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No.34
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ムーンストーンのおかげか、悪夢にうなされることもなく眠ることはできた。
それが過ぎれば、やってくるのは憂鬱な朝だった。
「文秋さん。朝です」
耳元をくすぐる声は、いつも通りの柔らかいトーンだった。
抵抗するように少しずつ瞼を持ち上げていくと、いつも通りの微笑みが待っていた。
遠ざかる背中をぼんやり追いかける。
布団から抜け出すのがひどく億劫に感じる。このままベッドの上で、何も考えず一日を過ごしたい。翠がいなければ、間違いなくそうしていた。
いつも通りでないのは、自分だけだった。
だが、最後だけがイレギュラーだった。
「文秋さん。大変申し訳ないのですが……本日も、お留守番でもよろしいでしょうか」
着替え終わって、ベッドサイドに置いていたブレスレットをつけようとした時だった。
「……あ、別に、構わないよ」
声の震えを抑えるのが精一杯だった。
やっぱり、気にしていたんだ。キスまで交わしていれば、いくら懐の深い翠でも思うところがあるのは当然だ。
どうすれば正解だったのだろう。いや、正解なんてなかった。探す余裕なんて欠片もなかった。
「本当に申し訳ありません。我儘をお聞き入れくださり、ありがとうございます」
そして柔らかく抱きしめてくる。いつもは安堵感だけを与えてくれる力なのに、木の葉同士が擦れ合うようなざわめきも止まらなかった。
「先輩、もしかしなくても翠さんとケンカしました?」
後藤がやたら強い口調で昼食に誘ってきた時点で、嫌な予感はしていた。時間帯にしては人の出入りがあまりない店を選んだのも、だ。
注文を終えて、早速とばかりに身を乗り出してきた後藤に苦笑を返す。
「してないよ。するようなこともないし」
「つまり、何もなかったと?」
頷くと、呆れたような溜め息をつかれた。
「……先輩、今どんな顔してるかわかってます? オレ、最初具合でも悪いんじゃないかって思ったぐらいでしたよ」
鏡で見た時は、特別顔色も悪くなかった。目覚めた後こそ最悪だったが、睡眠自体はしっかり取れたから寝不足でもない。
「朝から全然笑ってないし、雰囲気ぴりぴりしてるし、周りも若干びびってます。病気にでもなったんじゃ、って心配してる人もいるし」
それなら、思い当たる節はあった。
とにかく、仕事に打ち込もうと思った。無心になれば余計な考え事が入り込む隙間はなくなる。
考えてもわからない問題なら、放棄するしかない。
自分の中では確かに成功していた方法だったが、周りから見たら失敗だったようだ。
「……それは、悪かった。気分転換も兼ねて誘ってくれたんだな」
「間違ってないですけど、翠さんと何があったのか心配してるのもありますよ」
ちょうど、注文したものが運ばれてきた。ここで会話を打ち切ってしまおう。
「本当に何もないんだよ。……だから、もうこれ以上詮索するのはやめてほしい。頼むから」
後藤の気持ちはありがたい。こうしてしつこいくらいに気にかけてくれるのは、相談が苦手な自分の性格を知った上での行動だともわかっている。
でも、今回はどうにもならない。
「翠にキスをされた」と真実を告げれば、きっと後藤は翠に告白するべきだと返す。一番避けなければならない展開を、勧められる。主とパワーストーンの化身の悲恋話を伝えても、前向きなこの男はきっと二人なら大丈夫だと励ましてくる。今は、その励ましに応えられる気力はない。
後藤は短い相槌をうつと、黙々と食べ始めた。諦めたように見えるが、考え込んでいるようにも見える。敢えて突っ込まずに無理やり食べ物を詰め込んでいく。
「今日は、オレと二人でとことん飲みましょう! 先輩」
グラスの水を飲み干すと、予想外の誘いをかけてきた。
「オレたちが担当してるプロジェクトもちょうど落ち着いてますしね。タイミングいいなぁ」
「ちょ、ちょっと待てって。どうしてそうなるんだよ!」
大体、酒は強くない。一度調子に乗って飲み過ぎて、えらく絡んでしまったらしい過去があってからなおさら、セーブするよう心がけてきた。
後藤も酒が強くないことは知っているはず。何を考えているのか全くわからない。
「もう決定です。酒のせいにしていろいろ吐き出しちゃいましょう」
「言われて実行できるか!」
「先輩はしたほうがいいです」
真剣な声と目に、一瞬喉が詰まる。
「翠さんにも言えないことなら、いない今のうちに吐き出しちゃったほうがいいです。オレはただ聞くだけだし、言っちゃっても酒のせいにできますから」
要は、言いかたじゃないか。
声には出さなかった。言っても、この様子では逃がしてくれそうにない。
「……無駄に終わると、思うけど。それでもいいなら、仕方ないから付き合ってやるよ」
してやったりと笑う後藤に、こぼれるのは苦笑だけだった。
+ + + +
目を開けると、ないはずの静寂が聞こえていた。
背中がやけに柔らかい。あの居酒屋に寝られるようなスペースなどあっただろうか?
上半身を起こすと、毎年会社でもらう壁掛けカレンダーが目に入った。……会社で?
「文秋さん、お加減はいかがですか?」
横から聞こえるはずのない声が届いて、反射的に振り向こうとして失敗する。頭が痛い。
背中を支えられながらゆっくり頭を持ち上げて、差し出してくれた水を少しずつ口に含んだ。冷えた感触が喉から通って、気分を一瞬爽快にしてくれる。
自宅にいることは、わかった。
だが、いつの間に? 最後の記憶は店にいて、だいぶ酒を飲んでしまっていた時だった。一緒にいた後藤は帰ったのか?
「……翠、今、何時?」
「夜中の二時です。十一時すぎにお帰りになってから、今の時間までずっと寝ておられました」
回らない頭を両の手のひらに預けながら、覚えている範囲で記憶を巻き戻す。
いつの間にか個室の部屋を予約していた後藤と、本当に普通の飲み会が始まった。翠のこととは全く関係のない話から始まり、拍子抜けしながらも少しずつ緊張は解けて、アルコールのせいもあって気分は上昇していった。
後藤が珍しく、自らの恋愛の話をしてくれていた。実家が天然石を売っていると知った女性がやたら宝石で有名な石をねだるようになってきて、即別れたという内容だった。それ以来、実家の仕事については極力口にしないようにしてきたらしい。
それから……記憶が、さらに曖昧になっている。翠に対して罵倒か悪口か愚痴かわからない内容を漏らしていたり、やたら後藤に質問をしていた気もする。もしかしたら泣いてもいたかもしれない。
とにかく記憶が途切れ途切れで、それらも正しいのか自信はない。酒の飲み過ぎを避ける原因になった状態と全く同じだ。
後藤に詳細を確認するべきか敢えてしないべきか、とても迷う。
「……もしかして、後藤が送ってくれたのかな」
「はい。飲ませすぎてしまって申し訳ないと仰っておりました」
それでも、迷惑をかけてしまったのは確かだ。
「翠も、ごめん。酔っぱらいの面倒なんか見させちゃって」
「いいえ。文秋さんの新しい面を拝見できて、むしろ嬉しかったです」
「また、そういう言い方する……」
天然なのか優しさなのかわからないが、内心救われる。背中を撫でる手のひらにも、とてもほっとする。
……いや、大事なことを忘れていた。
「変なこと言ったりしてなかった、よな?」
おそるおそる顔だけを向けると、翠が変わらない微笑みを返してくれる。
「大丈夫です。整合性は取れていませんでしたが、それも酒に酔った方の特徴でしょう」
「いや、待って。その大丈夫が、全然信用できない。怖いんだけど」
勢いあまって告白まがいのことをしてしまった可能性もありうる。
足元が真っ暗になった気がした。「やたら人に絡む」という酒癖にこれほどの恐怖を感じる日がやってくるなんて、やっぱり酒は何が何でもセーブしないといけない。
翠は少しだけ眉尻を下げた。
「ほとんど、言葉にならない言葉を仰っておられました。私がベッドまでお連れした際には寝言のような状態でしたし、わからないと言ったほうが正確でしたね」
「それなら、いい。むしろよかった」
余計な力が抜けたら、頭痛が再発してきた。思わず眉間を手の甲に押しつけると、背中の感触が頭に移動した。
「頭痛がひどいですか?」
「う、ん……でも、仕方ないよ」
「少しなら、和らぐといいのですが……」
頭の中に、じんわりとした熱が広がっていくような感覚が走る。鐘を激しく打ち鳴らすような痛みが少しずつ引いていく。
「いかがですか?」
呆然と顔を上げて、翠を見つめた。
「だいぶ、よくなった。こういう痛みも取れるんだ?」
「症状によっては厳しいですが、軽くする程度なら」
これなら、シャワーも軽く浴びられる。
「ありがとう。浄化はしなくて大丈夫?」
「ええ。本日はずっと家におりましたし」
そういえば、どうして留守番を願い出たのだろう。ある意味自分も助かったが、今の全く変わらない言動を見る限り、昨夜のことは気にしていないようだった。
結局、振り回されているのはひとりしかいない。
翠の手を借りてベッドから降り、浴室に向かうところで名前を呼ばれた。
「……あの、文秋さんは」
翠の眉間に、深い皺が刻まれる。
「どうか、したのか?」
「私の存在は……文秋さんにとって迷惑ではありませんか?」
どうして、いきなりこんな質問をされるのかわからなかった。
「どういう、ことだよ?」
近寄って訊き返すが、表情はますます影を濃くしていく。
真意を探りたかった。
どんな言葉をかければいい。
「私は、文秋さんと共にいても、いいのでしょうか」
自らに問いかけるような内容だった。こんなに弱気な翠は初めてだった。
珍しく留守番を申し出た理由を、改めて考える。他に考えられるとしたら、何だ。
「……お前、もしかして藍くんと、何かあった?」
あれだけ取り乱した様子を見せてしまっていれば、藍に問いつめようと考えてもおかしくない。
身体の内に、ひどく冷えたものを流された気がした。吐露した翠への想いまでは、さすがに伝えていないと信じたい。
翠は無言のまま、縋りついてきた。幾度となく抱きしめられてきた自分には、いつもと違うのがわかる。
初めて、翠の裏側に触れた気がした。抗えない愛おしさがこみ上げる。
背中に腕を回して、翠がするように緩く撫でる。少しでも彼の気が紛れるようにと祈りを込めて、何度も繰り返す。
悲しさと穏やかさが同居した、不思議な時間だった。この時間がもっと続けばいいのにと、叶わない願いを込めてしまう。
酒が残っているせいだ。酒の力で、気持ちが大きくなってしまっているだけだ。だからもう少し、浸らせてほしい。
「……ありがとう、ございました」
気づけば、時間は終わりを迎えていた。
向かい合った翠は何かを堪えるように、相変わらず眉根を寄せている。泣き笑いにも見えた。
背中を向けてしまった彼には、これ以上の追求はできそうになかった。
+ + + +
通勤中、スマートフォンを取り出したと同時に振動が来た。連絡を取ろうと考えていた相手からのメッセージ通知に、すぐさま指をスワイプする。
『先輩、おはようございます。具合は大丈夫ですか?』
『何とかね。昨日送ってくれたみたいで、迷惑かけて悪かった』
『気にしないでください。誘ったのはオレですしね』
『……あの、さ。俺、全然記憶ないんだけど……どんなこと、言ってた?』
『オレも酒入ってたし、全然覚えてませんよ』
明らかな嘘だった。あくまで聞き役に終始するつもりらしい。拍子抜けはしたが、これはきっと「知らないままでいろ」というお告げなのかもしれない。
『翠さんはなんか言ってました?』
『……なんで、そこで翠が出てくるんだよ』
気持ち端末の画面を身体に寄せる。極力見ないよう努めてくれてはいるのだが、念のためだ。
『先輩、酒が入ると結構積極的なんだなーってわかったんで、その勢いで! みたいな?』
『あるわけないだろ!』
面と向かっての会話でなくて本当によかった。頬が熱いから、きっと赤くなってしまっている。絶対見られたくない。
『そっかー。残念』
一体どんなハプニングを期待しているのやら……呆れながらも、画面を消してポケットにしまう。
「文秋さん。今夜、お話させていただきたいことがございます。少しだけ、お時間をください」
ある意味ハプニングとも取れることは、今朝に起こっていた。
家を出る前に、真剣な顔をして告げられた言葉が頭の片隅にこびりついている。
正直、恐怖しかなかった。
――もう仕えるのをやめたい。姿を消した状態で、あくまで普通のパワーストーンとして護るだけに務めたい。昨日の酔っぱらい姿がやっぱり我慢ならなかった。
ネガティブな内容しか浮かばず、こぼれそうな溜め息を幾度となく我慢している。マイナス思考を吹き飛ばしてくれるパワーストーンがほしいと、つい願いたくなってしまった。
しかし、こんな日に限って次から次へと仕事が舞い込んで、時間の経過が異様に早く感じてしまう。
ようやく一息つけた頃には、あっという間に午後を迎えていた。
『文秋さん、大丈夫ですか?』
喫煙所の階段にぐったりと座り込むと、翠の労るような声が響いた。片手を軽く左右に振ってみせる。若干残っている二日酔いのせいもあるから、仕方ない。
『肉体疲労も回復できる力が私にあればよかったのですが……お役に立てず、申し訳ございません』
「ばか、今でも充分助かってるんだからそういうこと言うなって。っていうかそんな力まであったら毎日浄化しても足りないぞ」
苦笑にも聞こえる小さな笑い声が聞こえた。
『あの、今朝申し上げたことですが……今夜でなくとも、私は構いませんよ。今日はゆっくりお休みになったほうがよろしいかと』
「大丈夫だよ。残業が長引いたりしたらさすがに考えるけど」
『……承知いたしました。しかし、本当にご無理はなさらないでください』
頷いて、おまじないのようにエメラルドをひと撫でしかけ……途中で止まる。
気のせいか、微妙に輝きが曇っているように見えた。
別の社員がタイミング悪くやってきてしまい、翠に調子を訊きそびれてしまう。あの日を彷彿させる、隠すのも難しいほどの不調ぶりは見られないので最悪の事態だけはないと思いたい。
今日は帰ったら浄化を忘れないようにしよう。
改めて気合いを入れ、残りのタスクを黙々と処理していった。
一時間ほどの残業で、今日中に片づけねばならない仕事は終えた。
未だ必死にパソコンと格闘している後藤や他の残業組に一言ねぎらいつつ、自分は翠から労りの言葉をもらいながら退社する。
会社を出ると一気に疲労が襲ってきた。やっぱり、話を聞くのは明日にしてもらうべきか。だが、あの剣幕は先延ばしにしてはならない雰囲気だった。
悩みながらも、ふとエメラルドの曇りを思い出して、腕を掲げてみる。
明らかに、先程よりも濃くなっていた。あの時と同じくらいの様相に、思わず翠の名前をつぶやいてしまった。
『……文秋さん。どうも、嫌な予感がいたします』
翠から返ってきたのは、緊迫した声だった。
『気をつけてください。はっきりとしたことが言えず申し訳ないのですが、得体の知れない気持ち悪さを感じます』
いきなりの展開に理解が追いつかない。どう気をつければいいのか、とりあえず神経を周りに散らしながら足を進めていく。背中から伝わってくる翠の緊張が、冗談で済ますなと警告する。
駅前に近づくにつれ、オフィス街から飲食店や居酒屋の目立つ光景へと変化していく。駅へは横断歩道か歩道橋を渡らないと辿り着けない。
当然、後者を選んだ。何事もなく駅に到着し、電車に乗り込む。
乗車中も、映画のような展開――テロリストに車両を占領された、爆破予告があった、みたいなベタなものしか思い浮かばない――が訪れるのではと、思考を飛躍させてみたが当然起こりもしない。
最寄り駅を後にする頃には、疲労も相まって神経がゆるんでいた。どこかぼんやりした頭で駅前を抜け、人通りの少ない住宅街を進んでいく。
背後から鋭く名前を呼ばれたが、どこか他人事のように聞いていた。
視界の左側を黒い影が横切る。空気を切り裂くような甲高い音が鼓膜を襲い、全身を殴られたような衝撃が襲った。
何が起きたのか飲み込めず、その場に座り込んだまま呆然と前方を見つめる。
切迫した声をかけられた方向を見ると、二つのまばゆい光に照らされていた。大丈夫ですか、と繰り返し尋ねられていることに気づいて、手をついて立ち上がる。指に当たった感触を確認するとスマートフォンだった。
光の正体は青い車だった。車に横から衝突させられたのだと、やっと現状を把握する。
改めて全身を軽く動かしてみる。一瞬の衝撃に息が詰まりかけたものの、目立つ怪我はなかった。腕や腰あたりに鈍い痛みを感じるだけだ。
二つのサイレンが近づき、止まる。
実況見分で完全にこちら側が被害者だと証明されたところで、病院で診察を受けることになった。誘われるままに乗り込む。
現実感が未だ欠けていた。行動する自分を、もうひとりの自分が見下ろしているような感覚だった。
同行者の存在を尋ねられる。首を振りかけて……視界に、色が戻った。
「……翠?」
名前をつぶやいても、答える声は響いてこない。
もう一度、呼びかける。
聞こえない。あの低音がなぜか、返ってこない。
救急隊員が、つぶやいた名前をしきりに呼びかけているので、勘違いで誤魔化すことにした。
敢えて、何も答えないようにしているんだろう?
すべてが終わって家に帰れば、夕飯の支度を手際よく進めてくれて、風呂から上がればおいしい料理たちが待っている。そんな夜がやってくる。
わかっているのに、どうして恐怖に怯えるような心地が抜けないのだろう。
左腕につけたブレスレットを確認して、目を見開く。
エメラルドが、半月のように欠けていた。一切の輝きも、消えていた。