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No.30
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「先輩、もしかしてもしかすると、彼女ができたんじゃないですか?」
「は?」
「だって、やっとブレスレットしてきたと思ったら今日はしてないし。だから『私とブレスレット、どっちが大事なの!』って日夜痴話喧嘩を」
「違う! お前のその妄想力はどこから出てくるんだよ!」
二人だけで残業に勤しんでいるから、現実味のない妄想など生まれてきてしまうんだ。早いところキリのいい部分まで終わらせないと、翠にも無駄に心配をかけてしまう。
日曜日に、あるルールを設けたいと提案した。
平日のうち、一日は休息日、いわゆる浄化メインの日を作ること。
翠は予想通りの反論をしてきたが、もちろん想定済み。あらかじめ購入していたスマートフォンをプレゼントして、互いに連絡し合う案も付け足した。
これはかなりの威力を発揮したようで、まるで宝物を扱うような手つきで端末を眺めていた翠だった――が、まだ粘られてしまった。
困り果てた末に取った手段は、「情に訴える」というシンプルながら強力な方法。
『俺だって、ブレスレットがないのは心許ないよ。でも、まだ俺は翠の力をちゃんと把握できてないから、余計に心配なんだ。俺を助けると思って、頼むから聞き入れてほしい』
端末ごと両手で包み込んで頭を下げると、翠はほぼ反射的に案を受け入れることを了承してくれた。
(全くの嘘じゃないけど、利用したみたいで良心は痛むよな)
改札を抜けて、足早に駅の出口へと向かう。週の中日はどうしても疲れが溜まるから、早く帰ってベッドにダイブしたい。
スラックスのポケットから振動が伝わった。画面を確認して、返事の早さにびっくりする。電車を降りる前に連絡を入れたばかりだった。
『お仕事本当にお疲れ様でこざいます! 首を長くしてお待ちしております。何かありましたらすぐにご連絡くださいね』
やっぱり親みたいだ。
胸の辺りがほのかに温かい。気を抜くと口の端が持ち上がってしまいそうになる。
「お帰りなさいませ! 鞄、お持ちしますね」
出迎えてくれた翠が忠犬のようにも見えてきた。鞄を持ってリビングに向かう後ろ姿は、尻尾を激しく振りながらおもちゃを咥えて駆け出しているようだ。
「……え、何か、やけに豪華じゃない?」
すっかり翠の手料理が落ち着いた夕食だが、今日はまるで地元に愛される定食屋のような、シンプルな盛り付けながら食欲をそそる洋食の数々だった。品数が少ないのにそう見えるのは、翠の盛り付け方がうまいのだと何となく理解できる。
「はい! 残業でお疲れの文秋さんのために、腕によりをかけました。先日、ご迷惑をおかけしたお詫びも兼ねております」
翠は苦笑を浮かべる。割合としては後者のほうが多そうに見える。あの三日間のことは、よほど悔しかったのだろう。
「……ありがとう」
ただ礼だけを告げると、翠は口元を綻ばせた。
思えば、誰かとテーブルを囲んで食事をするのは、年末年始に実家に帰って以来だった。
作ってもらった料理を食べながら、会話を楽しむ。残業終わりだからこそ、のんびりとしたこの空間が贅沢に感じる。
翠が一生懸命に話を聞いてくれるのも何だかんだで嬉しい。つい、次から次へと言葉が出てきてしまう。
「後藤様と残業でいらしたのですね」
「明後日までにまとめないといけない資料があってさ。ある程度まで目処はついたから、何とかなりそうだよ」
「月曜日に、課長の大田様からご依頼されていた件ですね。文秋さんが関わっておられるプロジェクトとは別件でございました」
「そう……って、翠まで把握してなくていいって」
「何を仰いますか! 従者として、仕事面でもご助力できるようにしておかなければ」
「本当に、いいんだよ」
仕事中、やけにおとなしかった理由がようやくわかった。つくづく、自らの使命に対して常に全力な男だ。
だが、翠に求めている範囲ではない。箸を置いて、改めて向き直る。
「職場だと、ずっと気を張ってないといけないだろ?」
「え、ええ……。確かに、文秋さんの神経は緊張に包まれておりますね」
「最近忙しいのが続いてるから余計にだと思うけど、そんな状態だからこそ家ではリラックスしてたいんだよ」
言わんとしていることを、翠も把握してきたらしい。二つのエメラルドが大きくなって、自分を照らしている。
「癒やしって役割はお前にしか務められないんだから、それで俺を助けてほしい。もちろん、無理は厳禁だからな」
翠はぶるぶると全身を震わせると、立ち上がって深く頭を垂れた。相変わらず大げさな反応に口元が緩む。
癒やしてほしい、だなんて言葉が自然と言えてしまうのも、彼の持つ力の影響なのかもしれない。だが、悪い気はしなかった。
「しかし、文秋さんと特に関わりがある方のお名前や人となりはある程度把握しておきたいと思います」
「え、なんで?」
顔を上げた翠の笑みが一層深まったが、なぜか背中の辺りに冷たいものを流された気分に襲われたので追求は避けておいた。
「文秋さん。よろしければ、ヒーリングなどいかがでしょう?」
風呂から上がると、キッチンもリビングのテーブルも綺麗に片付いていた。翠の機嫌も元通りだった。
「ヒーリング?」
「ご説明するより、こちらのページを見ていただいたほうがわかりやすいかもしれません」
渡されたスマホを受け取る。早速使いこなしているようだ。
「……ああ、天谷さんからちらっと聞いたことがあるかも」
チャクラというエネルギーの溜まり場みたいな箇所が、上半身の中心を走るように七つ――尾骨、下腹部、へその辺り、胸、喉、眉間、頭頂――ある。チャクラを象徴するカラーもそれぞれ決まっており、例えば緑ならば胸、青ならば喉となる。
それらの色と同色の石を置いて仰向けにゆったりと寝そべり、石の力で弱ったエネルギーを回復するのがヒーリングというものだ。
「石が揃ってないけど、できるって?」
「問題ございません。私が立派に務めてみせます」
やけに自信たっぷりなのが逆に気にかかる。
「……もしかして、結構力を使うんじゃ? 石が七ついるのに問題ないって」
「一晩、水晶と月光浴で浄化していただければ回復します」
「ってことは結構消費するんじゃないか!」
「文秋さん。先ほど仰っていただいたことをもうお忘れですか?」
翠は笑みを深める。嫌な予感も深まる。
「私は癒やしのエメラルドだから、その方面でもっと助力してほしいと」
自らの言葉で首を絞められる時が、こんな最速でやって来るとは思わなかった。
「それに、嘘は申しておりません。一晩の浄化で充分に回復するのは本当です」
「いかにエメラルドの精製が重労働だったのかがわかるなぁ」
半目でつぶやくと、翠はわざとらしく咳払いをした。パワーストーンの化身なのに、仕草はどんどん人間に近づいていく。
就寝の支度を整えて、念のためブレスレットも水晶の上にスタンバイしてからベッドに仰向けになる。いつもはTシャツにトランクスの格好で寝るのだが、今日はハーフパンツを身につけておいた。
間接照明を背にした翠が、こちらをまっすぐに見下ろす。いつもの柔らかさは鳴りを潜めていた。森の中で寝そべり、ぽっかり空いた空間から夜空を眺めているような気分に包まれる。
「文秋さん、ゆっくり目を閉じてください」
意識せずとも、瞼が下りた。
変に緊張が始まってしまう。様子がわからないとこんなに不安になるとは。
瞬間、身体がぴくりと跳ねた。
無機質な感触が、股間に近い下腹部から伝わってくる。しかしそれも一瞬で、染み渡るようなぬるい熱に変わる。
「ひ、ぁ……す、翠!」
「お静かに」
下腹部からへそ、胸の中心へと、翠の手のひらが優しく緩く撫で上げ、熱を与えていく。全身が宙に浮かんだような爽快な気分と、神経の糸が一本でも途切れたら眠りに落ちてしまいそうな緊張感が同居している。
確かに気持ちいい。いい、のだが。
くすぐったいだけではない。変な声が漏れてしまう、表現しきれない感触が走っている。
翠の手は頭頂までたどり着くと、再び下降していく。少し乱れた吐息を吐き出したと同時に指先が通過して、唇を掠めた。
「んっ……」
短く、息を吸う音が聞こえた気がした。
止まった指先は、円を描くように全体をなぞる。これも、ヒーリングの儀式なのか?
謎を残したまま喉と胸を通過し……へそをなぞり、先へと進む。
「あ、ぁ……」
だめだ、声を我慢できない。下腹部がこんなに弱いとは思わなかった。自ら生み出した熱が中心に集まるのを、いやでも実感してしまう。理性とは裏腹に、かき集めようとしてしまう。
「……文秋さん、終わりました」
声をかけられても、視界を何とか確保するしかできなかった。気だるくて、うまく四肢を動かせない。
濃い青と薄い橙の混ざった空間に、翠の輪郭がぼんやりと浮かび上がっている。また余計な心配をかけてしまうと焦るのに、言うことを聞かない。
「文秋さん、大丈夫ですか? もしかしてご気分が優れないとか」
首を振ると、少しだけ意識が戻った。上半身を懸命に持ち上げる。
短くも誤魔化しようのない悲鳴が、唇からこぼれてしまった。反射的に腰を引いてしまったのが決定打になる。
反応している。下着とハーフパンツを窮屈そうに押し上げて、先端を緩く擦りつけている。
同性相手、しかも性とは全く関係ない行為でこんな反応を示してしまうなんて思いもしなかった。確かにご無沙汰だったが、ここまで見境がないなんて泣きたくなってくる。
「翠、ありがと。すごくよかった。ちょっと、トイレ行ってくるから」
おざなりな礼になってしまったのを心の中で詫びながらベッドから降りる。この気だるささえなくしてしまえば、ヒーリングの効果を実感できるはずだ。
「お待ちください」
左腕を捕らわれた。強制的に向かい合わせにされた先の翠は、無駄な真顔で見下ろしている。恐怖さえ感じる。
「っま、てって!」
腰を引き寄せられ、懸命に足掻いてもさらに力を込められる。早鐘を打つ心臓も、熱が暴走を始めている中心も、翠と触れ合ってしまう。
彼が知らないことを祈るしかなかった。それならばまだ、うまく逃げるチャンスは残っている。
「……こちらも、私にお任せを」
囁かれた言葉の意味が、理解できない。
ハーフパンツの中に滑り込んだものが下着越しに自らの昂ぶりを撫で上げた瞬間、ようやくスイッチが入った。
「や、めろって……翠……!」
拒否とは裏腹に、翠の手つきに敏感になっていくのがわかる。さらに求めてしまう。
翠の吐息だけが首筋を何度もなぞっていく。そんな、ほんのわずかな刺激にさえ背筋を震わせて、抵抗する力をますます失っていく。
「怖がらないで……私に、ただ身を預けてください……」
もはや暗示のようだった。直接触れられているのに、口から漏れるのは吐息混じりのか細い声だけ。翠に全身を預けて、初めての甘すぎる痺れに酔いしれていた。
「も、だめ……い、きたい……」
「ください。あなたのすべてを、私に……」
囁きが終わると同時に、自らを擦り上げる力が一層強まった。
全身が引きつり、頭の中が真っ白になる。確かに抜けていく熱と同時に詰まっていた息を吐き出しながら、急速に弱まる意識を他人事のように感じていた。
+ + + +
昨夜の記憶は曖昧でいたかった。
ヒーリングをしてもらうためにベッドに仰向けになったところから先は、蜃気楼のように揺らめいたまま、形をなさないでいてほしかった。
翠はいつも通り、決まった時間に起こしてくれて、朝食の用意も完璧だった。一晩浄化すれば大丈夫、という言葉が本当だったのがわかる。身体も残業だったのが嘘のように軽く、心身ともに爽快感であふれている。
……どうして、何事もなかったように翠は振る舞えるんだろう。
今も、おとなしく姿を消していられるんだろう。
あくまで、「仕事」の一環だというのか。あんなのも、仕事?
おかげで問い詰めるきっかけも掴めず、飲み込めも吐き出しもできない塊が喉の奥につかえて、取れないでいる。
「先輩、ぼーっとしてますけど大丈夫っすか? 昨日の残業疲れが残ってます?」
「いや、大丈夫だよ。後藤こそ疲れてるんじゃない?」
「まだ余裕ですよ~。先輩より家近いですしね。余裕で日が変わる前に寝れました」
休憩所、もとい喫煙所の先客だった後藤と鉢合わせて、やっぱり突っ込まれてしまった。
昨日残業をしておいて本当によかった。後藤が手際よく作業してくれたのもあって、業務時間内に完成できそうだ。ブラックの缶コーヒーに口をつけて、残りすべてを喉に流し込む。
ブレスレットは、今は机の引き出しにしまってある。どうしても離れた時間がほしかった。翠も珍しくわがままを言ってこなかったので、気持ちを汲んでくれたのかもしれない。
それならいっそ、正直に内心を吐露してもらいたい気持ちもあるのだが。
「……あのさ。ちょっと変な質問してもいい?」
後藤は人懐こい丸い瞳をさらに丸くした。
「先輩が質問なんて珍しいっすね。もちろん、オレでよければ」
若干、いやだいぶ後悔が押し寄せてきた。だが、今さら取り消しもできない。
空になった缶をぐぐぐと握りしめて、懸命に声を絞り出す。
「……うっかり」
「うっかり?」
「うっかり、男に股間触られたら、やっぱ気持ち悪いよな?」
確実に、時が止まった。
やっぱり引かれた。いくら大らかな後藤でも、さすがに無理な内容だったんだ。自分に置き換えたらどう思う? 真剣に考えようにもふさわしい返答が見つからないし、笑い飛ばしても失礼な気がするし、処理に困るじゃないか。
「わ、悪い! やっぱ俺疲れてるな。忘れて」
「それって、痴漢でもされたってことですか?」
後藤は、真剣な声と顔で告げてきた。
「い、いや、そう、なのかな……?」
「今は男も女も関係ないって言いますからね。電車の中でされたんでしょうけど、次はちゃんと駅員に突き出したほうがいいですよ」
ここぞというところで男前を発揮する後藤が、やけにまぶしく見える。
答えはずれている。それでも、冗談に受け取らず真面目に考えてくれたことがとても嬉しかった。
「……ありがとう、後藤。変な質問したのに、本当に、ありがとう」
「いいえ。っていうか、オレから見ても先輩って可愛いなーとか思うことあるし、そういうことがあってもおかしくないって、実は思ってました」
感謝の気持ちが、急速に萎んでいく。
ほんのわずか上にある瞳を睨みつけると、首を思いきり左右に振り返された。
「あ、誤解しないでくださいね! オレそういう気は全然ないんです。ないんですけど、そう見える時があるんだから仕方ないじゃないっすか」
「……感謝して損した」
「す、すいませんって! でもさっき言ったことはほんとですから! だって男女関係なく、痴漢されたら気持ち悪いのは当たり前でしょ?」
後藤は、またも正しい意見をくれた。
気持ち悪いと、思うのだ。……「普通」は。
「……あの、先輩。実はオレも、ちょっと訊きたいことが」
聞いたことのない着信音が鳴り響いた。ポケットからスマホを取り出した後藤に軽く頭を下げて、重量のある扉を開ける。
何が一番問題なのか?
それは、「普通」の感情が一切、浮かんでいないことだった。
+ + + +
酒は敢えてあまり飲まないようにしているのだが、飲み会の雰囲気はわりと好きだ。
緊張を解いて各々が盛り上がっている姿を見るのが楽しく、微笑ましい。
「浅黄先輩! ちゃんと飲んでます?」
隣に腰掛けてきた、飲み会企画者の後藤が晴れやかな笑顔を向けてくる。課長に提出した資料が無事通ったのも関係していそうだ。
「飲んでるよ。俺はのんびりやってるから、みんなと盛り上がってきなさい」
「またまた、遠慮しちゃってー。ま、でも先輩はそういう楽しみ方する人ですもんね」
「さっきまで俺巻き込んでわいわいやってたくせによく言うよ」
頭の中で、感心したように唸る翠の声が聞こえる。一体何を参考にしているのやら。
あの夜のことは、もう気にしないことにした。気持ちよかったのも、ヒーリングのせいだったと考えればむしろ自然だ。
念のため天谷に、化身が行うヒーリングについての質問を送っておいた。翠の言葉を疑うわけではなかったが、どれだけの力を消費するのか、ある程度の把握だけでもしておきたかった。
「急に企画したからあんまり集まれなかったのが悔やまれますかね~」
「それでも俺たち入れて十人いるんだろ? 充分だよ」
後藤はおそらく、自分のために飲み会を開催してくれた。その気持ちだけでもありがたいのに、これだけの人数が集まってくれた人徳にも感謝だ。
同期に呼ばれた後藤は、再び一番賑わっている男女の輪に紛れていった。
『後藤様は、本当に文秋さんをよく理解しておられますね』
頭の中にマイクでも埋め込まれたような、翠の声が響き渡る感覚はまだ慣れない。
『いっそのこと、後藤様とお知り合いになれれば私もいろいろと勉強になりそうなのですが……』
「馬鹿、どうやってお前のことを説明するんだよ」
思わず小声で突っ込んでしまった。
『普通に文秋さんの忠実な従者としてご紹介いただければ構いませんとも』
「それだと俺がかまうの! 全く、しょうがないな相変わらず」
「何がしょうがないんですか?」
いつの間にか、隣に見慣れない女性が座っていた。他部署の子だろうか?
「い、いや、なんでもないよ。ええと……」
「高野涼香って言います。部署は違うんですけど、浅黄さんとよくいる後藤くんと同期なんです。こうやってたまに集まったりしてるんですよ」
容姿も声音も、可愛いという言葉が一番似合う子だった。彼氏がいなければ、水面下では男性社員の凄絶な奪い合いが繰り広げられているに違いない。
「ああ、もしかして後藤待ち?」
「いえ、浅黄さんと一度お話してみたかったなって思って……ご迷惑じゃないですか?」
「いや、そんなことないよ。ありがとう」
高野の笑顔が一層輝く。酒のせいもあるだろうが頬も薄く色づいて、より可憐さが増している。そんなに喜んでもらえて予想外だが、悪い気はしない。
「後藤くんが、浅黄さんのお話をよく聞かせてくれるんです。優しくて、いい意味で先輩っぽくなくて話しやすいって」
「先輩っぽくないか。それ、俺も最近気にしてるんだよ。威厳なさすぎじゃないかって」
「そんなことないですよ! すごくお話しやすくて、私はむしろ嬉しいです」
気のせいか、やけに距離が近い。もう数センチも近づかれたら、左腕に彼女の胸が当たってしまう。さりげなく座り直しても、また詰められた。
「後藤くんが、浅黄さん結構人気あるって言ってたんですけど、なんとなくわかります。隣にいるとほっとしますし、笑顔も素敵です」
「褒めすぎだよ。人気あるのは後藤のほうじゃない? 結構いいやつだろ?」
「確かにいい人ですけど、なんていうか……気の合う友達って感じです。本人はよく彼女ほしい! って言ってますけどね」
「それ、俺にもよく言ってる。もうちょっと落ち着けばできるんじゃないか? って言ったら無理だって即答されたよ」
控えめに高野は笑う。
どうにも居心地が悪いと言うか、初対面なのにやっぱり距離が近い。どう切り抜けようか、鈍った頭に発破をかける。
「……あの、浅黄さんは、付き合っている方とかいるんですか?」
こちらを見上げる双眸は、酒のせいか微妙に潤んでいる。丁寧に整えられたまつ毛が細かく震えていた。
「いや、そういう人は特にいないよ」
「そうなんですね! よかったぁ」
どうにか、声を上げるのだけは堪えられた。
テーブルの下で、彼女の手が太ももに触れている。
これは、いくら鈍いと言われる自分でも意図がわかった。わかったが、あまり経験のない事態なのでどう切り抜ければいいのかわからない。度数の低いカクテルを無駄に体内へと流し込むと、小さな笑い声が聞こえた。ますます頭に熱が集中していく。
「失礼、いたします」
不意に伸びた第三者の黒い腕が、高野の手を持ち上げる。
短い悲鳴が、騒いでいた後藤たちの空気も変えた。
「……あ、大変申し訳ございませんお嬢様。彼が、私の主人とよく似ておられたゆえ、人違いをしてしまいました」
ただ、硬直するしかできなかった。
優雅に頭を垂れて持ち上げる動作を、黙って見つめるのが精一杯だった。
翠は襖を閉めて、おそらくすぐにある突き当たりの角まで進み、曲がった瞬間に消えた。店の出入口付近は居酒屋らしくオープンな空間だが、このエリアは個室が多い。それが幸いした。
呆然としていた高野は、駆け寄ってきた他の女性たちに囲まれた途端に我を取り戻した。芸能人を前にした一般人のように、甲高い声で盛り上がっている。
自分の周りにも、テンションの上がった男共がやってきた。
「いやーびっくりしましたね浅黄さん! あんな執事みたいな人、実際にいるんですねぇ」
「俺コスプレだと思ったよ」
「いや、動きとかマジっぽかったじゃん?」
もう、笑うしかできない。笑って、迂闊な言動を取らないよう己を守るしかなかった。
「……浅黄先輩」
隣に近づいてきた後藤は、周りの空気とは真逆の表情をしていた。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ。いやーほんとびっくりしたよ。撮影でもしてるのかって」
後藤は乗ってこなかった。何かを探すように、視線を右往左往させている。
とりあえず、飲み会を締めることにした。二次会に誘われたが当然お断りして足早に帰路につく。
最寄り駅から、敢えていつもとは違う人気のない道を選んだ。こんな気分でまっすぐ家に向かうなど、とてもできない。
「……本当に、申し訳ございませんでした」
内心を察知したように、翠が姿を現した。すでに頭は深く下げられている。
「文秋さんがひどく困惑されていると思ったら……どうしても、我慢できずに」
「確かに、困ってたよ。ああいう露骨なことされたのは初めてだし」
多分、と心の中で付け足したのは、告白されてから初めて好意に気づくパターンが多かったからだ。
『あんなにわかりやすい態度だったのに気づかなかったのか』
友人から、どれだけそう突っ込まれてきただろう。
「でも、あんなとこでいきなり出てくるのはないだろ。俺がどれだけ焦ったかわかるか?」
少しずつ声が荒くなっていく。翠も深く反省しているようだしいいじゃないか、場所を考えろと理性の残る部分が訴えるのに、跳ね除けてしまう。
「俺だってガキじゃない、何とか切り抜けようとしてたんだ。仕事熱心なのは結構だけど、あんなことまで助けなくていいんだよ!」
翠はわずかに眉根を寄せて、ただ自分を見つめている。いつもより煌めきの低いエメラルドは、まるで哀れみを向けられているように感じた。
腹の底から煮えたぎった塊が押し寄せる。ヒーリング中のあの行為といい、度が過ぎているのは気のせいだろうか。
「……文秋、さん。私は、私は……」
その先を、封じてしまった。催促しても、閉ざした唇を噛みしめるだけだ。
翠という存在に、ここまで振り回されるなんて堪らない。忠誠心が高いのは結構だが、そんな理由だけで自分のペースを大きく乱さないでほしい。これ以上侵食しないでほしい。言えるほどの言い訳があるなら聞かせてもらいたいぐらいだ。
ふと、ポケットの中のスマートフォンが震えた。通知欄には天谷の名前が表示されている。
思わぬ救世主に内容を確認すると、メッセージの主は彼女ではなく藍だった。
「……藍くんが、明日の朝に話があるんだって」
追記にある、天谷の「本当にごめんなさい」の一文が目に留まったが、今はそれ以上気にかけることはできなかった。