悲鳴が、唇からこぼれてしまった。反射的に腰を引いてしまったのが決定打になる。
 反応している。下着とハーフパンツを窮屈そうに押し上げて、先端を緩く擦りつけている。
 同性相手、しかも性とは全く関係ない行為でこんな反応を示してしまうなんて思いもしなかった。確かにご無沙汰だったが、ここまで見境がないなんて泣きたくなってくる。
「翠、ありがと。すごくよかった。ちょっと、トイレ行ってくるから」
 おざなりな礼になってしまったのを心の中で詫びながらベッドから降りる。この気だるささえなくしてしまえば、ヒーリングの効果を実感できるはずだ。
「お待ちください」
 左腕を捕らわれた。強制的に向かい合わせにされた先の翠は、無駄な真顔で見下ろしている。恐怖さえ感じる。
「っま、てって!」
 腰を引き寄せられ、懸命に足掻いてもさらに力を込められる。早鐘を打つ心臓も、熱が暴走を始めている中心も、翠と触れ合ってしまう。
 彼が知らないことを祈るしかなかった。それならばまだ、うまく逃げるチャンスは残っている。
「……こちらも、私にお任せを」
 囁かれた言葉の意味が、理解できない。
 ハーフパンツの中に滑り込んだものが下着越しに自らの昂ぶりを撫で上げた瞬間、ようやくスイッチが入った。
「や、めろって……翠……!」
 拒否とは裏腹に、翠の手つきに敏感になっていくのがわかる。さらに求めてしまう。
 翠の吐息だけが首筋を何度もなぞっていく。そんな、ほんのわずかな刺激にさえ背筋を震わせて、抵抗する力をますます失っていく。
「怖がらないで……私に、ただ身を預けてください……」
 もはや暗示のようだった。直接触れられているのに、口から漏れるのは吐息混じりのか細い声だけ。翠に全身を預けて、初めての甘すぎる痺れに酔いしれていた。
「も、だめ……い、きたい……」
「ください。あなたのすべてを、私に……」
 囁きが終わると同時に、自らを擦り上げる力が一層強まった。
 全身が引きつり、頭の中が真っ白になる。確かに抜けていく熱と同時に詰まっていた息を吐き出しながら、急速に弱まる意識を他人事のように感じていた。

  + + + +

 昨夜の記憶は曖昧でいたかった。
 ヒーリングをしてもらうためにベッドに仰向けになったところから先は、蜃気楼のように揺らめいたまま、形をなさないでいてほしかった。
 翠はいつも通り、決まった時間に起こしてくれて、朝食の用意も完璧だった。一晩浄化すれば大丈夫、という言葉が本当だったのがわかる。身体も残業だったのが嘘のように軽く、心身ともに爽快感であふれている。
 ……どうして、何事もなかったように翠は振る舞えるんだろう。
 今も、おとなしく姿を消していられるんだろう。
 あくまで、「仕事」の一環だというのか。あんなのも、仕事?
 おかげで問い詰めるきっかけも掴めず、飲み込めも吐き出しもできない塊が喉の奥につかえて、取れないでいる。


「先輩、ぼーっとしてますけど大丈夫っすか? 昨日の残業疲れが残ってます?」
「いや、大丈夫だよ。後藤こそ疲れてるんじゃない?」
「まだ余裕ですよ~。先輩より家近いですしね。余裕で日が変わる前に寝れました」
 休憩所、もとい喫煙所の先客だった後藤と鉢合わせて、やっぱり突っ込まれてしまった。
 昨日残業をしておいて本当によかった。後藤が手際よく作業してくれたのもあって、業務時間内に完成できそうだ。ブラックの缶コーヒーに口をつけて、残りすべてを喉に流し込む。
 ブレスレットは、今は机の引き出しにしまってある。どうしても離れた時間がほしかった。翠も珍しくわがままを言ってこなかったので、気持ちを汲んでくれたのかもしれない。
 それならいっそ、正直に内心を吐露してもらいたい気持ちもあるのだが。
「……あのさ。ちょっと変な質問してもいい?」
 後藤は人懐こい丸い瞳をさらに丸くした。
「先輩が質問なんて珍しいっすね。もちろん、オレでよければ」
 若干、いやだいぶ後悔が押し寄せてきた。だが、今さら取り消しもできない。
 空になった缶をぐぐぐと握りしめて、懸命に声を絞り出す。
「……うっかり」
「うっかり?」
「うっかり、男に股間触られたら、やっぱ気持ち悪いよな?」
 確実に、時が止まった。
 やっぱり引かれた。いくら大らかな後藤でも、さすがに無理な内容だったんだ。自分に置き換えたらどう思う? 真剣に考えようにもふさわしい返答が見つからないし、笑い飛ばしても失礼な気がするし、処理に困るじゃないか。
「わ、悪い! やっぱ俺疲れてるな。忘れて」
「それって、痴漢でもされたってことですか?」
 後藤は、真剣な声と顔で告げてきた。
「い、いや、そう、なのかな……?」
「今は男も女も関係ないって言いますからね。電車の中でされたんでしょうけど、次はちゃんと駅員に突き出したほうがいいですよ」
 ここぞというところで男前を発揮する後藤が、やけにまぶしく見える。
 答えはずれている。それでも、冗談に受け取らず真面目に考えてくれたことがとても嬉しかった。
「……ありがとう、後藤。変な質問したのに、本当に、ありがとう」
「いいえ。っていうか、オレから見ても先輩って可愛いなーとか思うことあるし、そういうことがあってもおかしくないって、実は思ってました」
 感謝の気持ちが、急速に萎んでいく。
 ほんのわずか上にある瞳を睨みつけると、首を思いきり左右に振り返された。
「あ、誤解しないでくださいね! オレそういう気は全然ないんです。ないんですけど、そう見える時があるんだから仕方ないじゃないっすか」
「……感謝して損した」
「す、すいませんって! でもさっき言ったことはほんとですから! だって男女関係なく、痴漢されたら気持ち悪いのは当たり前でしょ?」

 後藤は、またも正しい意見をくれた。
 気持ち悪いと、思うのだ。……「普通」は。

「……あの、先輩。実はオレも、ちょっと訊きたいことが」
 聞いたことのない着信音が鳴り響いた。ポケットからスマホを取り出した後藤に軽く頭を下げて、重量のある扉を開ける。

 何が一番問題なのか?
 それは、「普通」の感情が一切、浮かんでいないことだった。

  + + + +

 酒は敢えてあまり飲まないようにしているのだが、飲み会の雰囲気はわりと好きだ。
 緊張を解いて各々が盛り上がっている姿を見るのが楽しく、微笑ましい。
「浅黄先輩! ちゃんと飲んでます?」
 隣に腰掛けてきた、飲み会企画者の後藤が晴れやかな笑顔を向けてくる。課長に提出した資料が無事通ったのも関係していそうだ。
「飲んでるよ。俺はのんびりやってるから、みんなと盛り上がってきなさい」
「またまた、遠慮しちゃってー。ま、でも先輩はそういう楽しみ方する人ですもんね」
「さっきまで俺巻き込んでわいわいやってたくせによく言うよ」
 頭の中で、感心したように唸る翠の声が聞こえる。一体何を参考にしているのやら。
 あの夜のことは、もう気にしないことにした。気持ちよかったのも、ヒーリングのせいだったと考えればむしろ自然だ。
 念のため天谷に、化身が行うヒーリングについての質問を送っておいた。翠の言葉を疑うわけではなかったが、どれだけの力を消費するのか、ある程度の把握だけでもしておきたかった。
「急に企画したからあんまり集まれなかったのが悔やまれますかね~」
「それでも俺たち入れて十人いるんだろ? 充分だよ」
 後藤はおそらく、自分のために飲み会を開催してくれた。その気持ちだけでもありがたいのに、これだけの人数が集まってくれた人徳にも感謝だ。
 同期に呼ばれた後藤は、再び一番賑わっている男女の輪に紛れていった。
『後藤様は、本当に文秋さんをよく理解しておられますね』
 頭の中にマイクでも埋め込まれたような、翠の声が響き渡る感覚はまだ慣れない。
『いっそのこと、後藤様とお知り合いになれれば私もいろいろと勉強になりそうなのですが……』
「馬鹿、どうやってお前のことを説明するんだよ」
 思わず小声で突っ込んでしまった。
『普通に文秋さんの忠実な従者としてご紹介いただければ構いませんとも』
「それだと俺がかまうの! 全く、しょうがないな相変わらず」
「何がしょうがないんですか?」
 いつの間にか、隣に見慣れない女性が座っていた。他部署の子だろうか?
「い、いや、なんでもないよ。ええと……」
高野涼香(たかのすずか)って言います。部署は違うんですけど、浅黄さんとよくいる後藤くんと同期なんです。こうやってたまに集まったりしてるんですよ」
 容姿も声音も、可愛いという言葉が一番似合う子だった。彼氏がいなければ、水面下では男性社員の凄絶な奪い合いが繰り広げられているに違いない。
「ああ、もしかして後藤待ち?」
「いえ、浅黄さんと一度お話してみたかったなって思って……ご迷惑じゃないですか?」
「いや、そんなことないよ。ありがとう」
 高野の笑顔が一層輝く。酒のせいもあるだろうが頬も薄く色づいて、より可憐さが増している。そんなに喜んでもらえて予想外だが、悪い気はしない。
「後藤くんが、浅黄さんのお話をよく聞かせてくれるんです。優しくて、いい意味で先輩っぽくなくて話しやすいって」
「先輩っぽくないか。それ、俺も最近気にしてるんだよ。威厳なさすぎじゃないかって」
「そんなことないですよ! すごくお話しやすくて、私はむしろ嬉しいです」
 気のせいか、やけに距離が近い。もう数センチも近づかれたら、左腕に彼女の胸が当たってしまう。さりげなく座り直しても、また詰められた。
「後藤くんが、浅黄さん結構人気あるって言ってたんですけど、なんとなくわかります。隣にいるとほっとしますし、笑顔も素敵です」
「褒めすぎだよ。人気あるのは後藤のほうじゃない? 結構いいやつだろ?」
「確かにいい人ですけど、なんていうか……気の合う友達って感じです。本人はよく彼女ほしい! って言ってますけどね」
「それ、俺にもよく言ってる。もうちょっと落ち着けばできるんじゃないか? って言ったら無理だって即答されたよ」
 控えめに高野は笑う。
 どうにも居心地が悪いと言うか、初対面なのにやっぱり距離が近い。どう切り抜けようか、鈍った頭に発破をかける。
「……あの、浅黄さんは、付き合っている方とかいるんですか?」
 こちらを見上げる双眸は、酒のせいか微妙に潤んでいる。丁寧に整えられたまつ毛が細かく震えていた。
「いや、そういう人は特にいないよ」
「そうなんですね! よかったぁ」
 どうにか、声を上げるのだけは堪えられた。
 テーブルの下で、彼女の手が太ももに触れている。
 これは、いくら鈍いと言われる自分でも意図がわかった。わかったが、あまり経験のない事態なのでどう切り抜ければいいのかわからない。度数の低いカクテルを無駄に体内へと流し込むと、小さな笑い声が聞こえた。ますます頭に熱が集中していく。

「失礼、いたします」

 不意に伸びた第三者の黒い腕が、高野の手を持ち上げる。
 短い悲鳴が、騒いでいた後藤たちの空気も変えた。

「……あ、大変申し訳ございませんお嬢様。彼が、私の主人とよく似ておられたゆえ、人違いをしてしまいました」

 ただ、硬直するしかできなかった。
 優雅に頭を垂れて持ち上げる動作を、黙って見つめるのが精一杯だった。
 翠は襖を閉めて、おそらくすぐにある突き当たりの角まで進み、曲がった瞬間に消えた。店の出入口付近は居酒屋らしくオープンな空間だが、このエリアは個室が多い。それが幸いした。
 呆然としていた高野は、駆け寄ってきた他の女性たちに囲まれた途端に我を取り戻した。芸能人を前にした一般人のように、甲高い声で盛り上がっている。
 自分の周りにも、テンションの上がった男共がやってきた。
「いやーびっくりしましたね浅黄さん! あんな執事みたいな人、実際にいるんですねぇ」
「俺コスプレだと思ったよ」
「いや、動きとかマジっぽかったじゃん?」
 もう、笑うしかできない。笑って、迂闊な言動を取らないよう己を守るしかなかった。
「……浅黄先輩」
 隣に近づいてきた後藤は、周りの空気とは真逆の表情をしていた。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ。いやーほんとびっくりしたよ。撮影でもしてるのかって」
 後藤は乗ってこなかった。何かを探すように、視線を右往左往させている。
 とりあえず、飲み会を締めることにした。二次会に誘われたが当然お断りして足早に帰路につく。
 最寄り駅から、敢えていつもとは違う人気のない道を選んだ。こんな気分でまっすぐ家に向かうなど、とてもできない。
「……本当に、申し訳ございませんでした」
 内心を察知したように、翠が姿を現した。すでに頭は深く下げられている。
「文秋さんがひどく困惑されていると思ったら……どうしても、我慢できずに」
「確かに、困ってたよ。ああいう露骨なことされたのは初めてだし」
 多分、と心の中で付け足したのは、告白されてから初めて好意に気づくパターンが多かったからだ。
『あんなにわかりやすい態度だったのに気づかなかったのか』
 友人から、どれだけそう突っ込まれてきただろう。
「でも、あんなとこでいきなり出てくるのはないだろ。俺がどれだけ焦ったかわかるか?」
 少しずつ声が荒くなっていく。翠も深く反省しているようだしいいじゃないか、場所を考えろと理性の残る部分が訴えるのに、跳ね除けてしまう。
「俺だってガキじゃない、何とか切り抜けようとしてたんだ。仕事熱心なのは結構だけど、あんなことまで助けなくていいんだよ!」
 翠はわずかに眉根を寄せて、ただ自分を見つめている。いつもより煌めきの低いエメラルドは、まるで哀れみを向けられているように感じた。
 腹の底から煮えたぎった塊が押し寄せる。ヒーリング中のあの行為といい、度が過ぎているのは気のせいだろうか。
「……文秋、さん。私は、私は……」
 その先を、封じてしまった。催促しても、閉ざした唇を噛みしめるだけだ。
 翠という存在に、ここまで振り回されるなんて堪らない。忠誠心が高いのは結構だが、そんな理由だけで自分のペースを大きく乱さないでほしい。これ以上侵食しないでほしい。言えるほどの言い訳があるなら聞かせてもらいたいぐらいだ。
 ふと、ポケットの中のスマートフォンが震えた。通知欄には天谷の名前が表示されている。
 思わぬ救世主に内容を確認すると、メッセージの主は彼女ではなく藍だった。
「……藍くんが、明日の朝に話があるんだって」
 追記にある、天谷の「本当にごめんなさい」の一文が目に留まったが、今はそれ以上気にかけることはできなかった。

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(画像省略)簡単にキャラ設定をまとめています。■三浦 昇(みうら のぼる) 24…

探偵事務所所長×部下シリーズ

探偵事務所所長×部下シリーズ

簡単なキャラ設定

20240113180210-noveladmin.jpg

簡単にキャラ設定をまとめています。

三浦 昇(みうら のぼる) 24歳

小学生の時、「探偵のおじさん」に助けてもらったことがある。
それ以来、もらった名刺を宝物に「絶対にここで働く」という目標を持って生きてきた。
一途で基本真面目。所長や先輩にはよく振り回されている。


諸見 雪孝(もろみ ゆきたか) 32歳

三浦が勤める探偵事務所の現:所長。祖父から引き継いだ。
現実的で非科学的なものを認めない。
オンオフがわりと激しめ。好きなものには執着が強いタイプ。


田野上 梓(たのうえ あずさ) 28歳

三浦が来るまで、唯一の所員だった。
基本的にクール。二人のことは軽くあしらいがちだが、二人の仲は応援しており、温かい気持ちで見守っている。
お茶請け(お菓子)に目がない。


桐原 綾人(きりはら あやと) 33歳

記者だが、情報を集める手腕に長けているため、雪孝には情報屋扱いされている。
雪孝とは腐れ縁。
ちょっと迫力ある見た目で背も高いため、威圧感を与えがち。
口ではなんだかんだ言いながらも、雪孝のことは頼りにしている。

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(画像省略)「今日は先輩の機嫌いいですねー! 先週はほんとどよーんとしてたから、…

俺はエメラルドのご主人様じゃない!

俺はエメラルドのご主人様じゃない!

第3話

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「今日は先輩の機嫌いいですねー! 先週はほんとどよーんとしてたから、オレどうやって励まそうかと必死に考えて考えて」
「そんなこと考える暇があったら仕事しなさい」
「してますよー。むしろ、先輩のほうがあんまり仕事手につかなかったんじゃないすか?」
 全くその通りすぎて、何も反論が出ない。ここまで遠慮がないと不快を抱く人もいるだろうが、仲良くしている影響もあるのかそこまで気にはならない。彼の人徳のおかげもあるだろう。
 本当に、先週の気分が一新された。昼にローテーションしている店で、頼んだメニューも過去と変わらないのに、おいしく感じるほどだ。
 コップの水を飲み干した後藤は、左腕に視線を向けた。
「やっぱり、そのブレスレットは先輩のお護りなんですね」
 ブレスレットを装着した瞬間、思わず腕を抱き寄せていた。
 本体からもたらされる、包み込むような安心感はふさわしい言葉も出てこない。翠が与えてくれていた力はあくまで一部だったのだと実感する。
「……うん。改めて、そう思ってるよ」
『後藤様の理解力、素晴らしいですね……』
 頭の中で、どこか悔しそうな翠の独り言が響く。
 正直、姿が見えないのをいいことに浮かれ放題になるのではないかと予想していたのだが、意外と静かに(おそらく背後に)佇んでいた。命令もきっちり守っている。
 ただ、後藤に対しては対抗心のようなものを向けているのだ。昼時だけでなく、仕事中もやり取りをするたびに何かしら反応を示していた。
 いつも柔和な翠にしては珍しい。


「後藤様は、あの会社では文秋さんの相棒のような方ですね」
 それとなく振ってみようと思っていた話題を、翠のほうから口にしてくれた。
「まあ、そうなの……かな? 後藤が入社してから一番の付き合いだし」
 料理をもっと覚えたいという、翠のリクエストに応えて購入したレシピ本の成果を口にしながら頷く。味はなかなかだ。
 納得したいけれどしたくない。眉根を寄せた翠の表情は、そう語っているように見えた。
「確かに、お二人の波長は綺麗に重なり合っておられました。後藤様も、文秋さんと同様のお気持ちでいらっしゃるはずです」
「……そう言ってるわりに、今日、ずっと対抗意識燃やしてたのはなんで?」
 一瞬目を大きくするも、満面の笑顔に変わる。
「そんなことはありませんよ。文秋さんに相応しい相棒が職場におられて、喜ばしく頼もしく感じておりますとも」
 もしかして、はぐらかされた?
 翠の意識はテレビに向いてしまった。食べている最中ずっと背後で控えているのが気になって、座って自由にテレビを観ても構わないと促したのがきっかけだったのだが、すっかり気に入ったらしい。
 追求は諦めて、再び料理を口に運び始めた。

  + + + +

 今週は、関わっているプロジェクトが佳境を迎えているのもあって何かと慌ただしい。
 手すりに腕をかけて、ビルや建物の立ち並ぶビジネス街をぼんやり眺める。曇り空の下の建造物は、より無機質に映る。
 本来は喫煙所なのだが、自分のような非喫煙者も休憩所としてよく利用していた。
『文秋さん、本当にお疲れ様です』
 誰もいないからか、翠が労るように話しかけてくる。顔の横でひらひらと手を振ってみせた。
(この分だと、オーナーの店に行けるのは土曜日かな……)
 本当はすぐにでもお礼に行くつもりでいたのだが、この調子だと、寄り道する余裕は今週いっぱいなさそうだった。
「あっ、先輩! ここにいたんですね」
 重いものを引きずるような音に振り返ると、後藤だった。
「悪い、用事だった?」
「俺じゃないですけど。急ぎじゃないって言ってたので、机の上にメモ置いときました」
 どのみち席に戻る予定だったのでちょうどいい。
「先輩、だいぶお疲れみたいですけど大丈夫ですか?」
 すれ違いざまに、後藤の肩をぽんぽんと叩く。
「後藤も無理するなよ? 倒れるなら来週以降でよろしく」
「ひどっ! オレの持久力を甘く見ないでくださいよー?」
 笑いながら喫煙所を後にして、自動販売機に向かう。愛飲しているメーカーのブラックコーヒーを常備してくれているから、いつも本当に助かっている。
『……文秋さん。今、少しだけでいいのでお時間をください。すぐ、済みますので』
 缶を取り出したところで、どこか必死な翠の声が響いた。
 命令を無視するほどの事態が翠に起きているのかと想像したら――思い起こされるのは、あの三日間だった。
 距離的に一番近い給湯室に向かう。シンクで作業をする振りをして、小声で詳細を促した。
『申し訳ありません。手短に質問させていただきます』
 ……質問?
『文秋さんは、後藤様のことを好いておられるのでしょうか?』
 ……違和感が激しく渦巻いている。が、答える。
「そりゃ、好きだよ。仲いいし」
『……質問の仕方を間違えました。ずばり、恋愛感情を抱いておられますか?』
 思わず声を張り上げそうになって、慌てて口元を押さえた。一度肩を上下してから小声で応戦する。
「何言ってるんだよお前は! そんなわけないだろ!」
「しかし……!」
 翠が姿を現してしまった。声にならない悲鳴が漏れる。
「出てる! 身体出てるから!」
 不満げな翠の身体は再び解ける。さりげなさを装って給湯室を出てみたが、幸いなことに目撃者はいなかった。
 ――心配して損した。それ以上に大事でなくてよかった。と思う。
「とにかく、そういう目では一切見てません。わかったらおとなしくしてるように」
 小声で改めて突っ込んで自席に戻る。後藤もすでに戻っていた。……が、動きが止まっている。心配して声をかけると、大げさに反応された。
「あ、す、すいません。ちょっと考え事してただけなんで、気にしないでください」
 珍しいなと思いつつも、仕事モードが進むにつれて頭の片隅に追いやられていく。
 意味不明な翠の質問も脇に置いておきたかったが、家に帰っても口調が若干刺々しかったり、名前を呼ぶたび変にまぶしい笑顔を向けられれば黙って流す真似もできなかった。


「後藤が好きだのどうのってまだ気にしてるのか?」
 ビールを持ってきてくれた翠に前置きなく問いかける。
「何でそんなにこだわってんのか謎だけど、本当にないから。後藤は彼女ほしいーってよく言ってるし」
 翠は無言のまま隣にゆっくり腰掛けた。テレビのリモコンには手を伸ばさない。
「……後藤様と文秋さんの仲がよろしいのは承知しておりました。ですが、実際この目で見たら……その」
 言葉を切った先が気になるのだが、語らずに頭を下げてくる。
「差し出がましいことをいたしました。もう、忘れてください」
 いまいちすっきりしない。今度は自分の眉間に皺ができそうだ。
「俺の好きな人でも聞き出したかったわけ?」
「いえ、そういうわけでは……」
「後藤にも定期的に訊かれるんだけど、いないんだよ。そこまで興味持てないっていうか」
 女性が嫌いなわけじゃない。何人かと付き合った経験もあるが、いずれも長続きはしなかった。敢えて気になる女性を挙げるならあのオーナーとなるが、化身の主同士としての仲間意識が強いのと、男女関係なく普通に仲良くさせてもらいたいという気持ちが大きい。
 基本的に、他人相手に心を揺さぶられることがほとんどない。振られる時の「私を好きかどうかわからない」という台詞にすべてが込められていると思う。
 そういう意味では、翠は初めての相手だった。振り回される日々もすっかり定着してしまった。
「……なんで、ちょっと嬉しそうにしてんの」
 やっぱり、答えてはもらえなかった。

  + + + +

 結局、オーナーの店に行けるのは予想通りの土曜日になってしまった。
 用意してくれた昼食を食べながら、隣で興味深そうに昼の情報番組を眺めている翠に告げる。
「文秋さんが私をお迎えくださったお店ですか?」
「いろいろ世話にもなってるからね」
 翠の目元に力が入ったように見えた。自身が売られていた店だから、やはり気になるのだろう。
「店に行くなら事前に教えてよね。そうしたら連れてってもらうようにチアキに言ったのに」
 ちゃっかり遊びに来ていた、というより自分の主ぶりチェックに来ていた藍が軽く睨んでくる。
「チアキ?」
「あんたがオーナーって言ってる僕の主の名前だよ。何か書く物ある?」
 鞄から常備しているメモ帳を取り出して渡す。西洋の服を身につけた青年が現代の道具をいじっている光景がどこかミスマッチで面白い。
 返ってきた紙面には、「天谷千晶(あまやちあき)」という文字が書かれていた。
「ついでに言うと、千晶もこのマンションの住人だよ。この上の部屋に住んでるの」
 さらっと、とんでもない爆弾を落とされた。
 藍は呆れたように溜め息をついている。
「本体が近くになかったら、こうしてここに来れるわけないでしょ? 僕らは、隣の部屋までの距離くらいなら移動できるんだよ。ここで言ったら、隣の四〇二号室までね」
 ブレスレットを持たなければ翠が移動できないのは本体から遠く離れられないせいだと、翠との買い物を拒否した時に何となく把握していたのをすっかり忘れていた。それでなくとも、改めて考えれば容易にわかることだった。
「お伝えしそびれていました! 大変申し訳ありません、文秋さん」
 弟に突っ込む隙を与えないためか、素早く立ち上がって素早く頭を下げてくる。
「いいって。ありがとう、藍くん」
 まだまだ勉強が足りない。時間を見つけて、少しずつ知識をつけていかなければ……。
 藍はそのまま、用事があるからと姿を消した。
「全く、藍は相変わらずですね……重ね重ね、失礼で申し訳ありません」
「別に気にしてないし、むしろありがたいよ。翠もいろいろ教えてくれよ?」
「……はい。ですが、文秋さんは何も気になさらないでいいのです。これは、私の夢だったのですから」
 向けられたエメラルドの光は、木漏れ日のようにとても優しい。けれど、ただ浴びてばかりいるわけにもいかない。
「主が怠慢でいいって? また倒れたらどうするんだよ」
「怠慢ではございませんし、二度と失態も犯しません。文秋さんのためなら、私はいくらでも頑張れます」
 翠をうまく制御する側に回らないといけないことを、徐々に把握してきた。主としての自覚がようやく生まれてきた気がする。
 しかし、相変わらず一途すぎるくらいに一途な男だ。どことなく恥ずかしさを覚えて、さりげなく目を逸らしてしまう。
「ええと、買い物にでも行くか。店には夜行こうと思ってるから、天谷さんに伝えておかないと」
「かしこまりました。今回は、お供させていただけますよね?」
「……いいけど、姿は消したままだぞ」
「ええ! 今日こそは荷物持ちをと思いましたのに!」
「そんな目立つ格好でさせられるわけないだろ!」
 渋る翠を、違和感なく外出できるよう服を購入してあげるという約束で丸め込むことに成功する。黒髪のせいか双子の藍とは違って東洋寄りの印象が強いために、ジーンズとシャツというシンプルなスタイルも問題なく着こなしていた。
「文秋さんが私のために選んでくださった服……ずっと、大切にしますね」
 試着室で心から嬉しそうな笑顔を向けられて、ちょっと可愛いと思ってしまったのは絶対に言えない。


「あら、あらあら……そうなの、あなたがエメラルドに宿っていたのね」
「翠と申します。文秋さんのもとへお導きいただいて、大変感謝しております」
「藍と全然タイプが違うのね。興味深いわ」
 頭のてっぺんから足の先までをまじまじと観察する天谷の視線をにこにこと受け止めている翠の図は、彼が復活した時の自分を思い起こさせた。
 閉店後の店内は、元々の店の雰囲気と混ざって本当に落ち着く。
 観察し終えた天谷は、カウンターの裏に腰掛けて優雅に微笑んだ。
「無事に回復されたようで、本当によかったわ。藍も私も、ずっと心配していたから」
「いえ、こちらこそ。藍くんには浄化の道具も用意してもらって、本当に助かりました」
 バッグから財布を取り出すが、なぜか緩く首を左右に振られた。
「お代は結構よ。翠さんを紹介してくださったから、それで帳消し」
「で、でも」
「またお話を聞かせてくださったり、新しい石をお迎えくださればいいから。気にしないで」
 一段と深い笑みを見せられれば、これ以上強気には出られなかった。素晴らしい人だと、つくづく感心してしまう。
「あと、できたらIDを交換しても? 私や浅黄さんのような人って他にいないから、いろいろお話させていただけると嬉しいわ」
 スマートフォンを片手に微笑む天谷に全力で頷いた。とても心強い味方を得られて、自分こそ願ったり叶ったりだ。
 画面から視線を上げた天谷は、後ろに控えている翠と目が合ったようだった。どこか訝しげだったのが、まるで子どもを連想させる無邪気な表情に変わる。
「ねえ、浅黄さん。本当に、翠さんが戻ってきてよかったわね」
「え? あ、はい。そう、ですね」
「この間と表情が全然違うわ。とても落ち着いてる。翠さんが近くにいると自然体でいられるんじゃないかしら?」
 素直に頷いていいのかわからない。
「浅黄さんが思ってる以上に、心を許している証拠なのかもしれないわね」
「や、やだなー。いきなりそういうこと言わないでくださいよ」
 背後を振り向けない。絶対、喜んでいる。気配がものすごく伝わってくる。
 同居状態にもすっかり慣れたし、翠の存在に助けられている部分も多々あるが、許すは飛躍しすぎている。まるで彼がいないと何もできないみたいじゃないか。
「そ、それなら天谷さんだって藍くんに心を許してるってことですよね?」
「もちろんよ。私にとっては……そうね。仕事をする上では、特に大事なパートナーよ」
 我ながらよくわからない突っ込みになってしまったが、天谷はあっさりと頷いた。
「アクアマリンって、コミュニケーション能力を高めてくれるお守りでもあるの。地元の人がたくさん来てくれてるのは、藍のおかげね」
 想像できなかった。あんなにストレートすぎる物言いの藍に、コミュニケーション能力を高めてくれる力があると?
「ときどきお客様から『どういう石がいいのかわからない』って質問をされることがあるんだけど、必ずお話を伺ってから石を選ぶようにしているの」
 どういう効力を一番に求めているか、を見極めるための話だという。一見簡単そうだが、表面だけをなぞるような内容ではもちろん意味がないし、踏み込みすぎるのもプライバシーにかかわる。絶妙な距離感での会話は、確かに難しい。
「浅黄さんも、ブレスレットを見た時はピンと来たでしょう?」
「……そうですね。こういうお店自体初めてだったのに、不思議と」
「他のお客様もそういう反応をしてくださることが多くて、そのたびに藍の力を実感するの。石の知識も豊富だし、本当にいい先生でもあるのよ」
 天谷は心から嬉しそうに笑う。素直に、素敵な関係だと微笑ましくなった。
「……でも、今も浅黄さんの家にときどきお邪魔しているんでしょう? それは本当に申し訳ないわ。私も勝手に上がるなと言ってはいるのだけど聞いてくれなくて」
 肩まで落とす天谷に、苦笑しながら首を振る。
「藍くんは、俺が主として頼りないから心配で仕方ないんですよ」
 二人のような関係を築けていけるか自信はないし、翠は無意識に甘やかしてくるけれど、もう少し主らしくしたい。そういう意味でも、藍と天谷という助っ人はとても心強かった。
「藍くんに認められるように、ってわけじゃないですけど、これからも翠にふさわしい主でいられるように頑張るつもりです」
「文秋さん……!」
 翠が両手を握りしめて、自らの額に持っていく。若干伝わってくる震えに泣いているのかと焦ったが、こちらを映した翠の瞳は高価な宝石のように輝いていた。
「もっと、私を頼ってください。エメラルドの力でお護りするのも、家事も、その他何でもやらせていただきたいです!」
「それ、もう化身のやる範疇を超えてるんじゃ……」
「そんなのは関係ございません!」
「……翠さんと藍は、確かに兄弟ね」
 天谷のつぶやきが、静かにその場を満たした。


 羽織ったパーカーの上から感じる夜風は、昨日に比べると涼しい。つい数日前もそう感じる日があったのを思い出して、秋の訪れを少しずつ示唆しているかのように思えた。
 近くのコンビニで買い物をした帰りだった。帰宅してから買い忘れに気づき、お供しますと主張する翠を懸命に宥めてきたので若干疲れている。
 天谷の「二人は兄弟」という言葉が心の片隅に引っかかっていた。愛情があふれているという意味なら、翠はあくまで忠実に使命を果たしているだけに過ぎない。
 むしろ、そのほうがありがたい。男にあんな熱い想いを向けられたら逆に困ってしまう。
 頭の中のもやもやを解消したくて、エレベーターではなく階段を使って四階まで移動する。ふと、ポケットの中身が震えて踊り場で足を止めた。
 通知欄には、「天谷千晶」の文字が浮かび上がっている。
『今日は本当にありがとう。翠さんは、浅黄さんのことがとても大事みたいなので、頑張りすぎてエネルギーが切れないように、気をつけてあげてください』
『こちらこそ、いろいろとありがとうございます。翠は自分の使命にとても誇りを持っているみたいですよ。確かにまた無理をさせたら藍くんにも怒られますし、ちゃんと見ておきます』
 すぐ実行に移せそうなのは、翠が力を使いすぎてしまっても充分な回復を行うようにすることだった。あるいは、致し方ないが一週間のうち一日だけブレスレットを「留守番」させておくのもよさそうだ。
『確かに、翠さんはとてもお仕事熱心な方たけど、本当にそれだけでしょうか? 私には、愛情が感じられましたよ』
 一体、何を言っているのかわからない。
 愛情と言われても困ってしまう。とりあえず当たり障りのない返事を送っておく。
「ただいまー……」
「文秋さん! ご無事でよかった……!」
 翠がすっ飛んできた。誇張ではなく、本当にリビングからダッシュでやってきたのだ。
「な、なんかあったのか?」
「それはこちらの台詞です! 近くのコンビニとは徒歩五分ほどの距離にあるコンビニですよね? もう三十分も経っております!」
 身体中をぺたぺた触る手つきがくすぐったい。考えごとをしながらのんびり買い物をしていたら、だいぶ時間を消費していたらしい。
「大丈夫、大丈夫だって! どこも怪我したりしてないよ」
「本当ですか? もう、あの時無理を通してでもご同行するべきだったと後悔しきりで」
「女の子ならともかく、俺は男だよ?」
「そういう油断はいけません!」
 真剣な口調で言い切られてしまった。
「文秋さんはご自分の魅力に全く気づいておられない。それに、男でも関係なく物騒な事件に巻き込まれる可能性は大いにあります。もっと危機感をお持ちください」
 形のいい眉をつり上げて怒る翠を呆然と見つめて、思わず漏れたのは笑い声だった。
「な、なぜ笑われるのですか! 私は真剣に」
「真剣だから、なんだか親みたいだなって思っちゃって。もし父親が生きてたらこんな感じなのかも? とかさ」
 まるで風船がしぼんだように、翠から勢いが消える。気を遣わせたくなくて、努めて声を張り上げた。
「俺と姉さんが小さい時に病気で死んでるから、あんまり覚えてないんだよ。お袋が母親兼父親みたいなパワフルな人でさ。寂しいとかは意外とないんだ」
 そんな人だったから、もしかしたら父親はとても穏やかな性格だったのかもしれない。母親が「あんたの雰囲気はお父さんにそっくり」と教えてくれたことがあったのを思い出した。翠も同じような空気を纏っているし、やはりさっきの感想は間違いではない気がしてきた。
「文秋さん……!」
 ふわりと、包み込まれた。このタイミングでエメラルドの力かと思ったが、あの感覚はやってこない。
「私は本当に、文秋さんにお仕えしてよかった」
 さらに抱き寄せられた。呼吸が苦しいのは、力のせいか、乱れた吐息のせいか。
 まぶしいほどに一途な気持ちが、触れた箇所から流れ込んでくる。
「私の判断は間違っていなかったと、改めて思えました」
「……てことは、迷ってたんだ?」
 否定しながら抱擁を解いた翠の眉は、きれいな八の字を描いていた。
 本当に吐露していいのかと悩んでいる。今さら何を言われても驚かないが、翠の判断に従うことにしてただ、見つめ返す。
「実は……文秋さんがエメラルドをお迎えしてくださってから一ヶ月ほどで、実体化が可能な状態にありました」
 言葉の内容を理解するまでにおそらく三十秒は時間を要して……何度も何度も、喉を鳴らした。後出しジャンケンにしては強烈すぎる真実だった。
 タイミングを、図っていたというのか。
 内心を悟ったのか、力なく首を左右に振る。
「ずっと、臆病だったのです。いきなり姿を現して、主と仰いでいいのかと。文秋さんのご迷惑にしかならないのではないかと」
「……あの時は、とてもそんな風には見えなかったけど」
 実体化が叶って嬉しいと、素直に喜んでいたようにしか見えなかった。
「我慢が、できませんでした」
 まっすぐに見つめてくる双眸は、木々の隙間から漏れる光を想像させた。
「文秋さんのことを知れば知るほど、力で癒やすだけでなく直接支えたいと、願望が募ってどうしようもなくて……実体化を、選びました」
 どこまで忠誠心が高いんだ。高すぎて、あふれて、なおも満たそうとしてくる。
 白い手袋に覆われた手が、頬に辿り着く。つうっとなぞられて嫌悪感を抱くべきなのに、鼓動が速さを増していく。
「これからも、私を頼ってください。お疲れになったら遠慮なく、私に寄りかかってください。どんな文秋さんも、私は受け止めます」
 満面の笑顔が残像のように焼きついて、いくら瞬きをしても消えそうにない。
 変に浮き立つ気持ちを悟られたくなくて、何とか言葉をつなぐ。
「ありがとう。でも、無理だけはしないでくれよ。藍くんにも怒られるしな」
「……藍は、関係ありません」
 自らつぶやいた内容に驚いたのか、すぐにいつもの柔和さを取り戻してリビングへと促される。
 それでも、顔を逸らした時に一瞬浮かび上がった「無」の表情が、やけに印象に残った。

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(画像省略) 次の日になっても、翠の容態は回復していなかった。 アラーム代わりの…

俺はエメラルドのご主人様じゃない!

俺はエメラルドのご主人様じゃない!

第2話

20240113164650-noveladmin.jpg

 次の日になっても、翠の容態は回復していなかった。
 アラーム代わりの声掛けがなく、朝食の用意もないまま、昨夜と変わらない場所でぐったりとしていた。
「浄化、全然効いてないじゃないか……!」
 月光浴をしてもらえれば大丈夫だという言葉に従い、一晩中ブレスレットを窓辺に置いていたのだが結果は変わっていない。満月でないのかいけなかったのか、他の理由があるのか、教えてもらえる余裕もなさそうだ。
 とりあえず手早く支度を済ませて、スマートフォンで浄化について調べる。他に有効そうな方法はブレスレットにも使われている水晶を使うものだった。天然の氷柱をひっくり返したような、水晶の塊であるクラスターと呼ばれるものや、小石ほどの大きさの水晶たちを器に敷き詰めた上に、ブレスレットを置いておけばいい。だがタイミング悪く、どちらも買い揃えていなかった。
 荒い呼吸を繰り返す翠を見つめながら必死に思考を巡らせる。
 あの状態が続くとどうなる? よからぬことが起きるのは間違いない。最悪、消えてしまう可能性もありうる。
 ――消える? 翠が?
 もし消えたとしたら……ブレスレットは、エメラルドは、どうなる?
 視界がぐらついたような感覚に襲われる。本体に、何も影響が出ないわけがない。ただ、ゼロではないとしたら?
「……文秋、さん」
 気持ちの揺れを制止するように、弱々しい声が響いた。
「このようなことに、なってしまい……重ね重ね、申し訳ございません。完全に、私の落ち度です」
 心配をかけまいとするためか、必死に口端を持ち上げようとする姿が痛々しい。そんな気遣いは……してもらう資格なんか、ないのに。

「もういい加減にしなよ兄さん!」

 背後から、突然別の声が割り込んできた。
 反射的に振り返ると、翠と瓜二つの顔が、はっきりとした苛立ちを刻みながら立っていた。
「……貴族?」
 少年と表現してもふさわしそうな、翠よりも幼い顔つきをしている。胸元の白いフリルが特徴の、紺色を基調とした貴族のお坊ちゃん風の服装に身を包んでいる。
 ……混乱が過ぎて、逆にまじまじと観察してしまった。
「ちょっと、君どっから入って」
「いいからあんたは黙っててくんない?」
 ぴしゃり。そんな擬音が聞こえてきそうな断絶ぶりに文字通り言葉をなくす。
 明るい茶髪の青年は翠に近寄り、覗き込むようにしゃがんだ。
「……いいと、言ってるだろう。私から説明して、今夜にきちんとした浄化を」
「そんなの、間に合うかわからないでしょ⁉」
 二人は兄弟か双子だということだけは、どうにか理解した。それならば翠と同じ化身なのかもしれない。確証はもちろんない。
「ちょっと、あんた」
 青年の瞳はとても綺麗なアクアブルーだが、鋭い氷のような印象だった。
「パワーストーンの主の自覚、なさすぎ」
 一層鋭くなった双眸に、容赦なく射抜かれる。
 テーブルの上にあったブレスレットに手を伸ばされても、止められなかった。
「私の主に、余計なことを」
「いい加減、無駄に強がるのはやめなよ。パワーストーンの役目、果たせなくなるよ?」
 完全に翠が押し黙ってしまった。
 立ち上がった青年は、再び鋭利な視線を送ってくる。
「僕が兄さんの面倒をちゃんと看ておいてあげるから、仕事が終わったらすぐ帰ってきなよ。その時に、改めていろいろ話聞かせてもらうから」
 翠に似た声色だが、口調のせいで柔和なイメージは全く浮かばない。美形の迫力に、声も出せないまま頷くしかできなかった。
「……じゃあ、行ってくるよ」
 翠は痛恨を滲ませた双眸で見返していたが、なぜか勢いをつけて立ち上がった。
「見送りだけでも、させてください」
「兄さん」
 翠は無言で、咎めた青年を振り返る。一瞬息を詰めて顔を逸らした青年にどんな視線を送ったのか気になったが、向き直った翠は柔和な笑みを保とうとしていた。
「文秋さん。少しだけ、よろしいですか?」
 靴を履いたところでそう声をかけられ――いつもの、落ち着きを与えてくれた。
 違うのは、背中に回された腕の力だった。微妙に震えていて、弱い。
「あの、さ。これってもしかして、エメラルドの力ってやつを与えてくれてるのか?」
 頬に触れた頭が上下に動いた。
 まさか、今までのもそうだったというのか。だから、一晩の浄化だけでは足りなかった……?
「お時間、いただいてありがとうございました。どうぞ、お気をつけて」
 変わらない笑みに、何も言えなくなってしまう。
 どうして、そんな状態にあっても自分を優先するんだ。
 一瞬でも見捨てようとしてしまった、主失格な自分を。


「先輩! 先輩、大丈夫ですか?」
 いきなり、目の前に犬のような丸い瞳が飛び込んできた。
「食う手が止まってますよ。やっぱり昼ついてってよかった~」
 どうにも食欲が湧かない、けれど息抜きはしたい。迷って近くのうどん屋に行こうとした時、強引に後藤がついてきた。お喋りも気が紛れていいかもしれないと思ったのだが、効果はいまいちのようだ。
「今週はずっと元気ないなって思ってましたけど、今日はもっとですね。やっぱブレスレットがないから?」
 合っているが、間違ってもいる。後藤は肯定と取ったらしい。
「いつも近くにあるものがないと気持ち悪いですしねー。そうだ、これを機に他の石も持ってみたらどうです?」
「……そうだな。ちょっと考えてみるかな」
 思わず小さく笑うと、後藤はまるで教師のようにうんうんと頷いてみせた。
 相変わらず、懐の広い性格をしている。ブレスレットを目に留めた後藤にパワーストーンの話を軽くしてみた時も、面白がってはいたものの馬鹿にはしなかった。
 正直、家に気になる要素が多すぎて仕事が手につかない。今日中に片づけなければならないタスクや会議がなくて本当によかった。
 あの青年は誰なんだ。どこから入ってきたんだ。「兄さん」と呼びかけていたけど、本当に兄弟なのか。だとしたら、つまりエメラルドの化身なのか。一つの石に二人も宿っていたのか。翠はどうして浄化が効かなかったんだ。
 ブレスレットを持っていたということは……本体にも、影響があるのか。
 内心、苦笑するしかなかった。結局、ブレスレットが一番大事な事実は変わらない。
 少なくとも、それだけは知る必要があると思った。一瞬でも翠を見捨てようとしてしまった罪滅ぼしの意味もあった。


「もう夜の八時じゃん。遅すぎ」
「……これでも、早めに帰ってきたほうなんだ。会社からここまで一時間はかかるんだし、仕方ないでしょ」
 玄関を開けた途端、朝よりも鋭利さの増した瞳と声に一瞬怯むも、負けじと言い返す。
 リビングに入ってすぐ、違和感を覚えた。
 朝にいたはずの姿が、消えている。気配もない。寝室も覗いてみたが、やはりいない。
 まさか、日常が、帰ってきた?
 非日常はいらないという願いが、叶ったのか?
「……兄さんが気になるの?」
 背中にかけられた問いに、一瞥するしかできなかった。心が揺らいだまま安定しない。
 青年は呆れたように溜め息をついた。明らかに非難されている態度に、さすがに苛立ちを隠せない。
「君、ねえ。こっちはまだ事情も何も知らないんだよ。なのに、そういう態度はないんじゃないか?」
「僕はアクアマリンの化身。名前は、和名の藍玉から取って(らん)。どうぞよろしく」
 一歩距離を詰めて、こちらを睨むように見上げた青年――藍はそう名乗った。
「兄さんとは双子の兄弟。兄さんが実体化してたのは知ってたから挨拶しようと思ってたんだけど、ずっと止められてたんだよね。あんたが混乱するからとか言って」
 さらに距離を縮められて、仰け反るあまりソファーに尻餅をついてしまう。藍は腰に手を当てて、澄んだ水色の双眸を細める。
「頑張ってやっと兄さんから聞き出せたんだけど、エメラルドを精製したんだって?」
 翠自らが望んで行動に移しただけだ。こっちは何も悪くない。
 そう反論すべきなのに、迫力に気圧されて言葉が出ない。
「兄さんは何も言わなかったと思うけど、一番負担かける行為なんだよ。一晩の月光浴程度じゃ全然回復しないんだ」
 目の前から退いた藍は寝室へ向かうと、窓辺でかがんだ。手に持っているのはガラスの皿のようだが、家にはないものだ。
「それ、どこから持ってきたの?」
「僕が揃えてあげたの。兄さんを助けるためだもん、当たり前でしょ」
 テーブルに置いた皿を覗き込む。
 ブレスレットの下に、小石状の透明な石――水晶が敷き詰められている。朝に調べた、水晶を使った浄化だ。
「あれだけ弱ってたら、水晶は絶対必要なの。じゃないと、兄さん……エメラルドの力は回復しないよ」
 エメラルドをよく見るよう言われ、器をそっと持ち上げて間近に捉える。
 いつもと変わらない、鮮やかな海のような淡い輝きを秘めている。……と思っていたら、すぐに違和感を覚えた。
「曇って、る?」
 まるで霞に囚われてしまったかのように、鈍い輝きに変化していた。オーナーの店で初めて出会った時の感動を、感じられない。
「力を異常に消費した状態だったんだから、そうなるのも無理ないよ」
「……じゃあ、まさか翠が消えたのって」
 本体であるエメラルドが、パワーストーンとしての役目を果たせなくなった。そのサインに過ぎなかった?
 藍は口を開きかけて、閉じた。
「あんたにはむしろ、その認識でいてもらったほうがいいかも」
 背筋が冷えた心地がした。あの時翠を見捨てていたら、本体自体の力も失っていたのだ。
 どうして言ってくれなかったんだ。動きかけた口は、止まる。
 それを素直に聞く余裕が果たしてあったかと問われたら自信がない。翠が距離を作ってくれていたのも、あくまで自分のためだった。
 朝に告げられた「失格」の二文字が、改めて心臓を抉る。
「今日を入れて、三日間」
 三本まっすぐに伸ばした藍の指と顔を、交互に見つめる。
「この皿に入れたまま、日中は日の当たらないところ、夜はさっきみたいに窓辺に置いておくこと」
 輝きを失ったエメラルドを、改めて見つめる。
「あんたは一応、兄さんの主なんだからね。少しでもサボったりいい加減な態度取ったりしたら承知しないから」
 振り返ると、藍の姿はきれいに消えていた。あまり驚かなくなっている自分に、思わず苦笑してしまう。
「……なんなんだよ、一体」
 愚痴は、あまり好きではない。というよりも、うまく言えない。それでも、こんな状況に陥ればいやでもこぼれ落ちてしまう。
 ブレスレットと水晶で飾られた器を持って、寝室にある窓辺に向かう。少しでも月の光を浴びられるよう、ぎりぎりに置く。
 水晶やアンバーは、変わらないきれいな輝きを放っていた。だからこそ、エメラルドの曇りが目立ってしまう。
 購入してから、他人にはただの石に見えても護りの力を常に感じていた。そばにいないと心細くなるほどに、大事な相棒となっていた。
 翠は違う。エメラルドの化身と言われても、自分から見れば赤の他人に等しい。
 元々、他人に深く踏み込まれるのは苦手だった。後藤は一見遠慮がないように見えるが、空気を読む力に長けているのかちょうどいい距離感を保ってくれる。稀な存在だった。
 翠は、明らかに踏み込んでくるタイプだった。それなのに……そばにいると、心のどこかでほっと息をついている自分がいる。一人が好きなはずの自分が、他人に安堵感を覚えている。
 エメラルドの持つ癒やしの力のせいとしか思えなかった。
 水晶の上で眠る本体に、指先を乗せる。力が回復すれば、翠も戻ってくる。彼がそばにいる日々がまた、始まる。
 どうして、嫌悪感がないんだ。

  + + + +

 店を訪れるのは久しぶりだった。
 観葉植物で彩られた軒先に、見上げれば茶色の背景に白い文字で書かれた店名「BANDE STONE(バンデ ストーン)」がライトで浮かび上がっている。
「いらっしゃ……あら、浅黄さん。ちょっとだけ、お久しぶりかしら?」
「そう、ですね。閉店間際に来てしまって申し訳ないです」
「そんなの、お客様なんだから気にしなくていいのよ」
 初対面の時から身につけている、深紅の薔薇色に似た石が耳元で揺れている。微笑みは相変わらず、優しい。
 この店に来ると、本当に心が和らぐ。パワーストーンを扱っている以上に、オーナーの人柄がこの雰囲気を作り上げているのだと実感する。
 この店は家から歩いて行くと三十分くらいかかるのだが、特に土曜日は地元の人で溢れている時が多い。住んでいるマンションで見かける顔も数人混じっていたりする。皆、オーナーと話をするのが楽しいみたいだ。
 店内を歩き回ってみる。ネックレスやピアスなど、特にアクセサリーは女性向けの商品が多いが、ブレスレットならユニセックスなものも目立つ。
 中央のテーブルに視線を移した。相変わらず、店のお守りのように水晶の球体が真ん中に置かれている。その周りを囲うように、様々な天然石のタンブルや小さな水晶クラスター、浄化セットなどが飾られていた。
 後藤の案を本当に採用したわけではないが、眺めていても第六感が刺激されるような石はない。
「……話が、あるのでしょう?」
 そっと、声をかけられた。初めから見抜いているような物言いだった。
「それは、浅黄さんが購入してくださったブレスレット。もっと言うとエメラルドの化身……かしら」
 思いきり、オーナーを振り向いてしまった。
「あ、いや……すみません、ちが」
「大丈夫。私は、ちゃんと事情を知っているから」
 オーナーは手早く外にある植物たちを片付け、店側に向けられている「ありがとうございました。またご来店ください」の札を裏返した。
 カウンターの裏に腰掛ける姿がスローモーションに映る。超能力的なもので見破られたのではと、奇天烈な想像までしてしまう。
「パワーストーンの中には、特別強い力を持っているものがあるの。浅黄さんがお持ちのエメラルドは、まさにそれに当てはまる石だった」
 勧められた椅子に、力なく腰掛ける。
「……力がある石なら、何でも実体化するんですか?」
「そういうわけでもないみたい。石との相性が最高に合っていること、大事に想う心の二つが最低限の条件と言われているけど、それでも稀な現象らしいわ」
 翠も似たことを言っていた。それだけの奇跡が……この身に、おりたのだ。
「……突然、現れたんですよ。今日から俺が主だから、よろしくお願いしますとか、何とか言って。でも、今はいないんです」
「本格的な浄化が必要な状態なのね」
 オーナーを凝視してしまった。どうしてこの人は、こんなにも現状を見抜いてしまえるんだろう。
「実は、ね。私も、ある石の化身と暮らしているのよ」
 頭に浮かんだのは、あの生意気なアクアマリンの藍だった。
 オーナーは短い溜め息をつく。
「名前は藍。アクアマリンの化身よ。挨拶もなしに浅黄さんのところに突撃したみたいで、無礼なことをしてしまって申し訳ないわ」
 心臓が無駄に強く脈打ち始めた。まさかこんな近くに、自分と同じ非日常を経験している人がいるなんて……偶然の二文字では、とても片付けられない。
「藍から事情を聞いて納得したけど……あの子はお兄さんが、本当に大好きだから」
 大好きだとしても、初対面から過激すぎて正直行きすぎだと思っているのは……さすがに言えない。
 オーナーは小さな苦笑をこぼす。
「浅黄さんにお渡ししたあのブレスレットだけど、実は藍の助言があったからなの」
 思わぬ告白だった。
「とてもお疲れだった浅黄さんが気になって声をおかけしたのは私の判断だけど、ブレスレットは藍の選択よ。特に、強い力が宿っているエメラルドが絶対に護ってくれるはずだと、言っていたわ」
 その選択が正しかったのは、自らが証明している。
 自分を信じて、兄を預けてくれたようなものだ。その思いを踏みにじってしまっただけでなく、取り返しのつかない事態までを起こそうとしていた。
 オーナーの顔までもを見るのがつらくなる。
「これは、藍には内緒ね。絶対喋るなって釘を刺されてるから」
 いたずらっぽい笑みにつられて、唇が持ち上がる。
「エメラルドが心配で仕方ないって顔をされているけれど、藍の言う通りに浄化していれば大丈夫よ」
 思わず、自らの頬に触れてしまう。
 ブレスレットは、今も水晶の上で眠り続けている。翠も現れる気配はない。朝から晩まで浄化に充てているのに、充分ではないという証だ。
「……おかしい、ですよね」
 オーナーは何も返さない。それが、自分のペースを尊重してくれているように思えてありがたかった。
「俺、翠とはまだ一週間くらいしか過ごしてないんです。他人同然のはずなのに……俺は」
「あくまで姿がなかっただけで、浅黄さんとずっと一緒にいたのよ」
 オーナーの柔らかくも力強い言葉が、染み渡っていく。
「化身が現れるのは、それだけ相性が最高に合う存在だということなの。中には、自分の半身みたいに感じる人もいるそうよ」
 半身、という言葉が驚くほど腑に落ちる。だから、
「そのパートナーが隣にいないのだから、悲しくなるのも心配になるのも当然だわ」
 オーナーの、藍を誰よりも信用している気持ちが、言葉の端々から伝わってくる。
 どんなものよりも説得力にあふれ、心強く感じる。たったひとりの仲間の存在が、臆病な心に喝を入れてくれる。
「実体化して浅黄さんの前に現れたのも、ある意味必然だったのでしょう。エメラルドは癒やしの石だから、きっと全身全霊をかけて浅黄さんをお護りしたかったのでしょうね」
「そういう言い方、ずるいですよ」
 心の周りに張り巡らせていた壁が少しずつ剥がれていく。
「明日になったら、エメラルドの化身は戻ってくる。だから、早くそばにいてあげて」

  + + + +

 アラームが鳴る時間よりも早く、目が覚めてしまった。
 ぼんやりと窓の外へ目を移すと、すでに陽光で塗り替えられている。エメラルドの浄化が、終わりを迎えたのだ。
 頭に巣食う靄を軽く振り払ってベッドから下り、窓辺に歩み寄った。ガラスの器を持ち上げる。
「……もどって、る」
 思わず、声に漏れていた。
 あの日、購入を決めた淡く透き通った輝きが戻っている。見惚れる美しさが、宿っている。
 ブレスレットを持って、リビングに続く引き戸を勢いよく開けた。
「えっ、文秋さん!?」
 キッチンから、黒の塊が現れる。
 黒い頭のてっぺんから中央で分かれた前髪、エメラルドグリーンの双眸、驚きで半開きの唇、暑そうな執事服、黒い靴下で覆われた足……視線をゆっくり、送る。
 変わらなかった。急に目の前に現れて、一方通行に主と仰いでいた翠と、何も変わらなかった。
「も、申し訳ございません! 三日間ご迷惑ばかりをおかけしてしまったのに、起床時間を間違えてしまうとは……! 今日はいつもより早かったのですね」
「違う。俺が勝手に起きたんだよ」
 翠の向かいに立ち、微妙に上の位置にある視線を捉える。
 翠から緊張は消えない。怒り心頭で仕方ないんだとか、的はずれな想像をしているのは容易に予想できた。
「もう、具合はいいの」
「は、はい。不本意ですが、藍のおかげで力を取り戻せました」
「助けてもらった弟に対して、そういう言い方はないだろ」
「そ、それはそれです。藍はずいぶんと文秋さんに対して失礼な口を聞いておりましたから」
「翠が無駄に力を使いまくったせいなのに?」
 翠の全身が一回り小さくなったように見えた。本当にこの男は、思った通りの反応をしてくれる。
「……文秋、さん」
 なぜか驚いた顔をしている。今の会話の流れでどうしてそういう反応をされるのか、首をかしげた。
「失礼、いたしました。文秋さんが、初めて私に笑いかけてくださったので……つい」
 今度は自分が驚く番だった。口元に手のひらを持っていきかけて、止まる。
「っていうか、そんなのいちいち覚えてないでよ。子どもじゃないんだから、恥ずかしいだろ」
「私にとってはとても嬉しいことです。誰よりも大切な主ですから、当たり前です」
 もはや全身がくすぐったい。こんなにも面と向かって純粋な気持ちをぶつけられると、冗談で流せなくなってしまう。意地を張っているのが、馬鹿らしく思えてきてしまう。
「兄さん!」
 少し高めの声が、遠慮なしに空気を切り裂いた。
「よかった、ちゃんと回復したんだね!」
 正面から思いきり翠を抱きしめる藍を呆然と見つめる。何という強い愛だろう。自分にも姉が一人いるが、ここまでの態度には出られない。
「藍くん。翠のこと、本当にありがとう。君のおかげで、翠を助けられた」
 心の中で謝罪も付け足しておく。藍には当分、頭が上がらない。
 振り向いた藍は、宝石とみまごう爽やかな水色を思いきり細めた。
「あんたのためじゃなくて兄さんのためだもん、当たり前じゃない。これを機に、もっと主としての自覚を持ってよね」
 捨て台詞のように告げて、藍の姿が消える。
「全く、藍は……本当に申し訳ありません、文秋さん。あとできつく叱りつけておきます」
 声のトーンが本気だったので、慌てて首を振った。
「自覚がなかったのは本当だから、いいんだ。……気をつけてやれなくて、本当にごめん。翠の主にふさわしくなれるよう、頑張るから」
 目を見開いた翠から、明らかな喜びが伝わってくる。恥ずかしさを誤魔化したくて、ぽんと肩を叩いて洗面所に向かった。
 自然と笑みが浮かぶほど、晴れやかな気分に包まれている。復活した翠手作りの朝食も素直に嬉しい。
「文秋さん。今日から、どうかブレスレットをお持ちください」
 真剣な翠の声に、朝食を食べる手が止まった。
「……翠からしたら病み上がりみたいなものだけど、平気なのか?」
「問題ございません。むしろ、ずっと浄化をしていただいておりましたので充分に力は満たされております」
 こちらを見つめる緑の双眸は、使命感にあふれている。あるいは、自らの宣言が本心なのかを試しているようにも見える。
 もう、翠の存在を否定するような真似はしない。
「……絶対、姿は現さないように。話しかけるのも基本的には禁止。それを守れるなら、つけていくよ」
 自信満々に、翠は頷いてみせた。

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(画像省略) ベッドの上でブレスレットを拭いていたら、いきなり目の前に執事風の男…

俺はエメラルドのご主人様じゃない!

俺はエメラルドのご主人様じゃない!

第1話

20240113164650-noveladmin.jpg

 ベッドの上でブレスレットを拭いていたら、いきなり目の前に執事風の男が現れました。
 一瞬、魔法のランプかな? と思いました。

 思わず心の中でナレーションしてしまったほど、目の前の光景の意味がわからなかった。
 だって、どう説明しろと?
 玄関の鍵は閉めている。窓も、熱帯夜対策でエアコンをかけているからぴったり閉めている。
 他人が侵入できる箇所はどこにもないのに、赤の他人が立っているのだ。
「お迎えいただき、ありがとうございます。ご主人様」
 しかし、目の前の男は丁寧なお辞儀を披露し、柔和な笑みに似合わないきらきらとした淡い緑の双眸でこちらを見つめている。歳は同じぐらいに見えるが、ドラマや映画でしか見たことのない燕尾服を身につけた上に落ち着いた声音をしているせいで、不詳に思えてくる。
「本日この瞬間より、貴方に精一杯お仕えいたします。どうぞよろしくお願いいたします」
 胸の下に片腕を添え、男は再び恭しく頭を下げてくる。
 多分、とても長い沈黙を流していたと思う。それくらいの時間をかけないと現状の整理はできない……と思っていたがやはり無理だった。
 とりあえずブレスレットをベッドサイドに置いて、男の腕を掴む。
「ご、ご主人様?」
 戸惑う男をリビングに連れて来ると、ソファーに座るよう促した。最初は渋っていた男も、無言で見つめ続けると諦めたように足を揃えて腰を下ろした。
「一体どうやってここに入ってきたのかわからないけど……俺は、お手伝いさんとか雇った覚えはないから。君、どこかの屋敷と間違えてるんじゃない?」
 我ながら無茶苦茶だが、他にふさわしい説明があるなら教えてもらいたい。
 まず、現在時刻からして非常識なのだ。日付をまたいだばかりの時に訪問していいのは、よほどの親しい人物か肉親くらいしかいない。
 加えて、先述の通り他人が侵入できる場所も仕掛けもない。
 男はエメラルド色の瞳をたっぷりこちらに投げたあと、我に返ったように思いきり息をのんだ。
「大変申し訳ございません。私としたことが、ご主人様への説明を失念しておりました」
 だめだ、話が噛み合ってない。
 いっそ無理やり外へ追い出すしかないかと物騒な考えが頭をよぎった時だった。
「私はエメラルドの化身、名前を、和名の翠玉にちなんで(すい)と申します」
 どこぞの貴族相手にでもするように、片膝をついて恭しく頭を下げてきた。
「ご主人様のエメラルドへの愛情に呼応するかたちで、このように実体化と相成りました。今後はどうぞ、私をいかようにもお役立てくださいませ。浅黄文秋(あさぎふみあき)様」
 やっぱり、意味がよくわからなかった。

  * * * *

 ブレスレットを購入した日はだいぶ疲れていた。比較的規模の大きいプロジェクトのメンバーに選ばれて間もなかったから、日々の疲労が限界近くまで蓄積していたのだと思う。
 精のつくものでもと、珍しく普段とは別の店で少し値段の張る弁当を購入した帰りだった。
 軒先に植物がやけに置かれているから、最初は観葉植物を扱った店なのかと思った。
『ちょっと、お店に寄ってくださる?』
 植物を片付けていたオーナーの女性と視線が交差したのが、すべての始まりだった。
 柔らかくも凛とした声に抗えず後をついていくと、中央のテーブルに飾られた透明な球体が目に飛び込んできた。占い師御用達の店なのかと軽く混乱したまま首を左右に動かせば、女性が好みそうなアクセサリーが壁際に並んでいた。
『どういう、お店なんですか?』
 半ば無意識に尋ねると、予想しなかった答えが返ってきた。
 植物も占い師も関係ない、パワーストーンを扱った店だったのだ。
『あ、あの……俺、そういうのはあんまり詳しくないですよ』
 悪徳商法とやらに引っかかってしまったかもしれないと、焦りと戸惑いに支配されていく自分を少し見つめた彼女は、納得したようにひとつ頷くとアクセサリーが並ぶ棚に向かった。
『パワーストーンなんて信じられないとお思いなのを承知で……ぜひ、これを見ていただきたいの』
 その言葉と共に見せてくれたのは、数珠タイプのブレスレットだった。使われている石は水晶、アンバー――和名で琥珀だ――、エメラルドと、疎い自分でも耳にしたことのある名前ばかりだった。
『癒やし効果に特化したブレスレットなのだけど、メインはこのエメラルドよ。とても綺麗でしょう?』
 女性は二つのアンバーに挟まれたエメラルドを指差した。
 パワーストーンなんて、単なるインチキだ。災難から守ってくれますとか、魅力的にしてくれますとか、魔法みたいな現象など起きるわけがない。確かにそう思っていた。
 だが、ブレスレットを受け取った瞬間、何とも言えない不思議な感覚が手のひらから生まれ、全身に染み渡っていった。特に他の石よりも一回り大きい、透き通った淡いグリーンから目が離せなくなった。
『パワーストーンに初めて触れたお客様には胡散臭く聞こえるかもしれないけど……今、気持ちがふっと和らいだのがわかるわ。エメラルドには、癒やしの力があるの』
 とても、疲れているでしょう?
 心臓が高鳴った。彼女に、自分でも気づいていない部分までも見透かされているような気持ちになった。
 改めて、手に載せられたブレスレットを見つめた。目を奪われたエメラルドは、あたたかい眼差しに似た光を放っていた。
『これ、ください』
 思わず、そう告げていた。
 万超えする値段を聞かされても、そのブレスレット以外考えられなかった。

 それから三ヶ月ほどが経ったが、肌身離さず身につけていた。
 あのオーナーの言葉を証明するように、自分でも驚くほど心身のストレスが減ったのだ。
 日々の生活は、購入前と何一つ変わっていない。だからこそ余計に、パワーストーンの力を信じ始めていた。
『あのエメラルドと浅黄さんは、よほど波長が合ったのね。私にも覚えがあるから、わかるわ。そういうのを聞くと、あながちインチキとも言いきれないんじゃないかなって思うのよ』
 すっかり顔なじみとなった店「BANDE STONE(バンデ ストーン)」のオーナーの言葉も深く心に染み入る……と思っていたが、だ。


「えーと、君の話をまとめると……俺がブレスレットというかエメラルドを大事に大事にしていた気持ちが伝わって、さらに相性ぴったりだったから実体化できた、ってこと?」
「さすがご主人様! その通りでございます」
「いや、わかってないよ? 全然わかってないから」
 冷静を努めて突っ込んでも、目の前のエメラルドの化身とでも言えば正しいのか、とにかく翠はにこにこと、柔和な顔にふさわしい笑みを刻んでいる。
 理解しろというほうが無理だ。テレビで映画を楽しんでいたらいきなりその世界に連れて行かれました、レベルの超常現象をどう飲み込めと言うんだ。
「しかし、仰っていたまとめは完璧でした」
「俺が言ってるのは、どうしてそうなるの? っていう意味。だって、普通ならこんな現象ありえないから。まだ、どこかの執事なのに間違えてここに来ちゃいましたっていうほうが理解できるよ」
 翠は困惑したように眉尻を下げた。眉の上で前髪が整えられているから、表情がよくわかる。
 改めて見ると、人間と変わらない。変わらないからこそ、混乱が収まらない。
「しかし、現に私はこうしてご主人様のもとにおります。エメラルドが持つパワーを授ける以外の補佐も可能になったのです。ですから」
「そう言われても、どうやって信じればいいんだよ……」
 これは夢なんだ。そう思わずにはいられなくなってきた。
 今日は土曜日、いや日付が変わりたてだから日曜日か。一週間の疲労がもろに出る。ブレスレットの手入れをしていて、気づかないうちにベッドに倒れ込んでいてもおかしくない。現実の自分は眉根を寄せて寝返りをうっている、そうに違いない。
「……わかりました」
 翠は目の前で片膝をつくと、一度断ってから手を取った。白い手袋の下は冷たくも熱くもない、温度の全く感じない皮膚だった。
「すぐに済みます」
 手のひらを覆われる。静寂ながら、緊張感のある時間が流れる。問いかけたくても、どんな音も立ててはいけないような空気を感じる。
 やがて、あるはずのない異物感が生まれた。同時に覆いが外される。
「これ……エメラルド、か?」
 ピアスの装飾にでも使われていそうな、小さな緑の粒が出現していた。もう片方の親指と人差し指でそっと摘み、光にかざしてみる。
 小さくてもわかる。この透明感は、ブレスレットのエメラルドと同一だ。
「いずれ消えますが、一晩は充分に持ちます。ご主人様がお目覚めになってもその石が残っていたら、現実だと信じて私を受け入れてくださいますか?」
「……すごく疲れてるけど、大丈夫?」
 つい問いかけてしまったのは、翠の両肩がぐっと下がり、眉間にわずかな皺が刻まれていたからだった。
「いえ、お気遣いなく。……でも、そうですね。よろしければ、ブレスレットを窓辺に置いておいていただけますか?」
 浄化をしてほしい。男はそう告げていた。
 石に溜まったマイナスエネルギーを除去したり力をチャージしたりと、浄化はパワーストーンにとって欠かせない。
 いくつか方法はあるが、彼が言っているのは「月光浴」だ。満月と、その二、三日前後に窓辺に置いておくといいとネットで調べた記事にあったので、自分でも気がついた時に行っていた。
 タンスの上に置いておいた、ブレスレットを購入した時につけてくれた保管用の茶色い正方形のケースを持って寝室に向かう。きれいな輪になるようケースに置き、窓辺に歩み寄った。
「今宵は満月ですから、効果は高そうですね」
 屈んだ体勢から立ち上がる。マンションの四階から視線をまっすぐに据えると白の明かりたちが四方八方に散っているが、少し上に移動させれば、ほのかに黄色い光を負けじと放つ、美しい円が浮かんでいる。
 別段特別な夜ではないはずだったのに、後ろに立つ翠の存在が、浮世離れした気分へと変化させてしまう。
 翠は、両肩に手を置いてベッドへと促した。
「お身体に障りますし、そろそろお休みください。明日は何時に起こしましょうか?」
「え、じゃあ、八時半……」
「かしこまりました。その時間にお声をかけさせていただきますね」
 スマホのアラームがあるから、とはとても言えなかった。
 混乱の残る頭を引きずって、ベッドに座った瞬間あることを思い出す。
「あ、君の寝る場所がなかった……ごめん、ソファーしかないんだけど」
 顔を上げた先で、翠の変わらない微笑みが返ってくる。
「睡眠という概念はありませんから、お気になさらないでください」
「寝ないってこと?」
「休息という意味でしたら、浄化がそれにあたります」
 とりあえず納得するしかなかった。これ以上情報を詰め込まれたら、頭が興奮して眠れなくなってしまう。エメラルドの粒をベッドサイドに置いて、無理やりに瞼を下ろした。

  + + + +

 一定のリズムで、耳慣れた機械音が鳴り響いている。昨日と変わらない休日がやってきた。
「おはようございます、ご主人様。今日は、昨日に比べると気温は低めですよ」
 心地のいい低めの声が耳元に注がれて、「いつも」はあっけなく壊された。昨夜の出来事は現実だと、いやでも提示された気分になる。
「ご主人様、昨夜の約束を覚えておいでですか?」
 忘れたくとも忘れられない。恐る恐る、ベッドサイドを見やる。
「エメラルド、ある……」
 緑の小粒は、昨夜と同じ淡い色を放っていた。
「はい。これで、私のことを受け入れてくださいますよね?」
 明らかな睡眠不足でぼんやりする頭を、弾んだ声が強制的に覚醒させる。人間、精神バランスが崩れると笑いもこみ上げるらしい。
 オーナー、これはインチキを通り越して現実味がなさすぎます……。
「ご主人様、朝食になさいますか? ああ、その前に洗顔とうがいでしたね」
 まだ返事をしていないのに、翠はものすごく張り切っている。そんなに赤の他人の世話をするのが嬉しいのか、いや、エメラルドの化身だから他人ではないのか。もう思考回路がわけわからない。
 自分でやるから、と拒否しかけた口は途中で止まった。一番大事なものを忘れるなんて、相当混乱している。
「ご主人様?」
 窓の白いカーテンを開けて、置いていたブレスレットを箱ごと胸元に抱え込む。直射日光の当たらない部屋ではあるが、じんわりとした熱が伝わってきて心配になってしまう。エメラルドとアンバーの弱点みたいなものなのだ。
「ブレスレット、部屋の中に入れちゃってもよかったのに。エメラルド、熱に弱いだろ? 君の本体だから危なかったんじゃない?」
 こちらを一瞬凝視した翠は、なぜか口元を手のひらで覆って震えだした。まさか、何かしらの症状でも出たのか?
「ご主人様が……ただの従者である私なんかを気にかけてくださるなんて! やはりご主人様はお優しい方ですね!」
「……まあ、つまり大丈夫ってことね」
 思わず呆れてしまうと、翠は慌てたように背筋を正した。
「失礼いたしました。……実は、本体を持ち運べないのです」
 証拠とばかりに、自分の手の中にあるブレスレットのエメラルド部分を摘み上げようとする。思わず目を見張った。まるで縛りつけられたように一ミリも浮き上がらない。水晶やアンバー部分を持ってみても、やはり全く動かなかった。
「……わかった。今度から、気をつけるよ」
 図らずも、化身に関しての知識が増えていく。
 とりあえずブレスレットをリビングのテーブルに置いて、洗面台に向かった。少しでもいいから頭をすっきりさせたかった。
 これからの予定を脳裏に並べる。まずは二駅行った先にあるホームセンターの天然石ショップを覗いて、よさげなものがあったら買ってみよう。その後は日用品と食料を調達しないといけない。
 あくまで普段通りの休日を過ごそう。
「……もしかして、命令待ち?」
 Tシャツを脱ごうとしたところで、寝室前で立ち尽くしている翠を振り返った。
「はい! 朝食をお作りしてもいいのであればそうさせていただきますが」
「作るって、俺が何食べたいか知ってるって言いたげだな」
「もちろんです。目玉焼きを載せたトーストとウィンナー、ホットブラックコーヒーでしたよね?」
 一つの間違いなくすらすらと口にした翠を、完全に振り返ってしまった。
「な、んでそれを知って……」
「ずっと、ご主人様と共におりましたから。趣味嗜好、行動パターンも大体把握しております」
 そして燕尾を翻した黒い背中を呆然と見つめる。
「マジ、か……」
 無意識に、ブレスレットに手が伸びる。淡く輝くエメラルドをそっと撫で上げると、キッチンの方から短い悲鳴が聞こえた。
 どうやら、本当にこの状況を受け入れないといけない……らしい。


「翠。君が俺の持つエメラルドの化身みたいなものだっていうのは、わかった。エメラルドが残ってたし、諦めるしかないっていうのが本音だけど」
「少しでも受け入れてくださったのであれば一向に構いません!」
「それで、だ」
 素晴らしい焼き加減のトーストを置いて、隣でにこにこと見下ろしている翠に人差し指をつきつけた。
「俺としては、まずその『ご主人様』っていうのをやめてほしい。慣れてないから、くすぐったくって仕方ないんだ」
 きっぱりと言い切るのは苦手なはずなのにできてしまうのは、三ヶ月間そばにあったからなのか、微妙にイラッとしてしまうからなのか。
「し、しかし……では、なんとお呼びすれば?」
「普通に名前でも名字でもいいよ」
 翠は一度唇を引き結ぶと、なぜか興奮気味に身を乗り出してきた。
「で、では……文秋様とお呼びしても?」
「様はいらないって」
「いえ! それだけは、ご容赦ください」
「じゃあ、せめて『さん』でお願いしたい。貴族っぽくてイヤだ」
「文秋、さん……でございますね。承知、いたしました」
 どうして満面の笑顔を浮かべるほど嬉しいのか、よくわからない。
「あと、できれば堅苦しい敬語も何とかしてほしいんだけど」
 それがなければまだ、非現実的な感覚はなくなる気がする。あくまで気がするというだけ。
「とんでもございません! 従者の私が、文秋さんとた、タメ語だなんて」
「あ、タメ語とか使うんだ。バッキバキの敬語でもないのか。もうちょっと崩してくれるなら、まあ、いいか」
 翠の反応を見るとうっかり出してしまったようだが、むしろそのうっかりをどんどん出してほしい。
 食べ終わった食器を片付けようとすると当然のように奪われてしまった。執事なのか従者なのか、とにかく世話をしてくれる人がいるとこんなにも落ち着かないとは、少なくとも貴族的な暮らしは一生肌に合わなそうだ。
「あれ、翠は食べないの? それとも、もう食べたとか?」
 スポンジに手を伸ばした背中に問いかけると、顔だけをこちらに向けて緩く首を振った。
「私は、人間の食べ物は口にできないのです。本当に時々ですが、ミネラルウォーターのような綺麗な水だけいただければ問題ございません」
 水だけ受け入れられるのは、それも浄化の手段として用いられるからだと思う。本体が石だからなおさら、食べ物は不純物にあたるのだろう。
 アイスブルーのデニムに足を通していると洗い物を終えた翠がやってきて、ベッドの上に置いていたシャツに手を伸ばした。
「あっ、い、いい! 俺一人で着替えられるから!」
 先手を打たれた翠はわかりやすく肩を落とす。当然の主張をしたまでなのに、あからさまな態度をされると心が痛い。
 支度を終えて玄関に向かうと、翠も当然のようについてくる。
「いかがなさいました? 文秋さん」
 嫌な予感がしてリビングに引き返した。頭上に疑問符を浮かべる翠に恐る恐る尋ねる。
「あの、さ。もしかして、ついてくる気だったりする?」
「はい。文秋さんがブレスレットをお持ちであれば、必然的にそうなります」
 頭を抱えたくなった。つまり大事なパートナーを自宅に置いておかないと、この男の支配からは逃れられないということじゃないか!
 思わずエメラルドの表面をなぞると、翠がわずかに身を捩る。
「ふ、文秋さん。その、少々くすぐったいです」
「……ブレスレット、置いてかないといけないなんて……でも、そうじゃないとついてくる……こんな目立つ格好のやつが」
「ああ、それでしたらご安心ください。この身は消しておくことができます。文秋さん含め、他の方にも見えません」
 言葉通り、煙が消えていくように身体が見えなくなる。もうファンタジーの世界だった。
『ただ! 私はこれから、荷物持ちというお役目を果たさねばなりません。文秋さん、買い物をなさるんですよね?』
 頭の中で円状に響き渡る、エコーがかった声に気持ち悪さを覚えたがそれを上回る衝撃だった。絶望的状況から掬い上げられた気持ちを、一撃で砕いてきた。
 寝言は寝てても言わないでほしい。そんなレベルじゃない。
「いい。やっぱり置いてく。俺一人で買い物したい」
「し、しかし! 私は従者ですから。文秋さんもお護りできませんし」
 断固として首を横に振った。そろそろ一人きりの時間をもらって落ち着かないと故障してしまう。従者なら、主の精神を労ってほしい。
 心の訴えが伝わったのか、翠はやっと納得してくれた。
「では、代わりにこちらを」
 一瞬、何をされているのかわからなかった。
「ちょ、ちょっと! いきなりなにを」
「お静かに」
 両腕に込められた力に、完全に押さえつけられてしまった。
 首筋にある翠の黒髪が鼻孔をくすぐる。かすかな香りは、緑豊かな森に足を踏み入れたようなイメージを抱かせる。
 不思議と、落ち着いていた。まるで、あのブレスレットを身につけている時と同じ気分を今、味わっている。男に抱きしめられているのに、不快感がまるで浮かばない。
 人間じゃないから? ずっと共にあったエメラルドだから?
「お時間、いただいてありがとうございました。どうぞ、お気をつけて」
 最後に後頭部を優しく撫でられて、空気が戻る。本当に一瞬だけ、手を伸ばしたくなる衝動に駆られた。
 振り切るように家を出て、足早にマンションを離れる。
 ブレスレットと共にあるような感覚は、帰宅するまで続いた。これも、もしかして翠の力なのだろうか?

  * * * *

「あれっ、浅黄先輩。今日はブレスレットつけてないんすね」
「まあ、ちょっとね」
「……もしかして、落としました?」
「ちゃんとウチにあるよ。いいから仕事しなさいって」
 隣の自席に戻ってくるなり目ざとく突っ込んできた後藤大河(ごとうたいが)を軽くあしらって、パソコンに無理やり意識を戻す。
 彼が二年前に入社してから隣同士で、いろいろと相談に乗っていたのもあって一番仲がいい後輩だった。
 お調子者なのが玉にきずだが、仕事は丁寧で飲み込みも早い。今関わっているプロジェクトに限らず彼も同じチームにいる場合が多く、会社側からはどうもセットで扱われている気がする。
 翠は今朝もアラームの役割を果たし、いつもの朝食を用意してくれた。ブレスレットはどうしても持ち出す気になれなかったのだが、昨日とはうって変わり、主張をあっさりと承諾して不思議と落ち着く抱擁をしてきた。
 尊重してくれるのはありがたいが、今後どう接していけばいいのかわからない。
 何せ、自分だけのスペースに突然割り込んできたようなものなのだ。ブレスレットで考えれば約三ヶ月間一緒にいたとしても、両手を広げて歓迎できる状態にはとてもいけない。
「先輩が溜め息なんて珍しいっすね。やっぱブレスレットしてないから心細いんですか?」
「まあ、少しはあるかもね……って、もう突っ込むの禁止!」
 無意識に、表に出してしまっていたらしい。本当にらしくない。
「ちゃんと用事があるんですって! 質問があるんです~」
 大学生の頃から一人暮らしを続けてきて、そのほうが気楽だった身には、まだまだ戸惑いしかない。


 帰宅すると、ドラマで観た母親のような笑顔で翠が出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ! 本日もお疲れ様でした。鞄、お持ちします」
 差し出された手に自然と従ってしまった。
 昨日もそうだったが、翠は自分の生活習慣を完全に把握していた。
 風呂の後に夕飯を食べること。酒を入れる場合は小さいビール缶一本だけなこと。テレビは気まぐれに観ること。
 風呂から上がると、すでに料理が用意されていた。元々好物なのと、調理が簡単だからという理由で作る頻度が高いチャーハンだった。
 昨日だけでなく今日も、自分が作ったことのあるメニューなのは偶然なのだろうか。
「いかがなさいましたか? お口に合いませんでしたか?」
 心配そうに顔を覗き込んできた翠に、驚きのまま答える。
「いや、俺が作るのと味が一緒で、びっくりして」
「それは……私の料理は、文秋さんの見よう見まねですから」
 翠が嬉しそうに微笑む。
 三ヶ月一緒にいたという事実が、またのしかかる。
「文秋、さん?」
「……君、本当にずっと、いたんだな」
 どんな表情をしていたのかわからなかったが、立ち上がった翠は深く頭を下げてきた。
「昨日は、文秋さんのお気持ちも考えず一方的になってしまいまして、本当に申し訳ありませんでした。文秋さんに直接お仕えすることが夢でしたので……浮かれすぎました」
「いや、別にそんな謝らなくても」
 改まって謝られても困惑してしまう。
「ですが……それでも、敢えてお伝えいたします」
 翠の視線が、まっすぐに向けられる。
「私の気持ちに変わりはありません。誠心誠意お仕えしたい。文秋さんの心身をお護りしたいのです」
 優しくありながら、強い。ふたつのエメラルドは、一途な光で自分を照らす。
「決して無理は申し上げません。少しずつでも文秋さんの信頼を得られるよう、尽力いたします」
 ブレスレットにある本体よりも、まぶしい。まぶしくて、直視していられない。
 卑怯かもしれなくても、目を逸らすしかなかった。


 もはや、驚くしかなかった。
 朝に翠の声で起床し、見送られ、帰宅すれば出迎えてくれる。混乱が落ち着くにつれて、そんな生活を早くも受け入れつつある自分が信じられなかった。あの抱擁でさえ、ブレスレットを身につけている時のような気分を与えてくれることもあって、すっかり慣れてしまっていた。
 一途な翠に絆されているとでもいうのか? 翠の主であることをいい加減認めろという、見えない催促のせいなのか?
 いつまでも、この中途半端な状態を続けるわけにいかない。それでも、なかなか覚悟が固まらない。
 もうすぐ、翠が現れてから一週間が経つ。
「……ん?」
 住んでいる部屋は、エレベーターを下りてから一番奥まで歩いた先にある。その前に、ぼんやりと人影が見えた気がした。だが、実際辿り着いても当然誰もいない。
「あれ、翠?」
 翠に尋ねようと思ったが、玄関に立ってもいつもの出迎えがない。首をかしげながらリビングに向かう。
「……文秋、さん。出迎えられず、申し訳ありません……」
 息をのんで、ソファーを凝視する。
 翠が、息を乱してぐったりともたれかかっていたのだった。

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(画像省略) バイトから帰宅した高史が、手に見慣れない物を持っていた。「それ、か…

夜の太陽はさかさまで輝く

夜の太陽はさかさまで輝く

番外編:ヴァンパイアが運んだ甘い夜

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 バイトから帰宅した高史が、手に見慣れない物を持っていた。
「それ、かぼちゃの帽子?」
 荷物を置いた高史は、「やっぱり」と言いたげに苦笑を浮かべた。
「そうです。ほら、今日ってハロウィンでしょ? それで軽くコスプレしましょうって店長が」
 帽子には不敵にも不気味にも見える笑みが刻まれており、魔女のような黒い三角帽子を被っていた。男女関係なしに、アイドルのような可愛い系の人に一番似合いそうなデザインをしている。
 確かに、街中ではオレンジを基調とした飾り付けがやたら目立っていた。スーパーの総菜コーナーでは三角の目や口にくり抜かれたかぼちゃがあちこちに鎮座していたほどだ。
「……高史も被ったんだ」
「他の人はともかく、オレは似合わないからやめた方がいいって一応訴えたんですけどね」
 昼に行った時は店員も店の装いも普通だった。夜だけの特別だったか。
「高崎さんは似合う似合うって笑ってくれたけど、面白がってただけかもしれないっす」
 高崎――高史と仲のいいバイト仲間で、自分とも顔見知りだ。ちなみに仲も知られている。それでも全く態度を変えず接してくれる、ある意味心強い女性だったりする。その彼女の笑みが容易に浮かんで、思わず苦笑してしまった。
「俺も見たかったなぁ。高史のかぼちゃ帽子姿」
 夕飯を用意する手を止めて、恨めしそうに呟く。
「そんな……本当に似合わないですよ。お客さんも顔が引きつってたと思うし」
「そんなの関係ないよ。単に、俺が見たいだけ」
 唇を意識的に持ち上げると、ますます高史は困り果てた顔をした。おねだりに弱いとわかっている上での言動だから、我ながらたちが悪い。
「正直、そう言われると思ってました」
「なら、聞いてほしいな。大丈夫、俺しか見てないんだもの」
 そういう問題ではないことももちろん、わかっている。
「……絶対笑わないでくださいよ」
 背中を向けて、かぼちゃを頭に乗せる。たっぷり時間をかけて振り向いた。
「かわいい。結構似合ってる」
「慰め言わないでいいですよ」
「違うよ。ほんとにそう思ったんだって」
 こちらを一瞥した高史はわずかに口を尖らせる。
「若干笑ってますよね?」
「可愛いの見ると笑顔になるでしょ? それだよ」
 精悍な顔つきの高史が、「恥ずかしがっている」とすぐにわかる仕草を全身にちりばめている。そのギャップが要因だった。
 伏し目がちの目線。唇にも少し力が入っている。肩が微妙に丸まっているせいで身体全体もどこか小さく見える。両脇でぎゅっと握られた拳もなかなかにポイントが高い。
 加えて威圧感を与えない、生まれ持った高史の雰囲気も充分貢献している。街中で風船を配ろうものなら、子どもたちがすぐに集まってきそうだ。
 かぼちゃ越しに頭を撫でると、戸惑いで揺れる瞳が返ってきた。年上の気分を久しぶりに味わえてちょっと楽しい。
「あーあ、コスプレするって知ってたらお店行ったのになぁ。接客する姿も見たかったよ」
「や、やですよ。無駄に緊張しちゃうし」
「うそうそ。ありがとう、満足したよ」
 できれば写真に収めたかったけれど、さすがに不機嫌にさせてしまうだろう。自分がされても気持ちのいいものではないし、仕方ない。お礼の代わりに軽いキスを送った。
「お礼……こんなんじゃ、足りないです」
 夕飯の準備を再開しようとして、そんな呟きが聞こえた。
 振り向いた先の高史は気まずそうにこちらを見つめている。わがままを言いたいのに言えないともがいているようだった。
「もしかして、俺にも帽子被ってほしい、とか?」
 核心を突いた自信があったが、反応はいまいちだった。気を遣っている可能性もある。
「それくらい構わないよ。俺だってわがまま言ったんだし」
「ち、がうんです」
 全く意図が読めない。
 そんな疑問に答えるためか、しゃがみ込んだ高史がリュックの中に手を突っ込む。ビニールの擦れる音と共に、見慣れないロゴが印字された白い袋が出てきた。A3サイズの書類よりも一回り大きい。
「中、見てみてください」
 高史は腹をくくったような表情をしている。変に緊張しながら、袋の中に手を突っ込み、引き抜いた。
「……え、なにこれ」
 そうとしか言い様がなかった。
 視線の先にある写真の男性が、ヴァンパイアの格好をしている。その上にはでかでかと「ヴァンパイアコスプレセット」の文字。その名の通り、必要な衣装が一式揃っているらしい。
 何とも言えない空気が互いの間に流れる。高史がこんな物を用意しているとは予想もしなかったから、どう会話を繋げればいいのかわからない。
「……俊哉さんに、似合うと思ってつい、買っちゃったんです」
 必死に声を絞り出している。
「最初はこの帽子を被ってくれたらいいな、ぐらいだったんですけど。でも、ついコスプレ売ってる店に寄り道しちゃって。そうしたらいつの間にかそれを」
「いや、高史が我慢できなかっただけでしょ」
 つい突っ込むと、高史はますます肩を丸めた。叱られた子どもそのものだ。
「実は高崎さんの入れ知恵じゃないの?」
「違います。全然関係ないです。俊哉さんも帽子似合いそうだとは言ってましたけど」
 さすがの彼女もそこまではいかなかったか。
 とりあえず開封して中身を広げてみた。白いシャツに黒いベスト、胸元につけるスカーフは白かと思いきやワイン色に近い赤だった。マントではなく燕尾服のような黒一色の上着が、一番の特色かもしれない。見慣れたヴァンパイア衣装よりもクールさが強調されているように感じた。
 邪な気持ちで、懸命に衣装を選んでいる高史の姿を想像したら呆れるより微笑ましく思った。自分に一番似合うと信じて買ってきてくれたことはどうあろうと嬉しい。
「あの、すみません。やっぱなしでいいです。オレどうかしてました」
 慌てて手を伸ばしてきた高史から、衣装ごと避ける。
「言ったじゃん。構わないよって」
 細い両目が見開かれる。己の欲のままに買ってきた面影が全くみられないのが、面白くて可愛い。
「高史が俺に似合うと思って買ってきてくれたんだし、その気持ちに応えないとね」
 おまけにせっかくのハロウィンだ、少しでもその気分を味わわないともったいない。
 心配そうな視線を背中に感じながら、バスルームに向かった。


「どう? 似合う?」
「はっ、はい! その、めちゃくちゃ格好いいです」
 再度問いかけたところで、慌てた声が返ってきた。だが、また熱い視線を向けられる。恋人の意識を独り占めできている優越感が、初体験の恥ずかしさを飲み込んでいた。
 衣装のサイズはちょうどよく、高史の見立て通りしっくりと来ていた。自分をよく理解してくれている証のようで、幸せをしばし噛み締めていたのは内緒だ。
「コスプレなんて初めてやったけど、意外と楽しいね」
 身を翻すと、燕尾がふわりと舞った。それだけなのに口元が緩む。子どもに戻っているような気分だった。
「んー、首元はちょっと落ち着かないな。あんまりネクタイしないせいかな?」
 顎のすぐ下まで巻かれたスカーフの感触に慣れない。結び目付近を両手で軽く緩めながら位置を調節する。
「もう、そんなにガン見されたら恥ずかしいんだけど?」
 未だ言葉を発さない高史に敢えてふざけた物言いをしてみせる。
「ご、ごめんなさい」
「いい加減にしないと、イタズラしちゃうぞ?」
 上目で高史を捉え、頬に触れながら呟いた。
 ショートしたロボットのように、恋人が見事に固まった。こんなにいい反応をされたら、もっと何かを仕掛けたくなってしまうじゃないか。
 せっかくだから、ヴァンパイアに相応しい言動でも取ってみよう。定番台詞をそれっぽく置き換えてみるだけでもきっと面白い。さらに恋人だからこそできることもプラスして……。
 しなだれかかるように、目の前の身体に抱きついた。困惑気味に名前を呼ばれてもただ笑みしか返さない。
 狙うは、すっと整った首筋。

「トリック・オア・トリート。お菓子をくれないと……お前の血をいただいちゃうぞ」

 最初は、軽く吸い上げた。
 次に、わざと濡れた音を立てて、舌先で舐め上げた。
 ――やばい。思った以上に照れる。悪ノリしすぎた。伝わってくる鼓動が瞬く間に速くなって、つられて全身が熱を帯び始める。
「あ、あの、ごめん高史。やりすぎた」
「……持ってないです」
 囁きに似た声が、言い訳をかき消す。
「お菓子持ってないから、血、吸ってください」
 鼓膜をくすぐる囁きに気を取られていると、視界がぐらりと傾いた。
 その先には、ヴァンパイアに魅入られた人間がひとり。
「……興奮、したの?」
 ストレートな問いに、正直な反応が返ってくる。
「だって、俊哉さんずっとエロすぎます……!」
 押しつけるように唇を塞がれて、中もかき回される。無防備だった舌もあっけなく捕らわれ、根元から先までをなぞられる。息継ぎの間も催促するように先端を突かれる。
 ――自分は、なんておめでたいんだろう。さっきの後悔が一瞬で消え去った。
 もっと虜にさせたい。二度と離れられないように、飢餓感を覚えるほどに。
「……っん、我慢できないなんて、ますます悪い子だな、高史」
「貴方には我慢のきかない人間なんです……っ」
「じゃあ、お望み通り罰を受けてもらわないと……ね」
 頭を引き寄せ、舌を這わせた首筋に今度は歯を立てる。短い悲鳴が耳朶をくすぐった。
 キスマークのようにも見える薄い歯形を満足げになぞる。高史は自分だけのものだという、紛れもない証。
「っ、あ」
 突然、首筋に小さな痛みが走った。
「オレも、貴方の血が欲しかったんです」
 こちらを見下ろす二つの瞳が、湖のように揺らめいている。その中に存在しているのは明らかな欲だった。一言許しを出せばたちまちのうちに食らい尽くされてしまう。
 もちろん構わない。けれど、今はまだ、この「役割」に浸っていたい。

「駄目だよ。高史は罰を受けてる最中なんだから」

 さらに波紋の増した瞳に誘われるように、押し倒した高史にゆっくり覆い被さっていく。
 視界の端を掠めたかぼちゃのオレンジが、電灯並みに眩しく見えた。

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(画像省略) 年の瀬も迫り、寒さも堪える中、地元の街中はどこか浮き足だっている。…

夜の太陽はさかさまで輝く

夜の太陽はさかさまで輝く

後日談

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 年の瀬も迫り、寒さも堪える中、地元の街中はどこか浮き足だっている。電灯の装飾が増え、特別セールや限定品の看板やポスターが目立つ。
(もうすぐクリスマスだな……)
 広場に飾られた、背丈より二倍以上はある煌びやかなツリーをぼんやり見上げる。
 心から愛し合える人と迎える、初めてのクリスマス。
 少しくらい浮かれてもいいはずのその場所は、重力をかけられたように沈んでいた。

  * * * *

 本当に彼は優しい。
 あの人を「恋人」という括りに入れるなら、比べるまでもないくらいにいつも寄り添ってくれる。やさしく包み込んでくれる。
 だから、少しでも助けになりたい。与えてくれたものを返したい。
 その第一歩は働くこと。
 彼の勧めで病院通いを始めて、担当医にもフルタイムでなければ、と許可ももらった。
『本当にいいんですか? オレは大丈夫ですよ?』
 やっぱり心配してきた声も、勤務場所が彼の勤める弁当屋の近くであること、何かあればすぐに連絡すると伝えてどうにか納得させた。
 以前伝えた言葉――彼に自由な時間をあげたい思いは今も変わらない形で胸の中にあるし、二人一緒に暮らしているという現実を、改めて実感できることが嬉しかった。
 なのに、今は不安がつきまとう。
 考え過ぎだと思いたい。それを彼は容赦なく振り払ってしまうのだ。


「その」瞬間を迎えるまで、何度スマホを確認したかわからない。
 玄関の鍵が開く音を聞いた瞬間に立ち上がった。壁の時計を確認すると夜の十時半を過ぎている。
 ドアが開かれ、恋人が現れる。ようやく、まともに呼吸ができた気分だった。
「高史、お帰り。今日ってもしかして遅番だった?」
 全身に気だるさを纏った高史は、どこか不思議そうにこちらを見つめている。
「……あれ、オレ、連絡してなかったですっけ」
 首を振ると、高史は慌ててポケットからスマホを取り出した。親指を何度か上下してから、小さな悲鳴を上げる。
「すんません、連絡し忘れてました……!」
 出勤中、バイト先から「一人欠勤になってしまったから遅番に変更できないか」と打診が来たらしい。この時期は夜の方が多忙のようだから、一人抜けられるのは相当厳しいのだろう。
「何回か連絡入れたんだけどね。ほんと忙しかったんだな?」
「そ、そうなんです。休憩時間も短かったですし」
 ほんの少しだけ視線が逸れていた。普段ならおそらく気に留めない変化だが、今は違う。
 改めてこちらに向き直った高史はきれいに頭を下げた。
「心配かけてしまって、本当にごめんなさい」
「忙しかったんだし仕方ないよ。ほらほら、リュック置いてきなって。メシと風呂、どっちにする?」
「……はい。先に風呂入ってきますね。すぐ出てきます」
 脱衣所に続くドアが閉められると、思わず震えた息がこぼれた。居間にあるテーブルの前にぼんやりと座る。
 高史がこういった大事な連絡を忘れるのはとても珍しいことだった。多忙、というのは彼の中では「よほどの事情」には入らない。基本真面目な性格だからなおさら。
 だからこそ、忘れた理由を変に勘ぐってしまう。そう、例えば――。
 脱衣所から響く音で、思考が強制的に断ち切られた。慌ててテーブルに並べた夕飯を温め直す。考えまいとしたくても、気を抜けばすぐに囚われてしまう。
 高史の支度が整ったところで、自分にとっては二度目の夕飯が始まった。高史用に用意した缶ビールの残りと軽いつまみを嗜みつつ、こっそり隣の恋人を観察する。
 小さな違和感以外は、やっぱりいつもと変わらない。
「俊哉さん? どうかしました?」
 高史と目が合ったことに驚いてしまった。いつの間にやら堂々と眺めていたのか。とっさに思いついた話題をすかさず投げる。
「いや、あそこの弁当屋ってほんと人気あるんだなーって思ってた。わからないでもないけどね」
「結構来てくれてますもんね。味、お気に入りですか?」
 そういう質問を恋人にしてしまうのが、高史の天然で可愛いところだとつくづく感じる。堪えきれずに小さく吹き出すと怪訝そうに見つめられた。
「まあ、ね。家庭の味って感じがちょうどいいのもあるよ。でも……」
 手を伸ばして、まだ濡れている高史の髪にそっと触れる。微量ながらも、アルコールのおかげで少し気分が上向いてきた。
「お前にも会えるからね。結構元気もらえるんだよ?」
 細めの目が見開かれ、見る間に頬が赤く染まった。視線があちこちさまよい始める。
「なに、どうかした?」
「俊哉さん、わかってて訊いてるでしょ」
「ええ? わからないなぁ」
「……メシ、続き食べます」
 微妙にむすっとしながら黙々と箸を進める姿はまるで子どもだった。敢えて頭を撫でてやると、眉間に少しずつ皺が増えていく。それでも振り払わないところに彼の優しさが表れているようだった。
 いつもと変わらない時間だった。
 紛れもない自身が違和感の原因だと責められてもおかしくないほどに、変わらなかった。

  * * * *

 違和感を覚えたのはいつからだったろう。
 多分、一ヶ月くらい前からだった。妙に難しい顔をして考え込んでいる素振りが妙に目について、気にかけるたびになんでもないと躱され、気づけばその素振りはなくなった。
 今思えば、解決したのではなく指摘されたから表に出さないよう努めていたのかもしれない。追求されるのが苦手な高史が取りそうな手段ではある。
 ――敏感になりすぎている自覚もある。だって、高史の気持ちは両手からあふれるくらいに受け取っているだろう? 同じ想いをきちんと返せているか、なんて贅沢な悩みを持ってしまうくらいなんだろう?
「朔さん?」
 急に名前を呼ばれて息をのむ。隣に座る、同じ仕事を担当している女性が心配そうにこちらを見つめていた。
「すみません春日さん、なにか用事でしたか」
「ううん、そうじゃないんだけど……顔色がよくないからどうかしたのかなって。具合悪い?」
 二人の子どもを育てているという彼女の訊き方は母親そのものだった。その優しさに申し訳なく思いながら緩く首を振る。
「大丈夫です。仕事中なのにぼーっとしちゃいました。すみません」
 春日はほっとしたように目元を緩めた。元々の柔らかい雰囲気が、さらに強まった気がした。
「それならよかったわ。ちょうどお昼だし、ゆっくり休んできて」
 パソコンの右下を確認すると、確かに午前の仕事が一段落する時間だった。彼女に礼を告げて、事務所の外に出る。いつもと比べて冷風が強いが、変に煮詰まった頭にはちょうどいい薬だ。
 足は自然と、高史が勤める弁当屋に向かっていた。自覚しても引き返す選択が浮かばないのは彼関係なく味が好きだから、本当においしいからだ。意味もなく言い訳を並べているわけではない。
「いらっしゃ……あ、俊哉さん。お疲れ様です」
 接客用とは違うとすぐにわかってしまう笑顔がくすぐったくて、今は少し苦い。
「いらっしゃいませ! 朔さん、いつもご来店ありがとうございます!」
 元気いっぱいの声もすっかり耳慣れた。高史と顔見知りだと彼女――胸のネームプレートには『高崎』という名前がある――に知られてから、ご近所さんの顔なじみという立場に変わった。
「今日のおすすめは、朔さんの好きな(ぶり)の焼き魚が入った弁当ですよ!」
「え、僕言いましたっけ?」
 確かに間違いないが、彼女に話した覚えはない。
「守田君に聞いたんです。鰤、冬は特においしいですよね~」
「じゃあ、その弁当でお願いします」
「了解です。ちょっと待っててくださいね」
 高史がカウンターの奥に消えた。注文を受けてから弁当を詰める形式なのも気に入っている理由のひとつだったりする。
「今日はいつもより寒いですね! 家から出たら背中丸まっちゃいましたよ」
「わかります。僕もポケットから手出せませんでした」
「守田君はいつもと全然変わんなかったですけどね。寒いねって話したらそうですか? って返されて笑っちゃいましたよ」
 さっぱりとした笑顔からは一切嫌味を感じない。初対面の時から抱いている印象に変わりはない。
 うまく笑えているか自信がないのは、彼女を生理的に嫌悪しているわけではない。ないのだ。
「お待たせしました。味噌汁がついてるので気をつけてくださいね」
「えっ? 今日は頼んでないよ?」
「寒いのと、たくさん来てくれてるからおまけだって」
「わ、嬉しいな。ありがとうございます。ありがたくいただきます」
 店に背を向けてからわずかに振り返ると、高史と彼女はなにかしら会話を交わしていた。自分が確認する限りシフトの被る日が多いからか、すっかり打ち解けている。
 別に、仕事仲間と仲良くするなんてなんら珍しくなどない。男女関係ない。
『なるほど、初めてなんだ。それは悩むねー』
『そう、なんすよね。なんでも嬉しいって言ってくれると思うけど、それに甘えたくないって言うか』
『ああ、わかるわかる!』
 一週間くらい前だった。仕事で頼まれた買い出しを済ませた帰りに、見慣れた背中を見つけた。
 スマホを確認すると、勤務時間は過ぎていた。その日は夕方までと聞いていたから用事でも済ませているのだろう――そう予想した瞬間、隣に立つ彼女を見つけてしまった。
 たまたま出会っただけかもしれないと考えながらも、隠し事の件と相まって負け犬のように逃げることしかできなかった。二人の楽しそうな雰囲気が苦痛だった。
 こんな顔だから付き合った経験はないと、以前言っていたのを思い出す。
 ある程度人となりを知った今となっては、陰ながら好意を持っていた女性は絶対いたと断言できる。あの底抜けな優しさと懐の深さは、一度でも触れれば離れがたくなってしまうはずだ。享受したいはずだ。
 考えすぎなのは頭で理解している。元からして、彼女についても名前ぐらいしか知らないのに悪い想像を広げても意味がない。恋人がいる可能性だってあるじゃないか。
 強制的に思考を断ち切ったと同時に、午後の仕事も終わった。問題なくこなせた自信は全くないが、怒られていないから多分大丈夫なのだろう。
 事務所を後にした足は変にふわふわしていた。自宅に向かおうとしていることにだいぶ経ってから気づいて、立ち止まる。
(買い物、しなくちゃ)
 きびすを返す。時間を見ると六時を過ぎていた。
 気分転換も兼ねて、少々値の張るおかずでも買っていこう。前に見かけてからいつか食べてみたかった物だ、ちょうどいい。
「……うそ」
 無意識に、声が出ていた。
 目的地のショッピングセンターから出てきた、一回り大きな身体。あの横顔、見間違えるわけがない。
 一人じゃなかった。目の前で壁となっていた人が去り、お団子のヘアスタイルが目に入った。見間違えであってほしかった。
 反射的に建物内へ逃げ込む。そうだ、ここにはおかずを買いに来た。ついでに夕飯の材料も買いに来た。献立はどうしよう。時間的にあまり手のかからないものにしようか。だめだ、頭が全然回らない。今どこを歩いているのかわからない。早く冷静さを取り戻さないと高史とまともに対峙できない。
 結局、帰宅して中身を確認するまでどの店でなにを買ったのかわからなかった。視界と脳内が完全に切り離されてしまっていた。
「……やだな。俺、高史のこと信じられなくなっちゃったのかな」
 思わずこぼれた独り言が胸元を深くえぐる。導き出したくなかった結論だった。
 今日は夕方までのシフトだが、残業があるかもしれないと言っていた。なら、「あれ」がそうだというのか。
(残業はあったのかもしれないけど……でも、だったら、なんですぐ帰ってこないんだよ?)
 どんどん足元が沈んでいく。闇しか見えない場所へと引き込まれていく。残しているはずの信じる気持ちも塗り替えられてしまいそうになる。
「ただいま帰りました!」
 普段よりも大きな音が玄関から響いた。のろのろと顔を向けると、息を切らした恋人が懸命に呼吸を整えている。
「ちょっと、遅くなっちゃいました……あ、メシこれからですか?」
 そういえば、全然準備が進んでいなかった。さっきから時間感覚を失ったままだ。
「……うん。いろいろ、買い物してたら遅くなっちゃって」
 明らかに安堵している高史を訝しげに見つめると、意図を察したのか軽く頭を掻きながらもごもごと口元を動かした。
「いや、ここんとこ遅番ばっかで一緒に食えてなかったじゃないですか。朝から食いたいなって思ってたんです」
 なにも言葉が思いつかずじっと見つめ返してしまう。高史の顔が明らかに染まった。
「俊哉さんが作ってくれるメシ、すごく好きなんです。向こうにいた時からずっと」
 羞恥に耐えきれなくなったのか、逃げるように居間へ向かう。リュックを下ろしてから背中が大きく上下していた。相当堪えているらしい。
「っは、なに、それ……」
 そんな告白をするならどうして彼女と寄り道なんかしてたんだ。恋人同士という関係に甘えて馬鹿にしているんじゃないのか?
 それでもあからさまな言い訳と聞こえなかったのは、偽りない本音だとわかってしまうから。こぼれる吐息が震えているのは怒りだけのせいじゃない。単純すぎる自身に、いい加減呆れてしまう。
「し、俊哉さん?」
「お前って、ほんと可愛いな」
 きっと状況にふさわしくない表情をしている。高史の胸元に抱きついて誤魔化したが、こぼれた台詞は違う。常日頃感じていた印象だった。
「か、可愛いって」
「自覚ないとこも可愛い」
「……そんなこと言うの、俊哉さんくらいっす」
「そう? バイト先で言われたりしないの?」
「ないです。というか、そんなの俊哉さん以外に言われて、嬉しいわけ、ない」
 高史の愛情はいつだってわかりやすく真っ直ぐで、けれど小春日和のような柔らかさで包み込んでくれる。いつまでも身を預けていたくなる。
 なにかを隠しているのは明らかでも、伝わってくる想いはひとつも変わらない。
「……高史」
 ほら、唇を重ねても明らかじゃないか。戸惑いつつも伸ばした舌を迎え入れ、ゆっくり絡めてくれる。
 なにもかも変わらない。たったひとつを除いて。
 終わらない間違い探しでもしている気分だ。もどかしくて、苦くて、たまらない。
「……どうしたの?」
「いえ、珍しいこともあるなって」
「たまにはいいじゃない。俺だって……さみしかったんだから」
 訝しげな色を残しつつも、高史は一言謝りながら強く抱きしめてくれた。
 もう、ひとりでもがくのは潮時かもしれない。
 最悪な展開にだけはならない。高史は絶対大丈夫。すべてが明らかになる頃にはただの取り越し苦労だと笑い合っていられる。
「……あの、さ。高史」
 すっかり耳慣れたデフォルトの着信音が間近で聞こえた。腕の中の身体がもぞもぞと身じろいでいる。
「すみません、多分バイト先からです」
「あ、そ、そうだね」
 高史が隣の部屋に消えたのを確認してから、震える息をゆっくりと吐き出した。脈打ち過ぎな胸元が苦しくて痛い。
 ほっとしているのか、苦々しいのか、どのみち改めて話をする気力は残っていない。
 いっそのこと、高史が察して話を振ってくれればいいのに。話さないといけない状況にしてくれればいいのに。原因を作っているのは高史なのだから、きっかけを与えてほしい。
 ふと、出会った頃を思い出した。状況は違えども、あの時は逆の立場だった。
 高史も、その時が来たら話してくれるのだろうか。それすらもわからないから、ゆるく首を絞められているようで気持ちが悪い。
「……電話、やっぱバイトからでした」
 高史が戻ってきた。暗い顔をしながら、もともと休みを入れていた日に夜だけ出勤しないといけなくなってしまったと報告してくれた。
「今度の月曜って……ああ、クリスマスイブか」
「最初は断ったんですけど、どうしてもってお願いされちゃって。次の日は昼過ぎまでのシフトに変えてもらいましたけど」
 スマホを握りしめた高史はすっかり肩を落としてしまった。
「初めてのクリスマスだしね」
「……クリスマスはオレも俊哉さんも仕事だから、せめてイブはずっと一緒に過ごしたいって考えてたんですけど、うまくいかないもんっすね」
 付き合い始めてから、高史が記念日やイベント事を大事にしてくれるタイプだと知った。自分は今まで無縁だったのもあってそこまで執着する方ではないのだが、一緒に過ごすだけでも普段とは違う幸せを得られるのだと知った。
「クリスマスは閉店までバイトだったんだろ? それがなくなっただけでも嬉しくない?」
 落ち込んでいるのはこっちも同じなのに、輪をかけた姿を見ていると励ましてやらずにはいられない。なけなしの年上のプライドもたまには役立つらしい。
「俺も仕事が終わったらすぐ帰ってくるから。だからぱぱっと仕事片づけて、俺のこと待っててよ。それともどっかで待ち合わせしようか。高史の手料理を堪能するのもいいなぁ」
「……俊哉さんがおねだりなんて、珍しいですね」
「俺だって恋人の手料理好きなんだぞ。知らなかった?」
 高史の口元がようやく緩んだ。
 残るは、この気持ち悪さの解消だけ。必要なのは、ほんの少しの勇気だけ。
 クリスマスはもう目前に迫っている。

  * * * *

「それならもじもじしてないでさっさと訊いちゃえよ」
「簡単に言ってくれるよ」
「だって浮気してるとか、そういう雰囲気じゃないんだろ? その意見を信じるなら、多分たいした隠し事じゃないんだよ」
 クリスマスを二日後に控えた今日、久しぶりに谷川涼一(たにがわりょういち)と会った。用事で近くを寄るから、ついでに会えないかと連絡が来たのだ。そういえば引っ越してから初めて顔を合わせる。
 相談するつもりはなかった。けれど付き合いがそれなりに長く、目ざとい彼にはあっさり見抜かれてしまったというわけだ。
「涼一はどうする? 嫁さんが隠し事してるなーって思ったら」
「結構わかりやすい性格だっていうのもあるけど、訊いちゃうかな」
 予想通りの返答だった。涼一は基本、公私関係なくストレートだ。自分では頑張っても持てない部分だからときどき羨ましい。
 すっかり冷めたミルクティーの残りをあおり、ため息をこぼす。
「結構びびってる自分にびっくりしてるよ。今が本当に、大事すぎるんだ」
 過去とはまるで真逆の位置にあるこの環境が、時間が、ほんの少しの衝撃で崩れてしまうのではないかと怯えている自分が常にいる。
 信じていないのと同義だと言われても、反論はできない。
「そうやって一人で溜め込むとこ、全然変わらないな俊哉は」
 涼一は呆れているようだった。これも反論はできない。
「守田くんなら絶対大丈夫だよ。心配いらないさ」
 こちらを見つめる細い両目がどこか柔らかくなった。
「なんで、言い切れるんだよ」
「……今なら言ってもいっか。前に話しただろ? 守田くんに初めて会った時のこと。その時さ、俺に詳しい話を聞きたそうにしてたんだ。でも訊いてこなかった」
『無理に聞きたくないって、思ってるだけです。気にならないって言ったら嘘になりますけど。でも、朔さんがいやなら無理に聞かない。朔さんが、ただここにいてくれれば、それでいい』
 仲野洋輔との過去を訊かない理由を問いかけた時、高史は迷いなくそう答えた。
 知り合いでもない上に、面倒な事情を抱えている人間に対してかける言葉ではない。信じられないと同時に、初めて救われた気持ちになった。その後仕掛けたくだらない誘惑をはねのけた姿を見て、ますます惹き込まれた。
「それ見て、守田くんなら絶対俊哉のことをどうにかしてくれるって思った。結果は、お前が一番わかってるだろ?」
 わかっている。わかりすぎている。夢のような現実を生きている。
「だから俊哉を裏切るような真似は絶対しない。断言してもいい」
 無意識に頷いていた。目元が熱い。気を抜いたらその熱がこぼれ落ちてしまいそうで、必死に奥歯に力を込めた。
 やっぱり、高史は高史のままだったんだ。
「……あ、でも、待てよ」
 何かを思いついたらしい涼一は人差し指で頬を軽く叩き始めた。
「俊哉、やっぱ訊かない方がいいかも」
「な、なんだよその方向転換」
「ていうかお前こそ気づかないの? 鋭いくせに?」
 意味がわからない。わからないからこうして相談しているんじゃないか。
「あー、でも今までこういうのは無縁だったんだっけ。じゃあ仕方ないか……」
 一人で納得して完結しないでほしい。

  + + + +

 ようやく吹っ切れた気がする。
 いや、自棄になったという方が正しい。そうならないと今にも飲み込まんと押し寄せる負の波に負けてしまいそうだから。
「ただ……いま」
「やっと帰ってきたね」
 あと二時間で一日が終わる頃に、高史は帰ってきた。居間に向かおうとしていた足を止めて軽く振り返ると、どこかたどたどしい動きで靴を脱いでいた。家に充満する空気を敏感に感じ取ったらしい。
「そんな顔してどうしたの?」
 敢えて問いかけてみた。
「あの、顔が怖い、です」
 朝は普通だったのにどうして、とでも言いたげだが、隠し事をされている身からすれば白々しいというもの。
「とりあえず靴脱いで。で、ここに座る」
 指示通り、ベランダ側を背にして正座をした高史の向かいに腰を下ろす。少しだけ気分が落ち着いた。そう、冷静にならなければ話はできない。
 内心で我慢できなかったことを涼一に詫びながら、わずかに震える唇を持ち上げる。
「仕事お疲れ様。大変だったでしょ」
「は、はい。クリスマス仕様の弁当がとにかく人気で、客が多かったと思います」
「休憩する暇もなかった?」
「え、いや、ちゃんともらえました」
「じゃあ、その時に出かけてたんだな」
 高史の口元が、不自然に開かれたまま動かなくなった。
「駅前で見かけたんだよ。誰かと一緒だったよね」
 彼女の名前は敢えて言わなかった。
「なにか持ってるみたいだったから、買い物してたんだよね。結構楽しそうにしてたじゃない?」
「っあの、違うんです!」
 浮気を疑われているのだとようやく悟った高史が弾かれたように首を振った。
「高崎さんですよね? 違います。恋人いますし」
「そう、付き合ってる人いるんだ。でも理由にはならないよね?」
 おそらく納得してもらえると思っていたのだろう。目の前で表情が消えた。
「今日だけじゃない。前にもお前と彼女が一緒にいるところを見たんだよ? なのに信じろって言うんだ」
 唇を開きかけては結ぶを繰り返している。この期に及んでまだ足掻こうというのか。
「お前が隠し事してるのはわかってたけど、まさかそういうことだったなんてね……」
「だから、違います!」
 距離を詰めながら否定する高史から、ためらいは消えているようだった。ここまで持っていければ大丈夫だろう。
 すべては、高史から本音を曝け出させるための布石。
「だったら、ちゃんと話してくれるよね。なにを隠してるのか」
「そ、れは」
 高史の勢いが再び弱まる。この期に及んでまだ足掻こうとする恋人に、怒りを通り越して虚しさがこみ上げてきた。
 ここまで問い詰めてもだめなら、一体どうすればいい?
 まさか、本当に浮気をしているというのか? それとも愛想をつかしてしまった? 他に好きな人ができた? 答えに窮する理由なんてネガティブなものしか思いつかない。
 ――ああ、情けなくも涙がこぼれそうだ。泣いても意味なんてないのに。
「しゅ、俊哉さん!?」
 うろたえた声の高史に顔を向けた瞬間、気づいた。すうっとした感触が頬を走っている。堪えていたはずが、つもりでいたらしい。いつの間にか自分も嘘をつくのが下手になっていた。
「俺のこと、嫌いになったんならそう言ってくれよ」
「なっ、なに言ってんですか!」
「だって、言えないくらいの隠し事って言ったら、そういうのしか」
 高史がいきなり立ち上がった。ぼんやりとした視界で背中を追うと、玄関近くでしゃがみこみ、おそらく鞄の中をあさっているようだった。
 全く意図が読めない。こちらに戻ってきた高史の手に小綺麗な包みが握られている意味もわからない。
「これです」
 その包みをテーブルの上に置いた。
「……本当は本番まで取っておきたかったんですけど、俊哉さんにこれ以上誤解されたくないから、今種明かしです」
 再度包みを手に取った高史は、緊張ぎみにそれを差し出した。
「メリークリスマス、俊哉さん。プレゼントです」
 かけられた言葉すべてを、いつもの倍の時間をかけて飲み込む。
「……プレゼント、って、クリスマスの?」
「はい」
 プレゼントと隠し事と、どう繋がるというのだろう。頭の回転が恐ろしく鈍い。
「あと、先月の誕生日プレゼントも兼ねてます」
 短いため息を挟んでから続いた言葉に、もはや驚くだけの力はなかった。
「本当は二つ用意したかったんですけど、さすがにちょっと、厳しくて」
 確かに高史は、金の問題で用意できなかったことを悔やんでいた。祝ってもらえるだけでも嬉しいのに、予約していたレストランでサプライズのケーキまで用意してくれていたから、とても贅沢な一日だったと心のままに伝えたつもりでいたが、納得はしていなかったらしい。
「高崎さんには、いろいろアドバイスもらってたんです。こういうの初めてだったんで、本当に世話になりました」
 それが二人で行動を共にしていた理由だとでも言うつもりか。
「でも、それでどうして彼女なんだよ」
 もはや単なる嫉妬だった。まだ納得できないのだから仕方ない。
 白状し始めてから視線を外さなかった高史だったが、少しだけ天井を仰いだ。なにかを振り切るように改めて姿勢を正す。
「高崎さんにはオレと俊哉さんが恋人同士だって知られてます。バレました」
 この短時間でどれだけ衝撃を与えれば気が済むのか。
「うまい言い訳もできなくて……すみません」
 全身からすべての力が抜け落ちた。テーブルに額をぶつけてしまったが、その痛みさえも今はありがたい。
 女性は変に鋭いところがあるから太刀打ちできないのもわかっているつもりだし、この関係を絶対に口外するなと厳命しているつもりもない。
 高史がクリスマスプレゼントを用意してくれているのはもちろん想定していた。だが、その準備のために彼女に協力を仰いでいたというところまでは考えが及ばなかった。さらに関係がバレてもいたなんて……。
 涼一の忠告が何本もの針に姿を変えて、あらゆる箇所を突き刺していくようだった。記憶を保ったまま、高史と彼女を見かける前まで時間を戻せたら誰もが理想的な未来を迎えられたのに。
「あの、俊哉さん」
 肩に触れられてのろのろと頭を持ち上げると、今にも泣きそうなくらい眉根を下げた高史が映った。
「本当にすみません。こんなことになるなら素直に言うべきでした」
 首を振る。高史の気持ちは理解できるし、否定できない。
 悪い方に考える癖が前面に出すぎて、一人で暴走してしまったせいなんだ。
「いえ、ちょっと考えればわかることだったんです。オレだって、俊哉さんが誰かと仲良さそうに歩いてたら嫉妬します。どんな事情があったって、嫌です」
「……はは。嫉妬してくれるんだ」
「しますよ。相手のこと殴っちゃうかもしれないです」
 高史の眉が一瞬でつり上がった。隣にそんな相手がいたら宣言通りの行動を取りそうな雰囲気さえ纏っている。
 目眩がしそうだった。こんな多幸感は現実だからこそ味わえる。膨れすぎて苦しいなんて感想は浮かばない。
 高史の服を掴んで引き寄せる。どうしようもなくキスがしたかった。貪るようなキスがしたかった。
 唇を重ねると同時に舌を差し込む。驚きで固まっている高史のそれを何度もなぞり、後頭部に回した手に力を込めた。
 こんなキスは久しぶりだ。心臓が壊れかけのようにうるさい。
「っん……ぅ!」
 後頭部に軽く走った衝撃で、初めて押し倒されていることに気づいた。
「しゅんや、さん……もっと、オレ……」
「して……おれも、ほしい……っ」
 互いの口内でねっとりと絡み合う感触がとても気持ちいい。背中のあたりが何度も小さく跳ねてしまう。これ以上続けたらキスでは済まなくなってしまうのに止められない。高史のすべてが、欲しい。
 胸元を掠める感触に自然と腰を持ち上げてしまう。期待で背筋がぶるりと震えた。
「……あ」
 この空気を強制的に断ち切った犯人は、言うなれば人間の性だった。
「ご、ごめんなさい。こんな、ときに」
 息を荒らげながら謝る高史に追い打ちをかけるように、再び腹のあたりから唸り声が響く。知らないふりも、堪えるのももう限界だった。
「っご、ごめんごめん。そうだよね、腹減ってるよね」
「オレ、カッコ悪すぎ……穴があったら入りたいって気持ちすげーわかる……」
 頭を抱えて悶絶している。そういえばこんな姿を見るのは初めてだから、新しい一面を見れたと思えば嬉しい。
「考えてみれば俺だってなにも食べてなかったし、むしろいいタイミングだったよ」
「そう、そうかもしれないですけど……!」
 もし崖際にでもいたら飛び込みかねないほど落ち込んでいる。自分としてはますます可愛くてたまらないのだが、今は必死に押し殺さねばならない時だ。
「俺は、むしろありがたいと思ったよ」
「……腹、減ってるからですか」
 ふらふらと立ち上がり、こちらを見下ろす高史はつい先ほどまでの誰かを彷彿とさせた。
「問題です。今日はどんな日でしょう?」
 意味がわからないと顔全体で示す高史に、もっとわかりやすい問題に変える。
「ある日の二日前ですが、そのある日とは?」
 三回くらい瞬きを繰り返したのちに、短い声が上がった。
「わかってもらえたみたいでよかったよ。だから……プレゼントも、それ以外もとっとこう? ね?」
 耳元にそう囁くとともに小さなキスを贈ると、黙ったまま首が上下した。

  * * * *

「俊哉さん、まだ寝てなかったんですか?」
 バスルームから戻ってきた高史は家と同じように軽く髪の毛を拭いて、静かにベッドに上がった。
 明日、いや今日があるのはわかっている。全身に確かな気だるさも残っているし、目を閉じたらすぐに意識を手放せる自信もある。
 特別な一日を、まだ過ごしていたかった。じんわりと満たされた気分に浸っていたかった。
 こんな感覚は初めてで、少しの戸惑いと可笑しさが広がる。以前なら贅沢すぎると変に萎縮してしまっていただろう。
「……それ、また見てたんですね」
「恋人からもらった、初めてのプレゼントだからね」
 気持ちがするりとこぼれ落ちた。
 やっぱり、ずいぶん気が緩んでいる。でも、今日くらいはかまわない。誤魔化そうとしてもきっと失敗に終わっていた。
 彼女に相談してはいたものの、最終的に「これ」と選んだのは高史だったという。あれこれ眺めた中で一番納得できて、最後まで高史の頭に引っかかっていたらしい。
「そんなに喜んでもらえて、なんていうかすげえホッとしました」
「そこは彼氏冥利につきるって言ってほしいな」
「そ、そう、か……そう、ですよね」
 今、自分は誰よりも幸せな人間なんじゃないかと自惚れてしまう。いや、きっとそれでいいんだ。咎めるものはいないし、いたとしても関係ない。
「ね、高史。これ、つけてほしいな」
 身体を起こし、隣で腰掛けたままの高史にもたれかかりながら、プレゼントを目線の高さまで持ち上げた。
「え、今ですか?」
「うん。今、お前につけてほしい」
 恋人が選んでくれたプレゼントを恋人につけてもらう――そんな最高の贅沢を味わいたかった。羞恥はとうに捨てている。
 一回り大きな手が、プレゼントをゆっくりと掴んだ。まるで大役を任されたような緊張が伝わってくる。
「その、どっちにつけたいですか?」
 少し悩んで、左腕を高史の前に掲げた。
 改めて体勢を整えた高史は、チェーンを繋ぐ留め具を外した。左腕に通して再び輪にしようとするが、微妙に震えているせいかなかなかうまくいかない。
「す、すみません。こういうの慣れてなくて、不器用で」
「大丈夫。ずっと待ってるよ」
 だって、この時間すら愛おしくて仕方ない。
 頬を慈しむように撫でるとさらに震えが増して、高史に窘められてしまった。迫力はもちろんない。
「できました……!」
 今度は頭にしようかな、とつい悪戯心が成長しかけたところで安堵に包まれた声が響いた。緊張の抜けた手が離れると、確かな重みが加わる。
「ありがとう。どう? 似合ってる?」
「はい。やっぱりシルバ-にして正解でした」
 手首を左右に動かすと、向かい合わせに繋がれた二つの馬蹄が落ち着いた輝きを放つ。主張しすぎない、けれど確かな存在感がある。
 故意か偶然か、今の自分にこれほど相応しいプレゼントはない。
「……ありがとう。本当に」
「そんな、大げさですよ」
 言葉がいくつあっても足りない、なんて場面が実際にあるなんて想像もしなかった。
 高史の胸元に顔を寄せる。触れ合った箇所から余すところなく伝わればいいのにと、柄にもないことを望んでしまう。
「そうだ。高史にもつけてあげようか? 俺のプレゼント」
 怪訝そうに訊き返す高史に、左手の薬指を指差してみせる。
「つっ、つけたいですけど、衛生上の問題が」
 絵に描いたような狼狽ぶりに笑わないでいるのは無理だった。
「冗談だよ。……あ、じゃあネックレスにするっていうのはどう?」
 初めてのプレゼントで指輪は重いだろうかと考えもしたが、自分にとって高史はもう離れられない唯一のひとだ。
 だからこそ、他の選択肢はなかった。
 それでもファッション感覚で身につけられる、いわゆる結婚指輪のようなデザインではない。簡単な彫刻が表面をぐるりと彩っている。
「全然、考えつかなかったです……」
「チェーンを長いのにすれば服の下にも隠しやすいよ。今度一緒に見に行こう?」
 安堵と嬉々の混じった笑みを浮かべて頷く高史の左手をそっと取る。
 いつかは、本来の場所に身につけてほしいと今願ってしまうのは早計か、単なるわがままか。口にしたら困らせてしまうだろうか。
 ――いや、考えるのはよそう。感情のままに動いてみるんだ。
 目の前の薬指に唇を寄せて軽く吸い上げる。視線を持ち上げると、こちらを凝視する瞳とぶつかり、一瞬ゆらいだ。
「いつかは、ここにもつけてくれると嬉しい」
 左手が熱くなった。高史の顔が吸い込まれるように近づいていくのをぼうっと見つめる。指輪交換でもしているようだ……なんて、相当浮かれている。
「……そのときは、俊哉さんに指輪、プレゼントしますね」
 腕につけられた幸運のお守りが、一瞬強く光ったように見えた。

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(画像省略) 物心ついた時から、心動かされる相手はいつも同性だった。 だから恋を…

夜の太陽はさかさまで輝く

#R18

夜の太陽はさかさまで輝く

第5話:過去の話(朔俊哉視点) #R18

20240113150228-noveladmin.jpg

 物心ついた時から、心動かされる相手はいつも同性だった。
 だから恋をしても基本叶わないものと割り切っていたし、実際その通りだった。
 想いを押し込める技だけは得意だった。少しでも気を緩めて吐露してしまえば、間違いなくつながっていた縁は切れる。
 それが何よりも、怖かった。


「俊哉、祝え。俺は今度、ついに結婚するぞ!」
「……改まって飲みに誘ってきたのは、それが理由か」
「いいじゃねーかよ。一番世話になってるお前に、最初に報告したかったんだからよ」
 仲野洋輔(なかのようすけ)は子どものように唇を尖らせる。思わず苦笑しながらも、祝辞の代わりにビールの注がれたジョッキをコンと当てた。個室ありの居酒屋を選んだ理由もそれだろう。
 洋輔は新卒で入社してから持ち前の明るさと人懐こさで横のつながりを築いていたが、一番気を許してくれているのか、昼食や会社帰りの飲みによく誘われ、他愛ない話から深い話まで交わしてきた。
 もちろん、自分も同様だった。他に谷川という同僚とも仲はいいが、洋輔の隣が一番落ち着く。恋情を抱くのに、時間もかからなかった。
「それって、前から付き合ってたっていう彼女?」
「そうそう。結婚したーいって言いまくられて、折れたってのもあるんだけど」
 苦笑しながらも、もともと柔和な瞳はさらに柔らかくなる。
 二年ほど前に合コンで知り合い、意気投合して付き合うことになったと聞いたのが最初だった。洋輔に負けず劣らずの明るさをもっていて飽きないばかりか、ほしいと思った時にすかさず手を差し伸べてくれるような、まさに完璧な女性らしい。
「あ、何だよその苦い顔。あれか、リア充爆発しろってやつか」
「違うって」
 つい表に出してしまっていたらしい。自ら望んで「友人」の籠にこもっているのに、想う気持ちというのは時々、恐ろしい。
「結婚式は今んとこしない予定なんだけどさ、祝いの品くれ! 金くれ!」
「金目当てだろ結局!」

 結局、同じ展開を繰り返す。
 それでも、慣れていた。また時間をかけて、想いを昇華していけばいい。
 この想いに関係なく、洋輔が大事な人であることに違いはない。親友だって、そうそう手に入るポジションじゃない。互いに笑い合えるだけで幸せじゃないか。
 今までと変わらないレールをただ進んでいた。進んでいると、思っていた。

  * * * *

「……なあ」
 缶コーヒーを片手に喫煙所の前を通り過ぎようとした時、中から谷川に呼び止められた。
 足を止めると、周りの様子を伺いながら中に引き入れてくる。
「どうしたんだ?」
「あのさ。お前、仲野と仲いいだろ?」
 その名前に、手から力が抜けた。一瞬の鋭い痛みで我を取り戻し、慌てて屈む。
「おい、大丈夫かよ?」
「ご、ごめん。大丈夫。……その、洋輔がどうかしたのか?」
「いや、あいつ最近変じゃない? って思って」
 すぐに答えられなかった隙を谷川は見逃してくれなかった。煙を吐き出してから向けてきた視線は、探るように鋭い。
「こう……違和感があるというか。俺、今あいつとチーム組んでるからわかるんだよ。仕事も、前は絶対にしなかったようなミスをするようになってるし」
 どううまく切り抜けるか。そればかりが脳裏をぐるぐると回って、目眩を起こしそうになる。
「リーダーが本人に直接面談してみたらしいんだけど、何も答えてくれなかったんだって。まあ、あいつって意外と溜め込むタイプだからなぁ……」
「だから、俺が何か知ってるかって、思ったの」
「そう。知ってる?」
 確信と、逃避を許さない声音で問われる。せめて逸らさないようにと首に力を入れても、まっすぐな視線につい下を向いてしまう。
 明らかな劣勢を救ったのは、ポケットにあるスマートフォンだった。
「……ごめん、電話だ」
 逃げるように喫煙所を出る。非常口のある階段まで足早に進み、画面を見て喉を引きつらせる。
 ……無視は、できない。震える指で画面をスワイプした。
「出るまで時間、かかったな?」
 感情の抜け落ちた声だった。とっさに、人に呼び止められていたと微妙な嘘をつく。
「今から第二資料室。来れるよな?」
 頷きたくないのに、頷くしかできない。声を絞り出そうとした瞬間、決まり文句が続いた。
「来ないと、今すぐ自殺してやる」

  + + + +

 籍を入れたという報告を笑顔とともに告げられて、三ヶ月が経過しただろうか。
「洋輔……なんか、元気ない?」
「ん、そんなことないって。ほら、結婚するとどうしたって環境変わるって言うだろ?」
 結婚前から関わっていた長期のプロジェクトが終盤に近づき、多忙な洋輔を昼に誘った。自分も別の仕事を任されたばかりで、揃って昼休憩を取るのは久しぶりだった。
 結婚の二文字は口にしていないのにそう返してきた違和感を覚えつつ、当たり障りのない相槌をうつ。
「奥さんは元気?」
「まあ、ね。仕事やめて、家事頑張ってくれてるよ」
 今時、子供もいないのに専業主婦とは珍しい。あるいは、これから授かる予定なのだろうか。

 この時の違和感を、もっと膨らませておくべきだった。
 もっと気にかけていれば、洋輔の性格を改めて認識しておけば、あの夜は訪れなかったと信じたい。


「……洋輔」
 久しぶりの定時退社後の時間を、自宅でのんびり過ごす。明日は土曜日だし、理想的で贅沢な時間の使い方だ。
 明日になったら、今日病欠だった洋輔に連絡でも入れてみよう。ここ数日、目にわかるほどやつれて見えたからむしろ休んでくれてほっとしている。
 そう考えていた矢先の、インターフォンだった。
「えと、大丈夫か? とにかく、中に入れよ」
 廊下の蛍光灯に照らされた洋輔はうつむいたまま、立ち尽くしていた。「癖毛だから毎朝セットが大変なんだ」と困ったように撫でていた茶色の髪の毛はドライヤーで適当に乾かしたように、乱雑に撥ねている。
 肌に感じる空気がずしんと重い。言葉には素直に従ったから、何かしらの目的はあるらしい。
 ……こんな、普段とは真逆の洋輔は初めてだった。かろうじて動いている機械のようだ。
「今日、珍しく休んでたから心配してたんだよ。ずっと疲れてたもんな」
 答えは未だ返ってこない。それどころか、リビングに入ったところで足を止めたまま、視線を床に固定している。
 説明できない気持ち悪さが胸元から広がっていく。どう動くか迷って、とりあえずテレビを消した。彼が好きなコーヒーでも用意してあげよう。
「……せろ」
 聞き間違いかと思った。
 だから足を止めただけで、何も答えようとはしなかった。
 洋輔が、動いた。逃げたいけれどできない身体を無遠慮に抱きしめてくる。
「抱かせろ。俊哉」
 理解できない。したくない。頭が思考を激しく拒否している。
 しっかりしろ。両足を踏ん張って、洋輔の腕の中から逃れた。
「コーヒー、淹れてやるからそこ座ってろ。話なら、ちゃんと聞くから」
「俺は本気だ!」
 急な叫び声に振り向いて、固まる。
 いつもは太陽のように輝いている洋輔の双眸は、すっかり曇っていた。いや、いびつな光を閉じ込めて、こちらを容赦なく照らしている。
 下まつげの裏にある、目と同じ大きさの黒い染みにひどく狼狽する。会社ではあんな痕、ひとつもなかった。
 ……もしかして、化粧でもして、誤魔化していた?
 エンジンがかかったように洋輔が近づき、すれ違う。彼はキッチンに向かい……あるものに、手を伸ばした。
「っ、ようすけ!」
「抱かせてくれないなら、ここで死んでやる」
 銀色の切っ先が自らの喉元をまっすぐ狙っている。よく見ると細かく震えていて、ほんの少しでも誤れば肌に食い込むくらいに近い。
 冗談と言えない。洋輔の目は本気で、妄執に支配されている。
 願いを押し通すまで、あの体勢を解かないつもりだ……!
「何が、あったんだよ? どうして、いきなりそんなこと言うんだよ」
 だとしても、おとなしく受け入れるつもりは毛頭ない。うまく話を引き出せれば、洋輔の抱えているものをわずかでもなくせれば……。
「お前、俺のこと好きなんだよな?」
 二度目の衝撃に耐えうる精神力は、なかった。
 引きつったような笑いをこぼして、洋輔は続けてくる。
「なんとなく、気づいてたぜ。お前が俺のこと、そういう目で見てるんだって。でも、言わなかった。俺は彼女がいたし、それを気遣ってお前も言わなかったんだろ? そうなんだよなぁ?」
 無意識に、首を振っていた。後ずさった瞬間、ダイニングチェアに右足をとられてしまう。
 立ち上がれない。洋輔を見る、気力もない。
「別に気持ち悪いなんて思ってなかったよ。むしろ今はありがたいね! そんなに一途に俺を好きでいてくれたんだって、嬉しくないわけないだろ!?」
 今までの努力が、硝子が崩れ落ちるように弾けて、ぱらぱらと散っていく。
 洋輔のためを想って取ってきた行動は何だったのだろう。積極的にむしろ出るべきだったのか。修復不可能なところまで行くべきだったのか。わからない。わかりたくない。
「お前の一途な愛がほしいよ……なあ、俊哉……?」
「……ざ、けるな」
 侮辱だ。中身のいっさい見えない「愛」を向けられた。
 拳を握りしめ、こみ上げる激情に喉を震わせる。
 頭を持ち上げると、どこぞの貴族のように片膝をつき、うつろな笑みで見下されていた。屈辱までも与えてくるなんて、いくら親友でも許せるはずがない!
「ふざけるな……何が、一途な愛だ! わかったような口を聞くなよ!」
 怯んだ瞬間を逃さず、包丁を奪い取って背後に転がす。シャツを掴み上げて揺さぶった。
「俺がどんな思いで耐えてきたと思ってるんだ! お前の幸せを邪魔したくないって、必死に気持ちを捨てようと、して……!」
 もう少しだった。どんなのろけ話を聞かされたとしても笑顔で、あるいは冗談を交えつつ聞けるだけの余裕を得られるはずだった。
「ああ、やっぱりお前は俺を愛してるんだな……」
 とても静かで、不気味さを感じさせる、声。
「今の……告白にしか聞こえなかったぞ?」
 全身が粟立った。掴んだ手を離そうとして、捕らわれる。
 やさしい笑顔だけがそこにはあった。期待をもたせるような、警戒をさせないような、笑みが。
「なあ、素直になれよ。少しでも、俺に愛されるんだって期待したんだろ?」
「ちが、う……こんなの、間違ってるだろ……」
「だって、俺は今、とてもお前がいとおしいよ? キスして、抱きたいって思ってるよ?」
 抗いたいのに、鼓膜を震わせる声が頭を痺れさせ、力を奪っていく。
 贋物だとわかっている。単なる逃げ場として扱われている。けれど、理由なしに卑劣な行動に出る男でないのも知っている。
 だからちゃんと話を聞かせてほしい。助けになりたい。こんな方法、さらに傷を抉るだけだ。
 わかって、いるのに。
「俺にくれよ……お前の愛を、俺にぶつけろよ……」

 洋輔は泣いていた。声が、潤んでいた。
 でも、ここで身体を投げ出すのは間違っていた。
 脅迫に負けず、真正面から洋輔と向き合うべきだったのだ。

  + + + +

「やっと来たのか。遅かったな?」
 第二資料室は、今は物置としての役割が中心になっていて、ほとんど足を踏み入れる者がいない。
 棚こそそれなりに整理されているが、口の開いたままのダンボールが通路の真ん中を陣取っていたり、部屋の隅に置かれた半透明のゴミ袋に何かが詰め込まれていたりと、長い間放置されているのがまるわかりだった。
 扉から見えない位置で、壁側の棚に寄りかかっていた洋輔は、社内用の仮面を知っているからこそ余計に、不気味に映る。
「十五分後くらいに、チームの会議があんのよ。俺、昨日のお前思い出してたら勃っちまってさぁ……こんなんじゃ集中できないから、お前、抜いてくんねぇ?」
 形だけの問いに、拒む権利などなかった。
 素早くベルトを外し、下着を下ろして半勃ちのそれを口に含む。髪の毛をぐっと掴まれて顔をしかめたが、かまわず行為を続けた。
「積極的じゃん? 俺としては大歓迎だけどな」
 早く終わらせたい。あくまで事務的な態度で、全体に舌を這わせて袋を揉みしだき、吸い上げる。
 唾液に苦味が混じり出す。吐き気を覚えることもあったが、どんな感情も向かなくなった。
「あ、あ……お前、ほんとうまいな……どこで、学んできたんだよ……?」
 目を閉じて、無理やり集中する。イかせるだけで終わるんだ。これくらい、なんてことはない。
「無理、我慢できないわ。……中に、いれさせろ」
 無心になっていたせいで、反応が遅れてしまった。両手を素早く頭上にまとめられ、ベルトに手をかけられてしまう。
「や、やめろ……! 会議に、間に合わなくなるだろ!?」
「静かにしろよ。こんなのがバレたら、お前も終わりだぜ?」
 一瞬で息をつまらせる。愉快でたまらないと言いたげな笑い声が鼓膜を打った。
 遠慮なしに指を突っ込まれても痛くない秘部の代わりに、心臓がきしむ。心と切り離された身体は、洋輔をすんなり受け入れるようにできてしまった。
「あ、う……っ!」
 それでも、洋輔自身で貫かれる瞬間だけは圧迫感で苦しい。深い溜め息をこぼして激しい律動を始める洋輔についていくのが精一杯だ。
「口、ふさいどけ……お前、声が大きいからな……」
 ようやく両腕が解放されてすぐ、片手を口元へ持っていく。がたがたと揺れる棚を気遣う余裕もない。
 感じたくないのに痺れは容赦なく押し寄せてくる。いっそ、身体を新品と交換できたらいいのに。心と身体が連動するように、改造してほしい。
「中に、出すからな……ちゃんと、受け止め、ろよ……っ!」
 埋め込まれたものが痙攣して、じんわりとした熱が広がっていく。素早く引き抜かれて支えを失い、その場に崩れ落ちる。
「やっぱ、お前最高だわ。……あいしてるぜ、俊哉」
 ――お前は絶対に、逃がさない。

 まるで呪縛だった。
 彼の目の届く範囲にいる限り、絶対に捕らえてしまう黒い無数の糸。
 逃れたい。どんな手を使っても、振り切りたい。
 誰かに愛されたいなんて二度と望まない。結末がバッドエンドばかりなら、物語自体を綴ろうなんて思わない。
 欲望を吐き出すための人形の役目を続けるのは、もう、限界だ。
 ……逃げるんだ。
 気取られないよう、追いつかれないよう、どこでもいいから遠くへ、逃げるんだ。

 実家が大変なことになっているとの嘘が通り、一ヶ月後には退職が決まった。
 洋輔にはなおも激しく求められ、絶対に嘘だと決めつけながら時には虐待じみた行為までされたが、決して口を割らなかった。一ヶ月後の自由を思えば、増える傷などいくらでも耐えられた。
 念のために、端末に登録していた実家の電話番号を筆頭に、少しでも手がかりとなりそうな情報は片っ端から破棄した。両親だけは絶対に守り通さないといけない。
 そして当日……定時と共に会社を飛び出し、自宅とは反対方向の電車に乗った。
 この日に解約できるよう、マンションの管理人と話をつけていたのだ。

『お前が……お前が、俺の拠り所をなくしたせいで……』
『殺してやる……お前も、俺と同じ場所へ、引きずりおろしてやる……!』
 背中を常に狙われていても、自分にとっては間違いなく自由だった。
 ――悪夢に、うなされるまでは。

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夜の太陽はさかさまで輝く

夜の太陽はさかさまで輝く

エピローグ

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 マンションから数十分も歩くと、海岸に出る。
 最寄りの駅からすぐに行ける方が観光地としてメジャーなこともあって、地元の人間だけが利用するプライベートビーチのような雰囲気を醸し出している。
 引っ越してきてから初めて、この海岸沿いを二人で歩いてみた。人の手がほとんど入っていない砂浜は自然のままで、サンダル越しでもわかる柔らかな感触が気持ちいい。駅のある方向はホテルと思しき建造物が目立っている。確かに、景色は最高だ。
 犬を散歩している若い夫婦もいれば、ランニングをしている中年の男性もいる。その背中を何となく追うと、太ももまでの高さの砂山が海を見守るように鎮座していた。
 俊哉に倣って、その場に腰を下ろす。オレンジが残り火のように、水平線上で燃えている。
「そういえばさ。俺、いつまで高史の奥さんみたいなことすればいいの」
「いつまででもいいですよ。オレがそのぶん頑張りますから」
「じゃあ気兼ねなくおんぶにだっこでいようかな」
 腕を絡めて、俊哉は小さく笑う。
「……なんてね。俺ももう少ししたら、仕事始めるよ」
 俊哉が心身ともにゆったりと過ごすには、一度都心から離れた方がいい。そう訴えて、次の住処を寝る間も惜しんで探した。
 ある程度は生活に不便を感じないこと、という条件が意外に重かったものの、互いにピンときた場所ゆえに心地よさは随一だ。
 就職に失敗してから世話になっていたバイトを辞めるのは寂しさを禁じ得なかったが、快く送り出してくれた仲間たちの気持ちは、日々の励ましとなっている。
「仕事復帰、早くないですか? 無理しなくていいんですよ?」
「……高史って、無意識にダメ人間を量産する天才なんじゃないの」
「な、なんですかそれ。オレ、真剣に言ってるのに」
「天然なのがさらに恐ろしい~」
 こうして軽口を叩き合うのもすっかり定着した。大体は、まさに今現在のように俊哉に言いくるめられてしまうのだが、それでも楽しくて、嬉しい。
 立ち上がって波打ち際へ近づいた俊哉は、こちらを少し振り向く。逆光に目を細めると、唇をとがらせた表情がうっすらと見えた。
「俺の貯金分と今のバイト代だけじゃ、そのうち金尽きるよ」
 実に現実的な意見だった。すっかり主夫が板についているのもあって、家計にも敏感なのだろう。
「それに、高史の時間も増えるでしょ」
 自分の時間なんて考えすらしなかった。それだけ、俊哉のことで埋め尽くされていたとも言える。
「俺のこといつも気にかけてくれるのはありがたいけど、結構心配してるんだからね。ほとんど休みないし、相変わらず掛け持ちバイトしてるし」
 何だか、肩身が狭くなってきた。心配をかけていたことに気づかないとは、意外と余裕がなかった証拠だ。
「……俊哉さんが本当に心配なんですよ。今もまだ、うなされてたりするし」
 あの人の影が完全に消えるには、もう少し時間がいる。
 背後に立ってそっと抱きしめた。あたたかい海風と混じった俊哉の匂いが鼻腔をかすめる。
「……大丈夫だよ。強がりじゃなくて、本当に。だから、これからは高史も支えさせてよ」
 回した腕に、ぬくもりが重なる。
「それに、俺も高史に出迎えてもらったり、おかえりって言われたい」
 あまりに可愛すぎる願望に、つい疑ってしまったのは仕方ない。悟られたら機嫌を損ねるのは必至だから、さらに引き寄せることで誤魔化す。
「……俊哉さんには、かなわないっすね。いろんな意味で」
「これでも、お前より年上だからね」

 再び持ち上げた視線の先に、夜の太陽がある。
 遮るもののない輝きは、半欠けとは思えない力強さをもってこちらを見返し、照らしていた。

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夜の太陽はさかさまで輝く

#R18

夜の太陽はさかさまで輝く

第6話 #R18

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「あ、あの、今日、ですか? ってかオレ、告白とかしてない……」
「したようなもんだろ?」
 明らかに誘った目で舐めるように見上げてくる俊哉に、本気でめまいがしそうだった。


 部屋に戻った瞬間、俊哉に背中から抱きしめられた。思わず食料品が詰まったビニール袋を床に落としてしまう。
「しゅっ、俊哉さん? いきなり、何を」
「ちょっと、動揺しすぎじゃない?」
 どこか楽しそうに小さく笑いながら突っ込む俊哉の腕を外して、落とした袋を拾う。そのまま部屋に上がると、背後からどこか戸惑った声がかけられた。
「黙ってスルーするの、そこ」
「敢えてです。すげー緊張してるんで」
 あんまりくっつかれると、名前呼びを受け入れてくれた嬉しさも手伝って先へ先へといってしまいそうになる。
「じゃあ、すごく意識してるんだ?」
 隣に立って、買ってきた物の整理を手伝いながら俊哉はまた笑う。もしかして試されているのだろうか?
「俊哉さん、オレの気持ち知らないわけじゃないっすよね?」
 帰り道、電車に揺られながら今後のことを妄想していなかったわけじゃない。あの人への気持ちの整理がちゃんとついたらもっと仲を深めていって、ここだというタイミングで告白しよう、なんてプランを練ったりしていた。
 まるで学生のようだと笑われるだろうが、それだけ真剣で慎重なのだとわかってもらいたい。他の誰よりも、俊哉には。
「まあね。高史、すごくわかりやすいから」
「なら、なおさらからかうような真似はやめてください。オレ、ほんと真剣なんです。あなたのこと、大事にしたいんです」
 強引にキスマークをつけておいて、どの口が言うんだと突っ込まれてもいい。これは紛れもない本心だ。
 目元を緩めた俊哉は、ふわりと身体を預けてきた。
「しゅ、俊哉さん! だから……!」
「わかってる。お前が俺を大事にしようとしてくれてるのは、わかってるよ」
 こちらを見上げた俊哉の視線がただ、柔らかい。何でも受け止めてもらえそうな、しなやかな強さを感じる。
「高史が一緒に生きてほしいって言ってくれて、俺がどれだけ嬉しかったかわかる? まともに礼も言えなかったくらい嬉しくて……たまらなかった」
 涙で歪みかける顔を、懸命に笑みの形にしようとする俊哉がたまらなくいとおしくて、震える両腕で抱きしめ返した。
 もう、絶対に離さない。傷もつけさせない。
「ね、高史……お願い。キス、して」
 蠱惑的な誘いだった。それをかわす余裕は、今の自分にはかけらも残っていない。
「んん、っふ……ぁ!」
 唇だけを交わすのはそこそこに、呼吸ごと奪うように隙間をなくして、舌と唾液を勢いのままに絡める。主導を自分が取っているようで経験値の差か、なめらかに動く俊哉の舌に背筋を甘い痺れが幾度となく走る。
「……っは、たか、し……」
 押しつけてきた中心の昂りを感じて、どきりと胸が高鳴る。同時にこちらの調子も筒抜けとなってしまった。
「あ、あの、今日、ですか? ってかオレ、告白とかしてない……」
「したようなもんだろ?」
「しゅ、俊哉さんはどうなんですか。ほんとに、オレのこと」
「好きだよ」
 声も視線も、ひとつの歪みなく貫いてくる。
「放っておけないって理由だけで赤の他人拾って、身体張って自殺止めて、一緒に生きてほしいなんて言ってくれる高史が……俺にはもったいないくらい、好きだよ」
 少し背伸びをして、耳朶に柔らかく熱い感触を当ててくる。それが夢ではないと繰り返し訴えている。
「だから、今がいいんだ。今、お前に抱いてほしい」
 俊哉の想いの前では、自分の覚悟などちっぽけな存在だった。

「……ホテルまで、我慢できますか」
「生殺し?」
「ここ、安アパートだから壁薄いんです。俊哉さんの声を、誰にも聞かせたくない」
 言葉を詰まらせた俊哉は、俯きながら小さく首を上下させた。

  + + + +

 駅前にあるビジネスホテルは、ダブルベッドの部屋だけが空いていた。
 本当に、なんて奇跡だろう。
 バスローブ姿でベッドの縁に腰掛けたまま、視線だけを四方八方に散らす。自分よりも長くシャワーを浴びているのは、これからに向けての準備を進めているためだろう。
 ――俊哉を抱くんだ。間違いなく、この手で。
 緊張と不安と歓喜と申し訳なさと……浮かぶ感情にいちいち名前をつけるのも忙しい。きっと笑われる。
「めちゃくちゃ緊張してるじゃん」
 いつの間にか、俊哉がシャワーを済ませてこちらに歩み寄っていた。
 雰囲気のせいか、バスローブのせいか、いつもより色っぽく見える。濡れた髪の毛が首筋に張り付き、そのまま目線を追うと見えるか見えないか絶妙な位置で白い布に覆われた胸元にたどり着いて……それきり、移動できない。
「お前、今、どんな顔してるかわかる?」
 隣に腰掛けてきた俊哉は、猫のように身体をすり寄せた。
「すごく、俺を抱きたくてたまらないって、顔」
 間近で微笑み、吐息を乗せて唇をひとつ、舐める。
 ――頭の中で、何かがぶちりと千切れた。
 その場に押し倒して、噛みつくように口づける。おねだりとわかる伸ばされた舌を絡め取り、自らのそれと擦り合わせながら股の間をぐいぐいと膝で押した。
「んぁ……あ、や、だ……」
 とろんとした瞳で見上げる俊哉から、視線が外せない。
「……自業、自得です」


 初めて指を差し込んだその箇所は、想像を遥かに越えた軟らかさだった。
「っは、もっと、そこ、上……こす、って」
 そこだけではない。胸元も腹部も背中も、俊哉の身体は細身とは思えない柔らかさだった。そして、敏感だった。
 尻を突き出した格好でねだる姿が扇情的で、また喉を鳴らしてしまう。
 とっくに理性はやられていた。「決して嫌がることはしない」という誓いだけは何とか頭に刻み込めているが、経験者の俊哉にうまくコントロールされている気がしないでもない。
「きもち、いいですか」
「いっ、い……たかしの、太くて……っあ、あ!」
 指示された箇所を強めに押し上げると、内側が生き物のようにうねる。透明な蜜をとめどなく垂らしている俊哉の中心にも手を添えて、同じくらいの力で扱き上げた。
「ばっ……や、一緒に、するな……!」
「一回、イった方がいいんじゃないですか」
 経験者の余裕を、崩してやりたかったのかもしれない。止めようと伸ばされた手をかわして、同時に刺激を与えていく。
「すごい……俊哉さん、腰、すごく揺れてる。気持ちよすぎるんだ?」
「おかし、なる……ぅ、あ、んぁ……!」
 正直、こっちもおかしくなりそうだ。多分ものすごく必死な顔をして、暴走しそうな自分を抑えている。吐き出す息は獣のように荒いし、中心に無視できない熱が集中して、苦しい。
 俊哉の呼吸が一段と荒くなってきた。二本の指の抜き挿しをさらに速め、先端の割れ目に爪先を当てた瞬間、そこが弾けた。
「……めちゃくちゃ、出た」
 濃い白濁まみれの手を呆然と見つめる。
「当たり、前だろ……っ」
 肩で呼吸を繰り返しながら、俊哉はこちらを軽く睨みつける。
「こういうの、久しぶりなんだぞ……少しは、手加減、しろよ……!」
 ようやく、彼が自ら指示を出していた理由がわかった。少しずつ、自分を受け入れる身体に慣らすためだったのだ。
 いくら初体験とはいえ、あまりな行動に思わず正座して俯いていると、シャンプー混じりの柔らかな香りが鼻腔をくすぐった。俊哉の頭の撫で方は、恋人というよりは子ども相手に近い。
「可愛いな、ほんと」
「可愛いのは、俊哉さんです」
「図体のでかいやつがそうやってしょんぼりしてるとこの、どこが可愛くないって?」
 触れるだけのキスが降ってくる。
「……もう、大丈夫だから」
 どういう意味だろう?
「ここからは、お前の好きにしてくれていいから」
 俊哉は満ち足りた笑みを浮かべる。
「お前に、上書きしてほしい。今までの俺を忘れるくらい、抱いてほしいんだ」
 なんて、殺し文句。
 みっともなく泣きそうだった。固く抱きしめて、俊哉の想いを噛みしめる。
「その前に……俺も、高史を気持ちよくさせてあげるよ」
 バスローブの前を解かれ、手のひらで素肌をなぞりながら押し倒してくる。
 理解する前に、張り詰めていた中心にふわりとした感触が生まれた。
「しゅ、俊哉さん!」
「高史の、すごく大きいな……」
 軽く上下に扱いてから、自らの口元をその場所へと持っていく。やろうとしている行為を把握したと同時に、俊哉の舌が周りを撫で始めた。
「う、あ……っ」
 わざと濡れた音を立てて、ぬるりとした感触が全体に這い回り、擦られる。根元までを咥え込まれた時は頭の中が一瞬真っ白になった。
「ん……どんどん、あふれてきてる……」
 道具を使った自慰とは比べ物にならない。
 腰の揺れも、さらに甘い刺激を求める欲も止められない。他人にしてもらうのが、こんなにも気持ちのいいものだったなんて。
「俊哉さ……っ、オレ、もう……」
「いいよ、咥えててあげるから、イって……」
 頭を上下に動かしながら一層強く吸い上げられて、呆気なく熱を吐き出した。
 力の入らない身体をベッドに沈めるも、確かな咀嚼音を聞いて思わず首を持ち上げる。
「飲んだん、ですか」
 俊哉はただ、微笑んでみせた。口の端から、自らの中にあったものがたらりと筋を作り、喉を伝って胸元までたどり着く。その感触のせいだろうか、小さくも甘い声をこぼす。
 再び、熱が収束していく。頭の中が、俊哉のことだけで埋め尽くされていく。
「早く、きて」
 ベッドに横たわり、両腕を広げてねだられれば――乗らないわけには、いかない。
 勢いのままに繋がろうとして、すんでで装着していないことを思い出す。
「いいから」
 腕を掴まれた。
「そのままで、やって。中に出してかまわないよ」
「いくらなんでも、それは!」
「出してほしいんだ」
 澄んだ、まっすぐな双眸だった。
「出してもらうまでが、上書きだから。……お願い」
 余裕も理性も、とっくにすり切れていた。
 ベッドから浮いていた腰に手を添えると、てらてらと光る蕾に一度触れさせてから少しずつ押し進めていく。
 溶ける。気を抜くと飲み込まれる。それでいて気を任せたくなってしまう。四方八方から誘惑されているような心地になる。
 自身を愛しい人とつなぎ合わせた感想は、ぐちゃぐちゃだった。
 たったひとつの確固たる言葉は、ますます増した「いとおしい」だけ。
「オレ、下手じゃ……っ、ないですか?」
「へたじゃ、な……あ、っああ!」
「いいとこ、あたりましたか……」
「っま、って……ひさし、ぶりだからぁ……あぁ、ん!」
 枕を握りしめて頭を左右に振るたび、黒い髪で彩られた首筋が視界を煽る。見えるところにつけたら俊哉が困るだろうと思いつつも、止められない。
 ――この人は全部、オレのものだ。
「な、に……?」
 薄い痕が生まれた箇所を人差し指でなぞって、律動を再開する。枕にあった両手をそれぞれで絡めると縋るように握り返される。目尻と口端から流れ落ちる雫が、自分のためにあふれていると思うだけで目元が熱くなる。
「……泣いてるの?」
 微笑みながら問われて、初めて気づいた。
 泣くなんていつ以来だろう。自覚したらいたたまれなくなってきた。
「自分でも、よくわかんないです。俊哉さんとこうしていられて、幸せすぎなのかも」
「俺だって、一緒だよ。……本当に好きな人とするのって、こんなに満たされるんだって」

 だから、もっと好きにして。
 もっと、高史で満たして。

 飽きるほど互いの身体を貪って――夢見心地を覚ます音でまぶたを持ち上げて映った、胸元でくるまる俊哉の穏やかな表情に、また涙がこみ上げそうになった。

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(画像省略) 就職活動以来袖を通していなかったリクルートスーツは、少しきつくなっ…

夜の太陽はさかさまで輝く

夜の太陽はさかさまで輝く

第5話

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 就職活動以来袖を通していなかったリクルートスーツは、少しきつくなっているように感じた。
 朔は「服装なんて気にしなくていい」と言っていたが、ラフな服装で、朔の知り合いの墓石の前に立つのは気が引けた。

「明日って、バイト休みだったりする?」
 梅雨もそろそろ明けるか明けないかといった時期にさしかかった頃だった。
 夕食中に、改まった表情で朔が切り出した。
 大事な用事が控えているに違いない。なら、答えは決まっている。
「午後にバイトありますけど、休みます」
「……いいのか?」
 迷いなく頷くと、朔は苦笑をこぼした。一体何を言うつもりなんだろう。
「それなら……明日、一緒に来てもらいたいところがあるんだ」
 訊き返すと、苦笑は苦痛にゆがんだ。箸を握る手が細かく震えている。
「知り合いの、墓参りに付き合ってほしいんだ」

  * * * *

 電車をいくつか乗り継いで、郊外の駅からタクシーで町外れまで移動する。墓は小高い丘の上にひっそりと存在しているようだった。
 霊園の半ばまで進んだ朔の足がある墓石の前で止まり、スローモーションがかかったように振り向く。しばらく見つめたあとに、手にしていた花束を花立に飾り出した。
 墓石には「仲野家」と名前が彫られている。
「ご友人とか、ですか?」
 家を出てから、初めて朔に話しかけた。
 ずっと悲痛な面持ちを貼りつけている彼は、とても会話できるような状態ではなかった。
「……谷川に、この場所調べてもらったんだ。もう少し落ち着いたら、あいつにもちゃんと事情話さないと」
 線香の煙が、鉛色まで昇りつめたところで消える。手を合わせる朔に少し迷って、倣うことにした。
 脳裏に、新聞の切り抜き記事が蘇る。やっぱり、目の前の墓石に眠っているのは……。
「勤めてた会社で、知り合った男だった」
 やがて、何の感情も読み取れない声が吐き出された。
「自殺したんだ。住んでたマンションで、首を吊ったって」
 ひゅっと、短く息を吸う音が聞こえる。朔の眉間に深い皺が刻まれていた。自らを抱きしめ崩れ落ちかける身体を慌てて受け止める。
「大丈夫ですか? ゆっくり、息を吐いて」
 朔の身体の震えが少しでも落ち着くようにと、優しく背中をさする。
 腕に触れた手は、驚くほど弱々しかった。
「ごめん、ありがとう。冷静にって思ってたんだけど……ほんと、弱いなぁ」
「……あの、別にオレ、いいですよ。あの時言ったこと、嘘じゃないです」
「聞いてほしいんだ。君に」
 一瞬で、肌に食い込むほどの力が込められた。
 再び向けられた双眸の奥に、小さいながらも意志の強い光が見える。
 拒む権利は、最初から存在していなかったのだ。

  + + + +

「同期だったんだ、あいつは。新卒で入社した頃から馬が合って、気づいたら……好きになってた」
 霊園の近くにある休憩所に移動する。白を基調とした内装は、今の気分にはどこかまぶしく映る。
「でも、俺はずっと隠しておくつもりだった。一番の友人だって言ってくれたあいつの気持ちを裏切りたくなかったし、付き合ってる彼女もいたしな」
 膝の上に置いた拳が震えていることに気づいた。そっと手のひらを重ねると、消え入りそうな微笑が返ってきた。
「そのうちあいつがその彼女と結婚して、俺も少しずつ気持ちの整理をつけてた。……でも」
 数ヶ月して、その友人が少しずつおかしくなっていった。
 妙にやつれているのに何でもないと過度な笑顔で誤魔化して、けれど朔は強気に出れなかった。無理に突っ込めば、あっけなく壊れてしまいそうな気がして怖かったという。
「……ある夜に、あいつが突然やってきてさ。何を、言ってきたと思う?」
 ――抱かせろ。
 手に持っていた缶を握りつぶしそうになった。何だ、その残酷な願いは。
 前髪をかき上げて、無理に朔は笑い飛ばそうとした。飛ばそうとして、震えた吐息だけがこぼれる。
「俺の気持ちにうっすらと気づいてたけど、好きな人がいたし、敢えて触れなかったんだって。それは別にいいんだ。でも……そんなの、できるわけない。できるわけ、なかったのに」
「……言われた通りに、したんですか」
 今にも死ににいくような様相だった。抱かせてくれなければ死んでやると、包丁を自らに向けて脅されもした。明らかに本気だった。
 朔は力なくそう続けた。過去のことだ、仕方のないことだったと納得しようとしても、腹の底が熱くてたまらない。
「それからあいつは、家でも、ひどい時は会社でも、俺を抱いたよ。……半年くらい、そんな関係が続いたかな」
 頭の中で、顔も知らない相手が朔をあられもない姿にしていく。いいように弄んで、けれど朔は従順に甘い声を響かせて、媚薬を浴びた後のように求め続ける。
「……どうして、」
「拒まなかったんだって? ……俺も、どっかおかしくなってたんだろうな。ずっと好きだったわけだし、あんな形でも相手と結ばれたんだって、ばかみたいな勘違いをしてたんだよ」
 逃げないと誓っておきながら、耳を塞ぎたい衝動に駆られて仕方ない。
 相手も正常な判断ができていなかったせいだと、精神的に追い詰められていたのだと想像はできても、納得なんてできない。
「でも、俺も我慢できなくなって……会社をやめて、住んでたマンションも引き払ったんだ」
 そのまま朔は、足取りを掴まれないようスマートフォンを契約し直し、転々とその日暮らしを続けながら次の住まいを探していた。
 谷川に連絡を入れようと思ったのは、たまたまらしい。そうしたらまるで狙ったように……彼が数日前に自殺したことを、教えてもらった。
「あいつの住んでた地元の新聞片っ端から見たら……ほんとに、載ってた」
 両手で顔を覆う。肩を抱き寄せながら、改めて記事に書かれていた内容を思い出していた。「よく怒鳴り合う声が聞こえていた」という近所の証言もあったことから、最初は妻の計画的殺人ではないかと疑ってもいたらしい。
「……それで、自分のせいだって、思っていたんですね」
「夢を、見るようになったんだよ」
 うなされていた姿を、解放してくれ、縛られたくないと訴えていた声を、思い出す。
「俺が死んだのはお前のせいだって、お前が逃げ場を壊したから死ぬ羽目になったんだって、ガリガリにやせ細ったあいつが延々と訴えてくるんだ。縋りついて、泣きながら……訴えて」
 たまらず、震える身体を腕に抱きしめた。
 濡れた感触が肩口に走る。もっと濡らしてほしくて頭をぐっと引き寄せると、はっきりとした嗚咽が聞こえ始めた。
「もう、自分を追い込むのはなしにしましょう」
 これ以上、無駄に自らを傷つける行為は繰り返させない。
「で、も……助け、られたかも、しれないって思ったら……」
 この人は本当に優しすぎる。他人を優先しすぎる。いくら仲がよくても、逃げ出したくなるほどに心身を傷つけられたなら恨んで当然なのに、後悔に苛まれ、悪夢から抜け出せないでいる。
「だからって朔さんが自殺しても、誰も、報われません」
 それだけははっきりと言える。きっとあの世で、互いに悔いるだけだ。
「オレと一緒に、これからの日々を生きてください。お願いします」
 朔にとって、その人がどれだけ大切だったのかは知る由もない。冷徹かもしれないが、知る必要もないと思っている。
 自分にできるのは、朔に癒やしの手を差し伸べて、生きる力を取り戻す手伝いをすること。一途に愛を注ぐことだ。
 見返りなんて望まない。朔が心からの笑顔を浮かべて、ここにいてくれるだけでかまわない。
「プロポーズ、かよ……」
 普段の調子に近い軽口が嬉しかった。つい緩んでしまった口元はそのままに、肯定する。
「……すっ飛ばしすぎだぞ。高史」
「すみません。……俊哉さん」
 今度は、突き飛ばされなかった。


 時間を少しだけもらって、改めて俊哉の想い人だった人の墓石に向かう。
「あなたにも、何か事情があったんでしょう。部外者なのもわかってます。……でも、同情はしません」
 図々しいと思われても、不謹慎だと思われてもいい。
 俊哉の隣に立つことを許されたのは、守田高史である自分だ。ゆえに、きっぱりと宣言しておかなければならない。
「二度と、あなたの元へは行かせません。あの人は、ずっとオレが守っていきます」
 いつの間にか握りしめていた拳を、ひと指、ひと指、ほどいていく。
 俊哉に誓った言葉が曇らないように、共に前を向き続けられるように、抱いた「仲野さん」への感情はすべて置いていこう。
 目を閉じて深呼吸をひとつしてから、俊哉の待つ元へ向かう。
 休憩所の前で立っていた俊哉は、泣きそうな笑顔で出迎えてくれた。

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(画像省略) 朝も夜も、アルバイト先で「最近変わったな」と口々に言われるようにな…

夜の太陽はさかさまで輝く

夜の太陽はさかさまで輝く

第4話

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 朝も夜も、アルバイト先で「最近変わったな」と口々に言われるようになった。異性の同期いわく、表情が柔和になったらしい。恋をしていると図星まで指されてしまった。
 朔は再びあの部屋で見送り、出迎えてくれるようになった。
 たったふたつ違うのは、バイトが休みの時は、買い物以外の用事でも誘ってくれるようになったこと。デートかと一度は浮かれたが、なけなしの明るさを寄せ集め、表面に乱雑に貼り付けただけのような笑顔を向けてくるたびに締め付けられる思いだった。

 何かを吹っ切りたい。あるいは忘れたい。

 それは明らかに、未だベールに包まれたままの過去だろう。
 物言いたげな視線を投げてくることが増えたのも、吐き出したいという心の訴え「なのかもしれない」。
 しょせんは想像に過ぎない。
 自分の役目は、朔自ら強く望み、動いた瞬間に手を差し伸べてどんなものも受け止める体勢を取るだけ。
「過去はどうでもいいから隣りにいてほしい」という願いは、変わらないかたちで脳裏に刻まれている。

  * * * *

「どうして、何も訊かないんだ?」
 あの日のように、分担して夕飯の準備を進めていた時だった。
 お玉をぐるぐると動かす自分を黙って見つめていたかと思えば、互いの間で漂っていた言葉をぶつけてきた。
「……何をっすか?」
 敢えてとぼけてみせる。訊かれたくないから、ではもちろんない。
「俺の過去だよ」
 コンロの火を消して、鍋に蓋をかぶせた。
「無理に聞きたくないって、思ってるだけです」
 朔としては意外だったのだろうか。目を軽く見開いている。
「……気にならないって言ったら嘘になりますけど。でも、朔さんがいやなら無理に聞かない。朔さんが、ただここにいてくれれば、それでいい」
 はっきりと、朔の顔に朱が走った。
 この人は、口ではあれこれ言いつつも素直な反応をしてくれる。それが本当に可愛くて、手を伸ばさずにはいられなくなる。抱き寄せて、唇に触れて、そのまま布団になだれ込んで……。
 ……最近、誓いはちゃんと守れているのに詳細な妄想を浮かべることが増えてきてしまった。口では立派なことを言っていてもしょせんは男なのだと、少し落ち込む。
「そんなに、俺に入れ込んじゃって。さ」
 視線を逸らした朔は、歪んだ笑顔を浮かべていた。苦いと感じているのか、それ以外の感情か。
「俺が、もし人を殺したことがあるって言ったらどうする?」
 完全にこちらを振り向いた朔は、悪役を演じようとして失敗した顔をしていた。眉間に深い皺が刻まれていることに、きっと気づいていない。
「あなたは、そういうことができる人じゃないです」
 だから、きっぱりと否定してやった。
「たった二ヶ月程度一緒にいただけで、そうやって言い切れるんだ?」
「人を殺してるなら、うなされて縋ってくる真似なんてしない」
 信じられない。朔の目はそう告げていた。
 少し迷ったあとに、包み込むように抱き寄せる。耳に刺さる抗議を無視して、露わになっている首筋に唇を当てた。
「な、にして……!」
「何があっても、あなたを信じるという証です」
 首筋を押さえて全く迫力のない目で睨みつけてくる朔に、平静を装いながら返す。
「何を言われても、あなたを嫌いにはならない。あなたを、信じます」
 あなたが好きだから。
 中身はきっと繊細なあなたを、これからも守っていきたい。
 今にもこぼれ落ちてしまいそうなほどに、朔の目が見開かれた。
「……メシの準備、再開しましょうか」
 わかりやすい狼狽を続ける姿にまた可愛さを覚えて、苦笑で隠しながら台所に向き直った。

  + + + +

 だが、その日の夜にまさかの反撃を受けた。
「一緒に、寝てもいい?」
 いつもは人半分ほどの隙間を作って布団を並べているのだが、朔は当然のようにこちらへとやってきた。枕もしっかり握られている。
「なに、その顔?」
 驚く以外に何ができよう。確かに一緒の布団で眠る妄想もしたことがある。あるが突然目の前に降って湧かれても、舞い上がるというより戸惑うらしい。
「いっ、いえ。ちょっと、妄想が形になったのにびっくりして」
 うっかり本音を漏らしてしまったが、朔は苦笑しただけで半ば強引に隣へ滑り込んできた。
「……真面目な人ほど実はむっつりって言うけど、本当なんだ」
 想い人のぬくもりが、すぐ近くにある。吐息までもが聞こえる距離は、想像以上の緊張を生み出すらしい。そういえば、好きな人とこんなことをするのは初めてだ。
「……さっき、ありがとう」
 身体の向きをどうするか真剣に悩んでいたところに、静かな声が薄闇に溶けた。
「普通なら信じられるかって思うのに、守田くんのは不思議と信じられたんだ」
 気持ちが、伝わっていた。「信じてもらえた」だけでも心は踊り出す勢いで、単純と呆れつつも堪えられない。
「そうだ、谷川とも知り合いになってたんだね。さっき、久しぶりにスマホの電源入れて連絡したら、いろいろ教えてくれたよ」
 谷川とコンタクトを取っていたことを、敢えて朔には伝えていなかった。いずれは事情が伝わるだろうから――というのは単なる建前で、勝手に秘められた過去に触れようとしていた罪悪感から逃れたかっただけなのかもしれない。
「言ったんですか? その、自殺のこととか」
「元気だから心配すんなってだけ。アイツ、今時珍しいかもってくらい友達思いだから、素直に白状したら絶対すっ飛んできちゃうよ」
 声が微妙に上ずっていた。きっとすべてを白状するには、まだ時間が必要だろう。事情は知らなくとも、何となくわかる。
 谷川から来ていたメールを思い返して、内心で頭を下げる。
「……でももう、逃げてたら……」
 続けられたつぶやきに、思わず訊き返そうとした時だった。
「っ朔、さん」
 左腕に暖かな感触が回る。別の生き物のものみたいで、どう落ち着かせればいいのかわからなくなる。左と右で、汗のかき方が全然違う。
「……緊張しすぎじゃない?」
「だ、だって、そりゃあ当たり前っすよ」
「さっきキスマークつけたくせに?」
「もう、勘弁してください……!」
 これ以上煽られたら我慢が効かなくなる。暴走して、引かれたくないんだ。本気の恋なんだ。
「別に、俺は構わないよ?」
 さらに、左腕を引き寄せられた。
 妙に気だるいような、ねっとりとした空気が生まれて、身体にまとわりつく。
 緩慢な動きで、隣を向いた。
 まっすぐな視線が自分に絡みついて、離さない。
 薄く開いた唇が、軽く上下する。舌を忍ばせた蛇のように、さそう。
「っ、ん……」
 身体を起こして、ふわりと唇に触れて、軽く吸い上げた。そのまま下唇を食んで、離す。
「もっと、しないのか?」
 ちらりと覗いた舌と胸元をかすめる感触に、意識が吸い込まれそうになる。だめだ、まだ相手の気持ちをちゃんと聞いていない。
「朔さんがオレと同じ気持ちだったら、続き、します」
 振り切るように背中を向けた。うるさく脈打つ心臓を落ち着かせたくて、視界をシャットアウトする。
「……ほんと、守田くんって真面目」
 言葉とは裏腹に、声にはうっすらと歓喜がにじんでいた。堪えきれなかったというように、小さな笑いまで聞こえる。
「でも、そういう君だから、俺も意地張ったりしないでいられるんだろうな」
 背中に触れたあたたかさとお礼の五文字が、全身にじんわりと染み渡って目元から流れそうになる。
 やがて、規則正しい呼吸が聞こえ始めた。
 この人が心休まる時間を、初めて共有できた瞬間だった。

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夜の太陽はさかさまで輝く

夜の太陽はさかさまで輝く

第3話

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 つながりかけていた互いの縁は確実に切れた。きっと修復もできない。
 認めたくなくても、相手の前に分厚い壁があれば諦めざるをえなくなる。
 もしかしたら、気づかないうちに出ていくかもしれない。
 朝、目が覚めるのが怖くてたまらなかった。バイトもできるなら休みたかった。鎖でつないでおきたいなんて、物騒なことをつい考えてしまいたくなるくらいに。
 朔がやってきてもうすぐ二ヶ月が経とうとしている。すでに一人きりの生活は考えられない状態にまで陥っていた。
 けれど、自分の都合だけで縛りつける権利も当然、なかった。

  * * * *

 夕方からのバイトが始まるまでの時間を使って、アパートに駆け戻った。
 遅刻してもこの際かまわない。朔の姿を確認するまでは、とても仕事なんて手につかない。
 ノブを回すと、鍵がかかっていた。一瞬で駆け巡るマイナスな想像を必死に振り払いながら鍵を外す。
「鞄、ある」
 部屋の隅に置かれた唯一の持ち物を抱きしめて、深い溜め息をつく。おそらく、買い物にでも行っているのだろう。
「オレ、ほんと余裕なさすぎ」
 最高に格好悪い。もう少し感情を制御できる方だと思っていたが、のめり込むほど冷静さを失うタイプらしい。
 朔が戻ってこないうちにこの醜態を隠してしまおう。
 鞄を慌てて元の位置に戻そうとして、うっかり手を滑らせてしまった。A5サイズのクリアファイルが中から飛び出す。
「ん、これは……」
 クリアファイルには、コピーされた新聞の切れ端が挟まっていた。
「自殺……?」
 小さな記事には、二十代の男性が自宅で首を吊っていたという内容が書かれている。遺書と見られる直筆の文書が見つかったこと、事件当日は妻を始めとした知人全員にアリバイがあったことから、自殺と断定されたらしい。
 なぜ、こんな記事を朔が? まさか、自殺の参考にでもしようと思ったのか? いや、それはさすがに飛躍しすぎている。
 瞬間、鋭い声が玄関先から飛んできた。
「さ、朔さん……!」
 ビニール袋をその場に投げ捨てて、見たことのない剣幕で近づいてくる。
「見るな!」
 手の中のクリアファイルを奪い取り、守るように抱き込む。全身が細かく震えていた。
「すみ、ません。オレ忘れ物、しちゃって。探してたら、鞄蹴飛ばしちゃって、それで」
 朔は何も返さない。はっきりとした拒絶だけが伝わってきた。
「……何も聞かないです。忘れ物あったんで、またバイト、行ってきます」
 後ろ髪を引かれる思いでアパートをあとにする。

 事情が知りたい。あなたを救うために、知りたい。
 でも、この気持ちをあなたには知られたくない。

 極端な思いに板挟みにされながら、頭の中はある確信で埋め尽くされていた。バイト中、どうやって仕事をこなしていたのかいまいち思い出せない。怒られていないから目立つミスはしていなかったようだ。
 帰宅中、当たっていないでくれと何度も願った。願ったのに……現実は、清々しく非情だった。
「朔さん……!」
 いない。最初から存在していなかったかのように、彼の姿はなかった。
 感情のままに、再び夜の街に駆け出す。買い物かもしれないと一番近くにあるスーパーに寄って隅から隅まで回ってみたがいない。
 コンビニ、ドラッグストア、飲食店、とにかくあらゆる店に入って探した。死にものぐるいだった。こんなにも離れたくなかったのだと今さらな後悔に襲われながら足を動かして……気づけば、最初に出会った路地に立っていた。
「ここにも、いなかったら……どこにいるんだよ」
 明日には見つかるかもしれない。欠片ほどの希望に縋りついて、仕方なく部屋に戻る。
「鞄……?」
 クローゼットの横にひっそりと、朔の持ち物であるはずの黒い鞄が置かれていた。
 忘れていったのか? それとも、いらないから敢えて置いていった?
 忘れていったと思いたいのに、朔の態度が容赦なく打ち消す。            

 ――狭い部屋のはずなのに、どうしてこんなにも広い。
 ――まさか、自殺したんじゃないか。明日のニュースで流れたらどうしよう。

 無理にでもバイトを休めばよかった。それ以前にキスをしなければ、抱きしめなければ。
 今さらな後悔ばかりが、枯れ葉が渦を巻くように頭の中で踊る。
 目を閉じても、恐怖が身体を支配しようと足元から這い寄って、言い様のない気持ち悪さに襲われる。悪夢から覚めるようにまぶたが開いてしまう。
 ふと思いついて、元の位置に戻した鞄を手に取る。中身を探る手に当たったものを引っ張り出すと、予想通りの長財布だった。
「……失礼します」
 身分証明書にある住所を、スマートフォンにメモする。
 今は少しでも可能性のあるものに賭けたかった。

  + + + +

 午前のバイトが終わると、電車に飛び乗った。二回ほど乗り換えて、下車した駅から多分十五分は歩いている。ホームセンターや高級食材を中心に扱っている有名なスーパーなどが立ち並ぶ、駅前らしい光景から二階、三階建て一軒家が目立つ閑静な住宅街へと変わっていく中、ようやく足を止めた。
「ここ、か……」
 画面上の地図から、ライトグレーのマンションへ視線を移す。木製の観音扉の両側を彩るように二本ずつ植えられた樹木が、灰色の隙間から漏れている光を懸命に浴びていた。
 その光を追うように横に伸びた廊下を一本、一本と見上げていき、最上の四本までたどり着くと、思わず拳を握りしめる。気持ちを改めて入口をくぐると、ガラス張りの扉が門番のように立ち塞がっていた。
 右側の壁に、目的のものは設置されていた。銀色の郵便受けは細かな傷が目立つものの輝きは曇っていない。
 正方形に区切られたボックスの正面にある番号とその下にある名前たちを素早くなぞっていく。朔の住んでいた部屋番号は四〇六だった。
 ネームプレートは空だった。意味もなくボックスに触れて、冷たい感触を確かめただけで終わる。端末を持つ手の力が抜け落ちそうになった。
 過度な期待はしていないつもりだった。仮に誰かが住んでいればどうにかして話を聞きたい、それほどの考えしかなかった。ただ唯一のわかりやすい手がかりがなくなり、八方塞がりになったのも事実だ。
 どうすればいい。また地元へ戻って、くまなく探すしかないのか。
「俊哉!?」
 聞いたことのない声で探し人の名前を叫ばれて、大げさに振り向いてしまう。
「……あ、じゃ、ないよな。申し訳ありません、人違いでした」
 人のよさそうな男だった。そのまま踵を返そうとする背中に、反射的に声をかける。
 もし、今求めてやまない人の名前と一致するなら、この人は思わぬ救世主だ。
「なんでしょうか?」
「あの、あなたは、朔俊哉さんを知ってるんですか?」
 自らを落ち着かせるように、ゆっくりと言葉を綴る。
「なんで、その名前を」
「たまたまですけど、ちょっと前に知り合ったんです」
 訝しげだった男の顔が、はっきりとした反応を示した。再び歩み寄り、両肩を揺さぶってくる。
「どこにいたんだ? あいつ今何してんだ!?」
「……とりあえず、移動しませんか」
 必死に感情を押し殺した声は、男の熱を覚ますのに有効だったらしい。
 我に返った男は謝りながら、駅の近くにあるというファミレスまで案内してくれた。
 さりげなく手元を盗み見ると、銀色に輝く指輪が左薬指にはめられていた。


「俊哉も一緒だった会社で勤めてるんだ。あいつとは仲良くしてた」
 谷川と名乗った男は、注文したアイスコーヒーを一口飲み込んでから苦笑混じりにつぶやいた。
「急にいなくなっちゃったっていうか、ね。連絡先は知ってたから、電話もメールもしたんだけど連絡つかなくて」
 谷川の眉間に深い皺が刻まれる。
 この分だと、彼の状況は自分と似たり寄ったりのようだ。落胆と申し訳なさが一気にこみ上げて、息が詰まりそうになる。
「守田くん、だっけ。俊哉と知り合ったって言ってたけど……」
 向けられる期待感にいたたまれなくなりながら、緩く首を振る。
「……成り行きで一緒に住んでますが、いなくなってしまったんです。それで、探してて」
 自殺したがっていたことは伏せておいた。念のため、移動前に地元の図書館に寄って今朝の新聞すべてに目を走らせてきたが、自殺のニュースは載っていなかった。
 ……夕方は、まだわからない。
「そう、か」
 深い溜め息をつきながら、ぐったりとソファに身を預ける。
 もどかしい。手を必死に伸ばしているのに、全然届かない。目印さえ見えない。
「あいつが、自殺したせいなのか……?」
 独り言のようにつぶやかれた内容に、心臓が大きく跳ねる。
 新聞の切り抜き記事も、「自殺」のニュースだった。
 谷川は、朔がひた隠しにしている過去を知っている? すべてではなくとも、足掛かり程度ならば、聞き出せるかもしれない。
「……あの」
 ――聞いて、いいのか?
 続きを口にする前に、頭の隅から声が響く。
 あんな剣幕で切り抜きを奪った朔の知らないところで、勝手に深部へ踏み込んでいいのか……?
「あ、すまない。電話だ」
 席を外した瞬間、心から安堵している自分がいた。余裕がなさすぎて、見境がなくなりかけている。怖い。
「ごめん、もう帰らないといけなくなっちゃったんだけど……」
「大丈夫です。話、聞かせてくれてありがとうございました」
 谷川とは連絡先を交換して、もし見つかったら連絡してほしいと約束を交わした。

  + + + +

 地元に戻ると、すっかり週末の夜にふさわしい雰囲気に変わっていた。ところどころで豪快な笑い声が漏れ聞こえてきたり、帰宅途中と思しき家族連れとすれ違う。自分の状況と真逆すぎて思わず苦笑してしまう。
「あんた、一体どこに雲隠れしてるんだよ……」
 もう一度図書館に寄ろう。夕刊に目を通さないと、ひとまずの安心さえ得られない。
 その決め事とは裏腹に、二の足は自然とあの路地に向かっていた。バイトに向かう途中にも訪れていたのに、どれだけ執着しているんだろう。
 頭上に一瞬の衝撃が走る。今日は降水確率が珍しくゼロだったが、やはり外れだったらしい。
 フードを被ると、ますます出会った夜を思い出す。偶然目にとめなければ同居生活が始まることも、好きな人ができることもなかった。
 ――一瞬、夢かと錯覚した。
 ふらふらと、路地の闇に吸い込まれていく。飲まれる一歩手前で足を止められた。
 黒い塊に、少しずつ白が加わっていく。崩れ落ちそうになる足元に、懸命に力を込めた。夢じゃない現実なんだ、暗示のように何度も言い聞かせた。
 そうでなければ、何かがすれ違いざま、肩に衝撃なんか走らない。
「スマホ、落としたよ。……カバーついてる方で、よかったね」
 塊が立ち上がって、確かなぬくもりと感触を返してくるわけが、ない。
 強引に端末をジーンズのポケットにねじ込んだ朔は、大げさに溜め息をついた。
「……今度こそ、いなくなるつもりだったんだ。君も追いかけてこれないような場所まで、行くつもりだった」
「オレのせいですか。オレが、あんなことしたから」
 朔は黙って首を振った。慰めかと思ったが、本当に自分のせいなら、この場所にはいない。
 賭けに出てみることにした。
「っ、守田、くん?」
 腕を掴んで、軽く抱き寄せた。確かな戸惑いが伝わってくるが、抵抗はない。
 もう少し欲を出してみたい。素直な願いを、押し殺せなかった。
「帰りましょう。オレの部屋に」
「で、も……俺は」
 振りほどこうとせず、おとなしく抱かれたままの態度が本心なのだと信じて、手を引いて足早に歩き出す。
「お、おい! 離せって」
「いやです」
「俺、戻るなんて一言も」
「もう絶対に離しません。離したくない」
 部屋の中に入っても、解放することができなかった。強気に出てみても、最後の最後で不安を消せない。
「……こういう時は強引なんだ」
 苦笑混じりのつぶやきだった。
「手、もう離して。ここまで来たら、逃げないよ」
「なら、もう一回抱きしめさせてください」
 答えを聞く前に、今度は固く閉じ込める。ようやく朔がいる今が現実だと頭に染み渡って、泣く寸前のような吐息がこぼれる。
 初めて気づいた。幼い子どものように、みっともなく身体が震えていた。
 部屋からいなくなった事実以上に、永久に会えなくなってしまうという未来に出会うのが怖かったのだ。
「もう、いなくならないでください。ここに、いてください」
 ずるい言い方だ。脅迫と変わらない。仮に頷いたとして、その場しのぎとどう違うのか。
 わかっていても、態度を変えられなかった。
 絶対に離したくない。朔の過去なんてどうでもいいから、隣にいてくれさえすれば、今はかまわなかった。
「……今思い出したけど、荷物、忘れてたしな」
 そっと背中に回された腕に、必死にこみ上げる激情を飲み込んだ。

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(画像省略) 初めての同居生活は、男同士でもどこかくすぐったく感じるらしい。 朝…

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夜の太陽はさかさまで輝く

第2話

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 初めての同居生活は、男同士でもどこかくすぐったく感じるらしい。
 朝は見送ってくれる。帰ってくると、洗濯は済んでいて夕飯もできている。「気をつけて」「おかえり」という声が絶対にある。
 最近は、昼は外食ばかりだというのを気にして、弁当まで用意してくれるようになった。
 互いへの緊張感はだいぶ薄れてきたように思うが、朔の表情には未だ悲痛の影が纏わりついている。時折見せてくれるようになった笑顔も心からのものではない。
 
『っ、う……』
『朔さん、朔さん』
『やめ……も、いや、だ……』

 時々、夜中にうなされている姿を知ってから、ますます秘められたままの「自殺したい理由」を知りたくなる。
 けれど、無理に聞き出すだけの度胸はなかった。
 少しでも口にすれば、この生活が終わってしまいそうな予感がしたのだ。
 ――何となくの形で続いている朔との日々を、今はなくしたくないと思っている。

  * * * *
「そうだ、朔さん。オレ、今日夕方のバイトないんです。どっか食いにいきません?」
 弁当箱におかずを詰めていた朔は、不思議そうにこちらを見返してきた。
「……なに、敬語?」
「だって、朔さんオレより年上だから」
 昨日の夜に昔好きだった漫画の話になり、世代のズレを感じて年齢を発表しあったら、互いに驚く結果が待っていた。
 朔は同い年くらいだと認識していて、自分は年下だと思っていた。
 そういえば、彫りの深い顔とよく評されているせいか、昔から年上に見られがちだった。
 対する朔はすっきりとした顔立ちをしているが、丸い瞳と、耳まで覆う髪型で若く見える。
「今さらだし、俺は別に気にしないよ」
「……いや。オレが気になっちゃうんで。すいません」
「守田くんって結構真面目だよね」
 口元をわずかに緩め、瞳が柔らかな弓形を描く。一際大きく跳ねた心臓の音がどうか伝わらないようにと、つい祈ってしまう。
 最近、ふいに見せてくれる自然な表情や仕草のひとつひとつに、余分な反応をしてしまうことが増えた。心臓はおろか顔も熱くなったりすると戸惑いさえ生まれる。
 そういった「症状」に心当たりが全くないと言い切れないから、余計に。
「食べに行くのはほんとにいいよ。この間、さんざん出前食いまくったし」
「でも、いつも家事してもらって申し訳ないし」
「守田くんの家に居させてもらってる立場なのに?」
 そもそも、無理やりここに引き留めているのは自分だ。だからこそ何か返したい。
 その気持ちがにじみ出ていたのか、朔はやれやれというように苦笑した。
「じゃあ、夕飯作り手伝ってくれるか? 買い物とか、意外と大変なんだ」
「わかりました」
 共同作業は初めてだ。思ったより浮かれている自分がいた。

  + + + +
 梅雨真っ只中でさっぱりしたものが食べたいと、冷やし中華をメインに二、三品作ることにした。
 彼の作る料理はシンプルだが味付けはちょうどよく、まさに「家庭の料理」というお手本にふさわしいものばかりで、つい食べすぎてしまう。
 それはしっかり把握されていたらしく、二人分にしては買い込む食材が多かった。彼が大変だとこぼしていた理由を改めて理解して、嬉しくも申し訳なく思う。
「包丁使い慣れてたな。もしかして料理得意?」
 酢をベースにしたタレは初めてだったが、さっぱりしていてとてもおいしい。
「大学ん時から一人暮らしなんで、慣れてるってだけです。朔さんには敵わないです」
「あれだけ使えれば全然大丈夫だよ。俺は料理好きな方ってだけだから」
 料理が好き。また、彼のことをひとつ知れた。
「……なら、これからもずっと朔さんに作ってもらおうかな」
 本当に自然に、唇からこぼれ落ちていた。
 出会って間もない男に対して言う言葉じゃない。きっと変に思われる。うまく受け流すなりしないと、空気が変わってしまう。
「馬鹿だな、そういうのは彼女にでも言ってやれ」
 向かいの朔は冗談だと受け取ったようだった。当然の対応にほっとした……ではなく、残念に感じている事実にまた、動揺する。
 ――おかしい。これじゃまるで、俺が朔さんを……
「彼女、いないっすよ」
「へえ。守田くん優しくて頼りがいあるし、モテそうなのに」
「見た目が近寄り難いってよく言われるから、そのせいかなと。そう言われてもどうにもできないんで、もういいかなって」
 もともとそこまでの欲はなかったが、今は顕著だ。
 それは朔がいるから? 朔の存在に、満たされているから?
「朔さんこそ、彼女いそうだけど」
「……俺は、いないよ。ずっとね」
 合っているけれど合っていない。そんな続きが、聞こえた気がした。
「大体、いたらここで世話になってないだろー?」
 不自然にテンションを上げたとわかる、微妙にうわずった声だった。気づかないふりをして相槌だけをうつ。
「男のために飯作ったり洗濯したりしないで、彼女のもとに行ってますね」
 敢えてふざけてみせると、朔は弱々しく笑い返した。

  + + + +
 ふいに、まぶたが持ち上がる。
 隣から、苦痛に支配された声が聞こえた気がした。上半身を起こして隣を見やると、うつ伏せでもがく姿があった。
「朔さん、朔さん。大丈夫か?」
 常夜灯をつけると、朔はシーツを握りしめて激しく顔を歪ませていた。まるで急所を刺され、耐えきれない痛みと戦っているかのような状態だ。
 こんな表情は初めて見た。どれだけの恐怖が、彼を飲み込もうとしているのか。
「……や、めろ……」
 肩を揺らしていた手が、止まる。
「ちか、よるな……俺は、俺は……もう」
 誰かから逃げている? それは、彼がひた隠しにしている事情と関係があるのか?
「いやだ……もう……解放して、くれ……!」
 絞り出すようなか細い叫びに、一層強く身体を揺らして名前を呼ぶ。早く現実へ戻すべきだと、頭の中で警鐘が鳴り響いていた。
「……っ、あ?」
 一度息を詰めて、朔はうっすらと目を開けた。呼吸を失敗して咳き込む彼に、背中を支えながら水を差し入れる。大きく上下を繰り返す細い肩が、いつにも増して痛々しい。
「ゆっくり、落ち着いて。ここには、オレしかいません」
 今までは、うなされていても声をかけてやるか、少し時間が経てば規則正しい寝息を取り戻していた。

 一体、どんな夢を見ていたんだ。
 何が、あなたを引きずり込もうとしていたんだ。

 ようやく落ち着いてきた彼はぼんやりとこちらを捉えて、名前をつぶやいた。
「オレです。大丈夫ですか?」
 それがスイッチになったかのように、朔はカップを放り投げると自らを固く抱きしめた。連れ帰った夜のことを思い出す、すべてを拒絶する体勢だ。
「こわ、い……俺は、いやだ……もう」
「朔さん!」
 思わず強く抱き寄せた。子供をあやすように背中をゆっくり撫でる。
「大丈夫だから、ここにはオレとあんたしかいない。あんたが見ていたのは夢だ、現実じゃない」
 どんな夢かはわからない。でも、何でもいいから解放されてほしかった。自分だけを、感じていてほしかった。
 背中に回されたぬくもりが、死ぬほど嬉しかった。震えた手で服を握りしめる感触に、心臓が高鳴った。

 ああ、やっぱりこのひとが好きなんだ。
 このひとを、どんなものからも守ってやりたいんだ。

 抱擁を解くと、朔は涙に濡れた双眸をこちらに向けた。零れ落ちそうなことに気づいて親指で拭うと反射的にまぶたが降りる。
 気づくと、唇を重ねていた。
 くぐもった短い声が口内に響く。それでも、抵抗はなかった。角度を変えてみても朔はおとなしく、なすがままだ。
 もっと、深くつながりたい。
 朔の顎に添えた指に力を込めて、吐息の注がれるその箇所に舌を伸ばす。無抵抗なだけかと思った瞬間、先端に触れる感触が確かにあった。
 背中に指すべてを滑らせて、返ってきた舌を絡め取る。自分こそ、夢を見ているようだ。
「……っ、俊哉、さん……」
 呼吸のついでに、名前をささやく。
 つい招いた自惚れが、夢の終わりの合図だった。
「や、めろ……!」
 突き飛ばされた。突然のことに呆然としていると、目の前の朔は胸元をぎゅっと握りしめて小さく震えていた。
「す、みませ……」
 うまく口が回らない。傷つけた、すでに傷ついているこの人に、さらに傷を負わせてしまった。
 謝っても謝りきれない。何をやっても上辺にしかならない。
「オレ、ちょっと、頭冷やしてきます」
 歩きながら思わず見上げた夜空は、雲ばかりに支配され輝きが見えない。
 照らしてほしかった。つい生まれてしまった邪な感情を、すべて浄化してほしかった。

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