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No.153
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「こちら、サービスです」
他に客がいないのを見計らって、紅茶を差し出す。彼女はカウンター越しに驚いた顔を向けてきた。
「え、どうして……」
「申し訳ありません。いつも悲しそうなお顔をされているので、少しでもお気持ちが紛れるようにと」
残っていた怪訝さは、苦笑に変わる。
「土日の夕方にいつも、こちらにお邪魔してますものね。ごめんなさい、辛気くさくて」
「通っていただけて嬉しいですから、お気になさらないでください。私も出過ぎた真似をいたしました」
無駄に鼓動を打つ心臓を押さえたい衝動に駆られながらも、軽く頭を下げる。
「いえ、ありがとうございます。……本当に、ほっとしましたから。まろやかですし、香りもすごくいいですね」
「そう言っていただけて嬉しいです」
「私、お砂糖なしのミルクティーが一番好きなんですけれど、この紅茶もすごく好きになりそうです」
柔らかな笑みを向けられて、自然と口元が緩む。
本当によかった。事情はわからなくとも、今は彼女の助けになれることが一番の喜びだ。
喫茶店『ブルー・アワー』で働き始めてどれくらいの年数が経ったろう。
カウンター席と、二人がけのテーブル席が四つほどの、本当に小規模な喫茶店。
店員は雇わないと何度か断られたが、ならばマスターを引き継げるまで修業させてほしいと図々しくも頼み込み、二年ほど前に二代目を引き継ぐこととなった。
それからしばらく経った頃、彼女はこの喫茶店にやってきた。
背中まで伸びた、栗色のふわりとした髪に花柄の白シャツとロングスカート。面影はあの頃と変わらなくとも、確かに時は動いていた。
一番の違いは——表情にいつも、翳りがあること。風でも吹けばあっという間に崩れてしまいそうな脆さを感じること。
他人のふりを続ける決意は、記憶と違いすぎる彼女の様相を目にするたびに揺らぎ、瓦解していった。
+ + + +
次の日、彼女はまた同じくらいの時間にやってきて、今度はテーブル席に腰掛けた。
最寄り駅から徒歩で十五分はかかる場所にあるこの店は、窓から見える景色も素晴らしいと好評だ。
俺自身も気に入っている。特に、夕方から夜にかけての時間帯――空が橙から藍色へと変化していくさまが、まるで現実と非現実を彷徨っているようで、逃げ場所を用意してくれているように感じていた。
「ご注文は何になさいますか?」
「昨日淹れていただいた紅茶、いいですか? すごく美味しくて……落ち着いたので、ぜひ」
「かしこまりました」
彼女は相変わらず哀愁を含んだ表情を纏っている。
少なくとも、記憶の中には存在しない。いつだって楽しそうで、眩しくて、手が届かないとわかっていても惹かれて、苦しかった。
「お待たせいたしました」
「ありがとうございます」
目を閉じて香りを堪能している彼女にどう声をかけるべきか、食器を拭くふりをして言葉を探していたときだった。
「ここからの景色、すごく素敵ですよね」
「え、ええ。ありがとうございます。私も気に入っています」
「いつもは一人だからテーブル席は遠慮するんですけど、どうしても見てみたくて。今日は天気もいいからラッキーでした」
自然と零れたであろう微笑みも、無理やりに見えてしまう。
「……店名には、ちょうどこの時間帯の空模様を指す意味が、込められています」
たぶん、あなたは知っている。
「ええ。とても神秘的ですよね」
「非現実的な感じもするんです。人によって受け取り方が変わる時間だと申しましょうか。私には、救いに感じます」
つい口を滑らせてしまった。彼女が窓に視線を向けてくれていて助かった。
「ちょっと、わかります。現実感がないのって、辛いこととかあると、助かりますよね」
彼女が救いに感じる理由を尋ねなかった理由が、ここにある気がした。
謎に繋がる手がかりかもしれないと逸り、続く言葉を止められない。
「……現実から、逃げられる。と?」
こちらをゆっくり振り向いた彼女は、ただ、笑った。
見慣れてしまったそれではなく、泣くのを堪えるように、必死に唇を持ち上げていた。
理由はわからなくとも、「失言」だったのは間違いなかった。
* * * *
大学生のとき、ある喫茶店でアルバイトをしていた。
当時住んでいたアパートから近いという理由だけだったが、その中では、マスターの人柄が表れているかのようにどこかゆったりとした時間が流れていて、居心地がよく、地元民含めファンも多かった。
ある若い男女のカップルも、そうだったと思う。
たぶん、年齢は俺よりいくつか上だった。必ず二人で訪れては楽しそうに時間を過ごしていた。
声が好きだった。特に控えめで可愛らしい笑い声は、聞いているだけで胸の中が温かくなった。
ころころと変わる表情が好きだった。まるでおもちゃ箱を覗く子どもの頃のように、見ていて飽きなかった。
――わかってはいた。全部、相手だけの特別。あの彼が一緒だから引き出せるもの。
忘れたくとも忘れられなかった。
大学卒業と同時に引っ越して店を辞めても、彼女への想いは、心のどこかで根付いたまま取れなかった。
だから同じ名前の喫茶店と偶然出会った瞬間、もうこれは運命なんだと思うしか、なかった。
* * * *
「いらっしゃいませ、あの」
「ええ。平日ですけど来ちゃいました。本当にこのお店が気に入ったので」
カウンター席に腰掛けた彼女は、少なくとも今は珍しく明るい声で告げた。
「あの紅茶、ください。あとシフォンケーキもお願いします」
「か、かしこまりました」
あの日、彼女は逃げるように店を後にしてしまった。どうしてすぐ謝罪できなかったのかと毎日後悔していたところに、まさかの来店で動揺が隠せない。
「お待たせいたしました」
いつものようにお礼を告げて、香りを楽しんでから一度カップを傾ける。気を抜くと両足が震えそうになる。
他の客の存在がもどかしくも、救いにもなっていた。土壇場で逃げ腰になる性格に我ながら嫌気がさす。
「すみません。紅茶、おかわりお願いできますか」
謝罪は次回にしようと半ば諦めていたときだった。
また、彼女は普段しない行動を取った。シフォンケーキも半分ほど残っている。
やがて窓の外は濃い藍と街灯の光で満ち、店内の客も一人、一人と退店していく。あの日以来の二人だけの時間が訪れたのは、閉店の二十一時より一時間ほど前だった。
使用済みの食器を重ねる音、水音が、痛いくらい店内に響く。
「訊いてもいいですか?」
再びカウンターに戻ってきたタイミングで、声をかけられた。
どうやら、この時間を待っていたのは彼女も同様だったらしい。うまく声が出せず、頷く。
「店主さんも、現実から逃げたいことってあるんですか?」
まさかの、この間の会話の続きだった。
まっすぐに見つめられて、わずかに逸らすこともできない。
「……あります。ただ、逃げたいだけでなく、気持ちを整理したいと、申しましょうか」
彼女はじっと、言葉の続きを待っている。
「このお店にいる間は、持て余している気持ちを無理に消化しなくても、ゆっくりでいいと言ってもらえているような気がするんです。逃げと思われるかもしれませんが、私にはそれが、ありがたくて」
サラリーマン時代にはできなかった。忘れようと足掻くほど逆に膨らんで、苦しくなるだけ。荒療治は性格的に無理だった。
「……先日は、申し訳ありません。あなたに失礼なことを申しました。正直、もう来店なさらないかと思っておりました」
「いいえ。あのときはちょっと、びっくりしただけです。それに今は私だけじゃないんだって、励みになりましたから」
一体この人に何があったんだろう。ひとつ思い当たることと言えば、いつも一緒にいた彼の存在だが……
「それに、このお店は本当に気に入っているんです。私が引っ越す前によく通っていたお店と同じ名前なんですよ。すごい偶然ですよね」
また、表情に陰がさした。
「珍しい、ですね。そのお店もお気に入りだったんですか?」
「ええ。マスターがとても温かい方で、お店はいつもその雰囲気で満ちてました。こちらとちょっと似ているかもしれません」
明らかに過去を映している双眸は、言葉に似つかわしくない光で満ちている。
「ここの店名は先代がつけたものですから、きっと同じ感性だったんですね」
「そうだったんですか。てっきりマスターがつけたとばかり」
「いえ、私はまだ若輩者です。先代も気まぐれに店に立つことがあるのですが、そのたびに駄目出しをされますよ」
「若輩者……あ、でも言われてみれば、お若いかも? なんて」
「もう四十を過ぎているのですが、やっぱり若く見えますか……一応、軽く髭を生やしたりしてみているのですが」
よかった、笑ってくれた。わずかでも気が紛れたなら嬉しい。
「店名の由来は、私の思いとは違うんです。『ブルーアワー』という言葉が好きだから、だそうです」
「なるほど。……ふふ、あのマスターと気が合いそう」
言ってしまいたくなる。あの店で俺も働いていたのだと、あなたのことを知っていると、……ずっと、好きだったのだと。
同時に、驚いてもいた。諦め、後ろ向きばかりだった俺がこんな衝動に駆られるとは。
「私は……このお店で過ごす間は、お客様の心のままにいられれば、少しでもそのお手伝いができれば、という思いで立っています」
「心の、ままに」
「例えば、うまくいかない日が続いていたら逃げ場所にする。頭をからっぽにしても、泣いても、怒っても。かつての私がそうでした」
そして、用意していた飲み物を彼女の前に置く。
「蜂蜜入りホットミルクです。先日のお詫びも兼ねています」
カップの取っ手にそっと指を絡めた彼女は、俯いたまましばらく動かなかった。
「……マスター、誰にでもこうやって手厚いケアをしているんですか?」
「必要であれば」
ここまできたら、ただの公私混同だ。
「すごい優しい……いえ、お人好しかしら。よく言われるでしょう?」
「確かに、増えた気がします」
それから、彼女が退店するまで会話らしい会話はなかった。
きっと、自らの心のままに過ごしてくれていたのだと思う。
+ + + +
あれから、変わった点がふたつ。
彼女が不定期ながら平日にも訪れるようになった。
そして、土日はテーブル席が空いていればそこを選ぶようになった。
悲壮感は不思議と鳴りを潜め出し、見知った笑顔も増えてきたように見えた。
嬉しい、確かに嬉しいのに、どうしても胸のざわつきが消えない。
だって、あれほどにわかりやすく滲んでいた感情をいきなり消せるだろうか? 俺自身、彼女への想いを長く秘めていたからこそわかる。簡単に割り切ることなんてできない。
失礼を承知でもいい、踏み込みたい。
でも、奇跡的にここまで築けた絆を、失いたくない。
* * * *
今日は、閉店時間をいつもより三十分ほど繰り上げた。
『明日、どうしても二人きりでお話したいことがあるんです。本当に申し訳ないんですけれど……閉店後、少しだけお時間いただけませんか?』
前日に彼女からそんなメモを受け取って、閉店後の短い時間ではたぶん足りないと予感がした。
ブルーアワーの時間帯を過ぎてから来店した彼女は、紅茶だけでなくケーキに軽食も注文し、綺麗に平らげていた。お詫びのつもりかもしれない。
「わがままを言ってしまって本当にごめんなさい。お店、よかったんですか?」
「お気になさらないでください。私の独断ですから」
彼女には蜂蜜入りのホットミルクを、自分にはノンカフェインのミルクコーヒーを淹れる。
じわじわと重い沈黙が互いの間に降りる。彼女はカップを包むように持ったまま動かない。
声をかけるべきか、だとしたらなにを? ざわつきがさらに増したのもどうすればいい?
「……私、こちらにお邪魔するのは、今日で最後になる。と思います」
言葉の意味を呑み込めるまで、声が出なかった。
ようやく漏れたのは、空気の抜けたような声。
「このお店も、マスターのことも、変わらず好きです。でも、」
「何か至らない点がありましたか? でしたらすぐ改善します」
「違うんです」
「でしたら、どうして……!」
駄目だ。『ブルー・アワーの店主』の仮面が剥がれてしまう。でも、でも彼女を引き止められるなら。
彼女は少し驚いた顔をしたが、すぐに潤む瞳を細め、テーブルに視線を落とした。
「……私、愛していた夫を、病気で亡くしました」
すぐに、あの彼の姿が脳裏によみがえった。
「大学生の時に知り合って、もうこの人しかいないって、卒業してから結婚しました。……あんなに元気だったのに、本当に、信じられなかった」
絞り出すような声に、胸が締め付けられる。彼女の眩しい笑顔を引き出していたのも、奪ってしまったのも、彼だった。
「生きる気力なんてなかった。後追いしようって何度も考えたけど、そのたびに夢の中であの人が止めるの。きっと覚悟が足りなかったのね」
一番大切だからこそ、彼女にとっては残酷かもしれなくとも、自分の分まで生きてほしいと願ってしまう。俺もきっと同じ行動を取る。
「このお店を見つけたとき、もっと早く知りたかったって後悔したけど……今の私で来れたから、よかった。あの人と一度でも訪れていたら、たぶん、来れなかった」
再び顔を持ち上げた彼女は、笑っていた。俺を捉える双眸も白い頬も確かに濡れているのに、眩しささえ覚えた。
「マスターのおかげです。私、ようやく前を向ける気がするんです」
素直に喜べないのは、彼女がまた目の前から消えてしまう恐怖が上回ってしまったから。
「だから一度、夫と過ごしたこの街を離れようと思います。距離を置いて、ちゃんと気持ちを整理したいんです」
ここでだってできる。わけがないのは明らかだった。
どうすれば奇跡を繋ぎ止めておける? わがままだとしても手放したくない。それに……
「……ひとつ、昔話をしてもよろしいでしょうか」
目元を拭いながら彼女が頷いたので、まっすぐ見つめながら、続ける。
「私は、大学生の時にここと同じ名前の喫茶店で、アルバイトとして働いていました」
彼女の瞳が、丸くなる。
「その喫茶店には、ある二人の男性と女性がよく訪れていました。私は……その女性を、密かに想っておりました」
心音が耳元で鳴っているかのようにうるさい。舌もうまく回らなくなりそうだ。
「ある程度思い出にできていると思っていたのですが……ご本人を前にしたら、全然でしたね。情けないです」
気持ち悪く思われても仕方ない。これを理由に訪れなくなる可能性も考えると、矛盾した行動を取っている。
「俺に、チャンスをくださいませんか」
意味がわからないと言いたげに、軽く首を傾げてくる。
「俺は、あなたがまた、この喫茶店に通ってくださると信じています」
「それは……」
視線が泳いでいる。今の彼女の心境を考えれば、言わずとも理解はできる。
「そうしたら、改めてあなたに告白させてください。あの頃できなかったことを、果たさせてください」
なんて図々しいのだろう。情けなく声が震える。無意識に固く握りしめていた両手を緩めようとしてもできない。
「……思い出しました。そういえば、いつも丁寧に接客してくれた店員さんがいましたね」
「その時間しか話すチャンスがありませんでしたしね」
「マスターの気持ち、全然気づかなかったな」
「店主としてきちんと仕事できていたようで、よかったです」
正直、正解の態度がわからない。彼女が拒否の言葉を口にしないのは優しさ?
「ありがとう、ございます」
またも、声にならない声が漏れた。
「マスターは、私の恩人ですから。そんなあなたから想ってもらえて、ありがたいです」
「い、いえ、とんでもない、です」
全身が一気に熱くなった。たまらず、ポケットにあったハンカチで顔を拭う。
「それに、きっと私に配慮してくださったんですよね。私があんな話をしたから、って」
見抜かれていたのか。力なく笑うしかできない。
「ここでは、今はなにも言いません」
静かでも、確かな意思のこもった声だった。
「時間が必要ですから。私にも、たぶんマスターにも」
「……はい」
もう、ここまで来たら信じよう。彼女と再会できて、こんな会話まで交わせるようになったのも充分すぎる奇跡だけれど、もう一度起きてほしいと願ってもきっと罰は当たらない。
彼女のカップが、空になった。
否応なしに、二度目の別れがやってくる。「奇跡」という二文字を糧にする日々がやってくる。
「すみません。少しだけお待ちいただけますか」
第六感が働くというのはこういう瞬間を指すのだろうか。
メモに使っているノートを取り出し、丁寧に文字を書き込んでいく。
「よろしければ、こちらをお持ちください」
切り取ったページを受け取った彼女は、不思議そうに文字を追っている。
「……紅茶のレシピ、ですか?」
「あなたが気に入ってくださった、あの紅茶のです」
「そんな大事なもの、いただけないです」
反射的に突き返された手を、そっと押し戻す。
「秘伝のレシピというわけではありませんし、大丈夫です。きっとこれからのあなたの助けになります。ですから、どうか受け取って」
離れていても、立ち止まってしまったときは助けになりたい。
出過ぎたお節介だとしても構わない。
「マスターは私に甘過ぎですよ。……でも、ありがとう。本当に、ありがとうございます。大切にします」
そのとき向けられた笑顔は、手の届かないと諦めていた彼女に少し、ほんの少しだけ近づけたように思えるものだった。
「また、お待ちしております」
店の扉をくぐった背中に、いつもと同じ言葉で送った。