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「こちら、サービスです」 他に客がいないのを見計らって、紅茶を差し出す。彼女はカ…

短編・男女

短編・男女

重なり合うブルー・アワー



「こちら、サービスです」
 他に客がいないのを見計らって、紅茶を差し出す。彼女はカウンター越しに驚いた顔を向けてきた。
「え、どうして……」
「申し訳ありません。いつも悲しそうなお顔をされているので、少しでもお気持ちが紛れるようにと」
 残っていた怪訝さは、苦笑に変わる。
「土日の夕方にいつも、こちらにお邪魔してますものね。ごめんなさい、辛気くさくて」
「通っていただけて嬉しいですから、お気になさらないでください。私も出過ぎた真似をいたしました」
 無駄に鼓動を打つ心臓を押さえたい衝動に駆られながらも、軽く頭を下げる。
「いえ、ありがとうございます。……本当に、ほっとしましたから。まろやかですし、香りもすごくいいですね」
「そう言っていただけて嬉しいです」
「私、お砂糖なしのミルクティーが一番好きなんですけれど、この紅茶もすごく好きになりそうです」
 柔らかな笑みを向けられて、自然と口元が緩む。
 本当によかった。事情はわからなくとも、今は彼女の助けになれることが一番の喜びだ。


 喫茶店『ブルー・アワー』で働き始めてどれくらいの年数が経ったろう。
 カウンター席と、二人がけのテーブル席が四つほどの、本当に小規模な喫茶店。
 店員は雇わないと何度か断られたが、ならばマスターを引き継げるまで修業させてほしいと図々しくも頼み込み、二年ほど前に二代目を引き継ぐこととなった。
 それからしばらく経った頃、彼女はこの喫茶店にやってきた。
 背中まで伸びた、栗色のふわりとした髪に花柄の白シャツとロングスカート。面影はあの頃と変わらなくとも、確かに時は動いていた。
 一番の違いは——表情にいつも、翳りがあること。風でも吹けばあっという間に崩れてしまいそうな脆さを感じること。
 他人のふりを続ける決意は、記憶と違いすぎる彼女の様相を目にするたびに揺らぎ、瓦解していった。

 次の日、彼女はまた同じくらいの時間にやってきて、今度はテーブル席に腰掛けた。
 最寄り駅から徒歩で十五分はかかる場所にあるこの店は、窓から見える景色も素晴らしいと好評だ。
 俺自身も気に入っている。特に、夕方から夜にかけての時間帯――空が橙から藍色へと変化していくさまが、まるで現実と非現実を彷徨っているようで、逃げ場所を用意してくれているように感じていた。
「ご注文は何になさいますか?」
「昨日淹れていただいた紅茶、いいですか? すごく美味しくて……落ち着いたので、ぜひ」
「かしこまりました」
 彼女は相変わらず哀愁を含んだ表情を纏っている。
 少なくとも、記憶の中には存在しない。いつだって楽しそうで、眩しくて、手が届かないとわかっていても惹かれて、苦しかった。
「お待たせいたしました」
「ありがとうございます」
 目を閉じて香りを堪能している彼女にどう声をかけるべきか、食器を拭くふりをして言葉を探していたときだった。
「ここからの景色、すごく素敵ですよね」
「え、ええ。ありがとうございます。私も気に入っています」
「いつもは一人だからテーブル席は遠慮するんですけど、どうしても見てみたくて。今日は天気もいいからラッキーでした」
 自然と零れたであろう微笑みも、無理やりに見えてしまう。
「……店名には、ちょうどこの時間帯の空模様を指す意味が、込められています」
 たぶん、あなたは知っている。
「ええ。とても神秘的ですよね」
「非現実的な感じもするんです。人によって受け取り方が変わる時間だと申しましょうか。私には、救いに感じます」
 つい口を滑らせてしまった。彼女が窓に視線を向けてくれていて助かった。
「ちょっと、わかります。現実感がないのって、辛いこととかあると、助かりますよね」
 彼女が救いに感じる理由を尋ねなかった理由が、ここにある気がした。
 謎に繋がる手がかりかもしれないと逸り、続く言葉を止められない。
「……現実から、逃げられる。と?」
 こちらをゆっくり振り向いた彼女は、ただ、笑った。
 見慣れてしまったそれではなく、泣くのを堪えるように、必死に唇を持ち上げていた。
 理由はわからなくとも、「失言」だったのは間違いなかった。

 大学生のとき、ある喫茶店でアルバイトをしていた。
 当時住んでいたアパートから近いという理由だけだったが、その中では、マスターの人柄が表れているかのようにどこかゆったりとした時間が流れていて、居心地がよく、地元民含めファンも多かった。
 ある若い男女のカップルも、そうだったと思う。
 たぶん、年齢は俺よりいくつか上だった。必ず二人で訪れては楽しそうに時間を過ごしていた。
 声が好きだった。特に控えめで可愛らしい笑い声は、聞いているだけで胸の中が温かくなった。
 ころころと変わる表情が好きだった。まるでおもちゃ箱を覗く子どもの頃のように、見ていて飽きなかった。
 ――わかってはいた。全部、相手だけの特別。あの彼が一緒だから引き出せるもの。

 忘れたくとも忘れられなかった。
 大学卒業と同時に引っ越して店を辞めても、彼女への想いは、心のどこかで根付いたまま取れなかった。
 だから同じ名前の喫茶店と偶然出会った瞬間、もうこれは運命なんだと思うしか、なかった。

「いらっしゃいませ、あの」
「ええ。平日ですけど来ちゃいました。本当にこのお店が気に入ったので」
 カウンター席に腰掛けた彼女は、少なくとも今は珍しく明るい声で告げた。
「あの紅茶、ください。あとシフォンケーキもお願いします」
「か、かしこまりました」
 あの日、彼女は逃げるように店を後にしてしまった。どうしてすぐ謝罪できなかったのかと毎日後悔していたところに、まさかの来店で動揺が隠せない。
「お待たせいたしました」
 いつものようにお礼を告げて、香りを楽しんでから一度カップを傾ける。気を抜くと両足が震えそうになる。
 他の客の存在がもどかしくも、救いにもなっていた。土壇場で逃げ腰になる性格に我ながら嫌気がさす。
「すみません。紅茶、おかわりお願いできますか」
 謝罪は次回にしようと半ば諦めていたときだった。
 また、彼女は普段しない行動を取った。シフォンケーキも半分ほど残っている。
 やがて窓の外は濃い藍と街灯の光で満ち、店内の客も一人、一人と退店していく。あの日以来の二人だけの時間が訪れたのは、閉店の二十一時より一時間ほど前だった。
 使用済みの食器を重ねる音、水音が、痛いくらい店内に響く。
「訊いてもいいですか?」
 再びカウンターに戻ってきたタイミングで、声をかけられた。
 どうやら、この時間を待っていたのは彼女も同様だったらしい。うまく声が出せず、頷く。
「店主さんも、現実から逃げたいことってあるんですか?」
 まさかの、この間の会話の続きだった。
 まっすぐに見つめられて、わずかに逸らすこともできない。
「……あります。ただ、逃げたいだけでなく、気持ちを整理したいと、申しましょうか」
 彼女はじっと、言葉の続きを待っている。
「このお店にいる間は、持て余している気持ちを無理に消化しなくても、ゆっくりでいいと言ってもらえているような気がするんです。逃げと思われるかもしれませんが、私にはそれが、ありがたくて」
 サラリーマン時代にはできなかった。忘れようと足掻くほど逆に膨らんで、苦しくなるだけ。荒療治は性格的に無理だった。
「……先日は、申し訳ありません。あなたに失礼なことを申しました。正直、もう来店なさらないかと思っておりました」
「いいえ。あのときはちょっと、びっくりしただけです。それに今は私だけじゃないんだって、励みになりましたから」
 一体この人に何があったんだろう。ひとつ思い当たることと言えば、いつも一緒にいた彼の存在だが……
「それに、このお店は本当に気に入っているんです。私が引っ越す前によく通っていたお店と同じ名前なんですよ。すごい偶然ですよね」
 また、表情に陰がさした。
「珍しい、ですね。そのお店もお気に入りだったんですか?」
「ええ。マスターがとても温かい方で、お店はいつもその雰囲気で満ちてました。こちらとちょっと似ているかもしれません」
 明らかに過去を映している双眸は、言葉に似つかわしくない光で満ちている。
「ここの店名は先代がつけたものですから、きっと同じ感性だったんですね」
「そうだったんですか。てっきりマスターがつけたとばかり」
「いえ、私はまだ若輩者です。先代も気まぐれに店に立つことがあるのですが、そのたびに駄目出しをされますよ」
「若輩者……あ、でも言われてみれば、お若いかも? なんて」
「もう四十を過ぎているのですが、やっぱり若く見えますか……一応、軽く髭を生やしたりしてみているのですが」
 よかった、笑ってくれた。わずかでも気が紛れたなら嬉しい。
「店名の由来は、私の思いとは違うんです。『ブルーアワー』という言葉が好きだから、だそうです」
「なるほど。……ふふ、あのマスターと気が合いそう」
 言ってしまいたくなる。あの店で俺も働いていたのだと、あなたのことを知っていると、……ずっと、好きだったのだと。
 同時に、驚いてもいた。諦め、後ろ向きばかりだった俺がこんな衝動に駆られるとは。
「私は……このお店で過ごす間は、お客様の心のままにいられれば、少しでもそのお手伝いができれば、という思いで立っています」
「心の、ままに」
「例えば、うまくいかない日が続いていたら逃げ場所にする。頭をからっぽにしても、泣いても、怒っても。かつての私がそうでした」
 そして、用意していた飲み物を彼女の前に置く。
「蜂蜜入りホットミルクです。先日のお詫びも兼ねています」
 カップの取っ手にそっと指を絡めた彼女は、俯いたまましばらく動かなかった。
「……マスター、誰にでもこうやって手厚いケアをしているんですか?」
「必要であれば」
 ここまできたら、ただの公私混同だ。
「すごい優しい……いえ、お人好しかしら。よく言われるでしょう?」
「確かに、増えた気がします」
 それから、彼女が退店するまで会話らしい会話はなかった。
 きっと、自らの心のままに過ごしてくれていたのだと思う。

 あれから、変わった点がふたつ。
 彼女が不定期ながら平日にも訪れるようになった。
 そして、土日はテーブル席が空いていればそこを選ぶようになった。
 悲壮感は不思議と鳴りを潜め出し、見知った笑顔も増えてきたように見えた。
 嬉しい、確かに嬉しいのに、どうしても胸のざわつきが消えない。
 だって、あれほどにわかりやすく滲んでいた感情をいきなり消せるだろうか? 俺自身、彼女への想いを長く秘めていたからこそわかる。簡単に割り切ることなんてできない。
 失礼を承知でもいい、踏み込みたい。
 でも、奇跡的にここまで築けた絆を、失いたくない。

 今日は、閉店時間をいつもより三十分ほど繰り上げた。
『明日、どうしても二人きりでお話したいことがあるんです。本当に申し訳ないんですけれど……閉店後、少しだけお時間いただけませんか?』
 前日に彼女からそんなメモを受け取って、閉店後の短い時間ではたぶん足りないと予感がした。
 ブルーアワーの時間帯を過ぎてから来店した彼女は、紅茶だけでなくケーキに軽食も注文し、綺麗に平らげていた。お詫びのつもりかもしれない。
「わがままを言ってしまって本当にごめんなさい。お店、よかったんですか?」
「お気になさらないでください。私の独断ですから」
 彼女には蜂蜜入りのホットミルクを、自分にはノンカフェインのミルクコーヒーを淹れる。
 じわじわと重い沈黙が互いの間に降りる。彼女はカップを包むように持ったまま動かない。
 声をかけるべきか、だとしたらなにを? ざわつきがさらに増したのもどうすればいい?

「……私、こちらにお邪魔するのは、今日で最後になる。と思います」

 言葉の意味を呑み込めるまで、声が出なかった。
 ようやく漏れたのは、空気の抜けたような声。
「このお店も、マスターのことも、変わらず好きです。でも、」
「何か至らない点がありましたか? でしたらすぐ改善します」
「違うんです」
「でしたら、どうして……!」
 駄目だ。『ブルー・アワーの店主』の仮面が剥がれてしまう。でも、でも彼女を引き止められるなら。
 彼女は少し驚いた顔をしたが、すぐに潤む瞳を細め、テーブルに視線を落とした。
「……私、愛していた夫を、病気で亡くしました」
 すぐに、あの彼の姿が脳裏によみがえった。
「大学生の時に知り合って、もうこの人しかいないって、卒業してから結婚しました。……あんなに元気だったのに、本当に、信じられなかった」
 絞り出すような声に、胸が締め付けられる。彼女の眩しい笑顔を引き出していたのも、奪ってしまったのも、彼だった。
「生きる気力なんてなかった。後追いしようって何度も考えたけど、そのたびに夢の中であの人が止めるの。きっと覚悟が足りなかったのね」
 一番大切だからこそ、彼女にとっては残酷かもしれなくとも、自分の分まで生きてほしいと願ってしまう。俺もきっと同じ行動を取る。
「このお店を見つけたとき、もっと早く知りたかったって後悔したけど……今の私で来れたから、よかった。あの人と一度でも訪れていたら、たぶん、来れなかった」
 再び顔を持ち上げた彼女は、笑っていた。俺を捉える双眸も白い頬も確かに濡れているのに、眩しささえ覚えた。
「マスターのおかげです。私、ようやく前を向ける気がするんです」
 素直に喜べないのは、彼女がまた目の前から消えてしまう恐怖が上回ってしまったから。
「だから一度、夫と過ごしたこの街を離れようと思います。距離を置いて、ちゃんと気持ちを整理したいんです」
 ここでだってできる。わけがないのは明らかだった。
 どうすれば奇跡を繋ぎ止めておける? わがままだとしても手放したくない。それに……

「……ひとつ、昔話をしてもよろしいでしょうか」
 目元を拭いながら彼女が頷いたので、まっすぐ見つめながら、続ける。
「私は、大学生の時にここと同じ名前の喫茶店で、アルバイトとして働いていました」
 彼女の瞳が、丸くなる。
「その喫茶店には、ある二人の男性と女性がよく訪れていました。私は……その女性を、密かに想っておりました」
 心音が耳元で鳴っているかのようにうるさい。舌もうまく回らなくなりそうだ。
「ある程度思い出にできていると思っていたのですが……ご本人を前にしたら、全然でしたね。情けないです」
 気持ち悪く思われても仕方ない。これを理由に訪れなくなる可能性も考えると、矛盾した行動を取っている。
「俺に、チャンスをくださいませんか」
 意味がわからないと言いたげに、軽く首を傾げてくる。
「俺は、あなたがまた、この喫茶店に通ってくださると信じています」
「それは……」
 視線が泳いでいる。今の彼女の心境を考えれば、言わずとも理解はできる。
「そうしたら、改めてあなたに告白させてください。あの頃できなかったことを、果たさせてください」
 なんて図々しいのだろう。情けなく声が震える。無意識に固く握りしめていた両手を緩めようとしてもできない。
「……思い出しました。そういえば、いつも丁寧に接客してくれた店員さんがいましたね」
「その時間しか話すチャンスがありませんでしたしね」
「マスターの気持ち、全然気づかなかったな」
「店主としてきちんと仕事できていたようで、よかったです」
 正直、正解の態度がわからない。彼女が拒否の言葉を口にしないのは優しさ?
「ありがとう、ございます」
 またも、声にならない声が漏れた。
「マスターは、私の恩人ですから。そんなあなたから想ってもらえて、ありがたいです」
「い、いえ、とんでもない、です」
 全身が一気に熱くなった。たまらず、ポケットにあったハンカチで顔を拭う。
「それに、きっと私に配慮してくださったんですよね。私があんな話をしたから、って」
 見抜かれていたのか。力なく笑うしかできない。
「ここでは、今はなにも言いません」
 静かでも、確かな意思のこもった声だった。
「時間が必要ですから。私にも、たぶんマスターにも」
「……はい」
 もう、ここまで来たら信じよう。彼女と再会できて、こんな会話まで交わせるようになったのも充分すぎる奇跡だけれど、もう一度起きてほしいと願ってもきっと罰は当たらない。
 彼女のカップが、空になった。
 否応なしに、二度目の別れがやってくる。「奇跡」という二文字を糧にする日々がやってくる。
「すみません。少しだけお待ちいただけますか」
 第六感が働くというのはこういう瞬間を指すのだろうか。
 メモに使っているノートを取り出し、丁寧に文字を書き込んでいく。
「よろしければ、こちらをお持ちください」
 切り取ったページを受け取った彼女は、不思議そうに文字を追っている。
「……紅茶のレシピ、ですか?」
「あなたが気に入ってくださった、あの紅茶のです」
「そんな大事なもの、いただけないです」
 反射的に突き返された手を、そっと押し戻す。
「秘伝のレシピというわけではありませんし、大丈夫です。きっとこれからのあなたの助けになります。ですから、どうか受け取って」
 離れていても、立ち止まってしまったときは助けになりたい。
 出過ぎたお節介だとしても構わない。
「マスターは私に甘過ぎですよ。……でも、ありがとう。本当に、ありがとうございます。大切にします」
 そのとき向けられた笑顔は、手の届かないと諦めていた彼女に少し、ほんの少しだけ近づけたように思えるものだった。
「また、お待ちしております」
 店の扉をくぐった背中に、いつもと同じ言葉で送った。

『ブルーアワー』の時間帯に差し掛かり、開く扉から現れる姿を確認しては落胆するのも、すっかり慣れてしまった。
 先代の気まぐれもだいぶ控えめになり、長年通ってくれている常連にも店主姿が板に付いてきた、なんて褒められることも増えた。
 今なら、もっと上手にあの紅茶を淹れられると思う。
 ……大丈夫。忍耐力だけは無駄に鍛えられた。忘れたくとも忘れられなかった苦しみだけの時と違って、確かな繋がりがある。
 だからこそ、信じて待ち続けられる。
 時折その信念に押しつぶされそうになるけれど、彼女も頑張っていると思うだけで前をまた向ける。
「あ、すみません。ラストオーダーの時間がちょうど終わってしまったのですが……」
 閉店に向けての片付けを少しずつ始めていたとき、扉の開く音が静かに響いた。
 振り向きつつ説明して、二の句が継げなくなる。

「ごめんなさい、一足遅かったですね。ここに到着するまで少し時間がかかってしまったんです」

 外はすでに、濃い藍色で包まれている。
 だから、目の前の笑顔は間違いなく――現実だ。


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 バイトで、珍しくミスをして怒られてしまった。 想像以上に堪えている自分がいて、…

短編・男女

短編・男女

綺麗な月に魅せられた私は


 バイトで、珍しくミスをして怒られてしまった。
 想像以上に堪えている自分がいて、最寄り駅まで一直線に向かっていたはずの足は公園に寄り道していた。通り道にあるとはいえ、立ち寄ろうという意識がなければ来ない場所だ。
 そもそも、夜はあまり好きではない。小学生の時に、コンビニに出かけたまま帰ってこない父親を毎夜、自宅の前で待っていた過去があるせいでいい印象がない。
 そう、今日のようにさんさんと輝く満月の日もあった。
 じわりと蘇りそうな重い感情を振り払うように、一度目を閉じる。この公園は海沿いにあるから、特に夜景が素晴らしかったはずだ。綺麗な景色は昼夜問わず嫌いじゃない。それを眺めていればきっと心も洗われるに違いない。
 公園内で一番広そうな大通りを足早に抜けて、海に面した散歩道へ向かう。潮の香りが一段と強くなってきた。
 やがて視界が開けた瞬間、思わず足が止まる。
「うわ……これは想像以上だな……」
 柵の向こうで様々な人工光が並んでいる。水面に帯状となってぼんやり映り込んでいるものもあり、また違って見えて面白い。今日は風があるから若干ゆらゆらしているが、もしなかったら鏡のようになるのだろうか。
「月もあったらもっとよさそう」
 ネットで海と月がセットになった風景写真に遭遇するたび、あんな神秘的な瞬間に出会いたいといつも思う。
 少し歩いてみることにした。海風がとても心地いい。ようやく猛暑続きの日々から脱したかと思えば、次の季節がすぐそこまでやってきている。
「あ、こっち行き止まりか……っ!?」
 方向転換をした時だった。道に沿う形で一つずつ設置されているベンチに、何かがいた。
 ベンチを囲むように緑が植えられているので少しわかりにくかったが、人影だったと思う。
(い、いや、人がいてもおかしくないよね……)
 絶対に怪談の類いじゃないと言い聞かせて、正体を確かめるべく改めて向き直る。
 ――確かに、人だった。人、だと思う。
 曖昧になってしまったのは、一言で言うなら「綺麗」だったから。
 視界の先のその人は、肩まで伸びた、癖の強い茶髪を片耳にかけながら首を傾げた。スウェットのような黒の上着にジーンズというシンプルすぎる服装なのに、端正な顔の効果でおしゃれに見える。
「あの、何か用ですか?」
 改めて問いかけられて、我に返る。慌てて頭を下げた。
「す、すみません! お兄さんがすごく綺麗で、見とれちゃったんです」
 言い終わってから、頭を上げたくないくらい恥ずかしさがこみ上げた。何を馬鹿正直に告白しているんだ!
 いっそ笑ってくれと願った瞬間、小さく吹き出す声が聞こえた。
「あ、ありがとう。あんなにはっきり言われたら、そう返すしかないっていうか」
 願いが叶ってありがたいが、落ち着く時間が欲しい。
 よほどツボに入ったのか、口元に拳を当てながらくつくつと笑い続けている。さっきはどこか人間味がない印象だったけれど、今は違う。
「思いっきり笑っちゃってごめんね。……久しぶりに、こんなに笑ったよ」
 そう言いながら何かを堪えるように、双眸を少し細める。
「あの、もしかしてお兄さんも嫌なことがあったんですか?」
 気になると思った時には、表に出ていた。怒られた自分の姿と重なって見えて、同情心が生まれてしまった。
 唇を一文字に近い形に戻した彼は、薄めの眉を困ったように寄せる。
「それって、ナンパのつもり?」
「ち、違います! ほんとにそう思ったんです。私もそうだから」
 下がっている目尻を少しだけ持ち上げた彼に、バイト先でいつもは絶対しないミスをしてしまったから、綺麗な景色を見て癒やされたかったと続ける。
「そうだなぁ……癒やされたかった、ってのは合ってるかな」
 また、堪えるような顔つきになる。
「それでも、君すごいね。鋭いねって言われない?」
「思ったこと口に出しすぎ、だとは」
 吹き出したということは、出会ってすぐのお兄さんにも充分理解されたようだ。……優しい人でよかった。
「仕事柄いろんな人と会うけど、君みたいな人は初めて会ったかも。なんか、元気出た」
 改めて向けられた笑顔は立派な証明になってはいたが、恐れ多すぎる。
「ほ、褒めすぎでは……むしろ邪魔しちゃってましたし」
「ううん、本当に癒やされたよ。ありがとう」
 素直にお礼を、しかもイケメンから告げられるなんてそうそうない経験だから、無駄に慌ててしまう。
「というか、僕も君の邪魔をしちゃってたんじゃない?」
「いえ、私もいつの間にかすっきりしてました。綺麗なお兄さんと話ができたおかげです」
「またそんなことを……」
 冗談抜きで、誰かに話を聞いてもらいたかったのかもしれない。この人との出会いは、そんな願いを掬い上げてくれた結果だったのだと思えた。
 特別な出会い。運命。そんな言葉が頭をよぎる。
 ふと、ショルダーバッグに入れているスマホが震えた。スリープを解除して、思わず声を上げる。
「やば、もうこんな時間!」
 相当話し込んでいたらしい。明日は一限から授業があるから、あまり遅くなるときつい。
「すみません、私帰ります。いろいろ、ありがとうございました」
 一抹の寂しさを覚えながらも踵を返す。
 ――本当に、このまま赤の他人同士に戻ってもいいの?
「待って。君さえよかったら、また話したいな。……ダメかな?」
 足が止まった。止めざるを得なかった。
 振り返った先のお兄さんは、不安そうにこちらを見つめていた。
「ダメじゃ、ないです」
 湧き上がる歓喜を必死に堪える。声が震えそうだった。
「ありがとう。……本当に、君に出会えてよかった」
 お礼を言いたいのは自分こそだ。
 嫌いだった夜が、この出会いのおかげで少し好きになれたのだから。

  + + + +

 お兄さん――(かおる)と話す日は週に一度あの公園で、夜の数時間だけと決まった。彼の仕事の都合が理由だったが、社会人なら仕方ないし、自分もバイトのある時しかこの公園は通らないからむしろありがたかった。
 週に一度の楽しみができた影響か、当日は無意識に浮かれているらしく、友人にやたら怪しまれてしまった。
 事情は話していない。薫と、他言無用でお願いしたいという約束を交わしていた。
『二人だけの秘密。って言うと特別感があって面白くない? 子どもみたいだけどね』
 そう言って悪戯っぽく笑う薫に乗った時点で仲間なのだ。
 話す内容は本当に他愛ない。大学やバイト先で何があったとか、自分自身について話すこともある。先週は好きな食べ物が「そば」だと告げたら薫も同じだったことが判明した。
 薫は自身についてあまり話さない。だからひとつ知るたび、宝物を見つけたような嬉しさが募る。
 もっと知りたいと願うのは、やっぱりわがままなのだろうか。


「薫さん!」
 ベンチに腰掛けていた薫が顔を上げた。いつもと違う雰囲気に見えた理由はすぐわかった。
「今日は結んでるんですね」
「ちょっと暑いからね。絢奈(あやな)ちゃんと一緒だ」
「そう、ですね」
 隣に座りながら、つい後頭部に手をやってしまった。こういう一言には照れるばかりで、未だにまともに返せない。
 無駄に高鳴る心臓を落ち着かせたくて、鞄からペットボトルを取り出す。中身はとっくにぬるくなっていたが、充分仕事をしてくれた。
「あ、その紅茶。今飲んでる人多いよね」
「そうなんですか? 甘くないのが好きなんで買ってみたってだけなんですけど」
「CMで流れてるからかな。ネットでも写真載せてる人よく見るよ」
 確かに、パッケージは女性に受けそうなお洒落と可愛さが融合したようなデザインをしている。そういえば自分もそれに惹かれて手に取っていた。
「薫さん、流行りものに詳しいですよね。私ほんと疎くて……テレビも家にないから、友達からいろいろ教えてもらうんです」
 前は鞄につけている、友達からもらったキーリングにも反応していた。デフォルメされた動物がぶら下がる格好でついているチャームが可愛いと、特に動物好きに売れているらしい。
「今日もなんだっけ、流行りかわかんないですけどドラマにハマってるんだって言ってました。薫さんはドラマとかよく観ます?」
「……ドラマ?」
 返ってきた声が、心なしか硬い。
「いや、僕はあんまり観ないかなぁ」
 思わず隣を見やるもいつも通りだった。気のせいだったのか?
「友達、どんなドラマにハマってるって?」
「え、ええと。確か、『まぶしい月に誘われた僕は』ってタイトルでした。まだ数話しか観てないけど面白いって言ってました。特に誰かがよかったって」
 何しろ、昼休みぐらいの時間を使って情熱たっぷりに語ってくれるから、細かいところまで覚えきれないのだ。
「……そう、なんだ」
 歯切れの悪い声だった。横顔でも、どこか強ばっているのがわかる。
「す、すみません。もしかして嫌いな作品でした?」
 我に返ったように、薫はわずかに目を見開いた。こちらに慌てて向き直ると何度も首を振る。
「ごめん、何でもないよ」
 そう言われても納得できないレベルの態度だった。
「嫌いじゃないんだけど、僕はあんまり、って感じかな。それだけだよ」
 ――何でもないって態度には見えないです。何かあるんですか?
 いつもなら己の性格を恨みつつ、疑問をぶつけていただろう。実際、喉から出かかっていた。
 飲み込まざるを得なかったのは、はっきりとした拒否を感じたから。鈍い自分でもわかってしまったから。
「それぞれ、好みありますもんね。しょうがないですよ」
 とっさに作った笑顔は、まがい物だとすぐわかる代物だったと思う。
 正直、自分でも驚いている。どうしてこんなにショックを受けているんだろう。心臓が苦しいんだろう。
「……うん。絢奈ちゃん、ありがとう」
 頭にそっと重みが加わった。優しく撫でる感触に苦しみが和らいでいくようだったが、泣きそうになる。
 ありがとうの意味は、違うところにかかっている。でも、それを紐解くことは許されていない。
 出会ってからもうすぐ二ヶ月、まだ二ヶ月。与えられた時間は、長くても最終の電車に間に合うまでの数時間。
 物足りないと、もっと仲良くなりたいと、欲が生まれてしまう。
「薫、さん」
 離れていく手を、勢いのまま掴んだ。驚く薫を見つめ続けることはできず、俯きながら懸命に唇を動かした。
「私、もっと薫さんと会いたいです。話、したいです」
「……ありがとう。でも、ごめんね」
 本当に申し訳なく思っている声音だった。
 だからこそ、首を左右に振るしかなかった。

  + + + +

 先週からいつもの場所に向かう今までずっと、強まる不安と戦ってきた。友達やバイト先で何度心配されたかわからない。
 先週、薫はいなかった。
 終電に間に合うぎりぎりまで粘ってみても、主に女性が何人か通っただけで一切姿を見せなかった。
 仕事が忙しいだけ。社会人なのだからそういうこともあるに決まっている。
 そう言い聞かせようとしても、浮かぶのは余計な欲を出してしまった後悔ばかり。
「着いちゃった……」
 ベンチが近づいてくる。いっそ、もう会いたくない、という最悪の展開さえ迎えなければいい。会ったらいの一番に頭を下げよう。
 いた。髪は結ばれ、服装もボタン付きのシャツという異なる格好の、薫が座っている。
「あ、あの、薫さ」
「絢奈ちゃん、ごめん」
 逆に頭を下げられた。
「先週は仕事で来れなかったんだ。急に決まったからどうにもできなくて」
 顔を上げた薫は思いきり眉尻を下げていた。柔和な印象を通り越して、自信のない性格のように映る。
「だ、大丈夫ですから。そんな、気に」
 しないで、と続けられない。一度、緩く唇を噛む。
「……仕事で、安心しました。もう、会えなくなるかもって思ってたから」
「どういうこと?」
 本気で訝しんでいる。薫の中では大した問題ではなかったとわかって、猛烈に恥ずかしくなる。
 どうやってかわそうか必死に考えていると、背後に人の気配を感じた。そちらに気を取られた瞬間、身体がぐらりと傾いだ。
 目の前が黒で染まる。背中にぬくもりを感じて、薫に抱きしめられているのだと初めて知った。
「な、なんで」
「ごめん、少し大人しくしてて」
 息の当たる箇所が熱い。たまらず、固く目を閉じた。背後で悲鳴みたいなものが聞こえたがそれどころではない。
 考えてみれば、男の人から抱きしめられた経験なんてない。全身が汗ばんできた気がするし、変にふわふわもする。五感すべてが薫に集中しているようだ。
(緊張しすぎて……もう、意味わかんない……)
 今すぐ遠くに逃げて、いろんなところを落ち着けてから戻りたい。「大丈夫?」なんて突っ込まれたらどうしよう。
「……もう、行ったかな。ごめんね、いきなり」
 とにかく早く展開が変わって欲しい。必死の願いがようやく届いた。
「い、いえ」
 超密着の時間は終わりを迎えたが、身体の調子は全く戻らない。うかつに顔を上げられなくて、どう対処すればいいのか途方にくれる。
「絢奈ちゃん? 大丈夫?」
 最悪の展開を迎えてしまった。どうしよう、どう言い訳しよう。
「っひ……!」
 頭の中がパニックになっているせいで、肩に触れられた瞬間、短い悲鳴を上げてしまった。
 しかも、後ずさるという最悪の、おまけつき。
「ご、ごめんなさ……」
 謝りたいのに、うまく言葉が紡げない。ぼんやり浮かび上がる薫の顔が若干傷ついているように見えて、今すぐ頭を下げたいのに、できない。
「いや、謝るのは僕だよ。説明もなしにあんなことしちゃって、本当にごめん。怖かったよね」
 違うのに、ただびっくりしただけで本当に嫌な気持ちはなかったのに。むしろ変に緊張するばかりで、熱が出たみたいで。
 無意識に首を振っていた。声の出し方を忘れてしまったように、苦しい。
「絢奈、ちゃん?」
 間近でそっと名前を呼ばれて、反射的に顔を上げた。
 街灯に淡く照らされた顔は、今まで一番整っていた。不思議と、きらきら輝いているようにも見える。
 恥ずかしさは消えないのに、魅入られたようにもっと見つめていたいと願う自分が、いつの間にか頭の片隅に存在していた。
 薫の双眸がわずかに細まった。ゆっくり持ち上がった腕がこちらに伸ばされるのを、今度は黙って見守る。
 頭を一度、撫でられた。そのまま肩に、ぬくもりが移動する。
 心臓が激しく高鳴り始めた。さっき逃げたことが信じられないほど、嬉しさを覚えている。
 ――もしかして、これって。
 久しく忘れていた。中学生の頃先輩に一度抱いたきり、隅に追いやられていた感情。
 こんな、噴火するように急に湧き上がってくるなんて。
 周りの時間が一気に流れ込んできた。黙って見つめ合えていたのが不思議でならない。
「あ、あの、私、今日は帰ります!」
 それだけを告げるのが精一杯だった。
 これ以上、想い人となってしまった薫の前に立っていられなかった。

 それがきっかけなのか、事実は本人にしかわからない。
 薫は、公園に一切姿を見せなくなった。

  * * * *

 目的のアカウントに辿り着いて、名前を何度も確認する。
 友達に教えてもらったように操作して、メッセージ送信画面を出した。

 ――最近、ファンになりました。これからも頑張ってください。

 自分のアカウント名は「絢奈」。名前の後ろには、チャームについているウサギの絵文字をつけた。
 オープンな場所でのメッセージだから、ありきたりな内容しか送れなかった。
 それでもどうか気づいて欲しい。何でもいいから、反応をして欲しい。


 薫に繋がる手がかりを得たのは、本当に偶然だった。
 バイト先で雑誌の整理をしている時、想い人に瓜二つの俳優が表紙を飾っていた。髪型は異なっていたが、伸びたら多分、ほぼ同じになる。
 思わず中身をめくっていた。
 ――皐月(さつき)(かおる)
 インタビュー記事の終わりに、名前があった。
 唯一知る「薫」だけが、一致していた。
 顔がたまたま似ているだけ。下の名前が一致しているだけ。本名かもわからない。それでも無視できないほどに、第六感が訴えていた。
 帰宅して、「皐月薫」を改めて検索してみたら信じられない量の情報が手に入った。
 歳は二十八であること。大学生の頃から俳優を続けていて、二年前に出演した『まぶしい月に誘われた僕は』の役が当たりとなり、今や主役も脇もこなせる名優になったこと。
 スマホを持つ手が震えた。残ったピースが急に嵌まり出したようだった。

 ――いっそ、このまま自然消滅した方が、お互いのためにいいのかもしれない。ましてや、恋心なんて無駄だ。再会できたとして、今までみたいに誰にも見つからないとは限らない。見つかったら迷惑しかかけない。

 そう思い込もうとしたのに、できなかった。我慢すればするほど募って、会いたくて、たまらなかった。
 自分にとって、皐月薫は「お兄さん」以外考えられなかったのだ。


 アラームの音にぼんやりと目を開ける。状況を把握できなくて白い壁を見つめていたが、跳ね起きた。メッセージの進展を待つ間に寝落ちてしまったらしい。
「何もなし、か」
 メッセージは最後の手段だった。約束の夜に関係なく、バイトのある日は必ず公園に寄った。それでも会えなくて、友達に心配されるほどいつもの自分がわからなくなって、そんな時に出会った雑誌から行き着いた希望だった。
 これが絶たれたら、打つ手はなくなる。父のように、本当に手の届かない人になってしまう。どうして大切な人はみんな、隣からいなくなってしまうんだろう。
 いつの間にか小さくしゃくり上げていた。苦しさのあまり、薫と過ごした二ヶ月近い日々が赤一色に染まろうとしている。
「顔、洗ってこよ……」
 仕事があるから連絡できないのだと無理やり言い聞かせ続けるしかできない。今日が休日で本当によかった。
 その後も横になりながらスマホを眺め続け、いつの間にかまた眠りに落ちていた。再度目が覚めた時には、昼もだいぶ過ぎていた。
 重いままの気分をどうにかしたくて、水温の低いシャワーを浴びる。望む未来になるとは限らない。理屈はわかっていても、今は今しか考えられない。
「……え、通知、光ってる」
 服を着るのもそこそこに、スマホに飛びつく。起きた時は何もなかった。
 画面をつけて――思わず、取り落としてしまう。
 来た。待ち焦がれたメッセージが、届いていた。
 震える指で通知欄をタップし、起動したアプリには、個別と思われるメッセージが数通に渡って綴られていた。
 歪みそうになる視界を手の甲で何度もクリアにしながら、幾度となく目を走らせる。
 すぐに、身支度を始めた。

『急に来なくなってごめん。僕があの公園にいるっていう情報が広まり出して、行きにくくなっちゃったんだ』
『……本当は、迷ってた。正直に話すと、君が僕のことを好きだと思ってくれてること、気づいてた。素直に嬉しかったんだ。でも、駄目だとも思ってた』
『君はまだ若いし、歳だって結構離れてる。そうじゃなくてもこんな人間だから君に迷惑だってかかるかもしれない。何も気にせずずっと話ができる人を失いたくなかった。……怖かったんだ』
『でも、言い訳しても駄目だね。君に会いたかった。また、他愛ない話がしたかった』
『本当に身勝手だし、怒られて当然だけど……許してくれるなら、また会ってください』

 いろいろ伝えたかった。それでも長文を打つのはもどかしくて、移動中に返せたのはたったのふたつ。
 残りは、直接伝えればいい。

『私にとって薫さんは、綺麗なお兄さんのままです』
『私も、会いたい』

 電車の扉が開いた瞬間、飛び降りる。改札を出ると、薄い長袖でも少しひやりとする風が全身を撫でた。太陽の見えなくなる時間が、ずいぶん早まっている。
 公園に向かって走った。目的地はいつもの場所ではなく、駐車場。
 十台は留められそうなスペースの一番端に、その車はあった。書いてあった通り、シルバーで染まっている。
 合図は、助手席側のガラスを五回ノック。
 解錠の音が聞こえた。ドアノブを掴み引っ張るが、うまく力が入らない。もう片手も添えて、ようやく開いた。

「二度も僕の願いを叶えてくれて、本当にありがとう」

 泣き笑いの顔で出迎えてくれた「お兄さん」と同じ表情を、きっと自分もしていたに違いない。